銀子ちゃんを可愛い可愛い×5するだけの話(+短編集) 作:銀推し
八一と銀子が一緒に10月31日を楽しんだ日の裏側の話です。
これは後編になりますので先に前編(https://syosetu.org/novel/222130/2.html)からお読み下さい。
奇蹟が起こる日の出来事です。あまり深く考えずにお読み下さい。
原作13巻以降の話となります。
「あ……そういえば、ハロウィンだ」
ふと気付いて、呟く。
ほんの数秒前まで、私は八一と電話をしていて。
そしてスマホ画面の通話OFFの表示をタップして電話を切った、その直後。
「来週の土曜日って10月31日じゃない。ていうかあいつも気付いてなかったわね」
八一との電話の中で一番の話題となった事。来週の土曜日。10月31日の予定。
お互いのスケジュールが空いていたので、ならばと久し振りにあの部屋で一緒に研究会をしようかと決まったその日は……世間一般ではハロウィンというイベントがある日だ。
電話中は10月31日がハロウィンだって事をすっかり忘れていた。私に限らず八一の方も言い出さなかった辺り、きっとあいつも約束した日がハロウィンだと気付いていないに違いない。
「ハロウィンかぁ……」
ハロウィンとは。なんかこう、仮装というか、色々なコスプレとかをして騒ぐ行事だ。
昔はそうでもなかったと思うんだけど、最近では結構大きなイベントになっているらしくて、東京の渋谷の街とかでは大勢の人がコスプレをしてハロウィンを楽しんで、その結果騒動になったり溢れ返るゴミなどが問題になっている。
……みたいなネットニュースを去年のハロウィン終わりに見たような記憶がある。
「ハロウィン……ハロウィン、か」
でも……ハロウィンねぇ……。
正直に言ってしまうと、私はハロウィンというイベントについては大して興味が無い。
コスプレをする事も、そういう行事だからと街に繰り出して知らない誰かと一緒に騒ぐ事も。それは私の人生において不要なもの、関わり合いになる必要のないものだと感じている。
だから私はこれまで10月31日になったからと言って特別な何かをした事は無かった。
「……けど」
と呟き、私は思案げに顔を伏せる。
これまではそうだった。けど……今年のハロウィンはこれまでとはちょっと違う。
だって……ね? 今年のハロウィンはさ、八一と一緒に過ごすハロウィンになるわけで。
別にそれ自体は初めてじゃない。子供の頃なんかは当然のように毎年一緒にいたわけで、八一と一緒に過ごすハロウィンだからどうのこうのってわけじゃないんだけど……。
つまりは……ね?
ほら、今年は……その、ね?
その……こ、恋人と、一緒に、二人きりで過ごす初めてのハロウィンになるわけで。
「……なにか、した方がいいのかな?」
そういう意味での、特別なハロウィン。
これまでとは違うのだから、これまでとは違う事をした方がいいのかもしれない。
ハロウィン当日を一週間後に控えて、この時の私は自然とそんな気分になっていて。
「……ふむ」
特別なハロウィンを楽しむ、これまでとは違う特別な何か。
イベント事には興味の無い私だけど……でも、せっかく八一と一緒に過ごせるんだから……。
「ハロウィンと言ったら……やっぱり仮装だよね」
■
そして、一週間後。
今日は10月31日。ハロウィン当日。
待ち合わせ時間の一時間程前、一足先に私はこの801号室にやって来て準備をしていた。
「……受け取りよし、っと……」
玄関ドアを閉めて、カチャリと鍵を掛ける。
私の腕の中には両手で抱えられるサイズのダンボール箱が一つ。
この箱は今しがた配達員のお兄さんから受け取ったもの。今回の特別なハロウィンを楽しむ為に用意した仮装アイテムである。
「本当は実物を見て選びたかったんだけど、さすがに今はちょっとね」
今の私はちょっとした有名人だ。……ううん、ちょっとしたでは済まないかな。
前からそうだったんだけど、特に先日昇段を果たして世界初の女性プロ棋士になった事で、これまで以上に世間の注目の的になってしまった。
特徴的な外見も相まって外を出歩けば空銀子だと気付かれない事の方が少なく、そんな状態じゃおちおち買い物もしていられないので、ハロウィンの仮装アイテムについてはネット通販で済ませる事にした。
受け取りのタイミングが合うかどうかが心配だったんだけど、配達時間を指定するサービスを利用したおかげでこの通り問題無く、この部屋に八一がやって来てしまう前に受け取る事が出来た。
「さてと……」
そんな経緯で届いたネットショッピング印のダンボール箱を開封して。
その中にあったのは──
「……あ、実際に見ると結構かわいいかも」
それは──猫耳。猫耳付きのカチューシャ。
そして肉球型の手袋。
更には細長い尻尾。
これが私の用意したハロウィン用アイテム。猫のコスプレ一式セットである。
ちなみに今回届いたのはこれらのアイテムだけで衣装は購入していない。
商品ページにサンプルとして載っていた衣装、猫のコスプレに合わせたファンシーな衣装とかにはちょっとだけ興味はあったけど、ネット通販じゃサイズが合うかどうかがよく分からなかったので見送る事にしたのだ。
そしてこれは余談になるけど……どうして私は今回この猫のコスプレを選んだのか。
これに関して言うと別に他意は無い。ただなんとなく猫にしようかなって思っただけ。
まぁ強いて言うなら……ハロウィンとはいえあんまり奇抜な仮装をするつもりは無くて。
それでどうしようかなーって考えていたら、以前に桜ノ宮で着たアレの事を、八一に将棋で負けてコスプレをする羽目になったあのデンジャラスな格好の事を思い出した。
勿論あんな露出の多い格好をするつもりなんて金輪際無いんだけど、それでもあの時身に付けていた耳とか尻尾は生かせるのでは。
そんな事がアイディアとなって、最終的にだったら猫にしようかなと思ったってわけ。
それに……ほら、八一のやつもね?
