その後のクルス・シルヴァの道のりは、苦しくも順調と呼んで差し障りはなかった。
数々の実験と研究成果は、バケモノとの戦いを徐々に拮抗状態にまで持ち込むまでに至った。
しかし、研究が進むということは、寄生体の正体、その根源に近づくことである。
不安定になる彼女の精神を安定させ、正気を保てていたのは、ルイやグレゴリオといった理解者や、アウロラやカレンたちのような心ある研究者の尽力があったからだった。
クルスは恐るべき精神力で、過酷な研究や実験という荒波を乗り越えていたが、ついにその日は訪れた。
この計画において最大にして最も過酷な実験は、クルスを昏睡状態へと陥れた。
研究者たちは手を尽くすが、彼女は目覚めない。
それでも、強硬に計画を推し進めようとするミドウ博士に対し、それを阻止しようとするアウロラたち研究者とで対立は激化。
報告を受け、事態の深刻さを知ったグレゴリオの命により、計画は一時中断することとなった。
この期に及んでも諦めきれず、諍いを捨てられない、賢くも愚かな人間たちは知る由もない。
元々この戦いは負け戦であること。
計画は暗礁に乗り上げ、彼らが管理できる範囲をとっくに越えてしまっていることに。
そんな中でも、クルスに少しでも寄り添おうとするルイは、時間を作っては研究所に足を運んでいた。
「あの、クルスは?」
ルイの問いかけに、受付の男は辛そうに首を振った。
「今日もダメだった。主任や君のお姉さんも不眠不休で頑張っているんだけどね」
「そうですか」
ルイはクルスの部屋へ繋がる廊下を見つめた。
待つのは辛く、もどかしく、心が擦り切れ潰されそうになる。
何もできない無力感に、ルイは肩を落とした。
「君は凄いな」
受付の男の言葉に、ルイは視線を男に向けた。
その顔には蓄積された疲労が滲んでいたが、素直な賞賛の色が浮かんでいた。
「僕は彼女の家族でも何でもないけど、こうして時間を作って彼女に会いに来てくれたことを嬉しく思う。だからきっと、彼女はもっと喜んでいると思うんだ」
「凄く、ないです」
ルイは重たい口を動かした。
「教授もクルスの件でつきっきりで、講義もないから時間があるだけだし、俺はこんなことしかできないから」
俯くルイに、男は変わらず笑顔を向ける。
「うん。でもこの状況で、できることを正しくやっている君は、やっぱり凄いと思う。待つのは大変だけど、また来てやってほしい」
「はい」
男の飾り気のない慰めの言葉が、ルイの心に沁みた。
クルスは戦っている。
ここへ戻ってくるために、想像を絶する戦いに身を投じているに違いない。
ならば、信じて待とう。
そして、帰ってきた彼女を笑顔で迎えよう。
きっと元気になって、笑って話せる日がくる。
ルイは気を取り直し、男に挨拶をして立ち去ろうとして、ふと足を止めた。
予感がした。
クルスは近いうちに目覚めるのではないか。
なんの根拠もない、彼らしくない直感が心に浮かぶ。
……明日もまた来よう。
そう決意し、今度こそルイは待合室を後にした。
面会時間が終わって男が去り、消灯時間を迎えた待合室とその一角は、仄かな非常灯の明かりだけを残して深い闇に沈んだ。
食いたい。
生きたい。
一つになりたい。
ルイの予感は当たった。
クルスは水中から顔を出すように、大きく呼吸しながら目を開く。
だが、開かれた目に異変があった。
明るく温かい炎のような赤い右目に対し、左目は墨を流したかのように黒くなった白目と、すべてを飲み込む意志を湛えて青く爛々と輝く目になっている。
その左目は、闇に包まれた室内をはっきりと見通し、研究所の内外問わずあらゆる生命の在り処を、さらにはこの地上を走る地脈をも見抜いた。
左目から流れてくる膨大な情報を遮断すべく、クルスは左手を動かして目を押さえようとして我が目を疑った。
左手が、正確には左前腕が真っ白に溶けて木の根っこ状になっていた。
それは怪しく悍ましくうねりながら、クルスに向かって爪を立てようとする。
