雷雲の晴れ間に   作:蓼麦


オリジナル現代/文芸
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 雷と友達になった少年の話。

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※本作はウミガメのスープ投稿サイト「らてらて」様の企画である「正解を創り出すウミガメ」より、第22回「雨のち晴々」の回答の一つとして投稿させていただいたものです。



雷雲の晴れ間に

  

 

 僕はきっと、雷と出会ったのだと思う。

 

 

 

 それは鈍く霞む夕闇の駅前、中学三年の三月、塾帰りの家路に聴いた叫びだった。

 

 その日は確か、進路を報告しに行ったのだった。昔からとかく体が弱くて、また要領も悪かった僕は、せめて勉強くらいはと県内トップの公立校を受験し、あえなく不合格の烙印を押された。結局、家から遠い第二志望の私立に進学することを伝えて、重い足取りで駅へと引き返した。もともと大して栄えていない駅前が、その日はなおさら人通りも少なくて、ひどくうらぶれた様相だった。陽の沈みかけた空には冷え冷えとした夜が覗く。見上げると、胸の裡にまで黒が染み込んでくるように感じられた。

 そんな中、エレキアコースティックの伴奏に乗った歌声だけが異質に、静けさに呑まれまいと抗うように耳に届いた。

 

 夏虫が火に入るような危なっかしい足取りで、僕は声のするほうへ歩いた。出所はたぶん、ホームを挟んで反対側の北口あたりだ。

 

 路上ライブなんて、別段珍しいものでもない。たいていは似たり寄ったりで、この日にしてもそう、どちらかといえば下手くそだった。高い声を無理矢理濁らせるような、無茶な歌い方。声が遠くて歌詞もよく聞き取れなかったから、アンプが古いんだろうか、とか思った。それなのに、何故だか足が向かっていた。

 

 線路を跨ぐ連絡通路を抜けて、急ぎ足で階段を降りる。歌声を探して、そして見つけた。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 小柄な少年だった。彼の発する熱量に、僕は圧倒されていた。歳の頃は同じくらいだろうか、僕よりも小さな躰、僕よりも細い声、それでも誰にか負けんと破壊的なまでに叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。その姿が眩しかった。よく見れば、マイクなんて持っていない。アンプはギターに繋がるのみで、彼の声を拾ったりはしない。彼は文字通り身ひとつで、降り積もる静寂と闘っていた。拙くて、青臭くて、格好よくなんてなくて、それなのに目が離せなかった。冷淡に過ぎ行く人々のなかで、僕だけが足を止めて聴き入っていた。周りのすべてに噛みつくような姿に痺れ、身を焦がされる思いだった。

 

 空気そのものの抵抗に耐え、熱を伴い、暗闇を裂いて瞬くひかり。僕には、彼がそんなふうに見えていた──それなのに。

 

 どんな顔をしていただろうか。

 どんな声をしていただろうか。

 どんな詞を歌っただろうか。

 あるいは、なにか言葉を交わしただろうか。

 

 

 

 思い出せないのだ。

 

 

 

 あれだけ鮮烈なひかりでさえ、薄闇を藻掻くような日々に滲んで、いつしか見失ってしまった。何よりも忘れたくない、大切な記憶だったはずなのに。そのことを狂いそうに口惜しくも思う。けれど。

 

 けれど、それでも。確かに。

 

 

 

 僕はあの日、雷と出会ったのだ。

 

 

 

         ○

 

 

 

 高校生活は味気なく、淡々と進んでいた。気付けば二度目の七月が過ぎようとしている。申し訳程度の夏季補講は出席者もまばらで、茹だるように散漫な真夏日の午後だ。

 

 私立の高校なら珍しくもないが、僕の通う亀緒学園は自由な校風というやつに定評があった。校則が比較的緩く、教師陣も課題さえ出せばとやかくは言わない、というような。部活動に打ち込むも自由、放課後遊び歩くのも自由、教室の隅で黙々と勉学に励むも自由。積極的に人と関わらない生徒を放任しておいてくれたのは、僕には有難かったと云えるかもしれない。友達と呼べる人間には心当たりが乏しいけれど、敵意や害意を向けてくるような相手もいない。そんな、一年間と少し。

 

 図書室は休暇中も開放されていた。冷房が効いていて教室よりも静か、おまけに誰もが読書に夢中だから、独りで自習するには丁度良い。そうしたわけで毎日ここに入り浸っていたが、近頃は少しばかり様子が異なっていた。

 

「あのさ磐城、今大丈夫?ここ訊いていいかな」

「まぁ、うん。……二次関数の最大最小?まず平方完成、頂点と正負を求めて……そう、後は変域を考えればいい」

「あー……、なるほど。あとごめん、こっちもいい?」

「ああ、こっちはもう一工夫要るな。軸に変数があるだろ……」

 

 彼女、井浦遥は今年からのクラスメートで、こうして僕に話しかけてくれる数少ない人物だ。

 

 出席番号の関係上、最初の席で前後になり、その頃から時々声をかけてくれていた。が、差し向かいで勉強するようになったのはここ数日のことに過ぎない。当初の僕といえばひどいもので──今も相手に慣れただけだが──勉強を教えてほしいという申し出一つにも過剰な緊張を催したものだ。あまりの身構えように、却ってあちらを委縮させてしまう始末。むしろ不始末と云うべきなのか。少なくとも、彼女に害意はない、と理解するまではそんな調子が続いた。

 

「ありがと、助かりました。……にしても磐城、いつ見ても勉強してない?模試とかずっと一番だよね、もしかして勉強好き?」

 

 五時のチャイムが鳴って図書室が閉まると、井浦さんが出たところの自販機でペットボトルのサイダーを買い、質問のお礼だ、と押し付けてきた。続けて、冗談めかした調子で問う。