桜ノ宮の時はちょっとテンションがおかしいぐらいに喜んでくれていたから……。
……だから、まぁ、他意は無い。うん、無いったら無いの。
「仮装と言うにはシンプルな格好だけど、あんまり変に気合を入れるのもあれだしね」
猫のフェイスペイントとかをするならともかく、ただ単に猫のアイテムを身に付けるだけ。
最近のハロウィンの傾向からしたら面白みのない仮装かもしれないけど、これまで仮装なんかした事の無いハロウィン初心者の私がするにはちょうどいい塩梅ってやつよね。
それに言ってしまうと、そもそも今日の目的はハロウィンが主題ではない。目的はあくまで将棋の研究会であり、そこを履き違えない為にもこれぐらいの格好がベストだろう。
……と、そろそろ待ち合わせの時刻が近い。
八一が来る前に仮装を済ませちゃわないと。
「これ尻尾はどうやって……あ、紐で腰に巻き付けるんだ。なるほど……」
洗面台にある鏡の前に立って、猫用コスプレアイテムを一つ一つ身に付けていく。
愛用のカチューシャを外して、猫耳付きのカチューシャに付け替えて。
紐で腰に撒いた尻尾はスカートの上に出して。肉球の手袋をはめてっと……よし、完成。
「……うん、まぁまぁいいんじゃない?」
鏡に映るのはネコの仮装をした私。
頭に猫耳が生えて、お尻に猫尻尾が生えて。両手には肉球が付いた空銀子の姿。
少々恥ずかしい格好だとは思うけど……けど。
「にゃあ、にゃあ……って感じ?」
ちょっと乗り気になった私は両手を丸めて、しなを作って猫っぽいポーズを取ってみる。
そして「にゃあ」と鳴いてみれば。これはもう何処から見ても立派な猫だ。
猫コスプレの上に猫のポーズと猫の鳴き声。
高校生がするにはちょっと幼稚というか、多少の痛さはある。……けど、それが許されるのがハロウィンというイベント、年に一度ぐらい羽目を外したっていいよね。
……と、そのように考える事が。普段はそんな事を考えないはずの私が、将棋にしか興味を示さない空銀子がそういう考え方になる事こそ、ハロウィンの魔力と言えるのかもしれない。
「あそうだ。どうせだったら本気で猫真似をしてみようかな」
それも出会い頭に。
この部屋に八一がやって来たら、猫になりきって出迎えるというのはどうだろう。
「そしたら絶対驚くわよね。なんせ八一は何も知らないんだから」
一週間前のあいつは今日がハロウィンだって事に気付いていなかった。
もしこの一週間の内に気付いたとしても、それでも出会い頭なら警戒はしていないはずだ。
なんら警戒していない中、まさかの猫になっている空銀子を目撃したらどうなるか。
「こんな仮装までしたんだし……驚かせてこそのハロウィンよね」
ネコの格好をしてにゃーと鳴く私を見たら、八一は間違いなくビックリするはずだ。
その時のあいつの表情を想像すると……ふふっ、なんかちょっと楽しくなってきたかも。
「……よし」
そんな気分になった私は間違いなくハロウィンの魔法に掛かっていて。
ちょっと大きめだった肉球手袋の中、気合を込めて両手をぎゅっと握り締めた。
そして、それから10分程経って。
律儀にも待ち合わせ時間のちょうど5分前、ピンポーンとチャイムが鳴らされた。
「っ、来たっ!」
洗面所に続く廊下の角、私は猫のように四つん這い状態になって待機する。
二度三度と鳴るチャイムを無視していると……私がまだ到着していないと思ったのだろう、合鍵を使って鍵が開けられて。
そして、ゆっくりと玄関ドアが開かれる──
──よし、今だっ!
「にゃー」
「は?」
聞こえたのはそんな一言。
その表情はぽかんとしていた。
全ての思考が抜け落ちたような表情をしていた。
そして身体の力まで抜けたのか、八一の右手が握っていたレジ袋がドサリと玄関に落ちた。
「にゃー」
「……ね、こ?」
そう。ねこだ。
今の私はねこ。ネコ。猫。にゃー。
「……え。なんで、ネコ?」
「にゃー」
「……えーと」
「にゃー」
ふふふっ、驚いてる驚いてる。
八一のやつ、見るからに動揺しちゃってる。頭の中が真っ白になってるって感じかしら。
まぁそれも仕方ない。それ程に今回は私の奇襲が見事に決まったからね。
空銀子がこんな鬼手を指してくるなんて、さすがの竜王でも想像していなかったに違いない。
将棋の序盤戦法では奇抜な手は指せない私でも、こういう奇襲なら出来るって事なのよ。
「にゃあ」
「……猫、か」
「にゃん」
「……そうか」
私が繰り出した猫真似奇襲戦法を受けて、大いなる戸惑いと混乱の中にいた八一だったが。
けれどもようやく目の前にある現実を頭が認識し始めたのか、ふぅ、と息をついた後。
「……まず、何故ここに猫が居るのか、だけど」
お?
