心の底から、体の芯から、冷えていくことがある。言葉に出した途端、なにもかも意味がなくなることがある。考えないようにしていた気持ちが、浮き上がってきた。邪仙の言葉で――。

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愛の話

 邪仙の奴を最初から信頼していた訳ではなかったが、胡散臭いだとか傍迷惑だとかそういう、感情にして差し出すものはもう何も無かった。平たく言うと、時間で買える罵詈雑言の類いは言い尽くしてしまったということだ。類義語辞典を捲り、ありとあらゆる語彙を増やした。結局、言葉は時間に追いつかなくなり、私は辞典を置いた。

 奴を邪仙だと言い出したのは意外にも言葉を何もかも手離した後だった。私のなかでは奴は最近から邪仙ではなかった。確か、そうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 客を連れてきた私の目の前では邪仙が立ったままシュークリームを口にしていた。落ちそうになったクリームを左手で受け止め、恥じらいもなくねぶって口の周りをべたべたにする。ちろりと出た舌が真っ赤に見えた。

 その光景の前で客──茨華仙はすこし赤くなって咳払いをした。私は居心地が悪くなって山の仙人様を振り返り、どうぞ、と奥の席を促した。

 

「あら。仙人様?」

「お前の客だよ。まず手を洗え」

「はあい」

 

 部屋を出ていった邪仙の背中を二人の目が追う。部屋の中で目線が交差してお互いに曖昧に微笑んだ。

 参った。邪仙の世話係でも、給仕でもないのに、客の面倒を見なきゃならない。太子様は何時ものように話が弾むと思いきや、今日は主人が違うと分かると青娥なら運良くいますよと微笑んで早々に消えてしまった。

 悶々と考え事をしているとまた仙人様と目があって二人揃って愛想笑いをした。その隙に邪仙が今度は取り繕ったように登場する。

 

「お待たせしました。山の仙人様。お見苦しいところお見せしてごめんなさいね」

「いえ、そんな」

「蘇我様もありがとうございました」

「うん……」

 

 客の前で逆ギレも溜め息も出来ずに消えるように返事をした。邪仙は私に向かって胡散臭い笑みを向ける。直ぐに顔をそらすが、その先に仙人様がいて思わず口角が動いた。

 よし、これで仕事は終わりだと部屋を出ようとしたところ、仙人様が私に助けを求めるように切なげな目をした。実際、本人はそんな気もないだろうが、目は口ほどに物を言う。立ち上がりかけて浮かんだ体を沈めた。

 

「蘇我様、出ていかないの?」

「まあ、ちょっとタイミングが」

「今がジャストタイミングじゃなくて?」

「私もそう思ったけど」仙人様が口をつぐんでいた。「今ちょっと立て込んでるんだ」

 

 邪仙が珍しく本気で首を傾げた。こいつにこんな顔されるんなら、無視してでも出ていけば良かったと拳を握りしめながら思った。

 

「あ、あの、今日はご挨拶に伺いました。この間お会いした時名乗り損ねましたので」

 

 山の仙人様が助け船を出して会話に斬り込んでくる。この間というのが何時か知らないが、二人は面識はあるらしい。

 

「山の仙人様でしょう? 豊聡耳様からお聞きしました」

「名前はご存知で?」

「確かに……知らないわ」

「実は以前青娥さんから名刺というものを頂いて、お近づきの印に私も作ってみたんです」

 

 彼女はそう言いながら懐から小さな紙切れを取り出す。邪仙の名刺配りは最早お家芸と化しているが、まともに取り合う奴なんて誰も居なかった。邪仙は今までとは違う反応に動揺して驚いているように見える。「ええと名刺?」

 頬が赤らんで見えるのは気のせいか。客観的に見ると自分って恥ずかしかったんじゃないかなとか思っているのならもう遅い。もう恥ずかしいとか、そういう次元ではない。

 山の仙人様が名刺を差し出した。一応、常識ある配慮で配られたのは邪仙に一枚。それだけだった。邪仙は受け取った名刺をじっと見た。

 

「茨華仙……」

 

 邪仙の口は実に素直にそう読んだ。

 簡素な名刺を後ろから眺めていた私は、そもそも彼女の名前くらい既に知っていたのでその呟きは蚊の鳴き声程度にしか聞いていない。

 そのあと一気に吹き込んだ風が草木を揺らす音に、はっとした。随分長い沈黙があったのだ。邪仙の顔を覗き込む。「……おい?」

 邪仙は私の声にびくりともしない。奴の目はまだ名刺に釘付けにされていた。その青い目が白んでいくのに、思わず私は声を失った。

 

「……茨様、ですか。いい名前」

 

 邪仙は完全に私を無視して話を再開した。まるで誰かが上の階層の時間軸を取り外して下の階層の今の時間軸に取り付けたように、なんの不思議もなく話は進んだ。

 山の仙人様は邪仙の不良故障には気にも留めず和やかに話された。私だけが妙な顔をしているようで、私は「色々終わったらしいし、もう行く」と言って部屋を出る。

 真冬の海の、厚い氷の下。冷たい深海で、閉じ込められた鯨が絶望を見る不透明なあの氷のようだった。あの目。邪仙の──青娥の目。

 