 

「まさか。ただまぁ、それくらいしかなかったから」

「何が」

「……一番になれること。僕にとってはたぶん、それが重要なことだった」③

「……そっか。よくわかんないけど、応援する」

 

 口から飛び出した答えは、我ながらよくわからないものだった。それでいて、どういうことかと訊かれたら黙るしかないような、0点の答え。失敗した、と思う。けれど、井浦さんは少し面食らったような顔をしつつも、聞き流してくれた。彼女は時々、わざと鈍感になってくれているようなところがある、気がする。そうしたところに僕は、ある意味で救われているのかもしれない、などと大袈裟だが思うことがある。

 

 彼女は優しい。けれど、あるいはだからこそ、どうしたって言えないこともある。

 

 

 

 

 僕は中学時代、いじめを受けていた。

 

 二年生の頃からだった。特に何をしたわけでもない。むしろ、何もしなかったから標的にされたのかもしれない。「おまえって何にもできないよな」と、何度となく指さして嘲笑われた。筆箱を隠されるとか、下駄箱に鳥の死骸が入っているとか、あるいは脈絡なく物陰に連れ込まれて集団で殴る、蹴る。そういうのも多かった。どこにでもある典型的な、明るみに出るほど露骨でもなく、無視できるほど軽くもない、ひどく無邪気で残酷な暴力だった。そして、始まりに理由がなかった以上、終わりもひどく呆気なかった。「飽きた」と、その一言ですべてが過去になった。

 

 僕は賢くなかったから誰かに訴えるなんて考えもしなかったし、強くなかったから逆らおうとも思わなかった。ただ、毎日が終わるころに独りで泣いて、ひたすら怯えながら嵐が去るのを待ち続けた。両親にだけは心配かけまいと堪え続け、自分が弱いからいけないのだと、枕を濡らしながらいつも思った。事が明らかになったのはほとぼりが冷めてからで、家族の前で一度だけ泣いた。

 

「おまえって何にもできないよな」声が頭から離れなかった。せめて何かができたのなら、僕はあんな目に遭わなかったのだろうか。虚弱で貧弱で創造性に乏しくて、ヒトが怖くてたまらない僕に、何が。それから、僕は机にかじりつくようになった。苦手なりに、成績は遅々と伸びた。

 

 そして三月、受験に落ちた。親も先生も気遣ってくれた。ひたすらに悲しくて、けれど涙は出なかった。まだ足りないのか、と、変に冷静な頭で思った。第二志望の私立は家から遠くて、同じ中学の人間はほとんどいないと聞いて、そこに通うと決めた。通っていた塾には高校部もあったが、会いたくない人が大勢いるからと通うのはやめた。勉強はひとりでもできた。ひとりでも、勉強だけはできた。

 

 僕にはそれくらいしかない。一番になれるものはそれしかない。何かできることがあれば、それで一番になれば、きっと誰も僕を否定しない。傷つけない。笑わない。一番になりたい。一番に。一番に。一番に。一番に。一番に。

 

 呪いだった。呪いじみた妄執だ。自分でも幼稚な理屈だと思う。けれど、それに縋らなければ、ここに立っていることすらままならないのだ。

 

 だって僕は、ヒトが怖い────

 

 

 

 

「磐城、どうかした?」

「──いや、何にも。大丈夫、あと、ありがとう。また躓いたら訊いてね」

「助かる!」

 

 怪訝そうな声で我に返った。疑問形の語尾にもなんとなく気遣いが滲む声。慌てて返事をして、床に置いていた鞄を拾い上げる。図書室が閉まった以上、このあと自習するならクラスの教室に移るか、職員室横の面談スペースを拝借するかしかない。

 

「……い、磐城はさ、どっか行くの?やっぱり」

「? 帰って日本史の暗記かな。この時間だと吹奏楽部の音が気になって」

「えと、そっか……。じゃなくて、あーいや、ごめん言い方かな……」

「あー、数学の質問ならまだ受け付けるけど」 

 

 荷物を担ぎあげた拍子に、眼前で固まっていた井浦さんと目が合った。一瞬ふしぎな間があって、それから質問が飛んでくる。よくわからないまま返した言葉は要領を得ていないらしく、少し申し訳なくなった。いまいち噛み合わないやりとりに痺れを切らしたのか、井浦さんは少し大きな声になって、 

 

「……じゃなくて!夏休み、空いてますか!予定!」

 

 言い切った。その内容が予想外で僕は面食らってしまい、返答はしどろもどろだ。もっとも、それは向こうも似たようなもので、

 

「え。いや、空いてる、けど」

「じゃあ、さ……」

 

 半端なところで言葉尻がすぼんで、その先をじっと待つ。

 

「うちで!バイトしませんか!!」

 

 

「へ?」

 

 

 蒸し暑い夕凪の廊下に、間の抜けた声がこだました。

 

 

 

         ○

 

 

 

 八月はトントン拍子でやって来た。猛々しく息吹く若葉の緑、ごつごつした足元、それに全身から吹き出す汗が、これは日常ならぬ学びの場なのだと教えてくれる。座学しか知らない僕には何もかもが新鮮通り越して未知の世界だ。正直言って、かなりしんどい。

 

 相変わらずの猛暑の中、延々と家具や農具やよくわからない何物かを運び出しては軽トラの荷台に積んでいく。単純作業だが、これは確かに人手が要る。その点では人を雇ったのも理解できるけど、人選については確実に間違えていると思う。何せ四階にある教室に辿り着くだけで青息吐息になるのだから、僕の体力を甘く見てもらっては困る。なお、辛口になられると凹む。どうしろと。くだらないことを考えても気が紛れなくなってきた。まずいな……。

 