「ひっ!」
その動きに生理的嫌悪を催し、たまらず声を上げて遠ざけようとするが、それは更に伸びてクルスの顔を掴もうとした時だった。
「イメージするんだ」
唐突に聞こえた声。
その声の正体を探る暇なく、クルスは右手でそれを押さえようとして、更に気付いた。
右前腕も同じ状態になっており、左腕の木の根状のものを抑えようとする。
パニックで声を上げようとするクルスに、それは落ち着いた声で言った。
「自分の形を強くイメージするんだ。君の手は、腕は、どんな形をしている?」
私の手、腕。
点滴針と注射針の跡が酷くて、両腕とも包帯で覆っていた。
左手首にはネームタグ。
両手は黒い手袋をつけていた。
ルイやお父さんに会う時ははずしていたけど。
その二人と手を握った時のことを思い出し、その暖かさと大きさを思った途端、クルスの両腕が元に戻った。
「あ」
「その感じだ」
両手を自分の頬に添える。
いつもの自分の手の感覚に、クルスは心から安堵を覚えた。
そして、声の主を探るべく視線を動かす。
電子機器の小さな光以外は闇しかないはずだった。
現に右目はそうとしか見えなかったが、左目は別の世界を映し出していた。
黒い黒い闇に溶け込むような、背負っているような、性別も年齢も輪郭すらも定まらない人影があった。
「貴方は」
「気を抜くと形が崩れる」
「え?」
「足」
見れば、両脚が溶け出し真っ白な根っこ状になり蠢いていた。
安堵もつかの間、再びクルスは恐慌状態になった。
もう、わけがわからなかった。
「イメージだ」
再び言われ、クルスは全身の形をイメージすると、足は元の形を取り戻した。
両足を手で撫で、ため息をつく。
「一体何が起こっているの?」
思わずこぼれた一言に、人影が揺らいだ。
「見てのとおりだ」
「え」
「ここが君の世界の果て。限界だ」
クルスはまじまじと人影を見つめるが、どれだけ目を凝らしても形は判然としない。
人影は語る。
本来であれば、クルスはとっくに人の形を保ったままバケモノに取り込まれ、今頃世界にさらなる災厄を振りまいていた。
そして、取り返しがつかないほどの罪業を抱え込むことになっただろう。
だが、早い段階で自己の扉を開けたことが功を奏した。
良き理解者とバックアップを得たクルスはそれを支えにし、恐るべき精神力で持ちこたえていたのである。
しかし、それも今回の実験で限界を迎えた。
精神はともかく、肉体は寄生体の侵食が大きく進み、人の形をなくしつつあるのだと。
「実験の負荷と寄生体の侵食。君はどこまで自分を保てる?」
保ってみせる。
そう言いかけて口を閉じた。
頭の片隅の理性と、人の身体が揃って声を上げていた。
無理だと。
現に、少し気を緩めただけで人の形をなくしていたではないか。
もし、これが実験で再び自我を無くしたら──。
アウロラやカレン、他の研究者たちの前で弾けて生まれる不定形の白いバケモノを幻視し、思わず目を逸らした。
だが逸した先で、面会に来たルイや父に、白いバケモノと化した自分が襲いかかる場面を見た。
「いや! 止めて!」
「形が崩れる」
その声に我に返ったクルスは、自分の両手と両足が白く溶け出していることに気付き、慌てて自分のイメージを固める。
元には戻ったが、クルスは大きく喘ぐと俯き、戻った両手で顔を覆った。
「そう。……私はここまでなんだね」
「ああ。お疲れ様だ」
その労りの言葉がとどめになった。
最早、人や吸血鬼と共に進むことも、後戻りすることも不可能だった。
夕暮れの太陽のように赤く輝いていた彼女の闘志は、深い群青色の闇へと沈む。
戦いは終わったのだ。
クルスはその現実を、疲れと悲しみと共に受け入れた。
「それで、これからどうする?」
「……はい?」
クルスは間の抜けた声と共に顔を上げた。
「君はまだ生きていて、自我も保てている。君はこれからどうするのかと聞いている」
その問いかけにクルスは気づいた。
まだ、できることがあるのではないか?