「この猫は首輪をしてない。て事はペットショップとかから買ってきた猫ではないはずだ」
「にゃ」
「んでここって八階だし、まさかベランダから忍び込んだってわけでもないよね?」
「にゃん」
「てことは銀子ちゃんが拾ってきたのかな。で実家の方は親御さんに駄目って言われたからとりあえずここに連れてきた……みたいな流れかな?」
おぉ。八一のやつ、この場の流れに乗ってきた。
まともに奇襲を食らった状態で、その上で私の仕掛けた戦型に合わせて来たってわけね。
劣勢でも逃げずに迎え撃とうとするだなんて、さすがは竜王、いい度胸してるじゃないの。
「にゃお」
私の読みでは「銀子ちゃん、なにしてるの?」とか言ってるだろうと思ってたんだけど。
そしたら「ハロウィンよ、驚いたでしょ?」とか言って人間に戻ろうかなって思ってたんだけど……でも、八一が乗ってくるんだったら私ももう少しだけ猫真似を付き合ってあげようかな。
傍から見ればバカバカしいやり取りだろうけど、そこはやっぱりほら、なんと言ってもせっかくのハロウィンなわけだしね。
「そっかぁ……拾い猫かぁ……」
「にゃあ」
「てことは野良猫か、それとも捨て猫だったりするのかな? 漫画とかでよくある『拾って下さい』って書かれたダンボールの中に居たとか」
違いますー。
私は野良や捨て猫なんかじゃなくてちゃんとした家猫なんだから。
「拾ってきたって事は、もしかして銀子ちゃんはこの猫を飼うつもりだったりするのかな?」
「にゃあ」
「まぁペットを飼う経済力は問題無いだろうし、猫はペットとしては一般的だからそれなりに飼いやすい生き物だとは思うけど。でも野良の猫って病気があったりするから一度獣医さんに見せなきゃいけなかったりするんじゃなかったっけ? そこら辺の事知ってんのかなぁ銀子ちゃんは」
「うにゃあ」
病気なんて無いわよ。失礼な。
ちゃんと予防接種だって受けてるんだからね。……インフルエンザのだけど。
……とか、猫になりきって猫みたいな事を考えていると。
靴を脱いで玄関を上がった八一が私のそばに近付いてきて、腰を屈めて手を伸ばす。
「なでなで」
「……にゃ」
八一の手が、私の頭を優しく撫でた。
「おぉ、この手触りは……ふわふわしてる」
「……ふにゃ」
ん……まぁ、中々悪くない手付きね。
雑に撫でたら引っ掻いてやろうと思ってたけど、これならまぁ……まぁ許そうじゃないの。
私的には右手で撫でたのが高ポイントだ。やっぱり右手はいいよね。にゃあ。
「うーん、これは確かに……猫を飼いたくなる人の気持ちも分かるなぁ」
「……うにゃん」
「なでなで、さわさわ……」
「……にゃあ」
うぅ、なんかくすぐったいよぉ。
こうやって八一に撫でられると背筋がぞわぞわしちゃって、思わず身をよじってしまう。
「にしても綺麗な銀毛だな……そういえばこの猫って品種は何なんだろう」
「うにゃん」
けど、そんなくすぐったさとは別に。
今の私には不思議と奇妙な感覚があって。
「猫の品種ってあんまり知らないんだよなぁ。アメショーとかマンチカンとか、そんなんだっけ」
「にゃん」
「まぁいいか。そういう込み入った話は銀子ちゃんが戻ってきてからにしよう」
相変わらず八一はこの場の流れに乗って、私の事を本物の猫のように扱っている。
だから私もその流れに乗って、こうして猫真似を続行して猫のように振る舞っている。
それはハロウィンだからこそ許される、ハロウィンの魔力によって出来上がった光景だ。
……そのはず、なんだけど。
「……にゃお」
……なんだろう。
なんか……何かがしっくりこない。
不思議と奇妙な感覚がある。……違和感がある。
今日は10月31日、ハロウィンだ。
だからこそ私はこうして猫の仮装をして、猫になりきって猫真似をしている。
それで問題無いはずなのに……けれど、なにかが間違っているような気がしてならない。
なんだろう。何が違っているんだろう。この違和感の原因はなんだろう。
まるで攻めているはずなのに、しかし詰みの一手が一向に見えてこないような。
正しい一手を打っているはずなのに、徐々に追い詰められていくかのような。そういう判然としない気味の悪さみたいなものがある。
そもそもハロウィンって……これであってるのかな?
ハロウィンって猫真似をして猫になりきる行事だったっけ? それとも、もっと別の──
「ほら、おいで猫ちゃん。お菓子……は食べさせちゃマズいだろうから、お水を飲ませてあげる。ミネラルウォーターなら大丈夫だよね」
「にゃ」
八一がリビングへと歩いていく。
私はなにかがおかしいと首を傾げながらも、四つん這いで歩いて八一の後に続く。
「……さてっと」
そうして八一はリビングにあった座布団の上に腰を下ろして。
「……あのさ」
「にゃあ」
ここからが本題とばかりに。
猫となった私を見つめながら、言った。
「……そろそろ良くないかな?」
「にゃー」
「いやあの、にゃーじゃなくてさ。この流れ……まだ続けるの?」
「にゃー」
……む。これは……。
先程までみたいに私を猫として扱わず、八一は普通に話し掛けてきた。
さてはこいつ……痺れを切らして攻めに転じるつもりのようね。
「あの……銀子ちゃん?」
「にゃあ」
猫の鳴き声で答える私の一方。
「だからにゃあじゃなくて」
「ふにゃ」
八一は「そろそろおふざけはいいよね?」と言わんばかりの表情をしている。
……さて、どうしよう。
八一がこの手を打ってきた以上。ここでハロウィンはお開きにしたっていいんだけど。
「どう? 面白かったでしょ?」とか言いながら肉球手袋を外してもいい頃合いなんだけど。
「……銀子ちゃん」
「にゃ」
「………………」
「うにゃん」
「………………」
「にゃ?」
……そろそろ、こんな猫真似は終わりにして。
人間に戻るべき頃合いだって、そんな事は分かっているんだけど。
……でも。
「どしたの? なんで突然ネコに?」
「にゃー」
「にゃーじゃ分からないって。猫語で喋るのは止めて人の言葉を使ってくれよ」
「にゃあ」
「いやだから……」
「ふにゃ」
……でも、どうしてなのか。
それでは危険だと、それでは大頓死しかねないという予感がある。
ここで猫真似を止めてはならないと……私の本能がそのように警鐘を鳴らしていた。
「でもなぁ。この子が研究熱心なのは今に始まった事じゃないしなぁ」
「うにゃ」
「だったらなにか……何かしらの理由があっての行動だったり?」
「にゃお」
理由?
私が猫真似をしている理由なんて……そんなのハロウィンだからに決まってる。
それなのに。今日はハロウィンだからなにも間違ってないはずなのに、私はどうして──
「……まさか、ハロウィンだからってこと?」
あっ──
「いや違うか。ハロウィンだったら相手を怖がらせるおばけとかの仮装なはずだし、なによりもトリック・オア・トリートって言うはずだしな」
…………あ。
そっか。やっと違和感の正体が分かった。
答えはそれだ。私のハロウィンにはトリック・オア・トリートが無かったんだ。
ハロウィンの合言葉。いたずらか、お菓子か。トリック・オア・トリート。
それが無いから違和感があった。いたずらも、お菓子も、そのどっちも存在していない私のハロウィンはどうにもハロウィンらしくなかった。
更に言えばかぼちゃのおばけ、ジャック・オー・ランタンとかも居ないし、なんか考えれば考える程にハロウィンに必要なものが尽く足りていないような気がしてきた。
「……にゃあ」
……え。ちょっと待って。
だとしたら、今私がしている行為ってなに?
猫耳と猫尻尾と猫肉球を付けて、猫真似をしながらにゃーと鳴いて。
トリック・オア・トリートもないのに、しきりににゃあにゃあと鳴くだけで。
……これ、ハロウィンかな?
……ううん。これハロウィンじゃないよね?
