藤原千花は愛されたい〜天然彼女の恋愛無脳戦〜 作:なでしこ
単行本二十巻が発売された頃にやってくる。
十四時になる少し前。藤井太郎は、ひどい吐き気を催していた。
少し早い「五月病」かと疑うような怠さ。発熱をしているわけではないが、体温が非常に高いような錯覚に陥っていた。
「太郎くん……大丈夫ですか?」
そんな彼を、隣で心配そうに見つめるのは藤原千花。顔色もあまり良く無い。時折「オエッ」とえずく恋人。そんな姿を見たのは初めて。どうして良いか分からないが、一つだけ確実に言えることがあった。
彼は今、緊張している。それも死ぬほど。と言うのも、今二人が居るのは、ホテルのような豪邸。藤原千花の家なのだ。
本来なら、今日は二人でデートをする予定だったのに。藤井の家で。そして、ようやくと言っていいほどイチャつく計画だったのだ。それが蓋を開けてみれば、まさに正反対の状況。天国から地獄だ。
そもそも、どうしてこんなことになったのか。答えは一つ。千花の父親、藤原大地にバレてしまったのだ。恋人の存在を。
千花としては、隠し通せるならそうしたかった。だが大地から問いかけられた時、首を横に振るということは、
「だ、大丈夫……大丈夫……」
バレてからは早かった。藤井に報告する間もなく、家に招く手筈を整えたのは藤原大地。で、彼の空いている日が二人のデート日だった。千花から連絡を受けた藤井は、二つ返事で大地の提案を飲み込んだ。
ここで逆らってしまえば、社会的に消される。彼の
そして迎えた運命の日。土曜日。
家とは思えない応接室に通された藤井は、その空気感にただただ圧倒されていた。一方、千花は普通だった。自分の家であり、そこで自分の父親と話すだけ。何より、千花は大地のリアクションを一度見ている。驚いてはいたが、怒った様子も無い。だから、二人が想像する最悪の展開は無いだろうと踏んでいた。
本来なら、そのことを藤井に伝えるべきなのだろう。しかし、彼女はそれをしなかった。何故か。答えは単純で、ビビっている彼が可愛かったから。いつもしっかりしていて、落ち着いている恋人。その彼が、ここまで弱々しい姿を見せたのだ。千花の中に眠る
約束の時間は十四時。少し過ぎているが、大地は姿を見せない。焦らされているようで、藤井は落ち着かない。キョロキョロと辺りを見渡して、そこで初めて、自分がいかにも高級そうなソファに座っていたと気づく。
「待たせたね。遅れて申し訳ない」
ハッとして、藤井は声のする方を見た。重厚感のある声だった。耳に届いてから、無意識に立ち上がっていて。政治家という生き物と初めて面と向かう。黒縁メガネがよく似合う、大人だ。高級そうなスーツを着ていて、ビリビリと空気が痺れる。
「どうぞ」
立ち上がっていた藤井に、大地は腰掛けるよう手を差し伸べた。
藤井が思っていた以上にその声色は優しくて、ふわりと風が吹き抜けた感触。促されるままに、彼は腰を落とした。黒革のソファに。
「遅いですよ、お父様。太郎くん待たせるなんて」
「悪かった。少し用事があってね」
藤井は固唾を飲んだ。目の前にいるこの人は、政治家なのだ。土曜日とか関係無い。そんな人がわざわざ、時間を割いて自分に会うのだ。高校生の彼には、大人である大地の思考回路は読めない。何を考えて、何のつもりで娘の彼氏に会うのか。必然と、ネガティブな考えに陥る。それが安直なものだと分かっていても、それだけ今の藤井は追い込まれていた。
「それで、君が藤井君か」
「は、はいっ!」
両手を膝の上に乗せて、元気よく返答する藤井。まるで面接だ。それを横でクスクスと笑う千花。だが、彼女の微笑む声は藤井に届いていなかった。
「ふ、藤井太郎と言います。桜川高校に通う高校三年生です。じ、実家はラーメン屋です」
「桜川高校か。なら、男子校だね?」
「そ、そうです」
「高校生にしては落ち着いた服装だね。趣味?」
「そう、ですね。地味なのが好きなんで……」
「ご実家がラーメン屋さんなんて、羨ましいよ」
「いえそんな……案外すぐ飽きますよ」
「そう? 私も好きでね。今度食べに行ってもいいかい?」
「え、えぇ。美味しいかどうかは分からないですけど……」
優しい声だ。怒っている様子は微塵も無い。藤井は不思議な感覚だった。勝手に怒られると思っていただけに、強張っているのは自身の体だけ。優しく笑う大地に、釣られて口角が上がる。
上手く笑えているわけではないが、初めて上がった千花の家。これに安心したのは、彼女自身だった。せっかく招いて、嫌な思い出しか無いというのは避けたかったから、藤井につられて千花も微笑む。
「太郎くん。別にお父様は怒ってないんですよ?」
「そ、そうなの?」
「おい千花……変なことを吹き込んだな?」
「そんなことはないですけどぉ……」
