藤原千花は愛されたい〜天然彼女の恋愛無脳戦〜 作:なでしこ
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「藤井くん。グラウンドにはお父様が居るので、こっちでお話しましょう」
「えっ、別に気にしないのに」
「駄目なんです。こっちです」
石上優、伊井野ミコと別れた藤井は、藤原千花に手を引かれていた。先日の桜川高校体育祭の時とは正反対。周りの生徒の視線を気にすることもなく、彼女は彼の手首を優しく掴んでいた。
行き先は、秀知院学園の校舎。藤井が生きていく上で間違いなく足を踏み入れることが無かった場所。流石に畏多くなったのか。腰が引けている。しかし、千花はお構いなし。グイグイと手を引く。
「だ、大丈夫? 通報されたりしない?」
「しません! 多分」
「すっごい不安なんだけど」
「あはは。大丈夫ですよ」
根拠のない自信。頼りなくも、何かあったら彼女を頼るしかない。学校内での立場を知らない藤井にとって、それはまさに綱渡り。誰にも見つからないことだけを願って校舎内を歩く。手を引かれたまま。
階段を上がっていき、やがて最上階。目の前には屋上に繋がる扉。そこでようやく、彼女は藤井の手を離した。
「この間のお礼です。屋上でお話しましょう」
「別に屋上じゃなくても」
「せっかく案内してくれたんです。秀知院学園を知ってもらうためにはこれが一番ですよ」
「特に知る必要は無いんだけども」
千花の言い分も分からないことはない。桜川高校では自身を屋上に連れて来てくれた。そのお返しに、今度は秀知院学園で。人によっては納得する理由になり得る。藤井にはピンと来なかったが。
彼女はそのままドアノブを回す。が、開かない。
もう一度回す。やっぱり開かない。
見かねた藤井がドアノブに手を掛ける。どうしても開かない。
「ねぇ、鍵閉まってるよ」
「そうでした。あはは……」
秀知院学園では、基本的に許可が必要。何をするにしてもだ。
当然、屋上を使用する場合も届け出を出して承認されなければ、そこに繋がる鍵をもらうことは出来ないのだ。千花はそのことを完全に失念していた。
生徒会の人間でありながら、である。
確かに普段から抜けているところが多い彼女。しかし、こういったことは割としっかりするタイプでもある。しっかりと根回しは出来る女。流石は政治家の娘。そんな彼女がだ。
「どうしよう……」
「ここでいいんじゃない? 涼しいし」
藤井としても、何がなんでも屋上に行きたいわけでもない。幸い、ここはひんやりとしていて屋上よりも過ごしやすいのは確か。階段に腰掛けて話すことだって出来る。景色は無いに等しいが。
体操着の千花。制服だったら抵抗感もあるが、汚れてもいい体操着のおかげで、素直に階段に腰掛けた。ひんやりと伝わる冷気。暑く熱を持った肌を冷ましてくれる。
体育祭を観に来たはずの藤井だったが、思わぬ形だ。彼のイメージではグラウンドを駆け回る彼女を応援し、白銀やかぐやの活躍を見る。そのつもりで来ていただけに、この展開は明らかに想定外。
それに、昼休みもそろそろ終わりを迎える。こんなところで油を売っている暇はないはずなのだ。
隣に腰掛けた千花をチラリと見る。髪を後ろに纏めてポニーテール。普段は見えない彼女のうなじが綺麗に見えて、彼の心を刺激した。
「アイス、いただきますね」
「あ、あぁ。どうぞ」
思いの外、千花は冷静だった。
二人きりになるのは、約束をしたあの日以来。もう抵抗感は無い。あるのは安堵する気持ちだけ。胸の奥が暖かくなる感情。
彼がくれたのは、安いソフトクリーム。正確には、ソフトクリーム風のアイスクリーム。程よく溶けて柔らかくなっている。舌先に広がる甘味。火照った体には十分すぎるほど染み渡っていく。
あぁ、甘い。美味しい。少し疲労感の見える千花。糖分を摂取したことで、頭が少しだけ冴えていく感覚を覚えた。
「もうすぐ午後の部、始まるんじゃない?」
「はい。ですけど、大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃない気がするんだけど」
「すぐ出る競技はありませんから」
思いの外、藤井も冷静だった。
彼女の発言が本当かどうかは分からない。だが、今はそれを疑うだけの材料は無い。その言葉を信じるしかなかった。
ただ、一つだけの疑問。彼女がわざわざここに連れて来たこと。それだけはどう考えても納得出来なかった。千花は「お返しに」なんて言うが、話すだけならそれこそグラウンドで良い。こうして二人きりになる理由なんかは無いのだから。