「屠自古さん」山の仙人様が呼び止めた。「ありがとう。用事は済んだんですね」

「……まあ」

 

 私は曖昧に微笑んだ。出ていきつつ、シュークリームは残っていたかなということが気になってきた。邪仙の目がちらつくが気にしていられない。私は邪仙に必要以上に執着しない。シュークリームはカスタードとホイップの両方のクリームが入ってるといいなと思っていた。

 道場が見える渡り廊下の向こうでは、太子様が物部とシュークリームを頬張っていた。

 

「あ、シュークリーム」

「屠自古のもありますよ」

「ありがとうございます、太子様」

 

 余っていたシュークリームを受け取って彼女らの隣に座った。「うげ、カスタードだけだ」「気に入らないなら我が貰おう」「むや、んまい」クリームを舐め取って物部から距離を置いた。

 私の位置からだと丁度二人がもぐもぐ言いながら道場を眺めているのが延長線上に見えて面白い。そこで私もシュークリームのクリームがこぼれないように真剣に口を動かした。頭の中が空っぽになる。

 

「そういえば、山の仙人様が青娥殿を訪ねて来たらしいな、蘇我」

「ん、そうだけど」

「なんの用だろうな」

「さあ。挨拶?」

「仙人というのは仙人が好きですからただ交流しておられるのでは」太子様が私たちを振り返って立ち上がった。

「お出掛けですか太子様」

「ええ。道場の方に顔を出します」

「えっ、それならば我も行きます。太子様だけでは……弟子たちも恐れ多い」

「では屠自古も行きますか?」

「いえ、私はまだ……」

 

 カスタードクリームを急いで吸って言った。

 

「ゆっくり食べてください。青娥の相手は疲れたでしょう」

「ありがとうございます」

 

 二人が遠ざかっていった。また一人になった。道場では早くも物部の大きな声に応えるように弟子たちの声が響いていた。遠くの方で声がする。

 前髪が顔をくすぐり、私は風に任せて髪を踊らせた。シュークリームの最後の一飲みが音を立てる。指についたクリームを舐め、顔を上げたところに小さな少女が浮いていた。喉がひゅっと音を鳴らした。

 耳元で風がすっと通り抜け、栓が抜けたように周りの音がはっきりし始める。木陰には、小さな少女ではなく、邪仙が立っていた。「あ……れ」

 

「青娥?」

 

 思わず声を出してしまい、あ、と思ったところで邪仙がこちらを見た。表情はよく見えない。

 

「蘇我様」

 

 奴はぞっとする程優しい声をしていた。

 

「肝を冷やすって、ありますよね。本当に肝を冷やした者はお腹の中が、一生冷えたように……氷砂糖を喉の奥に詰まらせたように死んでいく。いつか、この氷砂糖が見つかるんじゃないかと怯えて……」

 

 邪仙は自分の下腹部を押さえてじっとこちらを見ていた。何を言っているのだろうか。「蘇我様」

 

「豊聡耳様と物部様が復活した時、肝、冷えました?」

 

 すんと下半身から体が水を吸ったように重くなる。体を支えていた腕が脚気のごとく下に引っ張られた。

 

「冷えました」

 

 聞かれているのか報告しているのか分からない発音で邪仙が言った。邪仙の顔を見るのが恐ろしく、奴が私の後ろを通って気配が消えるまで動けなかった。「肝……」

 

「なんだよ……邪仙の奴」

 

 心臓が、私の中にもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肝が冷える。それは実際、肝が冷えるような行為をした時に起こる血の巡りではない。

 肝が冷えるのは、自分の心にある、喉の奥に詰まらせた氷砂糖を指摘される時。つまり、自分の気持ちが見透かされた時。それから、その氷砂糖を見つけたと相手に指摘し、相手がまさにビンゴ──図星という顔をした時。

 

「酢飯、冷えたみたいだなっ」

 

 団扇の横揺れを止め、脇に置く。いつの間にか冷えた酢飯に、物部が具材を乗せていった。

 

「随分長い間扇いでたな、蘇我」

「……そうか?」

「最近ぼんやりとしているし、何かあったのか」

「別に。なにもない」

「なら、いいのだが」

 

 仙人として復活を果たさず一人亡霊として蘇った時、憤りはしたが、これもいいと思った。太子様と物部が仙人として復活した時、嬉しいと思った。本当だった。

 しかし、先日邪仙が唐突にそのことを話に持ち出した時、私は冷や水を浴びせられたように体が内側から冷え動かなくなった。喉のつかえは長年其処にあったかのごとく、私の声を失わせた。

 肝が冷えるのは、自分の心にある、喉の奥に詰まらせた氷砂糖を指摘される時。つまり、自分の気持ちが見透かされた時。氷砂糖は普段は見えない。ただ、指摘された時だけあると知るのだ。

 二人が復活した時には意識しなかった痛み。どうやっても憧れの人には届かない、今ある自分がどれほどその人に遠いか思い知った、その人は永遠に私の思いを知らない──。何年も堂々巡りをすると、不思議なことに一人の人に幾つもの感情が沸き上がる。私には確かに、自分の中に二人に知られたくない後ろ暗い想いがあった。