「……あのさ父さん、ちょっとここらで休憩しない?」

「ん。予定よりは早いが、疲れたか?」

「えっと、うん、なんとなく」

「そうか?……うん、じゃあ昼にしようか。磐城くんもそれでいいかい?」

「……あっ、はい。手伝います!」

「いい、いい。休んどきな。あっちで家内が準備してくれてる」

 

 井浦さんの一声でようやく作業が中断すると、どっと疲れが出た。お邪魔している以上は食事の支度も手伝いたかったが、今は素直に休んだ方がよさそうだ。庭の水道をお借りして首元のタオルを濡らし、倒れこむように縁側に腰かけた。膝に手をついて俯くと、垂れてくる滴が既にぬるくて、いっそ頭から冷や水をかぶろうと立ち上がる。ちょうどその折、台所からぱたぱたと足音。

 

「いやーお疲れ!これ差し入れね」

 

 言うが早いか、戻ってきた井浦さんが軒下にどかっとバケツを置いて、そのまま隣に腰を下ろした。中にはサイダーが二本、氷水に浸されていて、彼女はそこから手に取った一本を僕にくれた。つられて座りつつ受け取る右手から氷水が膝に垂れて、ひやりとした感触に呻いた僕を井浦さんが笑った。疲れたねーとか、うん、疲れた、とか、冷えたペットボトルを首や腿に押し当てながら、たらたらと意味もないことを駄弁っているうち、昼食ができたと声がかかった。ぱっと跳ねるように立ち上がった彼女の後ろを、僕はゆっくりとついていった。

 

 

 

 

 バイトしませんか。

 

 聞けば、先月井浦さんのお爺さんが亡くなったのだという。慌てて哀悼の意を述べようとする僕を、気にしないで、と遮る彼女の様子は穏やかで、実際ピンピンコロリの大往生というやつだったらしい。亡くなる二日前にも軽トラで野菜を届けてくれたとか。そんなわけで悲壮感はないが、要するに、僕が駆り出されたのは遺品整理だった。何でもお爺さんは山中を拓いた出作り小屋に住んでいて、そこから家具や何かも積み出す以上、一人っ子の井浦家だけでは頭数が心許ない。そこに友達を連れていきたいと言ったら快諾してもらえたのだという。友達、という何気ない響きに、こっそり感動したのはここだけの話だ。

 ご家族の想い出と向き合う時間に僕などが首突っ込んでいいものか疑問だったが、そのあたりはご両親にも了解を取ってあるらしい。無論、僕の方では緊張しきりだったが、実際ご両親は親切な人だった。僕が勉強を教えている、という話は以前からしていたようで、娘が世話になっているなら挨拶させろ、という話だったらしい。

 

 一応、学校での会話のあと、受けた提案を一度家に持ち帰って父母にお伺いを立ててみることにした。金銭の発生する労働である以上、念のためといった確認だったが、結果は快諾だった。もともと塾に通う予定もなく、何事もなければ家で机に向かうだけで夏休みを食い尽くそうとしていた僕を、内心では心配していたらしい。

 僕としてもありがたい話だった。流石に九月まで四十日も籠っていては新学期に体が保たないし、それ以前に、友達からお誘いを受けたこと自体が初めてだったからだ。翌日、許可が下りた旨を話すと、井浦さんはたいそう喜んでくれた。

 

 それから改めて彼女の家に電話し、つっかえつっかえ一通りの挨拶を済ませて、諸々の準備の末、今に至る。昼休憩折り返しの時点で相当に堪える重労働ではあるが、汗を流すのが気持ちいいと感じたのは小学校以来かもしれない。

 

 

 

 

 昼食を終えると、今度は母屋から離れて蔵の整理をすることになった。中は時代も用途もてんでばらばらに雑然としていて、付喪神でもいそうな感じだった。ガラクタ同然の何かから、なにかの剥製やら、いつのものかもわからない鋤やら鍬やら、奥の方を見れば戦国時代の甲冑のようなものまで見える。ひとまず使えそうか否かで分けて、処分方法はあとで考えるという。ほとんどは見ても何か分からないような品ばかりだったが、中には見覚えのあるものもちらほら。

 

「あ、すいません、これって鞍ですかね。馬の鞍」

「そだよ。んで、これが鐙でしょ、あっちが腹帯、蹄鉄、手綱――」

「もしかして飼っていらしたんですか?」

「そうとも。というか、今も一頭飼っとるよ。⑤晩飯の前に乗ってみるかい?」

「いえあの、乗れ……ますかね……?」

「乗れる乗れる。馬のほうが慣れてるから」

 

 聞けば、馬搬、馬耕と呼ばれる耕法らしい。馬に慣れが必要なぶん手間はかかるが、慣れれば機械より効率的で、特に山中で活躍する。日本史では牛馬耕なる農業手法があると習ったが、まさか現存するとは思っていなかった。そも、標高八〇〇メートル近いこの山小屋で、お爺さんは自給自足とも云えそうな生活を送っていたという。無論、電気もガスも通っているし米や日用品は町で買ったというが、相当に手広く農業を行っていて、一部の野菜は地元のレストランにも卸していたとか。聞けば聞くほどパワフルな祖父君だ。

 

 そうこうして歓談交じりに作業は着々と進み、五時を回る頃には同じ蔵とは思えないほどに片付いた。竹箒とはたきで埃を払って、ようやく本日は仕事納めらしい。外に出て大きく伸びをすると、みな一様に背中がぱきぱきと音を立てた。それが可笑しくて、三人で大声出して笑った。日が沈むまでにはまだ間がありそうだった。

 

 

 

 

 それから夕食までの間、先の話通り馬に乗せてもらうことになった。厩舎は母屋の裏手からそう遠くないところにあって、井浦さんに案内してもらった。

 