程なくして、思考が引っかかる。
二人きりになる理由があったとしたら。人気の無い場所で。
体温が上がっていくのが藤井自身にも分かった。これは何か深い意味があるのではないか、と。彼も決して鈍くはない。そう考えた方が色々と合点がいった。
(や、やばい……意識して……)
体が熱を帯びて、顔から火が吹き出しそうな。藤井太郎。生まれて初めての感情に苛まれた。先ほどよりも千花の存在感を感じるようになり、彼女の甘い香りが頭に突き刺さる。
これまでは何となく接してきた藤原千花という女。アイスを丁寧に舐める彼女のその仕草すら、今の彼には刺激的に映る。
この静けさが駄目なんだ。何か話せばいい――――。思考はそう言えど、行動に移すとなれば話は別。喉の奥が閉まって、声を発することを許さない。
かと言って、彼女のことを見ることも出来ない。となれば、藤井はただ、下に広がる階段を眺めるしかないのだ。
「藤井くんはアイス食べないんですか?」
静寂を切り裂く言の葉。深い意味のないそれは、今の藤井にとっては心から安心できるモノだった。閉まった喉をこじ開けるように、一度咳払いして口を開いた。
「さっき
「あ、それで」
「まぁいいんだよ。そもそもみんなにあげようと思ってたし」
伊井野ミコに出会わなければ一つ余るはずだった。だが、あの場を切り抜けるための咄嗟の判断。代償は大きくもないが、今こうして考えると小さくもない。複雑な感情。
それでも、藤井は自分の判断は間違っていなかったと自負する。渡したあの時の彼女は、ほんのわずかに口元が緩んだ。誤解が解けたかどうかは今の彼は知る由もないが、決して無駄じゃないことだけは理解できた。
とは言うものの、手持ち無沙汰感は否めない。校内でスマートフォンをいじるのは気が引けたし、かと言って千花に振るような良い話題も無いのが現実。
藤原千花は、一人考えていた。
彼の言う通り、グラウンドでも十分なのは彼女自身も理解している。だが、あの場所だと駄目なのだ。二人きりで話さないと駄目なのだ。
何故。桜川高校の屋上に連れて行ってくれたから、そのお返し。頭の中に居座る理由。
だが、本当にそれだけ? 頭の中でもう一人の彼女が問いただしてくる。脳内の藤原千花はうろたえた。それ以外に理由は無いのだから、反論の仕様が無いのだ。
アイスクリームを一口。バニラ味。牛乳感の全くない味だ。普段から良いものを口にしている彼女にとって、それは俗物。普段なら絶対に食べないようなモノ。
それでも、藤井太郎が買ってきてくれたというだけで、どんな甘味よりも甘く蕩けてしまいそうな。冷たいアイスだというのに、冷えかけていた体が熱を帯びていく。不思議な感覚だった。
「何か喋ってくださいよ」
「えっ、い、いきなりそんな」
「いいじゃないですかぁ」
誰もが口を閉ざす場面で、口を開くのが藤原千花という人間。そうやって白銀やかぐやのことを振り回してきた。
それなのに、この瞬間だけ。この時だけは、彼に話して欲しかった。藤井の声が聞きたかった。静かな空間と彼の低い声。それが妙にマッチしていて、鼓動が高鳴る。
――――意識してるんじゃない?
千花の脳内に響く。深層心理の声が顔を出す。
たった一言。それ以外何も聞こえない。
それなのに。
それなのに、声を聞くだけで胸が高鳴るというのは、そういうことだ。そう言われているようで、彼女は咄嗟に彼から目を背けた。
藤井のことは、そんな目で見ていない。それは紛れもない事実。第一、ルックスが彼女の好みではなかった。だから――――。
(――――あれ、あれ)
だから、違う。と、言い切れなかった。
彼女の中で、それは大きな誤算。アイスクリームのコーンを掴む手に、わずかに熱が込められる。それだとすぐに溶けてしまうのに、お構いなしで、熱い。熱くて溶けてしまう。
ここで言い切ってしまえば、彼は何と思うだろう。
何も思わないだろうか。そんなことを考えてもいないだろうか。聞いたら教えてくれるだろうか。深く考えすぎ、だろうか。
止め処なく溢れる疑問。千花は、どうすればいいのか分からなかった。このまま時が過ぎるのを待つだけ。彼が何か言い出すのを待つだけ。それだけで、今は良かった。
「……藤井、くん」
「な、なに?」
「アイス、一口いかがですか」
俯いたまま、彼女は食べかけのソレを差し出した。
あまりにも突然の行動。藤井は、当たり前のようにうろたえた。藤原千花の食べかけに口を付ける。それがどういうことか、恋愛経験の無い彼でも分かること。
「私、そういうことは気にしないので……」
「そ、そっか。ありがと……」
