束の間の幸福な時間は終わりを迎えた。
高度が上がり、周りの風景が変わった。
植物の姿はなくなり、大きな瓦礫や岩が多くなって走ることが困難になった。
遮るものはなく、冷たく乾いた風はたちまちクルスの体温と水分を奪っていく。
空気が薄くなり、酸素が減ったことで呼吸が難しくなった。
どれだけ呼吸を繰り返しても身体は楽にならず、頭痛と倦怠感がクルスを襲った。
低体温症と急激な高度上昇による高山病。
人間であろうがなかろうが即撤退の状況だが、クルスに引き返す道はない。
クルスは覚悟を決めて岩場に取り付いた。
吐き出す息は白く、手足の感覚が急速に乏しくなった。
ふらつき転げ落ちそうになるのを、疲れきった体幹と下半身の筋肉で支え、ボロボロの足の裏で踏ん張りながら、慎重に高度を上げていく。
先程の人類からかけ離れた脚力が嘘のような、まるで亀のような歩みだった。
しかし、脇目もふらず、己もかえりみず、荒れた山肌を彼女は無心で登り続けた。
ふと顔を上げると、尾根が見えてきた。
天気が安定していたことと、高度な登山技術を必要とする箇所がなかったのは不幸中の幸いだ。
もう少し、後もう少し。
クルスは心の内で自分を励ましながら、疲れと冷えとで固まる手足を動かし、這うようにして岩場を登った。
そして、尾根に出たクルスの眼前には、絶景が広がっていた。
雲一つなく、月の出ていない空に降るような様々な色の星々。
煌めきながら天に伸びる真っ白な帯は銀河だろうか。
星の知識はあまりなかったが、悲惨な地上とは無縁の夜空の美しさに、クルスは一瞬状況を忘れて見惚れた。
視線を元に戻せば、黒々とした山々と、それらを軽く凌駕する審判の棘の光が見える。
しかし、棘と呼ぶには違和感があった。
枝分かれをして伸び、天を覆うかのような姿は、節があれば竹そのものだ。
そして下げた視線の先には、四方を山に囲まれた盆地と、それを無残に切り裂く大きな断崖が目に入った。
異形の青い左目は、その断崖の一部から星に点在する地脈の発生源を捉える。
あれこそが、クルスの目指す『祭壇』であった。
しかし、クルスに喜びはなかった。
あの盆地に向かうためには、この岩ばかりの急斜面を降りなければならない。
登りと違い、下りは転んだら大怪我どころか致命傷を負う可能性がある。
クルスは慎重に岩の斜面を下り、平らな大地へと降り立った。
身を切るような冷たい風に凍えながら、クルスは足元に気をつけて断崖へと向かう。
クルスの身なりは、すっかりみすぼらしいものになっていた。
身体の出ている部分、特に手足の指と耳が凍傷によってむくみ変色している様が、みすぼらしさに拍車をかけている。
だが、クルスは懸命に足を動かし、ついに断崖の際が見えてきた。
クルスの顔が思わずほころんだ。
もう少しでゴールだ!
唐突に足が動かなくなった。
比喩でも何でもなく、全く足が動かない。
クルスは足元を見、息を飲んだ。
足に根が張っていた。
足は人の形をなくし、文字通り根のようになって地面に食い込んでいたのである。
クルスは焦り、足の形を強くイメージするが、足は強固にその形を維持し、しっかりと地面に根を張っている。
嘘? 何で? どうしてこんな時に!