肉体は人でも吸血鬼でもなくなり、もはやバケモノと呼んだほうがふさわしい。
しかし、自我はまだある。
この身になったからこそ、できることがあるのではないか。
「ねえ」
思わず気安く呼びかけてしまったが、人影は意に介していないようだった。
「私の自我はどこまで持つと思う?」
「さて。だが、君たちが君の中に育てた寄生体の侵食は早く強く大きい。君の意志次第だが、あと数時間、もって夜明けまでだろう」
「そんなに──」
早いのか。
言葉をなくすクルスだが、その言葉には説得力があった。
己の意志で書き換えなければならないほど大きく進んだ寄生体の侵食は、精神にも影響を及ぼし始めている。
こんなに意識はしっかりしているのに、聞こえるのだ。
感じるのだ。
寄生体を通じた大いなる意志が、ヒタヒタと静かに確実に、すぐそこまでクルスに迫っていることに。
それはあまりに強大であり、人の身を元にしたクルスの意志などあっという間に飲み込まれるだろう。
放っておいても、あの最悪な光景は現実のものになる。
もうここにはいられない。
クルスは拳を握りしめた。
──悔しい。
クルスははっきりとそう思った。
そうだ、大崩壊から人は負けっぱなしだった。
誰もがこんなにも頑張っているのに、一度の勝利もなく負けてしまうのか。
でもそれは仕方のない話だ。
冷静な声がクルスを宥める。
抗う相手が、あまりに大きかった。
この星の小さな生き物では、到底勝ち目などなかったのだ。
それでも。
それでも、それでもと、クルスはみっともなく未練にしがみつく。
何か方法はないのか。
できることはないのか。
諦めたくない。
私も、ルイもお父さんも、研究所のみんなも、人類も、不憫で哀れで可哀想なままで終わらせたくない。
その時、クルスの脳裏に光が弾けた。
それはいつのことか、ルイが面会に来た時のことだった。
実験後で経過観察にと、ルイの姉カレンも同席していた。
その時、ルイはクルスの負担を軽くすべくあるアイデアを伝えた。
それは、吸血鬼が継続的に安定して戦うための、補給の拠点と供給網の構築だった。
しかし、時間と物資、運用方法、そして補給源の中枢を如何にするかという難題を前に、良いアイデアではあったがお蔵入りになったのである。
胸におこる火の気配。
暗闇に沈んだ闘志に火が付き、熾火となって赤に白にと静かに燃え始めるのを感じた。
これだ。
今の私なら、このアイデアを実現できる!
クルスは胸に手をあて、ここにはいない大切な友人に呼びかけた。
ルイ!
ルイはやっぱり凄いよ!