 今飼っているのは一頭きり、木の下という名の、鹿毛の風合いが美しい雄の馬だった。数えで十五歳ほど、人間換算ならそろそろ還暦というところらしい。

 

「木の下って変わった名前だと思わない?競走馬なら所属とか血統とかでシンプルにつけちゃうことが多いらしいけど、お爺ちゃん由来は教えてくれなくてさ」

 

 手際よく馬具を準備しながら、何気ないふうで問われる。僕は木の下の背を恐る恐る撫でながら聞いていたが、ふと思い当たって声を上げた。

 

「んー、もしかしたら平家物語かも」

「へ?わかるの?」

「源頼政の嫡男の伊豆守仲綱が、鹿毛の名馬を持っていたって話があったはず。こないだの模試の古文で読んだんだ」

「あ、頼政って以仁王と一緒に挙兵した人だっけ!……えーと、それで、木の下って名前にどう繋がんの?」

「よく知ってたね……。確か、仲綱の馬の名前も木の下だったんだ。読み取れた限りでは、美しい“鹿毛”と木の下の“陰”の掛詞らしい。よほど忠実で優れた馬だと名高いから、権勢を誇った平宗盛が欲しがったとか」

 

 ただし、この話には続きがある。愛馬を手放すのを渋りつつも、仲綱は父頼政の諫言に従い、最終的には宗盛に木の下を引き渡してしまう。そして、自分の言うことに一度は背いた仲綱に腹を立てた宗盛は、譲り受けた馬を仲綱への当てつけのように虐げ辱めるのだ。こうした横暴と傲慢とが、頼政を平家打倒へと駆り立てる一因となったとも語られる。

 これは流石に言わずにおいた。楽しい話ではないし、井浦家がこの馬を手放すと決まったわけでもないのだ。声には出さず、悪い輩に引き取られるなよー、と内心で語りかける。馬は感情の機微に敏いというから、案外伝わっているかもしれない。一声力強く、木の下が眼下でぶるんと啼いた。

 

「それこそよく知ってたよね……。古典の掛詞の、そのまたリスペクトで付いた名前ってわけねー。お爺ちゃん、風流人で教養人だったんだ」

 

 ありがと、ずっと気になってたからすっきりしたよ。少し興奮気味の晴れやかな顔で、井浦さんが言った。このしたー、おまえ名馬なんだってさー!、と抱き着くと、馬も心なし嬉しそうだ。

 

 

 

 

 それを僕は、どんな顔で眺めただろうか。⑩

 

 これまで、僕にとって勉強は自己防衛の殻であって、潰れないため生きるための道具に過ぎなくて、ある種の呪いですらあった。楽しいとも、意味があるとも思えなかった。

 

 けれど。産廃みたいに思っていた知識が、誰かの笑顔を引き出した。なにげない、とても些細な出来事なのに、それが何故か、とてつもなく不可思議なことのように思われてならなかった。

 

 

 

 

 しばらく、井浦さんに横で先導してもらいながら、ぽくぽくと近くの林を歩いた。時刻はとうに夕刻だが、遮蔽物もない山肌の森林は割りに明るく、目に入る植生を時々解説してもらったりした。

 

「あ、ちょっと見て磐城、あれむかごだよ、むかご!」

「むかごって、山芋の?」

「そ!それも自然薯!たまにお爺ちゃんが送ってくれたんだけど、この辺りだったんだね」

 

 自然薯といえば言わずと知れた高級食材だ。たまに掘り当てる達人みたいのをテレビで見るけれど、あれはヤラセではなかったのか。

 

「確か、むかごも食べられるんだっけ」

「ん!けど、これはちょっと小さいかなー。むかごの旬は秋頃で、本体の旬は冬頃なんだ」

「本体……?」

「本体!なに、根茎って言ったらよかった!?あっちょ、笑うなぁっ!!」

 

 言い回しがなんとなくおかしくて笑うと、井浦さんはちょっと怒った顔で馬を引く手を放してしまった。途端に体勢が不安になって、しばらくおろおろしてしまう。そのざまをしばらく眺めてにやにやしてから、井浦さんが戻ってくる。ちょっとした腹いせだったらしい。普段は大人びた感じのする彼女に、意外な可愛げ⑨を発見してしまった。

 帰りは役割を交代して、僕が牽引をやらせてもらったが、たとい手を離したとて、井浦さんが慌てるとは思えなかった。

 

 

 

 

 

「あのさ、季節になったらまた掘りに来ない?自然薯」

 

 

 

 散歩もあらかた満喫して、厩舎に戻る帰り路、傍らの井浦さんが出し抜けに言った。

 

「遺品整理って言ったけどさ、全部処分しちゃうつもりはないんだ。先祖からの土地ってのもそうだけど、やっぱ想い出とかあるし。……だから、この山とか森も、残してもらえるよう頼むつもり」

 

 とうとうと続く言葉の先を、聞き漏らすまいと黙って傾聴する。

 

「今日、楽しかったんだよ。あたし兄弟も親戚もいなくてさ、お爺ちゃんがいなくなったら、こうやって山遊びするのも終わりかな、って思ってたんだけど、それでもさ。……今日、磐城と一緒に話したり、歩いたり、そういうの、楽しくて」

 

 茜色の逆光に隠れて、彼女の顔は見えない。ただ声だけは、これまで聴いたどの声よりも湿度を帯びていたように思う。それだけ、この場所が彼女にとって大切だったのだろう。これまでを知らなくても、今日の彼女を見ていれば推し量ることができた。

 

 

 

「来よう」

 

 

 

 応えたい、と思った。言葉は勝手に衝いて出てきた。

 

 

 

