藤原千花は愛されたい〜天然彼女の恋愛無脳戦〜 作:なでしこ
やっぱ伊井野ミコがいっちゃん可愛い。
後書きにお知らせがございます。
雨の季節が始まった。路地裏は暗く、空から落ちる水滴を弾くしか能がない。重そうな雲が包み込むこの空間は、季節の情緒を醸し出しているもんだから、雨が嫌いな人間からするとあまり良い気はしなかった。
――この音を聴くと、頭をよぎる。藤井太郎は誰も居ないカウンターを眺めながら、濡れた布巾を横に滑らせる。あの時の、あの彼女の声を思い出すだけでゾクリと背筋が笑う。
雨のせいで客足は鈍い。平日とはいえ、この寂しさは店主もため息しか出ない様子。店番を彼に任せて、買い物に行ってくると外に出た。「準備中」の札を店のドアにぶら下げて。思い返せば、こういう日に彼女はよく姿を見せた。だから二人で話す機会も増えたし、こういう関係になることが出来た。
だから――なんて淡い期待を抱く。準備中の札を掛けていたのに、ガラリと引き戸を引く音が響いた。姿を見せた人物は、彼の予想の斜め上をいった。
「――あ、あの」
「あ……君は」
彼と目があって、ぺこりと頭を下げた。可愛らしい桃色の傘を片手に、おさげ髪が特徴の彼女は、藤井もよく知る人物だった。
伊井野ミコ。白銀御行や四宮かぐやと同じ、秀知院学園の生徒会メンバー。白銀が十月に留学してしまうため、次期生徒会長の呼び声高い少女である。
そんな彼女が、何故ここに?――なんて疑問を抱く前に、もう一度目が合う。
「あ、あぁ、適当に座っていいから」
「……はい」
ぎこちなさが残る会話。――それもそのはず。この二人には浅からぬ
今や愛しの恋人となった藤原千花の生徒手帳を届けに行った際、対応したのがこの伊井野だ。これだけ聞けば至って普通なのだが、残念ながらそういうわけにもいかないのである。
秀知院学園の体育祭まで会うことが無かったとはいえ、心のどこかでは気にかけていたのも事実。互いのベクトルは違えど、関係性は途切れることなく水面下で繋がっていた。
そのおかげで、体育祭の日、藤井は千花と会うことが出来た。彼を初めて男として認識する出来事があった。当の本人、伊井野ミコはその事実を知らない。――とはいえ、彼女も鈍感ではない。ましてや、尊敬する藤原千花の変化に気づかないはずもなかった。
だからここに来た。彼が千花の恋人であると知った上で。
決して綺麗とは言えない丸椅子が鳴る。軽い伊井野であっても、あまり良い気はしない。
「……」
「……」
水面下で繋がっていた、とは良く言った場合。言い換えれば、話したことが無い部類に入るのは目に見えている。
藤原千花の恋人――その一つだけで突撃した彼女がふと冷静になったとしよう。
(……気まずい)
視線を泳がせて、店を見回しているように見えるが、実際何も考えていない。おさげ髪が泣いているように見える。そもそも、ここはラーメン屋である。食事目的の人間が訪れるのだから、そんなキョロキョロとされると藤井も身構えてしまう。
だがその行動が、彼女の目的を表面上に浮き上がらせた。
「えっと……何か用かな」
伊井野はハッとして、厨房に居る彼の顔を見上げた。最後に会ったのは、秀知院の文化祭以来。その頃よりも雰囲気が大人びていて、
案の定、藤井は心の中で笑う。おおよその見当はついていたからだ。彼女がこの店に来たことも無いし、来るようなタイプでも無い。だから、ラーメンを食べに来たというよりは
「あ、あの」
「ん?」
「本当に、ごめんなさい」
だからこそ意外だった。彼女の口から謝罪の言葉が出てきたことが。
藤井の目から見ても、伊井野ミコが千花のことを尊敬しているのは明らかで、てっきりまた小言を言われると思っていただけに。
いま目の前にいるのは、生徒会監査、そして風紀委員の彼女ではない。ただの一人の女子高生。
「急にどうして?」
「色々と失礼なことを言ったから……。その……謝らないとってずっと思ってたんです」
「そんないいのに。まぁ、悲しかったけどさ。もう気にしてないよ」
恥ずかしそうに笑う藤井を見て、伊井野の頭に浮かんだのは尊敬する藤原千花の顔だった。
目の前に居る彼と同じような笑顔を見せる。彼の隣に彼女が居る。その光景が簡単に想像出来たのだ。これはそう、体育祭の日に見た光景と似ている。その時よりも幸せそうであるのは確かで、二人の関係が上手くいっているのは明白だった。
思わず口元が緩んだ。思い返せば、彼の前ではいつも仏頂面。嫌いだったわけではないけれど、藤原千花と仲が良さげな事実があまり好ましく思えなかった。
それがスッと消えていく。絶対的な根拠は無くても、彼女が幸せであるなら――なんて感情のおかげで。
「なんか、雰囲気変わった?」
片手で数える程度しか会った事は無かったが、藤井がそんなことを言ってきた。