 そして邪仙を前に、初めて肝を冷やした。

 そのことが頭から離れない。

 

「うんうん、美味しそうに出来とる」

 

 呑気な物部を見ていると自分がそんな想いを持っているとは思えないが、事実、それを知ってしまった。だからと言って何もする気もない。

 

「持ってくぞ」

「頼む」

 

 出来上がったちらし寿司を持って厨を出る。既に幾つかの料理が並んだテーブルにちらし寿司を並べ、足りないものを確認する。厨と部屋を物部と往復して運んだ。

 太子様を呼んで、夕食になる。

 

「美味しい。今日は豪勢ですね」

 

 ちらし寿司を食べた太子様が言う。

 

「ええ、今日は三人だけですから。弟子がいるとこうもいきません」

 

 誇らしげに物部が言うが、それはただ食費がかさむからという理由だ。修行中は大してうまいものは食べられない。太子様は気にもせず、物部の大袈裟な物言いに頷きながら小松菜の和え物やかぶの漬物を口に入れた。

 

「弟子といえば、一人尸解仙になりたいと嘆願する者がいましたねえ。熱心だが、すこし落ち着きがない人間です」

「喜ばしいことではありませんか。このご時世、道教はただの一時的な救いにしか思っていない者もいる。どの宗教でも同じですが──布都、君が教えて差し上げては」

「太子様、物部が教えてもろくなことになりません」

「なにっ、我だって仙人であるぞ」

「尸解仙は比較的難易度が低いが、その失敗例が私だ。原因はどう考えてもお前だ、物部」

「なっ……」

 

 これには物部も口を震わせて黙った。

 

「君達、喧嘩は止しなさい。確かに屠自古のこともありますが、我流の修行でも尸解仙になった者もいるそうですから布都が教えても構わないでしょう──流石に悪さはしないでしょう?」

「え、ええ……勿論です」

「しかしその我流の修行で尸解仙になったという話は伝説では? 死亡した後に似た者を見たから勘違いしたんです。確か、遺体は残っていたんでしょう。尸解仙は遺体を残しません」

「浪漫ですよ」

 

 太子様は含み笑いをしてちらし寿司を口に入れた。物部が話を引き継いで夕食の時間は過ぎていった。私は物部に会話を任せて食事に集中していた。この手の話題になると邪仙の姿がちらつく。

 夕食の片付けをしていると、太子様がじっと私を見ていた。物部は厨に消えていた。

 

「どうなされました?」

「いえ……屠自古、最近ぼんやりしていますね」

「そう、ですか? 物部にも同じようなことを言われました」

「布都も君のことを心配しているんですよ。何かありましたか」

 

 落ち着いた黄金色の目が私を見つめる。思わず私は持っていた皿を落としかけ、不必要に慌てる羽目になった。

 

「何もありません。先日、邪仙の奴が来ていたでしょう。あいつの様子がおかしくて」

「青娥?」

 

 太子様が驚いたような顔をした。その途端、余計なことまで口にしてしまったと思った。私は太子様や物部とは違い、邪仙の話を好まなかった。その私が、邪仙の話をしたのだ。

 

「いえ……なにも」

 

 持っていた皿を強く握り、私は部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼。道場で物部と弟子たちのやり取りを眺めてから部屋に戻る途中、草むらの中からふらりと宮古芳香が顔を見せた。自然と邪仙の顔を思いだし、私は芳香を小蝿のようにあしらった。

 芳香は私に邪険にされるのも気づかないかのように近づいてくる。

 

「蘇我様?」

 

 ぞわっと背中から寒気が走った。

 はっきりしない口振りで、芳香が私を呼んだのだった。しかし、それだけでも私は十分に邪仙の優しげな声を思い出した。

 

「なんだ、ついてくんなっ」

「なんで?」

「どうしてもだよ。お前と話したくない」

「青娥がいない」

 

 振り向くといつも通り死体のわりに顔色のいい芳香が既に廊下に立っていた。だが心なしかいつもより顔色が悪い。

 

「邪仙ならいつも居ないみたいなもんだろ」

「ずっといない。お腹空いたのに」

「……ずっとって、どんくらい」

「一週間はいない、な」

「そんだけ」

「分からん。もうずっといないから……食べていい?」

「私は食べれんぞ」

 

 近づいてきた芳香の頭を突っ張る。理由として思い当たるとすれば山の仙人様と邪仙が会った日のことだが、あの日から既に二週間以上が経っていた。

 一歩間違えば餌を求めて人里に下りていきそうな芳香を適当な部屋に押し込み、仕方なしに邪仙を探しに行くことにした。道場付近では物部がお茶を飲んでおり、私を見つけて声をかけてくる。

 

「蘇我、おぬし何処か行くのか」

「ちょっと邪仙を探しに」

「……青娥殿を探すのは至難の業であろうに」

「そりゃ分かってる。だが、芳香が腹が空いたとかで五月蝿くてな。餌をやろうにも、あいつの主食があれだから……邪仙を探すのが早いかと思って」

 