「君さえよかったら、何度だって来よう。夏でも秋でも冬でも来よう。馬に乗って、芋掘って、あの縁側でサイダー飲んで、またいくらでも話をしよう。お爺さんの話とか、君の話とか、もっと聞かせてほしい、から」

 

 

 転がるように話し終えると、数度大きな咳が出た。普段使わない喉を急に酷使したからか、やたらいがらっぽくて敵わない。まだ何か言おうと口を開けたまま四苦八苦していると、黙り込んでいた井浦さんが馬から降りて、僕の隣に立った。

 

「ありがと!またここ来て、芋掘ろう!約束!」

「……うん。約束だ」

 

 謳うように言う彼女の声に、もう涙の気配はなかった。一方の僕はといえば、いまだ喉のいがいがが治らず、風邪っ引きみたいな返事だ。ひどく、格好がつかない。

 

「ちょっと?また来るまでに体丈夫にしといてよー?」

「あはは……芋食べるまでは死ねないね……」

 

 さっきまで真面目な約束をしていたのが嘘みたいだ。これではあまりに締まらない。けど、これでいい、ような気がする。少なくとも、湿っぽいよりは、ずっと。

 

 そうそう、自然薯って生薬にもなるんだって。

 ああ、確か山薬とも呼ばれてたっけ。

 なんだ、知ってんじゃん!漢方としての効能は、胃腸虚弱や体力低下の改善ほか、要は滋養強壮――あっはは!ぴったりだ!

 そうだね、ぴったりだ。僕ら、薬を探しに山に入る①、と。

 なんか昔の人みたいじゃない?

 あはは、確かに。君のお爺さんも同じことをしてたのかもだ。

 あー、どうりで。やたらパワフルだった秘訣はそれだったんだ。

 がぜん、冬が来るのが楽しみになってきたね――――。

 

 くだらない軽口を叩きながら、馬を挟んで厩舎へ歩く。それだけの道程がとても長く楽しく感じられた。

 八月、山麓、夕涼み。見下ろせば谷、見上げれば空。草木まばらな森を抜ければ、どこまでも緑と茜が広がっている。それを何に例える必要もなかった。ただ、夕焼けがとても綺麗だった⑦。

 

 

 

 

 それから、それから。母屋に戻ると、時計の針はまだ六時半を回っていなかった。陽は地平線を待たずして山陰に沈んだけれど、暮れなずむ残り灯でも充分に辺りは明るくて、今日は長い一日だな、と思った。

 

 僕らが散歩している間にご両親が準備してくださったようで、夕食は流しそうめんだった。乾麺は僕の母の地元名産、お土産にと持たされたものだったが、それ以外は井浦家で用意していただいた。麺を流す台までも自家製のを引っ張り出してきたというから仰天した。僕も井浦さんも小さな子供みたいにはしゃいで、すごい勢いで流れ落ちる麺を奪い合ったけれど、瞬発力で僕に勝ちの目はなかった。

 ひとしきり食べて、少し眠くなり始めたあたりで、ようやく今日はお開きとなった。名残り惜しいけれど体がすごく重くて、これはそろそろ帰らなきゃと思い立った。

 

 帰り際、とりあえず帰宅時間を伝えようとスマートフォンを起動した。長いこと放置していた割に通知は二件で止まっていて、どちらも家族のグループトーク。母と父から。受信時刻は19時32分と37分、ついさっき。『帰り、何時頃?』『楽しんでるか』今から帰る旨、晩御飯にそうめんをいただいた旨を簡潔に入力して、送信する。楽しかったか?言うまでもない。帰ったら久々に話そうと思う。

 

 それから端末をリュックサックにしまおうとして、そういえば僕には友達がいなかったことに気付いた。ふと井浦さんのほうを見ると、悪戯っぽい顔でスマートフォンを取り出している。意図がわかって、再び通話アプリを開いて……さて、やり方がわからない。ちょっと貸して、と言われるがままだ。2、3回タップして追加方法を選択すると、端末を僕に返して、自分のを勢いよく振り始めた。わけがわからないままそれに倣うと、僕の画面には“はるか”とアカウントが表示された。たぶん、向こうにも“磐城啓”と表示されたはずだ。

 

 

 

 

 帰路は往路と同様、軽自動車で井浦さんに送っていただいた。この場合の井浦さんとは当然ながらお父君のことだ。後部座席に井浦さん――井浦遥さん――も乗りたがったが、片付けを手伝ってくれと母に頼まれて大人しく引き下がった。運転席と助手席でふたり、車内ではぽつぽつと、時折道案内を挟みながら今日の話やこれまでの話をした。

 

 あまり友達がいないこと。今年に入って井浦さんが話しかけてくれること。勉強を教えていること。彼女は呑み込みが早いこと。今日は楽しかったこと。だいたいは既にご存知だっただろうけれど、僕はそんなことを話した。それをうんうんと聞き受けながら、井浦さんも時々話した。お爺さんは農業で生計を立てていたが、ご自分は跡を継がず就職して町に住んでいること。今日はお爺さんの山小屋に家族で泊まること。遥さんが最近、勉強が楽しいと言っていたこと。一番の友達ができたとも。それを聞いた時が一番うれしかった。

 

 話しているうちに、家に着いた。

 

「ああ危ない、忘れるところだったよ、バイト代」

 

 家の前の路肩に停車して、井浦さんが僕に一枚の古封筒を差し出した。

 

「いえ、こんなによくしていただいた上にお金まで。あの、すみません、受け取れません」

「いいんだいいんだ、本当助かったよ。ちと細っこいが根性あるし、よく気が利くし。それに、遥があんなに楽しそうにしてるのは、ちょっと久しぶりに見た。だからまぁ、そっちのお礼も兼ねて、な。……というか、そのまんま持って帰ると家内に叱られちゃうんだな、僕が」

