銀嶺が青むまで   作:小栗チカ

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燔祭の吸血鬼 1

クルス・シルヴァ。

彼女の遠い過去はともかく、直近の過去は悲惨の一言に尽きた。

大崩壊と呼ばれる人類の歴史上、最大にして最後であろう災厄は、地上の文明を崩壊せしめ数多の生物たちを絶滅の危機に追いやった。

さらに審判の棘と呼ばれる謎の構造物が大地を引き裂き、そこから謎のバケモノが出現して、破滅の刻限は加速をつけて進んだ。

それに抗うため、人類は禁断の業に手を出した。

無限の再生を行う寄生体を人の死体に与え、不死の戦士としてバケモノと戦わせるという、あらゆる世界の宗教、習慣、人道から外れた愚行を犯すに至ったのである。

生きたい。

大切なものを守りたい。

一部の人類の強い意志は、この愚行の揺るぎなき大義であった。

しかしその裏で、人類が夢見る不老不死への渇望や、純粋で残酷な好奇心があったことは紛れもない事実である。

その証が彼女だった。

 

寄生体との適合率が極めて高い身を、人類と吸血鬼のために捧げると覚悟したその日から、クルスの身は彼女のものではなくなった。

再三にわたる身を切り刻むような実験や投薬。

大義のためと、研究者とその上に立つ者によってクルスの全身は遺伝子レベルで暴かれ晒され管理された。

一滴の血、細胞の一欠片すら余すことなく利用された。

自らの意志でこの身を捧げたはずのクルスだったが、苛烈さを増していく実験に、その意志は次第に疲弊していった。

彼らの実験や技術の成果と感謝の言葉に喜んでいたのに、いつしかそれが虚しく聞こえるようになった。

報いは人と吸血鬼の安寧だけで良かったはずなのに、いつしか心に空洞ができた。

そして、あの声が聞こえるようになった。

不安にかられて担当医に訴えたが、誰も何もしようとしなかった。

 

誰もが私を見ているはずなのに、誰も見ていない。

誰もが私の話を聞いているはずなのに、誰も聞いていない。

誰もが私をわかっているはずなのに、誰もわかっていない。

 

気遣う人々はいたし、投薬によって精神を安定させようともした。

それでも埋まりきらぬ心の空隙に、クルスは恐れ、怒り、嘆き、己の矮小さを自覚し、そして絶望した。

何度も死を願い自ら実行しようとして押しとどまる。

これはこの世界に生きる人々や吸血鬼のためだからと言い聞かせた。

そして己の意志で志願した行為である。

今更泣き言など言い出せない。

何より、生きたいのだ。

死にたくないのだ。

だけど、もう──。

生と死を望む両極端な思いにクルスは煩悶し、あまりの苦しみに思わず涙がこぼれた。

 

『弱音を吐けばいい』

 

声が聞こえた。

またあの声かと思ったが、あの巨大な意志とは違う声だった。

そもそも、それは声なのか。

周囲を見渡すが、暗がりに慣れた目に映るのは、無機質な機械と壁である。

 

『辛い、苦しい、怖い、やめたいと泣きつけばいい。気休め程度で特効薬にはならないが、この嵐をやり過ごすには十分な猶予になる』

 

クルスに構うことなく告げる声に、彼女は力なく首を振った。

 

「そんな人、いないもの……」

『君の父や友人がいる』

「ダメだよ。それはダメ」

 

今度はしっかりと首を振る。

 

「だってお父さん、仕事ですごく忙しいし、ルイだって普通の男の子だよ。こんなこと言って二人を困らせたくない」

『そうだな。君は健気で心優しい。そうでなければ、今この状態にはなっていない』

 

声の主は頷いたようだった。

 

『それに、彼らに君の思いを伝えても全て理解することなど到底できないだろう。この役割と戦いは君だけのものだ。だが、そんな君の心配と迷惑を受け持つのが彼らの役割だ。一度、彼らを信じてみてはどうだ?』

 

その声は、草木の枝と葉を揺らしても、傷つけることない穏やかな風のようであり、寄せては返す水辺の波のようだった。

 