 物部は何か考え込んだ後、ふうん、と声を鳴らした。何処か上の空の様子であった。

 

「じゃ、行ってくる」

 

 その隙に体を翻すと、物部が慌てて呼び止めた。「屠自古」

 

「……今、なんて?」

「屠自古。私もそう呼んだ方がいいと思ってな。屠自古はどうやら、氏で呼ばれるのはあまり好きではないらしい……」

「別に……。呼び止めてどうしたんだ」

「いや、行ってらっしゃい、と言うのを忘れてたんでな」

 

 物部が困ったように微笑んで中へ消えた。

 無意識だったのだろうか。物部が娘を心配するような目をしていた。私は何かおかしいらしい。自分では分からなかったが、物部の目が語っている。物部に以前も名前で呼ばれただろうかと考えてみたが、まったく思い出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無闇に探しても見つからない。仙界では感じられなかった肌寒さがつらかった。亡霊だから常人より寒さ暑さに耐えられるはずだが、妙に気分が悪い。

 人里近くの水溜まりで一休みし、他に策を考えようと思い其処で岩に腰掛けた。水面には顔を真っ白にした自分が映っている。

 唐突に鈍い音と共に水面が揺れた。私が消えていく。はっとして振り向いた。

 

「……山の仙人様」

 

 思いもよらぬ人物だ。山の仙人様である茨華仙は手頃な石を弄びつつ、私に微笑んだ。「お久しぶりですね」

 

「はい……先日は青娥が失礼しました」

「いえいえ、いいの。彼女、とても気がよくて快活な方ですね。少し変だけど、いい方なんじゃないかと思わせる……」

「思わせる?」思わず苦笑した。

「あっ」山の仙人様は眉を寄せ、顔を伏せた。

「奴は、邪仙です。どうしようもない事実だ。人はいいしそれなりに打ち解けられるが、本当のところ分かり合うなんて無理ですよ」

「ええ……」

「人里に用事ですか」

「いえ……そちらに伺おうかと思って。芳香さんはいらっしゃる?」

「芳香? ええ、まあ……」

「なら良かった。屠自古さんはまだこちらに?」

「青娥を探していたんですが、見つかりそうもないですね。帰ります」

「じゃあ、ご一緒します」

 

 山の仙人様は人懐こい笑顔で隣を陣取る。とんでもない人たらしの予感がした。

 邪仙を諦めて帰り、芳香を閉じ込めておいた部屋に山の仙人様を案内した。襖を開けた瞬間顔を上げた芳香が目を丸くして仙人様を見つめた。

 見つめられた彼女が弱者に向ける愛情のごとく微笑んだ。これは親しみを込めたものだ。私はその間蚊帳の外にさせられている。ならざるを得なかった。

 

「お久しぶりです、芳香さん」

「……誰?」

「忘れましたか? 華仙ですよ。茨華仙」

「あ、ああ……うーん」

 

 芳香は珍しく困ったように言い澱んだ。

 

「そういえばお腹空いてたんですよね。何かご馳走しましょう」

「あ、山の仙人様こいつは……」人を食べるんだ、と言いかけて口をつぐむ。先程の彼女の笑顔が過った。

「ん?」

「いや」頭を振る。「何でも食べますよ」

 

 山の仙人様は嬉しそうに笑って頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、煉炭術っていうのは失敗するよ。太子様の時もそうだったし。身体が持たなくなる。死んじまう前に新しい身体を用意するのが賢いやり方だと思うけどな」

 

 昔の話だが、私は邪仙の奴とは距離を置いていたつもりだった。しかし奴はたまに思い出したように戻ってきては次々と新しいことをして私に教えた。

 私は大抵奴の気分の上がらない返事をしてやっつけていた。今にして思うと、あまり効果はなかったのかもしれない。その頃は仙人らしく弟子をとった青娥が誇らしげにそれを見せてきた。

 

「ま、お前は死ぬよ」

 

 そのままだと、と付け足した。青娥の弟子は白い顔をして助けを求めるように青娥を見る。青娥は尤もらしく寂しげな表情で彼女の目を見つめ返した。

 

「蘇我様の言う通りですわ。すぐにでも尸解仙になる法を試すべきです」

「一回死ぬっていうやつだろう? それは……嫌だな」

「死ぬふりですよ。実際に死ぬことはありません」

「だがな……」弟子は顔を伏せた。「一度死んだらそれは生きているのか? なあ、屠自古殿」

 

 私はむっとして彼女を睨み付けた。

 

「生きてるも死んでるも同じじゃないかと思うね。分からんよ、私は死んだから」

「そ、それはすまなんだ。では青娥はどう思う」

「そうねえ、私も大して変わらないと思いますよ。むしろ、仙人になってからの方が毎日楽しく生きています。それに、仙人になってからも死から完全に遠退くわけではありませんから。生きてるんじゃ、ありません?」

 

 青娥の答えは誰よりもあてにならない。奴は仙人をなんの過程にもしなかった。ただ仙人になるために仙人になった。未来を見てみたいだとか死にたくないだとか、その願いのために仙人になる人間をとことん置いていく。