「そうだよなぁ。あの銀子ちゃんがそんな馬鹿げた真似をするはずないよなぁ」
「にゃ……」
瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
一瞬息をする事が出来なくなった。呼吸が止まりかけてしまった。
──馬鹿げた真似。
言われてしまった。まさか八一からそんな酷い言葉を言われてしまった。
しかし……悲しいかな、今の私にはそれが見事に的を射た発言だと思えてならない。
ど……どうする?
どうしよう……ど、どうしようっ!
なんかっ、なんか今更ながらにメチャクチャ恥ずかしくなってきたんだけど!?
だってこんな、こんなのハロウィンじゃない!
ていうかなにしてんの!? なに私ってば猫になりきってにゃあにゃあ言ってんの!?
バカじゃない!? アホなんじゃないの!? 頭おかしいんじゃないの!?
ううんでも待って! 違うの! さっきまではこれで良かったの!
だってさっきまではこれがハロウィンだと思っていたから、だから気にならなかったの!
ちゃんとハロウィンしてるつもりだったのに……でも、これは違うって気付いちゃったから。
そしたらなんかもう……む、むり。マジむり。
ハロウィンの魔力が消えちゃったら……私のしていた行為はただの奇行ではないか。
「だとするとこれはなんだろう……猫の日はにゃんにゃんにゃんで2月22日だったはずだし……やっぱイベントとかは関係無いのかな?」
私が猫真似をしている理由を。
その真相をまさかハロウィンだとは思わない、思ってくれない八一ははてなと首を傾げる。
……どうしよう。どうやってこの状況をやり過ごそう。
これじゃあ人間に戻れない。ここで人間に戻って八一に「なんでこんな真似してたの?」って聞かれたら私は返す言葉が無い。
ハロウィンだから猫真似してたなんて知られたら馬鹿にされる。あるいはその逆に八一は私を生暖かい目で、かわいそうな子を見るような目で見てくるかもしれない。そんなの絶対耐えられない。
「だったら猫真似をする意味とは一体……ただ単に猫の可愛さを俺にアピールしてる、とか?」
「にゃ」
「あ、そうなの?」
「にゃあ」
「それ、どっちのにゃあ?」
「うにゃん」
人間に戻る事が出来ず、八一の質問に答える事も出来ない。
ひたすら猫真似を続けてにゃあにゃあと鳴きまくる私。……泣きたい。
成功したかのように見えた私の奇襲は結果的には悪手だった。
八一の攻めによってハロウィンの魔法は消されてしまい、私は劣勢へと追い込まれた。
……けれど、それでも私は棋士だ。
地獄の三段リーグを乗り越えて、私だってもうプロの棋士の端くれだ。
窮地に追い込まれても頭を絞って、逆転の一手を捻り出すのがプロの棋士たる姿なはずだ。
だから私は諦めない。
どうにかこの状況を乗り切ってみせる。
八一を……竜王を倒してみせるっ!
「……なるほど。それはアリだな」
「にゃー」
そこで私が考え付いた一手。
それはもう攻めの手は変えずに攻めきる事。このまま猫真似を貫き通してしまう事。
意地を張っても無駄だ。と思うだろう。
それに何の意味があるのか。とも思うだろう。
けれどもそうじゃない。棋士としての私の考えは異なる。
ここで意地を張る行為には意味があるのだと、私の読みがそう言っている。
何故ならここで重要なのは八一をどう倒すか、という事だからだ。
一見バカバカしい行為に見えても、それで八一を詰ませてしまえば私の勝ちなのだ。
だから私には勝算がある。私は八一と勝負をして勝つつもりでいる。
けれども八一は私と勝負をしているつもりなんてないはずだ。つまりはそこに勝機がある。
「ふにゃ」
「そうか……そういう事なんだね? まったく可愛いヤツめ、うりうり」
「にゃ、うにゃぁ……」
すると何を思ったのか、八一が両手で私の頭を抱えてわしわしと撫で回してきた。
む。さっきとは違ってこうしてちょっと雑に撫でられるのも……それはそれで悪くはない。
だから抵抗はしないで頭を撫でさせてあげた。今日はもう猫を貫き通すのだ。にゃ。
「まぁこの際理由はなんだっていいや。とにかく銀子にゃんは人間じゃなくて猫、今日はもうとことんネコを貫き通すつもりなんだね?」
「にゃあ」
「そっか、分かったよ」
私が人間には戻らないと察したのか、八一は大きく頷いた。
「……よし。この子はネコだ」
「にゃあ」
「ここに居るのは一匹のネコ。猫にしてはちょっと身体の大きめなこの子の名前は銀子にゃん」
「にゃお」
その通り。私は空銀子ではなく銀子にゃんだ。
私は自らの事前研究を信じる。準備していた猫真似奇襲戦法で八一を投了させてみせる。
だったら本気で銀子にゃんになりきらねば、最強の竜王を倒す事なんて出来ないだろう。
だから私は猫になるんだ。
さぁ八一、掛かってきなさいにゃん!
……とか、思っていたら。
「──銀子にゃんっ!」
「にゃっ!」
それは突然だった。
ほんとに突然八一が飛び掛かってきたっ!
な、まさか、ここにきて更なる攻めの手を!?
ていうか掛かってきなさいってのはそういう意味じゃないんですけど!?
「ああ銀子にゃん銀子にゃんっ!! 銀子にゃーーんっ!!!」
「にゃ……ふにゃ……!」
な……なんだこいつ!?
八一のやつ、一体どうしちゃったの!?
「ああ可愛いっ! かわいいかわいい銀子にゃんかわいいにゃんっ!!」
「にゃにゃ……にゃ……」
抱き付かれたまま床に倒れ込み、そのまま私は八一に揉みくちゃにされた。
後頭部に顔をぐりぐりと押し付けられたり、互いの頬を合わせて頬ずりされちゃったり。
「ぁぁああ銀子にゃぁあん……猫なんて駄目だよそんなの俺もう駄目になっちゃうよぉ……!」
「……ふにゃ」
「ああかわええかわええ……猫になりきってる銀子にゃん激ヤバかわ萌え萌えきゅん……!」
「……うにゃぁん」
……八一が、壊れた。
というか、とっくに壊れていたのかも。
思い返せば桜ノ宮の時も、八一は興奮し過ぎてヤバいテンションになっていた。
もしかしたらだけど……八一はコスプレをした私という存在に弱いのかもしれない。
全く、このバカときたら。
……まったく……八一ってば……。
八一ってばぁ、ほんとに私の事が好きなんだから……もぅ……♡
「あそうだっ! 俺さ! 猫飼ったら猫吸いやってみたかったんだよね! 猫吸い!」
「にゃあ?」
ねこすい?