だって貴方は、最後の最後まで私に光を見せてくれる。
私だけじゃない。
このアイデアが実現すれば、吸血鬼の負担は減る上に安定化をもたらすだろう。
それはこの地表に生きる全ての存在に、小さくとも希望の光を見せてくれるに違いない。
ルイ、やっぱり貴方は素敵な魔法使いだったんだね。
この戦いは負け戦である。
相手はこの星そのものと言っていい。
そんな強大な意志と力を前にして、どれだけ抗おうとも、この星の地表でしか生きることのできない生物に勝ち目はない。
でも、ただでは負けてやらない。
クルスの赤い右目に闘志の光が宿る。
負けても未来へ繋げる。
繋げたその先に、この星の意志と力に勝つ未来があるかもしれない。
もしかしたら、勝ち負けなど関係ない、誰しもが想像つかないような未来があるかもしれない。
クルスは、その可能性に賭けることにした。
「やることは決まったか」
人影の言葉に、クルスは力強く頷いた。
「うん。ここを離れて神殿の丘へ向かう」
「……ここからだいぶ距離があるな」
「例えよ。祭壇に相応しい場所ならどこでもいいの」
「なるほど、祭壇か」
人影は首を傾げた。
「君はイサクじゃないんだろう」
「うん。私はイサクじゃないしなれないよ。お父さんもアブラハムじゃないし、させるつもりもない」
クルスはキッパリと言い切る。
「……神様は信じているけど、ルイやお父さん、アウロラやカレンたち、この星に生きるみんなが作る未来も、同じくらいに信じているから」
「そうか」
「ねえ」
クルスは慣れた様子で人影にたずねる。
「書くもの持っていない? みんなにちゃんとお礼をしたかったけど、さすがに無理だから手紙か何か残せたらなって」
「お安い御用だ」
音もなく気配もなく、全く持って唐突にクルスの手前に備え付けのテーブルが現れた。
その上には真っ白な飾り気のない便箋と封筒、そしてペンが置いてある。
思わず人影に目を向けた。
青い目が無意識に正体を探るが、その姿はやはり曖昧だった。
「貴方、魔法使いなの?」
「いや」
人影は首を振った。
「ただの『女王殺し』だ」
「え?」
……女王、殺し?
縁もゆかりも聞いたことすらない物騒な単語に、クルスは疑問の声を上げるが、
「時間はない。急いで書くといい」
促され、クルスはペンを手に持った。
時間がないこともあったが、いざ書き始めようとすると書くことがありすぎて、逆に何も書けなくなった。
それでも言葉を連ねて飾ろうとしたが、全てが薄っぺらく、気持ちを伝えるのには全然足りないように思えた。
結局、ルイと父、研究所のみんな宛に1枚ずつ書き、綺麗に折りたたんで封筒におさめる。
手紙をサイドテーブルに丁寧に乗せたクルスは、人影にむけてふと笑った。
「貴方、この研究所に向かってきているバケモノたちを抑えてくれているんだよね」
「その左目は誤魔化せないか」
「うん。カメラ映像の偽装もしてくれて、いたれりつくせりだね」
「気にする必要はない。こちらの都合もある」
「そっか」
クルスはベッドから立ち上がった。
ソックスを通して、足の裏から硬く冷たい床の感触を感じる。
そして、扉に向かって一歩一歩、確認するように歩いた。
しばらく寝たきりだったが、移動に問題はなさそうだった。
研究所は厳重な警備が敷かれているが、今の彼女には意味をなさない。
扉の前に立っただけで、小気味よい電子音とともにロックは解除された。
「色々ありがとう」
「短い時間だろうが、良い旅を」
クルスは笑顔で頷き扉を開けた。
そして、廊下の闇に溶け込むように姿を消す。
扉は静かに閉まり、再び電子音と共にロックされたのだった。
◆
研究所の敷地を抜け、クルスは闇の帳に覆われた荒れた大地を走った。
久しぶりの地上は、埃っぽく乾燥しており、おまけに記憶にあるより瘴気が濃いように思えた。
焼入れした鋼のような夜空には、比較的明るい星がいくつか見えたが月の姿はない。
代わりに、研究所の窓からも見えていた審判の棘が、街灯のごとく地上を照らしていた。
誰も傷つけず気付かれずに研究所を出れたことにクルスは安堵しつつ、苦いものを感じた。
この地上で最も警備がしっかりしているはずの場所を難なく抜け出すことができたのは、今もクルスの身と心を蝕む寄生体の力のおかげである。
寄生体≒星の力の差が、人類の叡智と比較してまだ歴然とした差があることを思い知った。
だが今は、それを最大限に利用してやる。
クルスは全力で駆けた。
その速度は人間の比ではない。
たちまち褐色の肌には絶え間なく汗が吹き出し流れ、手術着が汗で肌に張り付いていた。
白銀の長い髪も同じようにまとわりつくが、クルスはそれを振り切るように懸命に手足を動かした。
「痛っ!」
足の裏に激痛が走った。
立ち止まって確認したかったが、立ち止まれば飲み込まれる恐怖に襲われ、クルスは仕方なく激痛をこらえて地面を蹴った。
事実、クルスの背後には、怒涛のごとく津波が押し寄せてきていた。
赤い目で見えるのはバケモノたちの群れであり、青い目で見えるのはクルスの身と心を苛み、侵食して塗りつぶそうとする巨大な意志である。
それは語りかける。
抵抗せずに受け入れれば、無限と思える苦痛と、心を凍らせ干上がるような孤独から解き放たれ楽になるのだと。
その抜苦与楽の声は、神か仏か悪魔か、それとも彼女自身か。
うるさい! 黙って!