 弟子も予想通り困惑してそうか、とひとつ頷いて黙り込んだ。

 

「……私は仙人になりたいと言いながら中途半端だな。青娥には迷惑かけてばかりだし。皆を見返すことも出来ない」

「その皆を見返すために仙人になるっていうんならやめた方がいいと思うな。仙人になると生きることも困難になるらしいし、青娥を目指すなら尚更。こいつは目指すべき仙人じゃない」

 

 青娥の顔を指して言った。青娥は無反応で弟子の様子を冷静に見ていた。こういう時だけ面白くない。

 

「……私は仙人に向いていないのかもしれない。でも、青娥は……正直、すごく向いてる。目指すべき仙人というのは彼女じゃないか。屠自古殿」

 

 弟子はやつれた顔でそう言った。青娥を振り返ると、彼女は未だに顔色を変えることなく突っ立っていた。

 

「死ぬつもりですか」

 

 青娥が静かに言った。死ぬとはつまり、仙人にはならないという選択をしたことになる。

 

「死ぬ? それは嫌だなあ」

 

 彼女は酔っぱらいのように笑った。青娥はそれを眺めていた。炎の揺らめきを眺めているようだった。もしかしたら、何か別のことを考えていたのかもしれない。

「青娥」思わず声をかけ、青娥の息を吸い込む音に口を閉じる。

 

「──そういえば、私も昔、目指すべき仙人という方を見つけました。あの方は清廉で穢れを知らぬ赤ん坊のような仙人様でいらっしゃいました。今頃、何処にいらっしゃるのか……さて、なんというお名前だったか……」

 

 青娥はぼんやりと言った。

 

「そんな話初めて聞いたな」

 

 弟子と二人で顔を見合わせる。弟子も頷く。青娥はそんな私たちに初めて気がついたようにこちらを見て、優しく微笑んだ。その目が白んで見えたのだった。その青娥の目は、数日前の邪仙の目によく似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山の仙人様である茨華仙が芳香を目当てに姿を見せることが増えた今日この頃、邪仙は一向に芳香の世話をすることがなかった。何より、誰の前にも姿を見せることがなかった。

 

「最近、青娥を見ませんね」

 

 散歩から帰ってきた太子様がそっけなく言った。

 

「何時ものように人様に迷惑をかけているのでしょう。あまり感心出来ません」

「感心、不感心という問題ではありません。自分のペットの世話すら出来ない。彼女のことを心配しているんですよ」

「それは……あいつは飽き性ですから芳香のことも」

 

 私の答えに太子様は子供を見るように笑った。肯定するようにそうだね、彼女は飽き性だとも繰り返した。部屋に戻っていく太子様を見送り、私も部屋に戻る。

 太子様が仰りたいことは分かっていた。その飽き性が千年以上も同じペットを連れていること。邪仙に飽きられることが芳香にとって、死者にとって決して悪いことではないということ。

 あいつは物には執着しないが、気に入ったものは容赦なく使うだけだ。芳香も、同じだと思っていた。

 

「屠自古さん」

 

 部屋の入り口で華仙様が紙袋を抱えて立っていた。受け取ると、中にはいっぱいの饅頭が入っていた。

 

「今日はあんこの気分だったのよね、皆さんでどうぞ」

「いつも持ってきてくださらなくてもいいのに……芳香にもよくしてくれますし、十分ですよ」

「いいの、滞在費ってことで。芳香さんは?」

「庭に──」

 

 木々の揺れに紛れて芳香がふらりと姿を見せる。最近ではご主人様を華仙様とでも思っているのか、彼女の名前はきちんと覚えている。その代わり邪仙の名前は一切聞かなくなった。

 芳香の長く伸びた髪の毛の隙間から暗い目が見える。覚えているのだろうか、こいつは。青娥の名前を。

 

「……華仙様はどうして芳香に構うんですか」

 

 芳香を犬か猫のように見る華仙様の横顔に問いかけた。彼女は風になびく桃色の髪を押さえ、私に微笑んだ。

 

「ここに青娥さんを訪ねて来たことがあったでしょう。その時、思ったんです」彼女は右腕を左手で抱き込む。「彼女が邪仙なら、私も邪仙だと。ただし、邪仙である私を否定するわけではありません。確かに愛おしくも思う。私は私を好きになりたいんです。ですから先輩の青娥さんにご教授をと思ったんですが」

「……よく、話が」

「青娥さんが愛したいと思ったものを私も愛したかったの。それだけじゃ答えにならないかしら?」

「それ、まるで貴方が青娥を好きみたいだ……」

 

 華仙様はおかしそうに笑った。「違う?」

 

「それに芳香さんは私の欲しいものを持っているなと思って」

「欲しいもの?」

 

 彼女は笑った。視線をずらした先には何もないが、何か見えているように。包帯に巻かれた右腕が視界に入ってくる。

 

「対極の道です」

「それは……なんですか」

「さあ。私にも分からないわ。これから探すんですから」

「それを芳香は持っているというんですか」

「ええ」

 

 華仙様は言い切った。

 