「猫吸い! 知ってる!?」
「にゃん」
「知らないかな!? まぁどっちでもいいか!」
なんだろう、ねこすいって。
ねこすい、ねこすい……猫水?
あ、あれかな? 電柱の周りとかに猫避けとして置いてある水の入ったペットボトルの事?
「はい銀子にゃんっ! 仰向けになって!!」
「にゃ……」
テンションが上がっている八一の勢いに流されるがまま、私は仰向けの体勢になる。
「とうっ!」
すると八一の手がシュバッと伸びてきた。
その手は私のセーラー服のすそを掴んで……そのまま一気に胸元まで捲くり上げたぁ!?
「にゃ!?」
ちょっとぉ!? こいつまさか私を脱がせるつもりなんじゃ!?
とか思ったのもつかの間、露わになった私のお腹に向かって八一が頭から突っ込んできた!
「ふにゃっ!?」
「はぁぁぁ~……猫だぁ……! これが猫吸いかぁ……!!」
「……にゃ、……にゃ」
こ、こいつ……私のお腹の匂いを嗅いでる!?
これがねこすいなの!? 私が想像してたのと全然違うんだけど!?
「くんくん、クンクン!! ああいい匂い、銀子にゃんのいい匂いがするよぉ……!!」
「…………にゃぅ」
こ、このバカ、このばかぁ……!
だってこんな……こんなの、恥ずかしいよぉ。
親しき仲にも何とやらだ。いくら恋人だからって女性の体臭を嗅ぐのは駄目だと思う。
ていうかこいつ……さてはこれが狙いか。
私が猫になりきってるのを良い事に、猫と触れ合う体であれこれ好き勝手楽しむつもりか。
「にゃおおぉん……! 銀子にゃあん……!」
「……にゃあ」
今の状況を勝負と見なして、あくまで勝つことを重視している私の一方。
そんなつもりは無い、勝負だとは思っていない八一はただ実利を求める方針らしい。
追い詰められて切羽詰まってる私をよそに八一はいい思いをして……くぅ、悔しい。
「……ふにゃあ」
けれどもこうなると、次に八一が何を仕掛けてくるかはある程度読む事が可能だ。
こいつの事だからきっと、きっと……もっとエッチな事、とかを……っ!
「よし、なら次は……」
「にゃ……」
「あそうだ。さっきお水を飲ませてあげるって言ってたよね。用意してくるよ」
そう言って八一は身体を起こすと、持参したレジ袋を持ってキッチンへと向かった。
……って、お水? 次の一手はお水なの? そろそろ一息入れて休憩するってこと?
ここで緩急を付けてくるとは私も読めなかった。さすがに竜王の攻めは変幻自在だ。
「はいどうぞ。銀子にゃん」
八一はすぐにキッチンから戻ってきて。
さぁ飲んでいいよ、とばかりにお水をくれた。
……底が浅めなお皿に水を汲んで。
フローリングの床に直接それを置いた。
「……にゃ」
……こ、こう来たかぁ……。
本当にこいつは骨の髄まで竜王だ。こんな妙手が私に読めるはずがない。
「ふにゃあ……」
目の前に置かれたお皿の意味は明らかだ。
これはつまり手を使わずに舌を使って、猫のようにぺろぺろ舐めろと言っているんだ。
犬猫のように水を飲めと命じるに等しい、まさにペット扱いだ。
しかし私が猫真似を貫こうとする以上、その一手は文句の付けようが無い完璧な対応だ。
その上でこんな辱めを与えて私の心を折ろうとしてくるだなんて、これが竜王の恐ろしさか。
「……にゃ」
私は……どうすればいい?
ここで八一の思惑通り、四つん這いになって舌でぺろぺろと水を飲んじゃったら。
そんな事をしちゃったら、その時は人間として大切なものを失ってしまうような気がする。
がしかしここで人間に戻る事に逃げたら、その時点で私の敗北が決定してしまう。王手飛車取りを受けたにも等しい絶望的な局面だ。
「にゃ……にゃ」
すぐ隣から八一の視線を感じる。
私が如何なる応手で返すのか、八一も固唾を飲んで見ている。
ここで逃げる事は簡単だ。
だけど暴虐無比な竜王に勝とうと言うなら、逃げの一手では勝機なんて見えてこない。
だったら……っ!
「……にゃう」
私は両肘を曲げて低く屈んだ。
そして顔をそーっとお皿に近付けて……。
「……(ぺろぺろ)」
と、私が舌を使って水を舐め取った瞬間、八一がハッと息を飲んだのが分かった。
「にゃあ……」
く、屈辱……!
八一が見ている中で、こんなほんとに猫みたいな恥ずかしい行為をぉ……!
舌先に冷たい水の感触がする。けどそんなの分からないぐらいに顔が焼けるように熱い。
「……にゃあ、にゃあ」
「ぎ、銀子にゃん……!」
えぇそうよ。私は銀子にゃん。
勝利の為に人間としてのプライドを捨てた一匹のネコ。笑いたければ笑いなさい。
「……や、ヤバい」
けれども八一は笑いはせず、むしろその声は恐怖か何かによって震えていた。
どうやらこの水飲みによって多大な影響を受けたのは私だけではないようで。
「……よし、お水は終了だ」
「にゃ……」
横からスッと八一の手が伸びてきて、私がお水を飲んでいたお皿をそっと取り上げた。
「ほら銀子にゃん、もう身体を起こして」
「にゃあ」
そして言う通りに身体を起こす。
なんだろう、八一のやつ。自分からさせておいて急に止めさせるとはどういう事か。
さすがにこの水飲みは恋人にやらせるには可哀想だと思ったって事かな? だったらさせる前に気付いて欲しかったんだけど。
「でもさすがは銀子にゃんだね。手が出せない状況でもこんな方法で攻撃してくるなんてさ」
「にゃ?」
攻撃?
「だから……お楽しみはここまでにして、そろそろ銀子にゃんを人間に戻そうか」
「うにゃ?」
私を人間に戻す?
そう言い切るって事は、まさか……八一は勝負を決めるつもりなのか。
「……にゃん」
となればここは……ここが勝負の分かれ目になるかもしれないっ!
