藤原千花は愛されたい〜天然彼女の恋愛無脳戦〜   作:なでしこ

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 忘れた頃にやってくる。




後日談
くちびるバレンタイン


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藤井太郎と藤原千花の交際が始まって、二ヶ月が経とうとしていた。

 季節は二月。冬真っ只中の街並み。人々は両手をポケットに突っ込んで、体を縮こまらせている。

 そしてこの日は、一年に一度のバレンタイン。放課後の街並みには高校生のカップルも多い。男が待ちわびたイベント。男子校通いの藤井にとっては関係の無いイベントだと自覚していたのに。

 今年は違う。生まれて初めて、この盛大なイベントを堪能できる。その興奮だけで、藤井は浮き足立つ。すれ違うカップルたちの甘い香りが体を包み、まるで異世界に飛ばされるような軽さを感じる。

 

 この日、学校を終えた藤井は普段足を運ぶことのない場所にやってきた。

 デートスポットとしても有名な海が見える公園。家から少し離れていることもあり、来る機会は無かった。

 夕焼けに染まるソレを眺めながら、白い息を吐き出す。一人でベンチに座り、寒風を浴びる。なのに体は熱い。紺色の手袋に息を吹きかけて、自らの体温を感じる。

 

「――――太郎くんっ」

 

 甘い声が藤井の耳を刺激する。藤原千花は優しく彼の名を呼んだ。

 藤井の体が痺れる。甘い毒が体に回ったようで、今日は一段と彼女が美しく見えていた。少しホッとしたような表情を見せる彼に、千花は微笑んで問いかける。

 

「待ちましたか?」

「大丈夫。さっき来たばかり」

「そうですか。良かった」

 

 こんな真冬に海が近い公園。タイミング的には決して良いとは言えない。だが二人とも、不思議とこの場から離れたいとも思わなかったのだ。

 バレンタインデーだからこそ、普段とは違う場所でデートをしたい。そんな千花のわがままを、彼はすんなりと受け入れた。

 

「千花ちゃんも意外と早かったね」

「あはは。それはもう。チャチャっとお仕事終わらせましたから」

 

 好きな人に会える喜びは、千花の心をくすぐる。一週間前からソワソワとした心を落ち着かせながら、この日の生徒会作業をこなした。

 彼女から見ても、自身の意外な一面だった。普段から真面目にとは言い難い生徒会室での態度。ところが、藤井と付き合い始めてから妙におしとやかな雰囲気を纏うようになっていた。

 白銀やかぐやから見ても、それは分かりやすい変化である。頭のネジが外れた発言が多かった千花の変わり様は背中が痒くなるようなもどかしさを与えている。

 

 制服姿の千花を見ることにも慣れて、藤井もようやく彼女の顔をゆっくり眺める余裕が出来ていた。自身には不釣り合いなほど整った顔立ち。勿体ないなんて思いながら、藤原千花を独り占め出来る優越感はまさに格別だった。

 

「千花ちゃん寒くない? 大丈夫?」

「しっかり着込んできたので大丈夫です。太郎くんは寒くないですか?」

「うん。大丈夫」

「えへへ。良かったです」

 

 何より、藤原千花はよく笑うようになった。

 これまで笑っていなかったわけではない。これまで以上に、と言った方がしっくりくる。

 穏やかで、優しくて、心が緩むような。本当に心の底から幸せそうな笑みを見せる。

 彼と心から繋がっている幸福感。自分だけを見つめてくれる愛し人。藤井太郎のことが愛おしくて愛おしくて、千花の生活は彼と出会って一変した。

 

 通う学校は違うが、一週間に三回ほど会う時間を作っている。外でデートしたり、ラーメン天龍で駄弁ったり。毎日会いたい気持ちはあるものの、千花の家の事情を考えるとそういうわけにはいかなかった。

 しかし。少しずつ変わりつつある彼女の姿に、藤原家の人間が気づかないはずもないのだが。今の千花はそれを悟ることが出来ないほど藤井に夢中になっていた。

 そんな二人が普段にも増して気合を入れているこの日こそ。恋人たちの一大イベント、バレンタインデーなのである。

 

「はい、太郎くん」

「チョコ?」

「そうです。一応手作りなんですよ?」

「千花ちゃんがくれるなら何でも嬉しいよ」

 

 自身の恋人からバレンタインチョコを貰う機会なんて無かった藤井。そんな彼にとって、手作りかそうでないかなんてのは問題でも何でもない。

 彼女が自身のために用意してくれた、というだけで心が浮つくのである。誰かから想いを寄せられる幸福感。藤井は分かりやすく頬を緩ませ、綺麗な包装紙に包まれたソレを見つめる。

 

「お家に帰ってから食べてください」

「うん。ありがと」

 

 一個ぐらい食べたい、なんて言葉を藤井は飲み込んだ。食べたい気持ちには嘘偽りない。しかし、このままにしておきたい気持ちも少なからずあった。記念にずっと残しておきたいなんて感情。

 

「(家に帰って、心の準備をしてから……)」

 