「なぜそんなに自信があるんですか」

「見たからですよ」

「見た? 何を……」

「対極の道にいる彼女を」

「対極の道って言っても、芳香は死んで道なんかありませんよ」

 

 彼女はじっと私を見つめていた。迫力に押されて黙り込む。何も言葉を発することの出来ない時間のあと、華仙様は一息ついた。それから小さく呟く。

 

「芳香さんは死んでいませんよ」

「え」

 

 華仙様は優しく微笑んで芳香の相手に向かった。私は置いていかれ、呆然として二人を見守った。庭から部屋に行き、いつものように過ごしている。

 芳香は確かに死んでいた。動いているが、これは死体だ。青娥に無理やり動かされているだけだ。私は誰より知っている。

 何より私は、芳香の生前を知る数少ない者なのだ。奴は水銀中毒で死んだ。よく覚えている。青娥の弟子で、変な奴だった。仙人を目指しているのに、変な思想を持っていた。結局、尸解仙になることも出来ず──見たからですよ──確か、遺体は残っていたんでしょう──声が頭の中で繰り返される。

 見たから? 

 

「華仙様!」

 

 帰り際、彼女を呼んだ。

 華仙様は僅かに頭を傾けた。顔はこちらを向かない。

 

「……芳香を、見たんですか」

 

 振り向いた華仙様の顔を見たとたん、目頭が熱くなり声が漏れてしまった。そうだったのか──華仙様は何処かで見た──生きている芳香を。

 彼女は微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。華仙様が帰ったあと、食事を終えて部屋に戻ると外に芳香が月明かりにぼんやり浮かんでいた。目蓋がちっとも動かない。瞬きさえしない少しの差でこいつの冷たさを知る。

 月を見ていると人間味を感じるが、それは客観的な意見でしかない。廊下から外に出て、隣で月を見た。

 

「……蘇我様」

 

 珍しく音量調節の上手くいった声量だ。反応を示すと芳香はこちらを見た。

 

「なあ、青娥、いつ帰ってくる?」

 

 思いもよらない質問だった。なんだ、こいつ、忘れてなかったのか。てっきり既に忘れてしまったと思った。心臓が音を立てて耳の奥で鳴っている。

 

「……分からない。何処にいるのか見当もつかないな」

「青娥」

 

 ぽつりと呟かれたその声に芳香を見る。無表情のままだった。

 

「芳香。最近お前に飯をやってる仙人様覚えてるか」

「え、えーと、かせ、かせん……様」

「好きか」

「む、うん、好きだ。ご飯くれるし、褒めてくれる。でも、青娥の方が好きだな」

「……なんで?」

 

 芳香は無邪気に笑った。

 

「青娥になりたいんだ」

 

 風が涼やかに芳香の髪を撫でる。じんわり、身体の奥が温かくなるような気がした。普段は的外れの答えばかり返ってくるのに、どうして今だけはこんなにもはっきりと言葉を伝えてくるんだろう。

 青娥に、なりたい。なりたかったじゃなく。まだなれると思っているのか。それとも──もう、なってしまったのか。対極の道に行った彼女は。「蘇我様」

 

「え、あ、なに」

「青娥、探してくる」

「……うん」

 

 私は太子様の傍にいたいと思う。この人を信じたいと思う。物部を、布都を仲間として認めたいと思う。信じたいと思う。

 だが、信じきれない日があったのも確かだった。何もかも放り出して逃げ出したくなる。そのあとに襲ってくる無の境地はしんとして、何も感じない。道教は知識と反比例するものである。ぼんやり、邪仙の白んだ目を思い出して、ああ、あれは、絶望ではないと悟った。言葉には出来ない。してしまったら、出来てしまったら、いけない。

 私は今でもここにいたいと思っているのか──。

 

「屠自古?」

 

 廊下から太子様が姿を見せた。私は黙礼をして近づいた。太子様は寝る前らしく、寝間着に身を包んでいる。

 

「まだ起きているんですか」

「ええ」

「今日、また山の仙人様がいらしていましたね。芳香に興味を示すのは青娥だけだと思っていましたが」

「意外と芳香も面白い奴です。青娥は目がいい」

「君が青娥を褒めるなんて明日は槍でも降るのかな」

 

 そう言われて初めて背筋を伸ばした。火照った顔を太子様に面白そうに見つめられ、思わず手のひらで隠してしまう。「最近、様子がおかしいと思いましたが」

 

「私ですか」

「ええ」

 

 太子様は右手を伸ばして私の頬に触った。指先が滑って顔を包み込む。冷えてきていた顔が再び熱を持ち始めた。目が泳いでしまう。「……やっぱり透けている」

「え」

「もう少し、君はよく見えていたはずなんだけどね」

「力が弱くなったということですか」

「私が判断することは出来ません。屠自古、君がよく分かっているはずです。何が原因なのか」

 

 私は今でも──太子様は頭を傾け微笑んだ。指先が掠りつつ、頬から体温が消えていく。右手の感覚がまだ残っている──私は今でも、ここにいたいと思っているのか。

 

「屠自古?」

 

 顔を上げると太子様が私を見ていた。

 