生きたい。
この世界で生きたい。
声が聞こえた。
それは、クルスの心を蝕む声でもなく、クルスに関わる人たちの声でもない。
自分の声だった。
自分の体が発する根源的な欲望は、研究所を出てここに至るまでの間、極めて健全な形で満たすことができた。
あの快楽と苦痛を、幸福を、生きてまた味わいたい。
そう思うのは、至極当たり前のことだった。
そこに来て、あのクルスを蝕む声が追い打ちをかけてきた。
こちらに来れば生きられる。
呪縛から解き放たれ、楽になれる。
食べて飲んで生み出して、自由に動ける。
「やだ、やだやだ! やめてよ!」
クルスは声をあげた。
「お願い動いて! 動いてよ!」
しかし、身体は動かない。
例の声に誘われるまま、身体は生きようと人の形をどんどん崩していく。
形が崩れるに従って心が希薄に楽になるのを感じたが、年頃の少女の自意識はそれを許さず、心の底から突き上げる生理的嫌悪に絶叫した。
どうして、どうしてこんなことに。
錯乱するクルスの意識に、冷たい自分の声が聞こえた。
当たり前だよ。
だって私、今まで身体を大切にしてこなかったじゃない。
人類のため、みんなのため、自分のやりたいことのため、自分の意志ばかり優先して身体を労ることあった?
こんなに痛かったのに、苦しかったのに、辛かったのに、見向きもしなかった。
裏切られて当然でしょ。
自己管理もできない小娘のくせに、綺麗事ばかり言って馬鹿じゃないの。
自業自得よ。
「ごめんなさい」
クルスは容赦のない自責の声に、うつむき詫びた。
「ごめんなさいごめんなさい」
ごめんなさい、私の体。
研究所に入ってからずっと無理をさせ、今もそれは継続中だった。
己と他人の意志に振り回された身体が、自由に生きたい、楽になりたいと願うのは当然だった。
クルスの全身が、大きさも形も変えていった。
それに比例して意識は拡大するのに、クルスの自意識は薄れていく。
クルスの青い目は闇夜にあっても煌々と輝き、右目は赤に青にと目まぐるしく色を変えた。
そして、クルスは見た。
バケモノと化した己が、数多のバケモノと堕鬼を引き連れて、人類にとどめを刺すべく進軍する様を。
最悪すぎる光景に、クルスの心は引き千切られんばかりの痛みを訴えた。
と、不意に画面が切り替わった。
人の形を残したままバケモノと堕鬼を引き連れた己と、己を殺すべく父が編成した討伐軍が戦争をしていた。
数多の犠牲と怨嗟を生みながら、戦争は最終局面に入る。
そこに父の援護のもと、二人の吸血鬼が果敢に戦いを挑んできた。
一人はクルスの気を引くべく我が身も顧みず陽動し、一人はその陽動から生まれる隙を狙って辛抱強くクルスの動きを見定めていた。
その赤い目に、何故か見覚えがあるような気がした。
これは、何?
『やめていいんだぞ』
電源が落ちたかのように、唐突にその光景は消えた。
周囲が暗くなり、クルスの眼前に人影が現れる。
『そんなに辛かったら、やめてもいいんだぞ。クルス』
父グレゴリオの姿と言葉に、荒れ狂う波に翻弄される船のごとき心は唐突に静まった。
そして、クルスの赤い目から滂沱の涙がひび割れた頬にいく筋も伝った。
責務を投げ、娘を守る選択肢を選ぼうとした父の覚悟。
本当にそれを実行した場合、人類と吸血鬼の非難と呪詛はグレゴリオはもちろん、娘のクルスにも間違いなく及ぶだろう。
グレゴリオに、それを予想できないはずがない。
それも含めてグレゴリオは覚悟し、世界の全てから娘を守ろうとした。
父に、そんなことを言わせた自分の不甲斐なさが申し訳なかった。
だが、心からありがたく、本当に嬉しい言葉だった。
そんな父に、父と会う機会を作ってくれたルイやアウロラたち研究者に、皆の心にクルスは応えたかった。
クルスの役割はクルス自身にしか担えない。
だが一人ではないのだと、そう気づかせてくれた皆と一緒に戦いたかった。
その思いがあったからこそ、実験や寄生体の恐怖や苦痛にここまで抗い続けることができたのである。
それなのに!