「何を根拠に」と頭では分かっていたが、伊井野は心の奥底を覗かれた気分で足元から熱があがっていく。揺らぐ瞳を誤魔化すように、差し出されたオレンジジュースに口付けた。
「藤井先輩って、意外と鋭いんですね」
「意外かな……?」
「ふふっ」
揶揄ったつもりはなかったけれど、照れ臭そうに頭を掻く彼が少し可笑しかった。上品に口元を抑えてクスクス笑ってみせた伊井野は、そこに残る微かなオレンジの味を噛み締めながら。
鼻の奥に残る梅雨の匂いを掻き消す甘さ。体の奥に染み渡っていって、頭の中に浮かぶのは彼の顔。嫌いなはずだったあの子の顔。
「先輩は――恋をして変わりましたか?」
その質問の意味を理解するのに、時間は掛からなかった。藤井太郎は伊井野ミコの纏う違和感の正体に辿り着いたのだから。
藤原千花とは違った甘い香りを放っている少女。年下とは思えないやけに大人びたオーラ。黙っていると飲み込まれそうだったから、彼は軽く咳払いをして答える。
「変わったと思う。毎日楽しいし」
素直な声である。そこに嘘はない。伊井野もそれは理解していたから、真っ向から否定することはなかった。しかし――そんな綺麗なモノではないと、彼女は思う。
「恋というのは、ひどく、残酷です」
元々が妄想癖のある少女。自身の発言は全て全力で本気である。周りがどう思うかは別にして、共感を求めたつもりはない。
だが今はどこか、自身を俯瞰してみている自分が居た。そうやって、誰かに言うことで落ち着きを求めている伊井野ミコという存在を見つめていた。
違う。これは同情だ。目の前の彼に同情して欲しくて、情けない顔をしている。そんな自分が可哀想だと思ってしまう。伊井野にとって、何もかもが初めての感情だったから。
「――うん。そうだね」
同情。彼女が求めていたソレは、思っていたよりも胸に響かない。
あぁ、だって、彼は私に同情なんてしていないんだもの――。哀れなワタシ。こんな姿を晒すために来たわけじゃないのに。馬鹿らしい。あぁ可哀想――。なんて自身に呆れて。伊井野が顔を上げると、藤井と目が合った。笑っていた。
「でも、良い思い出ばっかりだよ」
そんなわけがない。それは結果論に過ぎない。伊井野は反論しそうになったが、謝ったばかりなのに新たな種を蒔くわけにはいかないと自重した。
そもそも地頭の良さが違うから、彼のことを簡単に論破する自信はあった。フワフワとした彼の思考を乱すことぐらい簡単な――はずだと思っていた。
「そう……ですか」
ところが、伊井野は何も言えなかった。その原因は、当の本人もよく理解していない。
きっと、自分とは違うんだ。相手は藤原先輩だもの。アイツよりも良い人だし、捻くれていないし――。随分と偏った思考である。だが、藤原千花も十分に面倒で重い女であることを伊井野は知らない。好きなモノの裏側には目を瞑るタイプである。
石上優は失恋から立ち直ろうとしていた。皮肉なモノで、その相手の尽力もあって、石上のことを悪く言う人間は居なくなっていた。だから、あの頃よりも幾分と明るくなった。
伊井野ミコは彼の失恋を喜んだ。やった。これで私にも――なんて汚い考えを抱く自分が嫌いで嫌いで堪らなかった。それなのに、胸の高鳴りは治らない。こちらもまた、皮肉なモノである。
「聖人なんて、居ないから」
ふと、藤井がそんなことを言った。伊井野はハッとして、俯きかけた顔を上げた。ツーンと鼻が痛む。鼻炎のせいだと彼女は思うことにして。
「……いきなりどうして?」
「ん、いや、なんとなく」
そう言いながらも、彼は何か言いた気だ。伊井野が少しムッとすると、藤井は「怒らないでよ」と前置きして話し始めた。
「君、融通効かないタイプじゃん。頭も固いし。だからすごく綺麗な恋を期待してるんじゃない?」
反論の余地しかない。裏腹に、伊井野の胸はこれまでに無いほど痛んだ。
恋というのは、ひどく美しくて、人を幸せにしてくれるモノ。そのはずなのに、今の自分はそうじゃない。むしろツラくて、苦しくて、吐き気がする。この青春の味に。このままだと、胸が潰れてしまう。
彼を好きになってしまった。嫌いだった石上優を、心から自分のモノにしたいと思ってしまった。それは罪なのか? いいや違う。ただの青春の一ページ。伊井野ミコにとって、その一ページは密度が高くて、あまりにも厚い。
「俺だって、最初はそう思ってた。でも違った。恋は君の言う通り、ひどく残酷だと思う」
元々が妄想癖のある少女。故に、幼少期から築き上げられた「恋」のブランドは、胸の中だけに留まることが出来なくなっていた。
同時に、彼女は理解することになる。現実はこんなに甘くないと。だから、残酷だと表現してみせた。
藤井太郎もそれに同意した。その意味を彼女が問いかけると、彼は少し考えて話す。
「上手くいくことの方が少なかったから」
「……具体的には?」