 

 困ったように井浦さんは頭をかいて言った。そう言われては受け取らないわけにもいかず、おっかなびっくり封筒を受け取る。その場で中身を改めるような無礼はしないが、手のひらの感触でわかった。新品のお札が一枚。恐縮した。

 

「それじゃあ、また遊びに来とくれ。山のほうでも、うちのほうでも」

「……はい!今日は、ありがとうございました!」

 

 一礼して車を降り、出たところでお辞儀して、玄関のドアを開ける前に振り返ってもう一礼。

 

 最後まで頭の上がらない僕に苦笑して、

 

「娘と仲良くしてやってくれね」

 

 井浦さんが言った。車が動き出すと同時に窓が閉まっていく。あの子、僕より親父に懐いててねぇ、と独り言のように聞こえた気がした。もう一度目礼。それは見えていたかどうか、軽自動車は夜道を引き返していく。見えなくなるまで見送ってから踵を返した。

 

 

 

 帰るなり風呂に入った。いつもより随分長湯して上がると、両親は今から夕食のようだった。時計を見ればまだ九時を回っていない。味噌汁だけお椀によそって食卓に着き、それからはしばらく今日の話をした。

 

 

 

 寝る前、一件のメッセージが届いていた。

 

 

 

『よろしくね、友達』

 

 

 

 返信を送るなり、画面をスリープさせるのも忘れて枕に突っ伏した。今日は本当に長い一日だった。

 

 

 

『こちらこそ、友達』

 

 

 

         ○

 

 

 

 次にあの山小屋を訪れたのは、それから二週間ばかり後だった。

 

 その間は普段通りの夏休みだ。がら空きの補講を受けた後は図書室に場所を移して自習する。時間が合えば相席して、時々分からないところを聞かれる。その頻度もあまり多くなくて、井浦さんは結構忙しいようだった。アルバイトか付き合いか、すわ先日の続きなら手伝おうかと持ち掛けてみようとも思ったが、家のことにあまり首を突っ込むものではないと思いとどまった。そも、先日からして僕が呼ばれたわけはいまいちわからない。友達になれた、と思い上がりこそすれ、僕は彼女のことをあまり知らなかった。

 

 友達、と一口に言っても、その響きの重さは人によって千差万別だ。たとえば1/1と1/100。僕にはただ一人しかいないからといって、同等の精神的リソースを求めるのはお門違いで筋違いだろう。

 

 そう、諦めていた部分があった。傷心未満の些末な疼き。呑み下して終わろうとしていたところ、再びの音沙汰。

 

『連絡空いてごめん!ちょっと見せたいものあって』

『空いてる日と時間を教えてください!』

 

 口語そのままの飾らないメッセージ。返信内容は考えるまでもない。他に誘う人などないのだから。 

 

『いつでも大丈夫です』

『じゃあ今からね!迎え行くから!』

『!?』

 

 驚きのあまり筆箱を机から落として周囲から顰蹙を買ったが、委細気にもならなかった。今から、って。それに、迎え?あれこれ考えつつ校門を抜けて指定された場所まで赴くと、答えは目の前に現れた。

 

 

 

 

「んじゃ、出発!」

「……あまり、期待はしないでほしいんだけど」

「しんどくなったら代わるからさ!ほら、頑張れ男の子!」

 

 返事代わりに、思い切り足を動かす。比例して、景色が勢いよく走り出した。風を切る感覚は馴染み深いのに、背中の違和感が半端ない。足の負担も二倍近い。

 

 井浦さんは自転車で来た。つまり、ここからは二人乗りだ。

 

 しんどくなったら代わる、とは言うが、それは避けたい事態だった。二人乗り自体ハードルが高いのに、女の子の背中に掴まって山道を漕がせるというのは流石に憚られるというか、男として人として何か致命的に不味い。何があってもこのハンドルは手放せない。そう誓った。

 

 

 結果として、一時間と経たないうちに着いてしまった。四輪では通れなかった近道があるようで、最初に来た時よりも明らかに短い道のりだ。曇り空で気温が上がりきらなったのも幸いした。とはいえ、その分急になった勾配の終盤は二人でひいこら自転車を押して歩くことになったのだが。頭よりも先に、長らく運動から遠ざかっていた僕の足腰が白旗を上げた。⑥

 

「ふー、お疲れ。酔ってない?」

「ぜぇ、大丈夫。はぁ。というか自転車って酔わないでしょ」

「そりゃ、ふつうはないけど。磐城は貧弱そうだからさー」

「いや、ひどくないかな!?」

 

 建てっぱなしのガレージに愛馬を押し込んで、振り返る彼女がからかってくる。流石に酔いはしないものの、息は絶え絶え、腰から下が悲鳴を上げている。大きく伸びをすると背筋の張りも自覚された。ほら元気出して、と軽くはたかれて、慌ててしゃんと背筋を伸ばす。会うたび遠慮がなくなってきた彼女だが、それを怖いとか苦手だとか思わない自分にふと気付いた。

 

 

 

「それで、見せたいものがあるって言ってたけど」

「言ったー。一服したらついてきて」

 

 一杯だけお茶をごちそうになって、それからそそくさと後をついて歩く。脇に厩舎が見えたが、中に馬の気配はなかった。水浴びでもしているのだろうか――疑問には思いつつも足を進める。すぐに、見慣れた景色に行き着いた。

 

「……蔵?」

「そ、蔵。近くば寄って目にも見よ!ってね」

 

 以前、整理中に馬具をみせてもらったあの蔵だ。中は変わらず薄暗くて、しかし埃臭さはない。随分綺麗に掃除されている――そこで、視界が急に明るくなった。次いで、耳をつんざく音、音。

 