クルスは叱責する。
甘ったれた言い分を聞くのは、もう飽き飽きなのよ!
しかし、荒れた大地を走るには、靴を履かないクルスの足はあまりに無防備だった。
小さな小石やガラスですら彼女の集中力を削ぎ、容易に傷つける。
吸血鬼の再生能力で傷は塞がるが、それが連続すれば再生は追いつかない。
いつしかクルスの足は血まみれになり、激痛が当たり前の状態になった。
クルスの血肉は、この世界の人類にとって至宝とも言うべき極めて貴重なものであったが、彼女は構うことなく走り続ける。
熱い。
痛い。
苦しい。
やろうと思えば空を飛ぶこともできた。
自分の実験で作られたヤドリギを利用することもできた。
しかし、クルスは自分の足で走ることを選んだ。
そのクルスの意志、脳の指令に身体は全力で応じようと活性化する。
肺は酸素を求め、寄生体の宿る心臓は血液を全身に送るべく激しく鼓動を繰り返す。
炭水化物と脂質を燃やして筋肉は動く。
肉体が魂を縛るとは、誰の言葉だったか。
肉体から発する痛みと苦しみが、皮肉にも自分の肉体の形を強く意識させる手助けすることに気付いていたからだった。
走り続けて一時間ほどが経過していた。
クルスの青い左目は揺らぐことなく、この地上を血管のごとく張り巡る地脈を捉えていた。
それが導くのは、この星に点在する地脈の源泉、彼女の目指す『祭壇』である。
しかし、まだ遠い。
おまけに目の前には空の闇よりさらに明度を下げた、悠々と聳える山並みが見えていた。
まるでクルスに立ちはだかるかのようなその偉容。
クルスは山並みを見据えていたが、不意にその表情が歪み、走る速度が急激に落ちた。
視界が霞む。
体の自由が利かない。
何故?!
焦るクルスに身体は静かに告げた。
水分とエネルギーが足りない。
研究所を出る前もその後も、水分とエネルギー補給をしてこなかった。
なのに常人ではあり得ない速度で、長距離を全力疾走をしてきたのだ。
結果、身体は脱水症状にあわせて低血糖状態に陥ろうとしていた。
人間なら間違いなく命の危機である状況に、クルスは肉体の不自由さを感じずにはいられない。
それすらも、自分を形作ることに苦笑いを浮かべるが、意識障害はさすがにまずかった。
ご飯とお水、摂らなきゃ。
フラフラと走りながら、クルスは必死でその方法を考えようとする。
しかし、それを邪魔するかのように、背後からバケモノたちの無数の足音が聞こえてきた。
その不快なノイズに、クルスの焦燥はピークに達した。
ダメだ、このままでは最悪の終わりを迎えてしまう!