 藤井はそう言い聞かせて、チョコを可愛らしい紙袋にしまった。

 定期的に吹き付ける海風が、二人の身体に直撃する。数分前に比べて、ようやく冷気を体感できるようになっていた。

 二人。ベンチに座ったまま暗くなりかけている海を見つめる。寒さを感じるようになった恋人同士。何も言わずとも、互いに右手と左手を交わらせる。

 手袋越しではあるが、確かにある想い人の体温。付き合って二ヶ月。何処へ行くにも手を握り合った二人にとって、その行為から恥じらいは消え去っていた。

 それでも、ドキドキしないわけじゃない。千花の細い指。藤井のゴツゴツした指。正反対なのがかえって互いの存在を確かめるには最適なのだ。混じり合い、想いが溶け合うその瞬間。二人は相手への好意を再認識することになる。

 

 だが、交際を初めてもう二ヶ月。それだけだと、互いにもどかしさを感じるようになっていたのだ。

 

「(千花ちゃんと)」

「(太郎くんと)」

 

 そう。本音を言えば、この二人。

 バレンタインデーというのは、あくまでもイベントの一つ。今日の最終目的はチョコをあげる、受け取ることではない。

 

 ただ。ただただ純粋に。口づけを交わしたいだけなのである。

 いやらしい意味にも聞こえるソレだが、思春期の二人にとってそれは至極真っ当な思考なのだ。この二人に限った話ではない。それだというのに、恋愛経験ゼロの彼ら。そうするためには何をすれば良いのか分かるはずもなかった。

 

 互いに無言のまま、海を眺める。二人は心の中で戦略を練っていた。この状況から、いかに相手からその言葉を引き出すか。いや、言葉じゃなくてもいい。そんな雰囲気になってしまえば、後は流されるだけでいいのだ。

 

「……もう二ヶ月だね。あっという間だ」

 

 先に動いたのは藤井。

 自然に、付き合った期間を千花に意識させる。彼の言葉でクリスマスから今日までの二ヶ月が、彼女の頭の中でぐるぐると巡る。

 まだ二ヶ月。でも、二人にとってのたった二ヶ月は、これまで生きてきた中で初めて経験する時間だった。

 

「そう、ですね」

 

 藤井の手を握っていた千花の手。少しだけ力が込められる。藤井にも分かりやすく。何を思ってそうしたのだろう。藤井は考えるだけ考えて、やがて何も言わずに固唾を呑んだ。

 今の自分は、彼女への好意に背を向けていた時の自分。嘘をついていた頃の自分と何も変わっていない。心の中を覆っていくマイナスの感情。つい、彼の手にも力が込められた。

 

「太郎くん?」

 

 少しだけ心配する彼女の声。ハッとして意識を目の前に戻す。

 千花は藤井の顔を覗き込んでいる。思わず目が合い、苦笑いするしかない彼を見て、彼女もまた苦笑いをした。

 

 藤原千花は、少し強引なのがお好き。

 チューして欲しい彼女は顎に手をやられて、そのまま瞼を閉じてしまいたい。でも、それがただの妄想に過ぎないことは、千花自身よくわかっていた。

 藤井太郎はそういった事をするタイプではない。常に千花のことを最優先に考えるがあまり、強引に、無理やりに、なんてことはしない。

 これまでの彼女なら、彼のそんな性格に物足りなさを感じていたはずだ。ただ、今は不思議な感情に覆われた。

 それも彼の優しさだと、受け入れることが出来たから。海に視線を逃す藤井。強引さの欠片も無いその行動。でも、それでも。藤原千花は嬉しいとすら感じてしまう。

 

 藤原千花は、少し強引なのがお好き。藤井太郎はそのことを知っている。

 だからこそ、頭をよぎる。自然な流れを装って、彼女にチューすることを。藤井にとって、それはあまりにもハードルが高い。でも、藤原千花は自身の恋人なのだ。多少のオイタは許してくれる……と自身に言い聞かせる。

 冷たい風が吹く。海がうっすらと波を立てる。真冬。バレンタインとは言え、この公園に長居するカップルは藤井たちぐらいだった。このまま黙っていると千花が風邪を引く。でも、ここで動いてしまえばまた機会を失ってしまうかもしれない。

 

「暖かいです」

「えっ?」

「太郎くんが隣に居るだけで、あったかいです」

 

 藤井は、思わず千花の顔を見た。自身の抱いていた感情と正反対の言葉が彼女の口から出てきたからだ。千花も、彼の顔を見上げていた。

 目が合った。少しだけ驚いた彼の顔が可愛くて、彼女は思わず口元が緩む。一方の藤井。みっともない表情をしていたことを後悔する。

 

「千花……ちゃん」

 

 大きくて綺麗な瞳に、吸い込まれそうになる。

 こんなに可愛くて、美しい子が自身の恋人だなんて。藤井は今でも信じられないのが本音だった。

 

「………」

「………」

 

 それ以上の言葉は出てこない。したがって、自然と見つめ合う形になる。

 息が詰まる感覚。千花の髪から香る甘くて刺激的な匂い。藤井は今日二度目の固唾を呑んだ。喉仏が分かりやすく動く。千花の視界にもそれはしっかりと映り込んだ。

 