「どうよこれ!あの後ね、土蔵をスタジオに改装してみたんだ!」

 

 長く忙しそうだったのは、ここを改装していたからだったようだ。天井には電球がついているし、全体的に見違えるほど清潔になっている。まだ使えそうなものも含めてあれだけ雑然としていたのに、一体どこにやったのか。

 

 得意げに案内してくれる井浦さんの手には年代物のギターが握られていた。僕にはメーカーも型も分からないが、やや大きめのボディを抱えるようにして持つ姿はなんとなく様になっていて、チューニングも手馴れている。

 

「……格好いいね」

 

 蔵の変容だとか、音楽やってたんだとか、そういう驚きを口にしようとして、出てきたのは小学生みたいな感想だった。気の利いた言葉なんて出てこない自分が少し恨めしい。けれど、

 

「あり、がと。嬉しい」

 

 返ってきた言葉に顔を上げて、これでいいのだと悟った。少し照れたような、それでいて誇らしげにも見える笑みがすべてを物語っていた。

 今日はこのために呼ばれたのだ。様変わりした蔵は前よりもずっと広くて、その中にギターひとつ、アンプひとつ、パイプ椅子ひとつ、少年と少女。ふたりだけのちっぽけなライブハウス。時間を置き去りにして伸び伸びと歌声が響く。どれも楽しそうに歌うから、つられて体を揺らしていた。聞いたことのない曲なのに、すぐに口ずさめるような懐かしい響き。懐かしい、という感覚がどこから来るのかはわからなくて、しかしそれも気にならないくらい心地好い時間だった。その時は本当に楽しくて、僕も彼女も笑っていた。⑩

 

 

 

 

 その時、までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――あたしさ、音楽が好きなわけじゃなかったんだと思う。

 

 気付けば夕刻だった。母屋に戻り、歌い疲れて休む彼女に、熱いお茶を淹れて戻る。蝉時雨はとうに止んでいた。雨でも降りそうな曇天を眺め、縁側に腰掛けていた井浦さんがゆらりと振り向いた。その表情には、さっきまでの楽しげな姿とは一転して、何かを決意したような悲壮さが滲んでいた。息を吹きかけ、お茶を少し冷ましてから呷るまでの束の間が、ひどく長く感じられた。

 

 それから、絞り出すような呟きがひとつ。重い言葉が僕の胸に沈み込む。

 

 きっかけもこの家だった、という。

 

「お爺ちゃんがね、時々ここで弾いてて。あたしもやりたい、って言ったら教えてくれて。小さいころからしょっちゅうここに通って、畑の手伝いの合間にギター触らせてもらって。下手くそでも無茶苦茶でも、何でも褒めてくれた。それが嬉しくって。褒めてもらいたくて、ずっと入り浸ってた。畑いじったり、馬に乗ったり、ギター弾いたり。別に、音楽じゃなくてもよかったんだ」

 

 とうとうと語る井浦さんの顔は穏やかなのに、どこか悲しげな翳りを含んでいて、僕は何を言っていいかわからず、ただじっと傍で聞いている。

 

「……父さんは、お爺ちゃんと仲が良くなかったんだ。それで、時々喧嘩はしてたんだけど、あたしの受験が終わった頃、噴火、しちゃって。二人とも、見たことない剣幕だった。それから、なんとなくここには来難くて」

 

 なんとなく、という言葉には、彼女なりの気遣いが含まれているのだと思う。彼女がお爺さんに会いに行けば、父親がいい顔をしないことは明らかで、けれど彼女はそれを父のせいにしないように、なんとなくという言葉を使う。

 

 ふと、車で送ってもらった時のことを思い出した。彼女の父の、『あの子、僕より親父に懐いててねぇ』と、少し悲しげに呟いて去っていった時の顔を。あれはきっと、彼なりの愚痴だったのだろう。娘と仲良くしてやってくれ、と僕に言ったその顔は他にも何か言いたげで、なんとなく、と我慢する娘とよく似ていた。

 

「で、それから会わずじまい。丸一年以上も空いて、次に見たのは棺桶の中だった。そんで、遺品整理って言ってもちょっとしんどくて。あたしたちだけだと何かの拍子に止まっちゃいそうで、だから無関係な磐城を連れてきたの」

「お葬式でさ、お爺ちゃんには借金があるんだって聞かされて。いつも元気で、あたしの前では最強だったお爺ちゃんはちょっと嘘つきだった。……多分さ、父さんはお金で苦労してたお爺ちゃんのこと見てたから、跡は継がずに就職したんだと思う。あたしにも、勉強しろって厳しく言ってた。それが嫌で、よく逃げ出して……。だからお爺ちゃんに懐くのを、あんまりよく思ってなかったんだと思う」

 

 ぽつぽつと吐露する内容はところどころ飛び飛びで、けれど言葉の端から止めどなく流れ出す感情が隙間を埋めるから、彼女の苦しんできた事情はおおむね理解できた。おそらく、空になった蔵の中身は、ほとんどは借金のかたになったのだろう。老いた賢馬も、どこかの牧場に渡ったのかもしれない。

 

 勉強して、進学して、普通の仕事に就いて、安定した暮らしを送る。父からはそう望まれ、けれどその期待が窮屈で、彼女は祖父に助けを求め、憧れた。ギターが好きなのではなく、認められたかっただけなのだ。そして、父親は尚更祖父を厭い、娘が音楽や畑作業に傾倒することを疎んだ。安定した道から逃避することを歓迎しなかった。④第三者である僕でさえ、その気持ちはわかるのだ。彼女もよく理解していて、だからこそ苦しんだ。

 