『彼らを信じ、役割を果たす機会を与えて欲しい。何故なら、信頼とともに役割を果たすことは、得難い至上の幸福一つだからだ』

 

言うだけ言って声は消えた。

残された彼女の心には相変わらず暗い迷いがあったが、それ以上に強烈な疲れと睡魔が襲ってきた。

それに抗う気力もなく、クルスは目を閉じる。

寝よう、起きたらまた考えよう。

ああでも、このまま起きなければ、この痛みから逃げられるのかな。

再び荒れそうになるクルスの心を宥めるかのように暗闇が覆いかぶさり、彼女の意識は途切れた。

 

翌日の午後、クルスの友人ルイがやって来た。

その姿を見るだけで、絞り上げた心が緩むのを感じた。

彼女にとってルイは、実験に耐えるために停滞し凍りつく彼女の心に、温もりと安心を与える焚き火のような存在だった。

いつものようにルイの近況や学校での話を聞いた。

その光景が鮮やかに脳裏に浮かび頬が緩む。

それだけで良かった。

大崩壊後の荒れ果てた世界で、この小さく煌めくささやかな日常を守るためにこの身を捧げたのだ。

だが、そんなクルスの心に黒い点が落ちた。

墨汁の如き黒は見る見るうちに広がり、彼女の心を染め上げる。

私は、それを享受できないのか。

暖かなひだまりも、そよぐ風も、その風に運ばれる草木や花の香りも感じることない。

友人と会話をし食事をとることも、次に来る明日を無条件に信じて憂いなく暖かなベットで眠ることも許されないのか。

墨汁がそうであるように、その思いはいくら拭おうとも、彼女の心をくすませ二度と同じ色を取り戻せない。

 

「クルス?」

 

唐突に表情が無くなったクルスの様子に気付き、ルイは声をかける。

気遣うルイの声に彼女は我にかえり、笑顔を浮かべて答えた。

 

「あ、ごめんね。ちょっとボンヤリしちゃった」

 

それでこの場は収まるはずだった。

だが、心に風が吹いて彼女の心に揺さぶりをかける。

 

『弱音を吐けばいい』

『君の心配と迷惑を受け持つのが彼らの役割だ』

『彼らを信じてみてはどうだ?』

 

悪魔の誘惑のような声に、クルスは理性でそれを抑え込もうとした。

ダメ、ダメだよ。

迷惑かけたくない。

しかし、ルイは彼女をしっかりと見つめ、彼女の心を読み取ろうとする。

クルスは何かを隠そうとしている。

それはわかった。

では、隠そうとしているものは何か。

そんなものはもう、一つしか思い浮かばない。

 

「辛いのか?」

 

真っ直ぐに核心を突くルイの言葉にクルスの表情が強張った。

しかし彼女は顔を上げ、いつものように笑みを浮かべる。

 

「……そうだね。最近、ちょっとだけね。でも大丈夫だから」

「苦しいのか」

 

問いただすかのようなルイの口調に、クルスはいよいよ追いつめられた気がした。

昨晩のあの声がなければ、こんなことにはならなかったのに。

ごまかしきれたはずなのに。

声の主に怒りを覚え八つ当たりの矛先を向けようとするが、声の主は当然いない。

行き場を失った猛る感情をそれでも抑えこむべく、クルスはルイに向けて精一杯の笑顔を作った。

 

「気遣ってくれてありがとう。心配かけてごめんね。でも本当に大丈夫だから」

 

そう告げられたルイは息をのんだ。

クルスは花のような笑顔を浮かべながら、大粒の涙をこぼし、震える声で彼を優しく拒絶したのだ。

告げたクルスも激しく混乱した。

泣くつもりなど微塵となく、慌てて涙を拭うが堰を切ったかのように涙は溢れて止まらない。

何これ。

何これ、ちょっとやめてよ。

やだ、やめて困る。

ほんとに困るからやめてよ。

その姿にショックを受けたルイだったが、速やかに立ち直ると改めてクルスをしばし見つめる。

そして目に決意を宿すと、腕を伸ばして彼女の肩を抱いた。

 