藤井が勝手にビビっているだけなのだが、千花はそれを口にしなかった。怒っていない旨を伝えていない時点で彼女はクロなのだが、余計な口を挟むと小遣いを減らされる可能性もある。何事もなかったようにあははと笑う。政治家のような腹黒さ。藤井も苦笑いするしかなかった。
「そうだ千花。今日美味しいリンゴを頂いたんだ。悪いが、切ってくれないか?」
「えーっ。どうして私が?」
「リンゴぐらい切れないと、藤井君も悲しむぞ」
「むぅ……」
本来なら、家で雇っているお手伝いさんにやってもらうこと。だが、娘の千花にそれを頼んだのには、訳があった。千花からすれば、大地の言う通り家庭的な一面を見せるアピールでもあるが、大地の狙いはそこではない。
藤井に一言言って、応接室を出て行く千花。ドアが閉まったことを確認して、大地は一つ咳払いする。
「さて、ようやく二人になれたね」
「えっ……?」
少しだけ抜けた力が、再び筋肉を硬直させた。
背筋も伸びて、また暴れ始める胃液。その様子を察した大地は、優しく右手を差し出して見せた。
「そんなに身構えないで。私も本当に怒っていないから」
「そ、そうなんですか?」
それならそうでいい話だが、藤井からしたら拍子抜けである。
だが、一呼吸置けたのも束の間。大地は言葉を続ける。
「男同士の話だ。正直に答えて欲しい。……千花とはどこまでシたのかな」
「…………はい?」
大地は後悔した。カッコいい頼れる父親のメンツを保つために、絶対に口にしないでおこうと決めた言葉。だが、どうしても気になってしまうのが父親の性。ふんわりと、でもど直球に問いかける。
これに困ったのが藤井だ。目が点になるとは、まさにこのこと。聞こえなかったフリをしてとぼけて見せたが、大地は恥ずかし気もなく続ける。「どこまでシたの?」と。
(何言ってんだこいつ……)
それもそうだ。娘の恋人に対して、一発目に聞く言葉ではない。しかし、きらりと光るレンズの向こうにある眼光鋭い視線が突き刺さる。
「怒らないから、言ってごらん」
先生の常套句である!
生徒に対して、自白を強要する時に使う圧倒的チート! そしてその結末は一つ。普通に怒られる。答えずとも怒られる。答えなくても怒られる。最悪な沼にハマってしまったと、気づいた時にはもう遅かった。
「チューはした?」
「えっと……」
「怒らないから」
「まぁ……」
「……したの?」
「はい」
「……そっ、かぁ………」
嗚咽に近いため息を、藤井は初めて聞いた。
藤原大地は、とにかく娘たちを溺愛している。その子が見知らぬ男といちゃついた現実に直面し、絶望している画である。
「一応聞くけどその先は?」
「えっと……
「まだ?」
「……あ、いや、えっと、その、それは言葉の、綾というか、何というか」
本来なら、今日がそうなる予定だった。とは、口が裂けても言えなかった。藤井は誤魔化すも、これではヤル気満々と受け取られても仕方がない。実際そうなのだが。
だが、藤原大地はこんなことが聞きたかったわけではない。思い切り咳払いをして、会話を強制的にリセットする。
「ほら、緊張しているように見えたから。リラックスさせてあげたくてね」
「は、はぁ……」
適当な嘘を吐いて、もう一度咳払い。今度こそ、纏う雰囲気を変えて言葉を紡ぎ始めた。
「変なことを聞いてすまなかった。ただね、私も父親だ。娘は何より大切なんだ」
「……はい」
「だから、君のことを教えてくれないかな?」
ついに、来た。
やんわりとした言い方ではあるが、藤井は覚悟した。家柄。ここで判断されるかもしれない、と。ゴクリと固唾を飲んで、息を吐く。
大地は優しく微笑んでいる。政治家らしい、薄い笑い方。やはり、今彼が何を考えているのか藤井には読めなかった。でも、一つだけ分かったこと。藤原大地には、嘘が通じない。直感がそう言う。ここで変に見栄を張るのは逆効果に違いないと。
「僕の家庭は、普通です」
大地は少し目を見開いた。少し驚いた様子。言葉を紡ごうとするも、早かったのは藤井の方だった。
「母親は居ません。少しでも父親を助けたくて、休みの日は家の手伝いをしてます。進路は……家から通える大学に進学するつもりです」
一通り、自身の説明を終えた藤井。あとは大地のリアクション待ちなのだが、返答待ちのこの時間がとても長く感じられる。少し目を伏せて、考えている様子の彼を見ることしかできない。
「聞き方が悪かったかな」
「えっ……?」
ポツリと溢したその言葉に、藤井は両手で拳を作る。でも、大地はやはり怒った様子はない。むしろ、笑っている。
「ご家庭のことじゃなくて。藤井君の趣味とか、好きなモノとか。そんなことが聞けたら良いなと思って問いかけたんだけどね」
「あ……そ、そうだったんですか。す、すみません……何か誤解しちゃって」
そこでようやく、藤井は冷静になった。
自身に怒っていないという
だからこそ、大地は不思議だった。まだ高校三年生の藤井太郎が、いきなり家庭の話をぶっ込んできたのだから。これではまるで、結婚を乞う挨拶ではないか、と。彼がそこまで考えているようには見えなかったが、気になった大地は問いかける。