「泣いているのですか」

「な、泣いてなんかっ……」

 

 太子様から背を向け、衝動的に走り出してしまった。廊下を滑るように移動しつつ太子様の顔を思い出す。何が原因なのかも分からない熱いものが溢れて止まらなかった。

 ずっとここに居たい。敵わないと分かっていても近づきたい。守りたい。私だけが違う道にいるといくら感じても構わない。違う、違う、違う。違う。そっちに、行きたい。行きたい。行きたかった。

 行きたかった。

 

 それから数日間、意識がぼんやりとしていた。

 

 毎日同じことの繰り返しのようだが、そうでもない。皆同じことを言うわけではないから、私も返答は毎日違う。しかし大して考えずに物を言っている気がする。

 不思議な程、心中穏やかに日々が過ぎている。草木が揺れる様を眺めて落ち着いていく。風に髪を任せ、物部と二人で作ったパウンドケーキを口にした。

 

「屠自古っ」

 

 物部が皿に乗ったパウンドケーキを手に駆け寄ってきた。「一緒に食べよう」と言うので頷いて場所を空けてやる。

 戸惑った様子の物部がもじもじしながらパウンドケーキにフォークを刺したり抜いたりする。ぽろぽろと屑が皿の上に積もっていく。

 

「食べないのか」

「あ、た、食べる……」

 

 物部はおずおずと屑になったケーキを掬って口に入れた。

 

「と、じこ……提案がある。私を名前で呼ばないか……その、もう長い付き合いになるしこれからも長い付き合いだ。のう、屠自古。だから……」

「私にとって、お前はずっと物部だったよ」

 

 私の素早い回答に物部は放心したように口を開けて固まった。風が吹いて物部の皿の屑が床に飛ばされていく。

 

「今更布都にしろと? 自分勝手だ」

 

 自分勝手だ。

 

「ご──」

「謝るな。謝るなよ。それだって勝手だ」

「と……屠自古、体が……」

 

 下に目を向けると自分の体の向こうに床の模様がしっかりと確認できた。体の奥からひどい音がする。弾けるような、唸るような、雷の音。

 深い溜め息と共に治まっていく。どうしてなんだ。布都だって、仲間だと思っていたのに、どうして黒い渦の中にいるみたいなんだ。

 

「こわがっているのか」

 

 物部が恐る恐る言った。その顔が私は嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。

 確実に冷えていく肝が、恐ろしく重く感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の中で聞く雨音は体全部が包まれているような気がする。部屋の中央で一人で目をつむり、音を聞く。時折なにかカタカタと音を立てている。

 鈍く床を叩く音が繰り返されている。だんだんと大きくなっていき、ついには部屋の障子の向こうに人影が見えた。仕方なく立ち上がり小さく障子を開けてみる。

 

「なんだ、芳香……」

 

 部屋の前で芳香が座り込んでいる。溜め息をついて障子を大きく開けた。視界に、見覚えのある青が見えた。

 妖しい微笑みが懐かしく感じられた。そいつ──青娥は白い手で芳香の頭を撫で回していた。

 

「ふふ、いい子いい子」

 

 芳香は気持ち良さそうに目を閉じて青娥に身を任せている。久しぶりのご主人様が余程嬉しいのだろうか。私は部屋から廊下の二人を見下ろして何も言えずに黙っていた。

 

「蘇我様」

 

 語り掛けるような口調だった。独り言のようにも聞こえる。

 

「肝が冷えるって、ありますよね。本当に肝を冷やした者はお腹の中が、一生冷えたように……氷砂糖を喉の奥に詰まらせたように死んでいく。いつか、この氷砂糖が見つかるんじゃないかと怯えて……」

「ここか?」

 

 青娥の喉元に左手を当てる。つるりとした白い喉の感触が指先で滑った。透けた自分の手が青娥の肌を発光させているかのように感じられる。睫毛越しに、初めて青娥が私を見た。嘲るように彼女が笑う。

 

「今まで、生きてきたすべてを思い出していました。ふと、思い返すと、私は途方もない所に辿り着いたような気がします。こんなに楽しい人生になるとは思わなかった。でも、この道を選んだからこそ仙人を目指した原点には決して近づけないんです」

 

 近づけないと、思っていたのに。

 

「山の仙人様が私を訪ねてきた時、その場所に辿り着いたような錯覚を起こしました。夢を、見せられました。あの方に見透かされている気がしたのです」

 青娥は伏せていた目を開け、私を見た。「かせん、様に」私は左手を青娥の喉元から離し、溜め息を吐く。

 

「肝が冷えるって、こういうことですよね。蘇我様」

「なんで私に言うんだ」

「蘇我様は疲れたでしょう。理想を追うのも、待つのも」

「道教ではそれはよいことだ。きっと私は天にも行けるお前よりいい仙人になれるよ、青娥」

「歓迎しますよ」

 

 空気が先程より和らいだ。芳香が甘えるように青娥に抱きつく。青娥は愛おしそうに抱擁を受け入れた。その光景は今でこそ当たり前となったが、初めて見た時の衝撃は忘れられない。