「ルイ?!」

「ごめん。でもこのままにしておけない」

 

肩に回された腕と手は暖かく、寄りかかることになった細身の体は、思いの外しっかりとしており強い存在感を示している。

それが余計に涙を誘った。

 

「ルイ」

「辛いんだな」

 

それに加えて優しく温かい確認の声に、守り張り詰めていた全てが崩れるような思いがした。

心を丸裸にされたクルスは、観念したかのように力なく頷く。

 

「苦しいんだな」

 

何かを堪えながらもたずねるルイの声に、クルスは再びうなずく。

 

「そうか」

 

苦渋に満ちたルイの声に、クルスの胸は痛みを訴えた。

ルイにこんな思いをさせたくなかったから、今の今まで頑張ってきたのに。

だが、心が緩んでほどけるのを止めることはできなかった。

 

「それでも、頑張っていたんだな」

 

たった一人で。

クルスはうつむきながらも頷いた。

ルイも頷き、しっかりとその細い肩を抱き直す。

彼女は吸血鬼である。

その肉体は老いるどころか、もはや変化することもない。

しかし、今触れている彼女の体は、生前のそれと比べてあまりにか細く、頼りがないように思えた。

そんな彼女の強がりに救われていたのだ。

ルイは、自分を殴り飛ばしたかった。

 

ルイに、クルスの役割は肩代わりできないし、それに立ち向かう気持ちなど理解できるはずもない。

仮に理解できたとして、人類の命運を背負う彼女に対してできることはあまりにも限られている。

できることは、彼女の弱音や愚痴を受け止めることぐらいだろう。

だから、ささやかな疑念を抱いても彼女の鉄壁の笑顔に、彼女は大丈夫なんだと勝手に信じていた。

否、そう信じたかったのだ。

世界を背負って戦う彼女の心を受け止める覚悟がなかった。

愚痴や弱音を吐き出す場所を作れず、その結果、彼女はここまで追いつめられていたのだ。

己の不甲斐なさを恥じ入り、ルイは痛みに耐えるように固く目を閉じる。

それでも、静かにさめざめと泣くクルスの肩をしっかりと抱きしめ続けた。

 

「ごめんクルス。今まで一人で頑張らせてごめんな」

 

ルイの謝罪の言葉に、クルスは首を振った。

謝らなくてはいけないのは私の方だ。

そう伝えたかったが、昂ぶった感情に言葉にすることができず涙だけが流れる。

あの声の主の言うとおりだった。

ルイを信じていなかった。

拒絶されて傷つくことを恐れ、自分の本当の気持ちを伝えることをしなかった。

勝手に一人で閉じこもり、誰にも理解されないと嘆いていた。

誰も信じず、理解しようとしていなかったのは、自分も同じだったというのに。

何て愚かで身勝手な思い込みか。

ルイに支えられながらひとしきり泣き、クルスの荒れ狂う心の嵐は、その余韻を残しながらも凪の時を迎えた。

彼女はそっとルイから体を離す。

その様子にクルスが落ち着いたと察して、ルイはタオルを手渡した。

タオルを受け取り、涙を拭って呼吸を整えると、彼女は顔を上げた。

 

「ありがとう」

 

そして、何故かタオルで顔を隠す。

 

「でも、あんまり見ないでね。今、酷い顔だから」

 

クルスは泣き腫らした赤い目と鼻がつまった声を恥ずかしく思ったが、ルイは笑顔で首を振る。

 

「そんなことはない。やっと本当のクルスを見ることができたような気がする。何か、嬉しいよ」

 

言いながらルイは内心で首を傾げる。

あれ? 今俺、何かおかしなこと言っていないか?