 そして、父親と祖父は決裂した。受験の終わった後、というからには、もしかすれば第一志望に落ちたのかもしれない。もともと僕らのいるクラスはそういう人ばかりだ。だとすればきっとその出来事が、ひびの入っていた関係に致命打を与えたのだ。

 井浦さんはきっと、祖父が亡くなってからは、明るく振舞いながらも内心途方に暮れていたはずだ。遺された想い出の残滓だけを、僕となぞりながら追憶していた。

 

 

「……ごめん。こんな、困らせるようなこと言うつもりじゃなくて、違くて。だから、ほんとは、音楽じゃなくて、聞いてもらうのが好きだったんだって。今日楽しかったねって、言って終わるつもりだったのに……。本当にごめん、幻滅したよね」

 

 嘘だ。と、思った。

 

 井浦さんは、もうほとんど泣いていた。いつもよりずっと低い声、早口。胸の裡に溜め込み続けた言葉が溢れ出したようだった。手の中の湯飲みが傍目にも震えているのがわかる。感情に堰をして、閉じ込めようとして、いま必死に闘っている。

 

 けれど、その蓋を閉じきってはいけないように思うのだ。それを閉じたら、封じ込んだまま慣れてしまったら。それはきっと、呪いになる。誰かに怒ることをやめて、殻の中で自分だけを責める、無間地獄の呪い。彼女には、そうなってほしくはない。強く思う。だから、言わなければいけないのだ。全て吐き出してしまわなければ。

 

 それならば。僕は聞き届けなければならない。彼女の悲しみを、孤独を、やりきれない怒りを。行き場をなくした思いが自縄自縛の鎖へと変わる前に、全部受け止めて、引き受けて、その痛みに寄り添わなければ。何故、どうしてそこまで、決まっている、だって、

 

 

 

 

 君が、呪いを解いてくれたのだから。⑧

 

 

 

 

 一番であること、僕から生まれた自縄自縛、ヒトが怖くて、否定されるのが怖くて、勉強で一番になれば逃れられると妄信して、ただただ独りで己を呪い続けていた。その殻を砕いてくれたのは、他でもない君だった。君だけが僕の友達でいてくれた。自分を閉じ込める殻でしかなかった灰色の知識でさえ、君は笑って耳を傾けてくれた。一番であること、それだけに縋って生きてきた僕に、自然体で立っていられる居場所をくれた。その時点ですでに、呪いは解けていたんだ。

 

 ──だから。

 

「言えよ」

 

「え」

 

「言いたいこと全部言えよ!!音楽なんか嫌いだって!承認欲求の捌け口だって!僕のこと利用してたって言ってくれよ!分かるよそんくらい!!元いじめられっ子の疑心暗鬼なめてんじゃねぇよ!」

 

「え、え、」

 

「親の思い通りに子が育ってたまるかって!バレるような嘘なんかつきやがって爺さんのバカって!どいつもこいつも情けねえ了見してんじゃねえって!!言えよ!!!!」

 

 ──だから。たとえ嫌われたって、怒られたって、傷つけたって、傷ついたって構わない。泣き寝入りなんか赦すものか。君には、僕を救ってくれた君には、怒る権利があるはずなんだ。

 

 

 

 

「………………………………せぇよ」

 

 

「うるっせえよ!!!あんたが父さんやお爺ちゃんのこと語んな!!!!」

 

 

 八月、夕闇、俄雨。薄暗い雨の窓辺に立ち込めた沈黙が、裂ける。

 

 

「嫌いになんかなれるかよ、そんな簡単に割り切れないよ!!父さんの言うことは正しかった、お爺ちゃんは優しかった!!誰も、誰も悪くなんかないって知ってるよ!!どうしたらよかったんだよ!!!」

 

 

 

 

 雨滴と涙に顔を濡らしながら、井浦さんは僕の眼前に雷を落とした。⓪大声で怒鳴る、という意味の慣用句だが、まさしく僕にとって、今の彼女は雷だったのだ。

 

 空気そのものの抵抗に耐え、熱を伴い、暗闇を裂いて瞬くひかり。渦巻く雨空を切り裂いて叫ぶその姿が、霞がかっていたかつての記憶と重なる。背丈も、声も、性別すら違うのに②、どうしようもないほど重なるのだ。

 

 思い出した。あの日彼が──いいや、彼女が歌った歌も、こうだった。⓪

 

 ただただ自分の弱さを憎んで、強くなりたいと叫ぶ唄。誰も彼も悪くなくて、自分を責めるほかない唄。あの時と同じ青臭さ。あの時と同じ孤独。燃え尽きそうなほどの熱。僕の胸の底で燻り続けた熾火と同質の苦悩。

 

 

 ──どうしたら、よかったんだろうねぇ。

 

 ──わかんないよ。ずっと悩んできたんだけどさ。

 

 一人で悩めど答えは出ない。言葉を交わせど尚わからない。もしかすれば一生わからないままかもしれない。それでも、せめてこれからは。

 

「一緒に考えようよ」

 

 雷雨の後には晴れ間が覗く。僕がそうであったように、君もそうであればいい。弱い僕にできることなどあまり多くはないけれど、せめて。側で聞き続けることくらいは。

 

 二人、時を忘れて話し続けるうち、俄雨は止んでいた。どちらからともなく見上げた空にはやはり、綺麗な夕空が広がっていた。

 

 

 

                了




◆◆ 問題文 ◆◆

暗がりで静かに佇む男。
その目の前で雷が落ちたことで、男は忘れていた歌を思い出した。

一体どういうこと?

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要素一覧
①薬を探しに森にやって来ます
②性別を間違えます
③いちばん、は重要です
④歓迎されませんでした
⑤馬が出てきます
⑥白旗をあげます
⑦夕日は綺麗です
⑧呪いは解けます
⑨意外と可愛いです
⑩その時は笑顔でした


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