ここで八一が放つ一手を。その読みを私の読みが上回っていたなら、きっと──
「てなわけで……いただきます」
「にゃあ」
そして、八一が両手を前に出す。
それは一直線に向かってくる。
その手が──私の胸元へと。
「えいっ」
瞬間、身体を走るぞくっとした感覚。
「っ────」
おっぱいを、揉まれた。
八一の両手に。私のおっぱいはむんずと鷲掴みにされてしまった。
なるほどこれが私を人間に戻す方法か。
さてはこいつ死にたいらしいな。だったらお望み通りぶちころしてやろうじゃないの。
と、私の中の空銀子がそう言っていた。けど。
……けどっ!
「にゃあ」
と、鳴いた。
全神経を集中させて、表情も声色も一切変えないよう細心の注意を払って。
胸部に触れられたって気にしないネコのように、銀子にゃんになってにゃあと返した。
「……えっ?」
「にゃあー」
「……嘘だろ?」
この返しが余程想定外だったのか、八一が驚愕に目を見開いた。
どうだっ! これは効いたはず! 私のカウンターパンチが八一の急所に刺さった!
だって、これは分かってた! これは少し前の時点でもう読んでたんだからっ!
猫になった私に対して、このバカがエッチな事をしてくるなんてのは想像が付いてたっ!
展開がエスカレートしていけばやがてはおっぱいに手を伸ばす事なんて、そんなのはこいつの恋人である私にとっては三手詰めを解くよりも容易く読めた事だ。
だから私は「にゃあ」と返せた。
事前に読んでいたからこそ、おっぱいを揉まれても無反応を貫き通す事が出来た。
ここは私の読み勝ちだ。どれだけ恐ろしい竜王の攻撃だからってね、すでに読み切っている攻めの手だったら全然怖くないんだから。
「にゃ」
「え、だって……おっぱいだよ?」
「うにゃん」
驚愕しながらも八一は私の胸を揉む……が。
ふふん、残念だったわね。そんなの無駄よ。
そんな陳腐な攻撃では私を人間に戻す事なんて出来やしない。分かったら諦めなさいな。
「……え。ぎ、銀子ちゃん……怒らないの?」
「にゃあ」
「だって、おっぱいだよ? 俺今おっぱい揉んでるんだよ? ほら、もみもみーっと」
「にゃーお」
……あの、もう、それは無駄だから、ね?
だから、もう、負けを認めて……そろそろ、揉むのはやめてってばぁ……!
「……マジ?」
と呟いた八一は明らかに動揺していると分かる表情をしていた。
だがさすがにこの一手だけでは竜王を追い詰めるには足りなかったのか。
「なら……これは?」
続けて更なる攻撃が来た。
八一はその右手をゆっくりと伸ばして……その指が、私のスカートの、すそを。
「……あ、ピンクだ」
ぴらっと捲られた。スカートを捲られた。
……こ、こいつぅ~! おっぱいだけじゃ飽き足らずにパンツまで見おったなぁ……!!
──けどっ、ここは我慢だっ!!
ここはなんとしても耐えるのよ銀子!! ここさえ耐えればきっと八一は……!
「にゃあ」
「………………」
どうだっ! にゃあと鳴いてやったっ!
おっぱいを揉まれても、パンツを見られても、それでも私は猫真似を貫き通した!!
「…………え。……ちょっと、待ってね」
「にゃ」
まさに肉を斬らせて骨を断つ一手。
事前の読みと、屈辱を飲み込む精神力によって成立させた一手の効果はとても大きかった。
八一は捲くっていたスカートから手を離すと、私から距離を取るように一歩下がった。
「……なんだ? これ……こんなこと……一体、これ、どういう事だ?」
なんて弱々しい声だ。どうやら随分と悩んでいるようね、八一のやつ。
まぁそりゃそうだ。普段の私だったら絶対にこんな反応はしないもん。普段の私ならおっぱいはおろか水飲みの時点でグーが出ていたと思う。
「……でも、銀子ちゃんがそこまでする理由ってなんだ……?」
私がここまでする理由。それは序盤に打った致命的な悪手を挽回する為。
ハロウィンだからと気合を入れて猫真似をしたらそれはハロウィンになってなかった。
そのアホさ加減を誤魔化す為、私はなんとしても猫真似を貫き通す必要があった。
「……だとしたら」
そして今。猫真似をひたすらに貫き通したおかげで戦局は大きく変わった。
それはこの八一が証明している。ついさっきまでは私を可愛がって遊んでいたのに、その時の明るい表情は今ではもう見る影もない。
「けれど……まさか……」
「にゃ?」
私が何故これ程までに猫真似を貫くのか。
その答えはどれだけ考えたって八一には読めないはずだ。
だとしたら……そんな八一が、この状況を鑑みて導き出す結論とは。
私はもうそこまでを読み切っている。だからこそこの戦法を選んだのだから。
「……銀子にゃん」
「にゃあ」
「銀子にゃん、きみは……」
八一は震える声で……言った。
「まさか……きみは……本当に猫になっちゃったんじゃ……!」
……勝ったっ!
聞こえてきた言葉に「にゃあ」と返しながらも私は内心で喝采を上げた。
今の言葉は私にとっては投了と同義だ。この勝負は私の勝ち、見事に八一を詰ませたのだ。
「……そうなのかい?」
「にゃ」
「違うのかい?」
「にゃー」
空銀子は猫真似をしているわけじゃない。
そうじゃなくて本当に猫になったのだ──と、今の八一は本気でそう考えている。
普通の人ならそんな馬鹿げた考え方はしないだろうけど、それでも八一ならそう考えるのだ。
どうしてかって?