捉えようによっては、けっこう恥ずかしい発言だったような気がするが。

困惑するルイだが、その時、ノックの音が聞こえた。

小さく扉が開き、見知った顔がその隙間から現れる。

色付きのメガネをかけた白衣の女。

ルイの姉の友人、アウロラだった。

 

「そろそろ面会時間、終わるから」

「はい、わかりました」

 

ルイが応じると、アウロラは頷き扉を閉めた。

改めてクルスを見たルイは、恥ずかしそうにしているその姿に思わず笑みが溢れる。

そんな彼に、クルスは思わずジト目を向けた。

 

「何?」

「いや」

 

可愛いなって。

とっさに出そうになった言葉を、ルイは慌てて飲み込んだ。

さっきからどうもおかしい。

問題は何も解決していないというのに、何故か浮き足立っている。

根拠のない希望を感じている。

間に合った。

唐突にそう思った。

何がと聞かれれば言葉にするのは難しい。

だがそれでも、間に合ったのだと思った。

 

「また明日も来るよ」

「え?」

 

思いがけない言葉に、クルスは戸惑いの表情を見せた。

 

「でも、明日は予定があるんじゃ」

「うん。与えられた時間だけじゃ確かに難しい。だから時間を作る」

 

そう言い、ルイは笑った。

自信に満ちた静かな笑顔に、クルスはルイの心の変化を感じた。

 

「最近、俺の話ばかりだったから、クルスの話を聞きたい」

 

クルスは思わず口をつぐむ。

話すことなんてなかった。

今の自分には、実験と研究とそれに対する暗い思いしかない。

あまりに空っぽな自分に彼女は愕然としたが、ルイは安心させるように頷いた。

 

「愚痴でも弱音でもいい。クルスが今したいことでもいいし、過去の話でもいい。寝た時に見た夢の話でも何でもいい。君の話を聞きたいんだ」

 

もちろん、話したくなければ話さなくてもいいけど。

そう続けたルイを、クルスはタオルを握りしめて見つめた。

ルイは、私とちゃんと向きあおうとしてくれているんだ。

ルイの気持ちを感じ、それをとても嬉しく思った。

 

「うん、ありがとう。考えておくね」

「俺も質問を考えておく。だから話す内容をまとめて、今夜はしっかり休むように。いいね、クルス君」

 

いつも話す教授のモノマネをしながら言うと、クルスは花が開いたように笑った。

 

「はい。お手柔らかにお願いします、ルイ先生」

「うむ」

 

二人は顔を見合わせ、声なく笑った。

そしてルイは立ち上がり、上着とバックを手にして扉へと向かう。

 

「それじゃあな、クルス」

 

告げるルイに、クルスは心からの笑顔を浮かべて頷いた。

 

「うん。今日は本当にありがとう。また明日」

「ああ、また明日」

 

ルイは部屋を出ていき、静かに扉が閉められる。

途端、クルスはベットに寝そべった。

疲れた。

久しぶりに泣いて、心の力も使い果たした。

そして、胸の内を話してしまった。

そのことへの後悔と、不思議な安堵感を覚えながら彼女は目を閉じる。

少し寝よう。

今なら、夢を見ずに眠れそうな気がした。

ありがとう、ルイ。

意識を手放す直前、瞼に浮かんだ心優しい友人に礼を告げた。

 

 

クルスの部屋を出たルイは、受付の男に一声かけて家路につくはずだった。

しかし実際は、数歩歩いたところで足元がふらついた。

同時に目の前が暗くなり、体の平衡感覚がなくなる。

 

「ルイ?」

「ルイ君?!」

 

あ、倒れる。

他人事のように思った瞬間、意識と感覚が途切れた。

そして見た。

猛るドブ川の水の如き黒。

怖気と不快しか感じない音と、油のようにベタつき、体中の穴という穴から侵食しようとするおぞましい感触。

 

生きたい。

食いたい。

一つになりたい。

 

その意志に、たちまち血肉は爛れて腐り落ち、骨は噛み砕かれ、髄を啜られた。

ルイという形を腐食し、同化して一つになろうとしている。

生きながら捕食される生理的嫌悪と激痛ににルイは激しく恐慌し、たまらず声を上げた。

 

「ルイ!?」

 

鋭く強く己の名を呼ぶ声に、ルイの視界に光が弾けた。

 

「ルイ!」

「ルイ君!」

 