「えーっと、あんまり言いたくないな……」
伊井野は唇を尖らせる。
「分かりました。藤原先輩に言っておきます。口説かれたって」
「お、脅し!? わ、分かったからスマホしまって!」
「誤魔化すのはナシでお願いします」
いつからだろう。石上とのこんなやり取りも無くなっていて、あるのは微妙な空気と会話。彼に好意を抱かせようと無意識に動いているせいだ。
少なからず、伊井野は石上優への好意を自覚している。しているのだが、あまりにも彼のこれまでのプロセスが複雑化しているせいで、積極的に動くことを躊躇わせていた。
子安つばめに振られ、伊井野ミコに
私を見て欲しい。私だけを見つめて欲しい。私のことを――心から好きになって欲しい。それは、彼女の純粋で、素朴なまでの願い。乙女の恋はいつまで経っても真っ直ぐである。初恋と呼ぶには、少し重すぎるほどに。
「俺、一度振られてるんだよ」
「……えっ?」
伊井野が思っていた以上に重い言葉が飛んできた。でもそれは、不思議と彼女の心を軽くした。だって彼は、振られても藤原千花と付き合っている。「ごめんなさい」と咄嗟に謝罪の言葉が出てきたが、藤井は気にしている様子は無かった。
「でも、やっぱ諦められなくて。もう一回チャンス貰ってさ。それでようやくって感じ」
「……それはきっと、藤原先輩も好きだったから」
彼女の言う通りである。既定路線なんですよ、と続けた伊井野はまた言い過ぎたと後悔する。だが、彼は「ううん」と首を横に振る。
「そんなの分かんなかったよ。本当に脈無いんだなって思ったし」
「……」
「その時にならないと、分からないモノなんだね。人の心ってさ」
相手の感情が読み取りたいと思ったことは無かった。無かったけれど、石上の心が読めたらどれだけ楽だろうと伊井野は思う。
でもそれは、諸刃の剣。知りたくないことまで知ってしまうから。心に残った子安つばめへの恋心を覗いて、受け止められる自信は無かった。だから、彼女は残り少なくなったオレンジジュースを喉に流し込んで誤魔化した。
さっきほど甘くなくなっていたソレは、伊井野を現実の海に引き上げる。深いため息をしたところで、胸の重さは変わらない。
やがて訪れる静寂。彼女は感情を吐き出すことに慣れていないから、ただ口に残る甘味の余韻に浸るしかなかった。
「――怖いんだよね」
唐突に彼が言った。伊井野はただ意味が分からなくて、言葉を漏らすこともしなかった。
「好きな人が、遠くに行ってしまうのが」
石上優が失恋したことで、誰かのモノになる可能性は一旦無くなった。とはいえ、かつての彼の姿はもう無くて、クラスの中にも良い意味で溶け込んでいる。
靡いたとは言われたくないけれど、誰かのモノになるのも嫌だ。その狭間で揺れ動くしかない伊井野ミコの純粋で捻くれた恋心。それは確実に彼女の胸を蝕んでいく。
だけど確実に言えるのは、藤井太郎の言う通りだということ。誰かのモノになるのは、この上なく嫌悪する。伊井野にとって、それが恋心なのだから。
「なら、なりふり構ってられないんじゃない?」
彼女が否定も肯定もしていないのに、藤井がそう言ったのは態度があからさまだったからだ。まるでかつての自分を見ているようで、少し息苦しさすら覚えた。
でもそう。今の伊井野に余裕は無い。だから、ムカつくほどに染み込んできた。藤井の言葉一つひとつが、自身の妄想で出来上がった夢の中に。
「藤井先輩って良い人ですね」
「そう? ありがと」
「藤原先輩を泣かせたら、許しませんからっ」
「君って何か言い方重いよね……」
「ごちそうさまでした」伊井野は立ち上がって、彼に一礼する。その辺の行儀が良いから、彼も黙って見届けるしか出来ない。どちらかと言えば、四宮かぐやに近いドス黒さを藤井は感じつつも。
引き戸を開けると、雨が止んでいた。桃色の傘は少し寂しそうにトンッと地面を叩く。
久々に青空を見上げた気がして、伊井野ミコは笑った。自分の心の中と同じ気がしたから。
それからしばらくして、夏が始まる少し前に、彼女はまた、ほんの少しだけ大人になったのは別の話。
伊井野ミコしか勝たん。
〜新たに評価してくださった皆様(敬称略)〜
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本当にありがとうございました。
【お知らせ】
ハーメルンで「「Umar EATS」の配達員から、トレセン学園にスカウトされたウマ娘の話」を投稿されているayks様主催の『ウマ娘短編企画』に参加させていただきました。
私の作品は「8月9日(月)」に投稿されましたので、是非ご覧ください。
【ご報告】
私がハーメルンに投稿している作品が無断転載されておりました。詳しくは「活動報告」に記載しておりますので、こちらも目を通していただけると幸いです。