そんなの簡単。だってこいつアホだから。
「……だから、君は猫になった」
「うにゃん」
「神のいたずらか、きっと野良猫の魂が君の身体に宿っちゃったんだ。……そうなんだね?」
「ふにゃ」
「そうか、もう猫なんだから答えられないよね。……でも、きっとそれが答えなんだ」
アホな八一は的はずれな事を考えてアホな結論に確信を深めていく。
よしよし、これならもう大丈夫だ。私が思い描いていた通りの展開になってくれた。
野良猫の魂が宿った空銀子。八一の中で今の私はそういう扱いになったらしい。
これで私が人間に戻ったとしても、それはハロウィンを勘違いして何故か猫コスプレして猫真似していたアホな空銀子ではなくなった。
悪手は好手によって上書きされたのだ。ここで私が人間に戻ったとしたら、それは野良猫の霊の除霊に成功した空銀子になるだろう。
これでもうハロウィンの大失敗を八一に突かれる恐れは無いわね。良かった良かった。
「……もう元には戻れないのかな? 銀子にゃんが銀子ちゃんに戻る事は……」
「にゃうん」
「分からないよね。そんな事……。君にとっても突然の出来事だっただろうし……」
「にゃあ」
八一ってば、見るからに悲しそうな顔をしちゃってる。
それは自らの思考を疑っていない証拠、本気で私が野良猫になったのだと信じている証拠だ。
「銀子ちゃん……」
八一のこういう分かりやすい所は嫌いじゃない。
……けど、しかしこいつ……なんでこんなにアホなのに将棋はあんなにも強いのかしら。
八一の脳は出来が良いのか悪いのか。長年連れ添っている私でも答えが出せない難問だ。
「……でも」
するとそんな八一は何事かを決心したのか。
悲しそうにしていた表情を改めて、真摯な表情になって私を真正面から見つめてきた。
「……銀子にゃん」
「にゃ?」
なぁに? そろそろ人間に戻って欲しい?
さぁどうしようかしらね。八一がどうしてもって言うなら考えてあげてもいいけど?
……とか余裕をかましていたら。
どうやら八一の思考は更に飛躍していたらしく、続けてこんな事を宣言してきた。
「安心してくれ。君の事は……俺が飼うから」
「にゃっ……!」
かっ、……飼う!?
私、八一に飼われるの!?
でも、言われてみれば確かにそうだ。
私が猫真似をしているんじゃなくて、野良猫の魂を身体に宿したというのなら。
空銀子が本当に猫になったというのなら、私は誰かに飼われる必要がある。その場合八一が飼い主として名乗りを挙げるのは当然の事だ。
……でも、飼うなんて、そんな──!
「俺が飼ってあげるからね! 銀子にゃんっ!」
「うにゃぁ……!」
その言葉の衝撃に打ち震える私をよそに八一の行動は迅速だった。
再び私の身体に抱きついてきて、勢いそのまま二人でフローリングの床に倒れ込む。
「今日から君は俺のペットだ。いいね?」
そして、契約の呪文が耳元で聞こえた。
わ、私は……八一のペットになっちゃうの!?
それは……駄目だよね?
だって私は八一の恋人なんだよ?
恋人だから……恋人、なのに。
それなのに……どうした事か。
まるで魔法に掛けられたみたいに、私の思考と意識が急速に塗り替えられていく。
そして本当の猫になっちゃったみたいに……口からは自然と鳴き声が漏れた。
「ふにゃあぁ……」
「よし。いい子だね、銀子にゃん」
「にゃうん……」
八一の手が私の左手をぎゅっと掴む。
あぁ、八一が居る。肉球越しにでも八一の右手の力強さを感じられる。
こうして八一がそばにいてくれるなら……私にそれ以上望むものがあるだろうか。
「空銀子が猫になったなんて知れたら将棋界は……いや、きっと日本中が大騒ぎだろうね」
「うにゃあ」
「でも大丈夫だよ。安心して。なにがあっても君の事は絶対に俺が守るからね」
「うにゃん……」
嬉しい……。
やいちが、わたしを守ってくれるんだ。
それなら。それならわたしは……うん。べつに人間に戻れなくたっていいや。
「お、喜んでくれているのかい?」
「にゃあん……」
うれしい。とっても嬉しいよ、やいち。
この嬉しさを伝える為に私は顔を八一の胸元に寄せてすりすりする。すりすり。
「そっかそっか。よーしよし、かわいいね」
「にゃうん……」
そしてやいちの手が──
……ううん、違う。これはご主人さまの手だ。
だってわたしは猫だ。銀子にゃんになった。
わたしはやいちのペットになって、ご主人さまに頭を撫でられながら生きていくんだ。
「なでなで……」
「ふにゃあ……」
ふわわぁ……気持ちいいよぉ。
ご主人さまに頭をよしよしされると幸せな気持ちになっちゃう。にゃあん……。
「俺が飼い主になった以上、銀子にゃんには沢山贅沢させてあげるからね」
「にゃ」
「キャットフードは最高級のものを食べさせてあげるし、おやつのチャオちゅーるだって毎日のように食べさせてあげるからね」
「ふにゃ」
「猫用エステサロンだって毎週連れて行ってあげるからね。金に糸目をつけないで贅沢して、君を立派なセレブ猫にしてあげるからね」
「うにゃあ」
「君は何も心配しないで、これから猫として自由気ままに生きればいいんだ。身の回りのお世話は飼い主である俺がしてあげるからさ」
「うにゃあん……」
そんな……そんな贅沢、ほんとにいいの?
高級キャットフードにチャオちゅーるも、それに猫エステもだなんて……。
うにゃにゃあ……ご主人さまぁ……銀子うれしいにゃん……♡
「これがペットを飼う事による癒やし効果ってやつなのかな……」
「ふにゃあ」
「あぁ、銀子にゃん……」
「にゃ……」
私を抱きしめてくれる腕。
やいちのぬくもりを、愛情を感じる。あぁ、幸せ……♡
にゃあにゃあ。ご主人さまのペットになれて、銀子はとってもしあわせだにゃん。
「差し当たって……まずは食事か」
「にゃ」
「あと、君のおうちが必要だよね。室内に置く用のペットハウスを買ってこようかな」
「ふにゃ」
やだ。ご主人さまとずっといっしょがいい。
わたしは首をふりふりする。ふりふり。
「あ、ペットハウスやだ? 放し飼いがいい?」
「うにゃん」
そう、それがいいの。
夜はご主人さまのお布団にもぐり込んでいっしょに眠るんだもん。うにゃん。
「そっか。まぁとりあえずペット用品が売っているお店に行って色々と買ってくるよ。だから銀子にゃんはちょっとお留守番しててね」
「にゃ」
お留守番ならまかせてご主人さま。
わたしは優秀なネコなの、壁をひっかいたり部屋をちらかしたりなんてしないんだから。
「……あ」
そして、ペット用品を買いに行こうと立ち上がったご主人さまは。
けれどそこで何かに気付いたのか、ふと立ち止まってわたしの方を見た。
「そういえば……野良猫の魂が銀子ちゃんの身体に宿ったって事は、元々の銀子ちゃんの魂は一体何処にいったんだろう?」
「にゃ?」
わたしの……たましい?