「(太郎……くん)」

 

 あぁ、このまま。このまま。あと数十センチ顔を近づけてしまえば、唇が重なり合う。それなのに、まるで時間が止まっているかのように二人は動かなかった。動けなかった。

 好きな人と口づけを交わすことは幸せなこと。千花の頭の中にあるその考え方は間違っていない。なのに、いざ自分がその立場に置かれると、少しだけ恐怖の感情が生まれる。

 怖くなんかない。怖くなんか、ない。言い聞かせても、胸に残る違和感。それは嘘の味。目を背けたくなるそれと、千花は向き合わざるを得なかった。

 

「ふぇっ」

 

 優しい圧力のせいで、彼女は少し間抜けな声を漏らした。

 何が起きたのか分からなかった千花だったが、その理由はすぐに分かる。藤井が自身の頭に右手を乗せていたのである。

 

「た、太郎くん……」

「ごめん。でも、なんかこうしたくて」

 

 やがて、優しく優しく千花の頭を撫でる。綺麗な髪の毛。藤井にとっても、女の子の頭を撫でたのはこれが初めて。自身の毛質とは正反対の綺麗で滑りの良い感触。壊れないように丁寧に、藤井は手を滑らせる。

 藤原千花の僅かな揺らぎ。恐怖心。その根底にある原因が何なのか藤井には分からなかった。でも、何かに怯えているような雰囲気は分かる。咄嗟の行動ではあったが、この場では最善の行動であった。

 

 こうやって頭を撫でられたのはいつぶりだろう。千花は考える。記憶の糸を手繰り寄せても、途切れ途切れになっていて、正確な日時は思い出せそうにもない。

 それ以上に、藤井の右手から彼の優しさが自身の中に流れ込んでくる。その幸福感に浸っていた。

 何も怯えることなんてない。好きな人と口づけを交わすことで、自身は一つ、()()()の階段を登ることになる。未知の世界に飛び込んでいくことになるのだ。

 それは怯えることは、何も不思議なことではない。二人の関係が大きく動くことになる。いよいよ、恋人として、これまで以上に愛を育むその一歩を踏み出す。

 藤井太郎は、自身を見放したりしない。優しくて、真っ直ぐ見つめてくれる彼なのだ。そんな一面に彼女は惹かれたのだから。

 

「千花ちゃん」

 

 撫でるのを止め、再び顔を合わせる。

 見上げる千花の表情からは、僅かな怯えは消えていた。先ほどよりも、少しだけ互いの顔の距離は縮まっている。

 藤原千花に惚れ、彼女を守ると決めた青年の想い。高校生に出来ることは限られるが、高校生の彼だから出来ることだってある。

 

 それは、至極単純なことで。

 

 誰も見ていないから。だから。そんなことを言って、誤魔化そうか。藤井は考えて、やっぱり駄目だと心の中で苦笑いする。

 藤原千花のことが、大好きだから。それだけでいいじゃないか。それ以上に何がある。彼女とキッスがしたい理由に。

 繋いでいた手を離して、藤井は千花としっかりと向き合った。ゆっくりと、ゆっくりと。顔を近づけて。

 

「あ………」

 

 心臓が高鳴って、痛い。告白された時よりも、激しく脈打っていて。まるで殴られているような感覚に陥った。

 でも、これは恐怖なんかじゃない。藤井太郎のことが好きだから。トキメキとドキドキ。千花もまた、ゆっくりと、ゆっくりと。瞼を閉じた。

 やがて、影が重なり、この日一番の寒風が吹く。

 空はすっかり闇に覆われていて、近くの電灯が灯りを灯す。二人だけの世界で、藤井太郎と藤原千花はただ互いの唇を感じている。

 恋の味。今まで味わったことがない不思議な味。でも、何度でも味わいたくなる。ものの四秒。たったそれだけ。永遠にも感じられた時間は、あっけなく終わりを迎えた。

 

「……た、太郎くん」

「あはは……あー恥ずかし……」

 

 でも、それで良かった。二人にとって。

 これから先も、まどろっこしい言い訳を並べるかもしれない。でも、結局は相手のことを真っ先に考えている。

 つまり、形なんてどうでも良いのだ。自分の思い描く形でなくても、受け入れる優しさ、余裕が藤井には備わっている。

 恋愛において、どちらかが妥協する必要があるケースは必ず出てくる。それを、藤井は苦にしないのだ。

 加えて、千花もまた藤井を受け入れようと変わろうとしている。それだけ互いに惹かれあっていた。

 

 好きな相手が目の前に居てくれるだけで、幸せなのだ。

 ただ、探り探りの恋愛模様であることには変わりない。それでも、二人は着実に。

 

「………チョコ、美味しいですから」

「すごい自信だね」

「それはもう。だって、愛情たっぷりですから」

「あはは。そりゃ美味しいに決まってるよ」

 

 この青春を、ただひたすらに。

 

 

 





 
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