 青娥は芳香が尸解仙になったことを知っていたのだろうか。青娥になりたいと笑って言う芳香を知っていたのだろうか。

 

「なあ青娥、なんで芳香をキョンシーにしてずっと一緒にいるんだ」

 

 青娥は頬を染めて微笑んだ。

 

「それを言葉には出来ませんよ」

 

 道場の外では、その想いがたった一文字に表されることを私は知っている。その笑顔を見て、長い間埋もれていた記憶が蘇る。芳香がまだ青娥の弟子だった頃、同じように青娥が笑った。青娥、青娥──私は青娥のような仙人なりたいよ、でも、なれなくてもいい。ただ傍にいるだけで、ただの仙人になるだけで──青娥は嬉しそうに笑った。

 そうか、知っていたんだ。全部、知っていた。

 そういえば、類義語辞典を捲ることなく私が発したその言葉は、芳香がキョンシーになってまだ間もない頃だった。

 

「──邪仙」

 

 青娥は私の言葉になんの躊躇いもなくこちらを向いた。その目が穏やかに陽の光に当てられ青く輝く。なんだ、分かってるんじゃないか。分かってるのに、どうして夢なんて見てしまうんだ。青娥は眉を下げ微笑んだ。

 

「なんですか、屠自古さん」

「私は……どうすればいい」

「道の行くままに」

 

 邪仙は至極穏やかにそう言った。

 雨粒が庭の緑を鮮やかにしている。雲の隙間から青娥の目を照らした光が差していた。私の指先が光を通して、綺麗に透けて見えた。その奥で芳香が不思議そうな顔をしている。

 

「青娥、お前は邪仙だよ」

「ええ、そこに道があったものですから」

 

 その言葉を言うだけのために、どれほど時間が掛かったのだろう。青娥はそれが当たり前だという顔をして芳香に微笑み掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道場の中は暗く、懐かしいにおいが立ち込めている。太子様の声だけが響いて、弟子や物部は真剣に話を聞いていた。久しぶりに入ったが、何も変わらない。私は弟子たちの固まりの後ろにくっついて座った。

 太子様は私の姿を見てぴくりと反応したが、そのまま話を続けた。注意深く見ていないと分からない程小さな反応だ。山を登ることについての話をしている。

 太子様の声は呟くような小さな声だ。登山では頂上を目指してはいけません、私は山の中腹が頂上だと考えます……。

 話が終わると、弟子は道場から出ていった。立ち上がった物部は私の姿を見てあからさまに固まった。太子様が物部の肩に手を置いて頷く。

 

「屠自古」

 

 私は黙って礼をした。

 

「……屠自古」

 

 太子様は掛ける言葉に悩んでいるようで私の名前を繰り返し呼んだ。物部が顔をしかめてこちらを見ているのを見て、思わず私は息を吸い込んだ。

 

「っ太子様、布都。私は……」

 

 何を言うべきか分からず、口を閉ざした。その時、太子様が視線をずらして「あら」と言った。視線を追って後ろを振り返ると、道場の外で話し声がした。そのうち芳香が顔を見せた。

 

「どうしました」

「うん、青娥がな、帰ってきた」

「そうですか。それは良かった」

「華仙様と喧嘩してる」

「喧嘩?」

 

 道場の中の三人は思わず顔を見合わせ、それぞれ外へ移動した。

 外では確かに青娥と華仙様がいて、喧嘩というより一方的に華仙様が説教しているように見えた。青娥はそれを笑顔で聞いており、全く意に介さぬ様子だった。

 

「いいですか、青娥さん。芳香さんの世話は一度決めたのならやり通して。犬や猫とは違って人間に害を及ぼす危険があるんですよ」

「分かってますわ──華仙様」

 

 華仙様は不満げに腕を組んだ。青娥は照れたように頬を赤く染めて笑っていた。隣で、物部が弱々しく微笑んでいる。太子様も微笑んでいた。「布都。太子様」

 二人は私の囁きにしっかり目を向けた。

 

「もう、私は待ちません」

 

 二人は呆気にとられたまま何も返事をしなかった。私の肝は少し冷えていった。

 

「分かってないでしょう」

 

 華仙様が小さく呟く。青娥はくすくす笑った。そして私を見つけ近づいて、肩に両手を置いた。後ろから「ねえ」と体を乗り出してくる。

 

「お陰で屠自古さんと仲良くなれたのですから、過ぎたことは忘れましょう。ね、屠自古さん」

 

 青娥は期待を込めて強く言った。

 

「きもっ。私は邪仙なんかと仲良くないぞ」

 

 青娥の手を払おうと出した私の腕が、はっきり色濃く見えた。結局帰ってくるのはここだったか。ならば、道の行く末まで見よう。青娥の手を払いのけ、この場の全員を振り返った。

 華仙様と青娥の言い合いが激しくなると、太子様が仲裁に入る。あとから物部や芳香も介入してその場は騒がしくなる。

 邪仙程ではないが少し、わがままになったかもしれない。ただ、傍にいたいだけなんて。誰にも聞こえない声で呟いた。

 ただいま。

 

 

 

 



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