「もしかして……野良猫の方に行ったのかな? 魂の取り替えっこ的な感じで」
「にゃあ」
「もしそうだったら……銀子ちゃんの魂は……」
「……にゃ」
わたしのたましいが、何処に行ったのか。
それは……。
「銀子ちゃん……」
野良猫の魂と入れ替わった?
ううん、そんなの違う。
だって私の魂の在り処は──
「………………」
「……にゃあ」
沈痛な面持ちで沈黙していた八一だったが、
「──あ」
と、ふいにそう呟いた。
どうやら八一も気付いたようだ。
空銀子の魂がどこに有るのかを。
「……将棋」
「……にゃ」
そう。将棋だ。
私の魂の在り処。そんなのは将棋盤の前に決まっている。
「そうだ。銀子ちゃんじゃないと……猫のままじゃ将棋が指せないじゃないか」
まるで正気に戻ったみたいに、八一はそんな至極当然の事を呟いて。
「……にゃあ」
そしてそれは……私もだ。
さっきまで夢見心地でぽわぽわしていた頭の中が急速に落ち着いていく。
「……銀子にゃん」
「にゃ」
「……ごめん」
そして、八一は頭を下げた。
「やっぱり……君の事は飼えない」
「にゃ……」
うん……分かってるよ、八一。
もういいの。だってもうハロウィンの魔法は解けちゃったから。
私達二人に掛けられたハロウィンの魔力を払ったのは、やっぱり将棋という存在だった。
「俺は銀子ちゃんがいい。猫じゃなくて人間のあの子じゃないと駄目なんだ」
「にゃあ」
「この先銀子ちゃんと将棋が指せないなんて……そんなの絶対に嫌なんだ」
「……ふにゃ」
そうね。それは完全に同歩。
私だってそんなの絶対に嫌だ。この先八一と将棋が指せないなんて死んでも御免だ。
ていうか、私……なんかさっきまで頭の中が変な事になってなかった?
なんか……思考が猫になっていたというか、アホになっていたというか。
八一の飼い猫になってお世話される気満々だったような気がするけど……気の所為かな?
……うん。そうだよね、気の所為だよね。
私がそんなアホな事を考えるはずがないし、きっと何かの間違いだ。そういう事にしておく。
「だからお願いだ。銀子にゃん……元の空銀子に戻って欲しい」
とかなんとか考えていたら、その間に八一はなんと土下座の体勢に移行していた。
そこまでして私が人間に戻る事を望むなんて……これは八一にとっても切実な話のようだ。
「頼むっ! 銀子にゃん! 元の銀子ちゃんに戻ってくれ!!」
「にゃ……」
「君が元の人間に戻ってくれるなら俺はなんだってする! だから……どうか……!!」
……よし。
「………………」
「…………銀子にゃん?」
「………………」
……まぁ、あれよね。
随分と回り道をしちゃったけど、結果的にこうして言質は取れたわけで。
「……ふぅ」
と呟いて、私は四つん這いの体勢から身体を起こした。
そして両手から肉球手袋を外す。もうずっと前から蒸れて暑かったのよねこれ。
すでに目的は達した。だから猫の真似をするのはもう終わりだ。
「……はぁ、疲れた。ずっと四つん這いになってたから身体が痛くなっちゃった」
「銀子ちゃん……!!」
私が人間の言葉で喋ると、即座に八一がバッと顔を上げた。
その顔は大きな歓喜とそれ以上の安堵が入り混じったような表情だった。
「銀子ちゃん!! 元に戻ったんだね!!」
「……えぇ、そうよ」
「良かった、良かったよぉ……!!」
「ちょ、ちょっと八一……!」
そしてまたまた八一は私に抱きついてきた。
こいつ今日は私に抱きついてばっかじゃない? ……まぁいいんだけど。
「ホントに良かった、銀子ちゃん……」
「……ん」
「野良猫に宿った君の魂が元に戻らなかったら……俺、もうどうしようかと……」
「大げさよ、そんな……」
「あそうだ、野良猫になっている間になにか危険な目に合わなかったかい? 近所のボス猫からいじめられたりしなかった? 怖い人間からエアガンで打たれたりしなかった?」
するかそんなもん。
まさかこいつは本気で私が野良猫になっていたと思っているのか。
「しないわよ。ていうかね、私は別に野良猫になってたわけじゃないから」
「えっ、そうなの? 野良猫と魂が入れ替わってたわけじゃないの?」
「当たり前でしょ。魂の入れ替わりなんてそんな事が起こるわけないじゃない。バカ八一」
「……そっか」
そうよ。私は最初からずっと猫になりきって猫真似をしていただけ。
人間に戻ったのだって、八一があれ程に熱望するから仕方なく戻ってあげただけなんだから。
私と将棋が指したいって。
そうじゃないと嫌なんだって、そう言ってくれたあの言葉が。
あの言葉が……やっぱり一番嬉しかったから。
「まったく……ほんとにバカなんだから」
そんな想いを胸に秘めて、私は元飼い主に呆れ混じりの視線を向けた。にゃ。
■
そして、肉球手袋に続いて猫尻尾と猫耳カチューシャも外して。
完全に人間の姿に戻って一息ついていた頃、八一が話し掛けてきた。
「……ところでさ、銀子ちゃん」
「なに?」
「ちょっと聞きたいんだけど……どうしてこんな真似をしたのかな?」
……どうしてこんな真似を?
「こんな本気の猫真似なんてして……一体どういう理由で?」
どういう理由って……。
……そんなの、言えるわけがない。
「………………」
「銀子ちゃん?」
けれどね、この対局は私の勝ちだから。
「……八一」
「なに?」
勝者の私は、勝者たる権利を悠然と行使した。
「あんたさっき、私が元に戻るんだったらなんでもするって言ったわよね?」
「え、あ、うん、言ったけど……」
「だったらこの件について一切の詮索をする事を禁ずるから」
「えっ」
「勿論今日あった事を口外するのも絶対に禁止。いいわね?」
「え、でも……」
「でもじゃない。返事は?」
「……はい」
よし。これで問題なし。
こうして、私と八一が恋人になって初めて過ごしたハロウィンは終了した。
私が打った致命的な悪手は晒される事はなく、永久に闇へ葬られる事となったのだった。
とにかく猫になった姉弟子が書きたかった。後悔はしていない。
読みたいのは?
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14巻を踏まえた話
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明るい楽しい感じの話