光だけに満ちた視界が、速やかに影と輪郭、そして色を取り戻す。

目の前に、アウロラと受付の男が自分を見ていた。

状況が理解できず、その気持ちが思わず口からこぼれた。

 

「……あ、れ?」

「目が覚めたようね」

「ああ、良かった」

 

二人はホッとした様子で表情を緩め肩を下ろした。

何故か荒い呼吸を整えながら、ルイは状況を確認しようと全身の感覚器をフル活用する。

どうやら、ロビーチェアに寝かされているらしい。

 

「貴方、部屋から出てきてから倒れたのよ。ここに寝かせた途端、酷くうなされはじめて」

 

アウロラの話に、ルイはようやく自分の身に起こった状況を時系列で把握できた。

そして、全身から冷や汗がドッと出た。

あれは、何だったんだ?

心身を含めて共感できるがゆえに、あまりにおぞましい意志。

 

「カレンさんに連絡してきます」

「ありがとう、お願い。ルイ、もう大丈夫よ、しばらくここで休んでいて」

 

安心させるように言うアウロラに、ルイの心は反発の声を上げる。

大丈夫? どこが?

ルイの視界に広がるのは、簡素で無機質だが清潔な研究所の待合室である。

だが一皮剥けば、アレがいる。

ここだけではない。

この地上に、アレはあまねく存在する。

呼吸を整えながら、脳裏に閃きが走った。

アレが、この一連の災厄の元凶なのか。

あまりに唐突で突拍子のない憶測である。

だがアレの思いの強さと巨大さは何だ。

幻覚だと捨て置くには、あまりにもインパクトが大きすぎた。

……まさか、クルスが向き合っているのはアレなのか。

さらなる直感に、骨の髄から凍えるような気がしてルイは身震いをした。

 

「ルイ、寒いの?」

 

震え始めたルイにアウロラは声をかけたが、彼は答えられなかった。

今日は色々おかしい。

だがそれを言ったら、この状況自体がそもそもおかしい。

ルイは自問する。

俺が今まで見聞きしていた現実とは何だ?

惨たらしい程の存在感があるのに、酷く曖昧だ。

顔を手で覆いながらルイは首を振り、無意識のうちにアウロラの腕を掴み言った。

 

「助けてくれ」

 

口に出た声は震えていた。

アウロラの表情に変わりはなかったが、目に宿る光が鋭くなった。

 

「俺一人じゃ、クルスの心を支えきれない」

「ルイ」

 

ルイはここまでの出来事ではっきりと理解した。

一連の出来事の大きさと強さを前に、自分はあまりに小さく非力だ。

クルスといた時に感じた高揚感と希望に満ちた光は、錯覚だったとしか思えない。

ルイの心は完全に叩きのめされていた。

一人では無理だ。

ならば、助けを求めるしかない。

そして、彼の目に適う最もその役割に適した存在は一人しか思い浮かばなかった。

 

「……クルスをお父さんに、シルヴァさんに会わせてやることはできないんですか?」

 

その言葉に、アウロラは視線を落とした。

 

「ルイ、貴方もわかっているでしょうけど、彼は人類を守るために最前線にいる非常にお忙しい人よ。報告のための時間にすら限りがある状態なの」

「わかっている。でも」

 

ルイは昂る感情をこらえようと歯を食いしばったが、

 

「でも! その最前線で戦うクルスが壊れたら元も子もないだろ!」

 

感情を抑えきることができず、口から出た言葉は静かな待合室に鞭打つように鋭く響いた。

ルイの激した口調に、アウロラは息を飲み、受話器を手にしてルイを見つめる受付の男も沈痛な面持ちで口を閉ざした。

気まずくなった空気にルイの心は痛んだが、だがそれでも彼の思いは止まらなかった。

 

「すまない。アウロラたちを責めたいわけじゃないんだ。ただ、俺だけじゃ支えきれないことがわかったから、だからせめてクルスのお父さんに──」

 