事実
彼女は白銀の使った箸で弁当を食べた経験もある。異性だろうが同性だろうが、間接キスというものに特別な意識は無かった。
ところが、彼がそれを受け取ると感じたことのない気持ちが彼女を襲う。鼓動が高鳴って高鳴って止まらない。
自分の行動に緊張していた。そして激しい後悔。男にも簡単に気を許してしまう、ただの軽い女に見えなくもない行為。千花は深くうなだれる。
藤井は、彼女の様子がおかしいことに気付かないはずもなかった。先ほどから俯いているだけで、いきなりアイスを差し出す。彼からすれば不可解な行動。だが、これまでの千花のことを思い返せば、あり得なくもない行為である。
だが「じゃあ食べます」となるかと言われれば違う。彼の中で抵抗感が拭えなかった。無論、嫌というわけではない。彼女に気を遣って。当の本人が「気にしない」と言っているのだから、そこまで深く考える必要も無い。それが出来ないのが、藤井太郎である。
「……食べた。牛乳の味がしてオイシイネ」
そこで彼は、嘘をついた。
千花が俯いているのをいい事に、優しい嘘。ところが、そういうところには勘の鋭いのが藤原千花。彼の抑揚のない発言を聞くと、ひょこっと顔を上げて藤井の目を見つめる。
「そのアイス、牛乳の味しませんでしたよ」
「えっ」
「本当に食べましたか」
「……」
「どうなんですか」
「……食べてません」
藤井なりの厚意なのだが、それは千花の厚意を踏みにじった。噛み合っているようで噛み合っていない二人の優しさ。互いに歯痒さを感じていた。
千花の視線が藤井の目に刺さる。「食べろ」という無言の圧力。女子と同じモノを口にしたことがない彼にとって、それはあまりにもハードルが高い。
「ほ、本当にいいの?」
「藤井くんが食べないのはかわいそうですから」
嘘と本心が混ざりならない言葉。どちらかといえば嘘の味が濃く滲む。買ってきてくれた張本人が食べないことに、申し訳なさを感じたのは事実である。しかし、それだけじゃない何か。彼女の脳内にまたあの存在感。振り払うように、千花は藤井を促した。
見つめられれば、彼としても逃れようがない。意を決して、アイスクリームに口をつけた。
「間接キス、ですね」
気にしないと言った人間がだ。見事なまでの掌返し。
それを信じた藤井が勇気を振り絞ったというのに、藤原千花は意地悪をするように笑う。
反対に、藤井太郎。それはもう分かりやすく混乱していて。吐き出す勢いで、すぐに口を離してしまう。名残惜しさなんてものは全く無かった。
「慌てすぎですよぉ」
「だ、だって気にしないって……」
「私は気にしてませんよ? あはは。藤井くんは気にしちゃったんですね」
自分を誤魔化すように、彼女はそうやってマウントを取る。藤井のことをからかっているわけではない。ただ自分が自分で無くなりそうだったから、そのために彼を利用したのだ。その原因が藤井にあると分かっておきながら。
「――――るよ」
「はい?」
「気にするに決まってるよ。俺だって、男なんだよ」
慣れないことをするから、こうなるのだ。
千花は、それを痛感してしまった。正直に、真っ直ぐな言葉。今日、初めて彼と目が合ったような気がした。
そして、自分の行動を後悔する。こんなことをしなければ、彼の
一人の男友達として認識していた彼もまた、思春期の男なんだと。考えれば考えるほど、胸の高鳴りが止まらない。
――――やっぱり意識してるんじゃない。
二度目。脳内に響く声。今度は断言する声。
「してないよ」と言い切れる材料が無い。むしろ、それを肯定する材料ばかりで。頭に血が上っていく。
藤井から目を背け、再び俯く。もうアイスを食べる気力が無くなってしまったようで。
「残りも食べてください……」
「う、うん……」
本来の目的から随分かけ離れてしまったが、それを問い詰める元気は藤井に残っていなかった。
一山越えたような疲労感が二人を襲った。
この戦闘、およそ五分。にしては、長すぎる戦いであった。結果としては、引き分け。昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に鳴り響いた。それは二人の時間の終わりを意味する。
「美味しいですか」
「……うん。ムカつくほど甘いよ」
「……やっと食べてくれましたね。嬉しいです」
ムカつくほど甘い。彼の感想は、まるで自分と同じ。
千花は頬が緩んだ。俯いているせいで、藤井から顔は見えない。でも、今は見えないで良かった。こんなみっともない顔は、彼に見せられない。
青春の針は、少しずつ、着実に、動いている。
はよ付き合え