その時、思考がグルリと回転した。
……ううん、ダメじゃない。
全然ダメじゃない! むしろチャンスだ!
クルスは走りながら、力の入らぬ腕をノロノロと虚空へ伸ばす。
渾身の力で掴み引き寄せる動作とともに、布状に形をなしたものがクルスの首と肩を覆った。
さらには、クルスの顔の下半分に赤い浄化装置の付いた銀色のマスクが現れた。
吸血牙装。
これもまた、クルスの身体をもとにした実験の成果物であった。
クルスの両眼が、闇夜に鮮やかに輝く。
同時に闇色のショールは枝分かれしながら増殖し、まるで翼のように後方へ大きく広がり伸びた。
途中でそれは様々な形の巨大な刃となり、バケモノの身体を容赦なく刺し貫く。
それだけではなかった。
地に穿たれたショールは、後方のあちこちから審判の棘よろしく、地上に様々な形、大きさの刃となって勢い良く現れ、バケモノたちを容赦なく屠っていった。
その刃を通して、バケモノの血肉が貪欲に吸収され、クルスは走りながら全身に力が漲るのを感じ、その両目が喜色に潤んだ。
津波のように押し寄せていたバケモノの大群は、吸血牙装を通してクルスに食われ瞬く間に数を減らしていき、圧倒的な気配はついになくなった。
クルスは泣き笑いの表情を浮かべた。
ああ、バケモノを食べて力にするなんて、本当にバケモノになっちゃったのね。
感傷に浸る間はなかった。
食事を摂ったことで、身の内の寄生体も活性化している。
自我が飲み込まれる前に、ルイのアイデアをこの世界に実現するのだ。
吸血牙装とマスクが霧散するように消え、表情を引き締めたクルスの顔があらわになった。
再び力を取り戻した足で地を蹴り、クルスは全力疾走の山登りへ挑んだ。
天の小さな星明りと遠くにある審判の棘の光だけでは、山中の闇を晴らすには当然至らない。
しかし吸血鬼となり、さらにはそれを越えたバケモノへと近くなっているクルスの目には、山の風景が鮮明に映し出されていた。
元は樹林帯であったであろう場所を登り始めてからしばらく、下半身、特に臀部の筋肉とハムストリングスが悲鳴を上げた。
足裏は既にボロボロであり、痛みは常態化している。
酸素を求める肺と喉の痛み。
激しい運動によって上がった体温を下げようと、汗が吹き出し身体を少しでも冷やそうとする。
それは人体を守る大切な生理機能だったが、今度は低体温症の危機に陥れる諸刃の刃でもあった。
だがクルスは構わず走り続け、ふと気付いた。
いつの間にか苦しさや痛みが軽減していた。
全身にしっかりと血が巡ったことで、呼吸が楽になり体の負担が軽減したことと、脳内でα波と脳内麻薬が発生したことによる、ランナーズハイがおきたからだった。
嬉しい。
どこかぼんやりした頭でクルスは思う。
何故かはわからないが嬉しい。
呼吸をし、血は巡り、燃料を燃やして筋肉は動く。
それだけだ。
ただそれだけなのに、クルスの胸は喜びでいっぱいになった。
クルスの身体は、研究所に入ったその日から彼女のものではなくなった。
他人に暴かれ晒され管理され、ついには人の形を無くしつつあった。
だが今は、己の意志で動かせる。
行きたい場所へ行くことができる。
走る身体の痛みと苦しみは、自身がもたらすものだ。
その事実に、体の芯が燃え上がりクルスの満面の笑みを浮かべた。
こんなに不自由な身体なのに自由だ!
喜びと解放感のあまり叫びたかった。
私はここにいて、自由だ!
クルスは歓喜と身体から湧き上がる衝動に任せ、走る速度をさらに上げた。
今このひととき、クルスは己の身体を取り戻すことができたのだった。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
誤字脱字言い回し等、修正がありましたら都度修正します。
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