「どうしてそんな誤解を?」
「……その、正直に言いますと。僕は千花さんとお付き合いできる人間じゃないと思っていました」
「どうして?」
「これまで千花さんのような人が、周りに居なかったからです」
角が立たないように、藤井なりに考えて考えて言葉を捻り出す。「周りに居なかった」という言い方に、大地は引っ掛かりを覚える。
しかし、それはすぐに解消される。いきなり家庭の話を持ち出してきたのは、それが理由だろう。大地も政治家だ。会話の裏を読み取る癖が付いている。
「なら、どうして千花と付き合おうと思えたの?」
「好きだからです」
「随分とシンプルな理由だね」
「もう、家柄の差なんてどうでもいいぐらいに千花さんに惚れてしまいました」
あぁ真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、清々しい。難しい言葉や、回りくどい言い方じゃない。ど真ん中ストレート。一六〇キロだ。
気怠く、憂鬱で進展のない国会答弁ばかり聞いていた大地にとって、彼の力ある発言はどんな答弁よりも美しく説得力がある。今の首相には藤井太郎の爽快さを見習ってほしいぐらいに、大地の心は晴れやかだった。
「あはははっ!」
だから、声をあげて笑ってしまうのだ。決して見下した笑いじゃない。自身の最愛の娘のことを、心から好きでいてくれる喜び。それだけ。不思議と嫉妬は無かった。
「大丈夫だよ、藤井君。今日が初対面だが、君はしっかりした良い子だ。ご家庭のことも、大切に育てられたのがわかる」
「そんな……僕は」
「フォーマルな服装も、言葉遣いも、声のトーンも。礼儀正しくて心地が良い。千花が惚れたのも分かる気がするな」
畏れ多いほどの絶賛。藤井は戸惑った。
でも、千花の父親からそう言われることに抵抗は無かった。むしろ、自身の彼女に対する思いが伝わってくれたようで、嬉しかった。
それと同時に、藤原大地という人間はしっかりと話をしてくれる人。藤井の中でその認識が出来上がる。娘の恋人とか、高校生とかそんな先入観を捨てて、目の前にいる人間のことだけを見てくれる人だ。
ようやく、体から力が抜けた。
ずっと筋トレをしていたかのような疲労感。でも、確かに残る心地良さ。
「正直、千花に関しては浮いた話が一度も無くてね。恋人とかはもっと先になるだろうと思ってた」
「……はい」
「出会いも君のご実家かな?」
「そうです。落とし物の生徒手帳を秀知院に届けて、その日の夜にまた来てくれたんです。それからちょくちょく話すようになって」
「ラーメンより、藤井君に会うために行ってたんだろう。あの子が恋、か。何というか、親だけど不思議な感覚だな」
大地の言うことも、藤井は納得できた。
確かに、千花は好かれることはあっても、好きになることは無かった。現に多くの男から告白されているのだから、経験があっても不思議ではない。
「それだけ、君のことが大切なんだ。だから、千花のことも大切にしてあげてくれ。私からは、それだけだ」
「……はい! 絶対に悲しませません」
「あはは。高校生なんだから、もっと気楽に」
あぁ、新鮮なリンゴが、萎れてしまう。
少し開いた扉の向こうで、藤原千花は立ち尽くしていた。でも、今のままでは部屋に入れない。彼の顔を見てしまったら、きっと、好きが爆発してしまうから。
盗み聞きなんて、らしくないことしなければ良かった。千花は少し後悔する。でも、そのおかげで二人の会話を途中から聞くことが出来た。大地が自身にリンゴを切らせた理由は、きっとこれだったのだろう。
立ったまま、切り分けたリンゴをひと齧り。
「甘い……」
それはそれは、自身には勿体ないほどの恋の味だった。
家柄のことを呆気なく乗り越えた二人。障壁という意味では何も無くなったに等しい。だから、これから先は言い訳が出来ない。しっかりと、彼のことを見て、自身のことを見られないといけない。
「リンゴ、美味しいですよ!」
勇気を振り絞って、部屋に戻る。大地と藤井、二人と目が合うが対照的な表情。誠心誠意、父親とぶつかってくれた千花最愛の恋人は、少しだけ疲れた目をしていた。それでも、顔色はさっきよりもだいぶ良い。
「太郎くん」
「なに?」
「これからもよろしくお願いします」
「急に改まってなに?」笑う藤井太郎の横で、千花はもう一度リンゴを齧る。やっぱり、とてもとても甘い。
笑う藤原大地に小言をぶつける千花。藤原家の日常に、藤井が馴染んでいる。あれだけ家柄の差を気にしていたのに、自身でも驚くほどこの光景がしっくりきていて。
それがすごく幸せで、涙が溢れそうになったから。だから、藤原千花はもう一度リンゴを齧ってみせた。
はよ神れ。
新たに評価してくださった皆様(敬称略)
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