感極まって言葉を無くしたルイに、アウロラは複雑な視線を向けた。

クルスとルイのやり取りは、室内の監視カメラでモニタリングしており、先程のやり取りも把握している。

ルイのおかげで、被験体のクルスの精神状態が既に限界に近いことを確認することができた。

だが、それを上に報告したところで聞き入れもらえるとは思えなかった。

例え彼女が壊れてしまおうとも、人類生存という大義のためにはやむ無し。

そう判断する研究員は少なからずいる。

その筆頭であるアウロラの上司、ミドウ博士は歯牙にもかけないだろう。

実際、クルスを柱とした『Q.U.E.E.N.計画』は、異例のスピードで成果を見せているものの、人類の危機から脱するには程遠い。

もう少し、あともう少し頑張って欲しいと研究員のアウロラは思う。

人類のためというのはもちろんだが、彼女にもミドウ博士レベルの好奇心はあった。

未知をこの目で確認したいと思う心は止められず、だからこそ、クルスの友人であるルイに心のケアを委ねた。

彼なら大丈夫と、研究者らしからぬ根拠のない楽観で過ごしてきたツケが、大きな負債となってアウロラの前に突きつけられたのだ。

ルイの訴えに、人間のアウロラは良心の呵責に苛まれた。

踏み倒そうと思えばできたが、その手はもう使えないことを思い知った。

 

「主任、カレンさんですが、これからこちらに迎えに来るそうです」

「そう」

 

控えめな口調で沈黙を破った男の声に応え、アウロラは腕をつかむルイの手をそっと離す。

そして、その手を優しく握った。

それは記憶にある幼い子どもの手ではなく、何かを守ろうとするしっかりとした男の手だった。

いつの間にこんなに大きくなったのねと、アウロラは場違いな感想を抱く。

 

「ルイ、貴方の話はわかったわ。シルヴァさんに直接お願いをしてみます」

「主任」

 

アウロラの言葉に、男は思わず声を上げた。

 

「上を通さないとまたうるさく言われますよ。ただでさえ煙たがられているのに、立場が悪くなりかねません」

「これは緊急事態です。真っ当な手順を踏んでいたら、通るものも通らなくなる。後できちんと報告すればいいのよ」

 

アウロラは、キッパリと言い切った。

 

「彼女を、被検体を守るのが私の役目です。私はそれを全うしたいだけ。それに、連中に私をどうこうすることはできない」

 

アウロラはルイの手を握ったまま、男の方を向いた。

そして眼鏡を光らせ、口を横に開き歯を見せて笑う。

 

「彼女をよりよく理解した私以上の研究者がいれば、話は別でしょうけどね」

 

そんな研究者、いる?

言外にそう言うアウロラの笑顔に、男は内心でため息をついた。

そうだった。

この平たく尖ったナイフのような研究員は、優秀かつ負けず嫌いの極地にいるような存在だった。

その類まれな才能以上の負けん気があるからこそ、あのミドウ博士に煙たがられながらも認められ、今の地位にいるのだ。

アウロラはその笑顔のまま、更に言葉を続けた。

 

「貴方にも協力してもらうわよ。毎度のことだけど覚悟しておいてちょうだい」

「……OKです、主任」

 

男は小さく溜息をつくと、頷き承諾した。

男とてクルスや計画の内容については思うところはあったし、後ろめたさも感じていた。

その良心の痛みが、彼の決断を後押しした。

 

「アウロラ」

 

やり取りを聞いたルイは、顔から手を外してアウロラを見た。

その声にアウロラは笑顔を収めると、厳しい目線をルイに向けた。

 

「でもダメ元よ。説得はするけど期待はしないでちょうだい。彼、本当にお忙しい方だから」

「わかっている。それでも、クルスのために」

「ええ。できる限りのことはするから」

 

ルイの手をしっかりと握り、アウロラは安心させるように頷いた。

三人を照らす熱なき白い光に満ちた待合室。

そんな光の中にあって壁に床に存在する数多の影たちが、三人を見守るように静かに存在していた。

 




ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
誤字脱字言い回し等、修正がありましたら都度修正します。
こちらでお知らせなどを語っておりますので、よろしければご覧下さい。
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