クルスは歯を食いしばって、父を睨みつける。
クルスの目は、眼前の存在の正体を見抜いていた。
当然それは父ではない。
クルスを侵食する寄生体は、クルスの大切なものを利用して、己の元に引き寄せようとしていたのである。
その思惑を知り、消えかけた心の炎は再び燃え上がった。
許せない。
大切な、本当に大切な宝物のような思いを利用した寄生体と、その姿にさせた自分の弱さを。
自己管理すらできない小娘だが、そんな小娘にも誇りと尊厳はあった。
むしろそれだけは一人前だ。
だからこそ、目の前の敵の在り方がどうしても許せなかった。
コントロールをなくしていた体が、クルスの意志に共鳴して人の形に再構成される。
だがそれ以上は動かない。
身体の生きたいという意志は、紛れもなくクルスの意志でもあった。
クルスは身体に語りかけた。
ごめんなさい。
私の我儘で、貴方を今までないがしろにしてきた。
そして今も、生きたいと願う貴方を道連れに事をなそうとする私は、間違いなく本当の外道だ。
でも、これだけは譲れないの。
本当にごめんなさい。
クルスは侵食の進んだ顔を毅然と上げた。
一人でやり遂げるはずだったが、もうそんなレベルを越えたところに来ている。
だから、なりふり構わず声を張り上げた。
「『女王殺し』!」
天に向かって獣のごとく吼える。
「役目を果たして!!」
「お安い御用だ」
間髪おかずに応じた声。
同時に胸の中心に大きな衝撃が走った。
喉から遡ってくる液体を、たまらず吐き出す。
熱い、痛い、痛いよ。
背後には人らしき気配。
視線を下げれば胸に刃が刺さっていた。
血に塗れたその刃の狙いは正確無比。
生の未練に足掻く心臓と、そこに宿る寄生体を刺し貫き、一撃で致命傷を負わせた。
刃が容赦なく引き抜かれ、身体の力が一気に抜けたクルスは膝をついた。
しかし悍ましきかな、生への執念。
致命傷を受けたにも関わらず、クルスの身体は一向に灰化しない。
死にたくない、死にたくない、生きたい、生きたい!
子どものように激しく駄々をこねる身体の意志を振り切り、生への執着に涙を流しながらクルスは錬血を発動させた。
五臓六腑、クルスのあらゆる身体の要素に宿る執念を燃料として身体は発火、たちまち燃え上がった。
胸を押さえ、よろめき立ち上がったクルスは、炎にまかれながら背後を見る。
そこには、世界の闇と忌みと穢れを背負うような悍ましき人影。
だがその姿は、研究所で見たものとは少し異なっていた。
その闇の中心に吸血牙装をつけた髑髏の顔があり、手には血に塗れた片手剣が握られている。
髑髏の赤い目は、クルスの生を拒絶する強く冷たい意志と、慈悲の光をたたえてクルスを見つめていた。
「ごめん、なさい」
クルスは、どうにか口を開き髑髏の人影に謝罪した。
「貴方には、ここでも酷いこと、お願いして」
それは別の可能性の世界。
人の形を保ったままバケモノと化したクルスを追い詰め、我が身をいとわずとどめを刺したのは、心優しく強い吸血鬼だった。
そのブラッドコードは『女王殺し』。
それで終われば良かったが、クルスは世界の救済を諦めきれなかった。
人と世界の安寧を求めて戦い続けたその吸血鬼に、クルスは自分が果たすはずだった重責を一方的に背負わせたのである。
そのあまりに過酷な呪いと祝福は、その吸血鬼を完全に壊すに至ったのだった。
「人違い、いや吸血鬼違いだ」
髑髏の吸血鬼は淡々とした調子で応えた。
「その謝罪は、該当の吸血鬼にするといい」
「……そっか」
クルスの謝罪を素っ気なく拒否したそれに、彼女は悲しげに笑った。
「他に手助けは必要か」
「ありがとう。後は、自分でできるから」
息も絶え絶えに、クルスは燃え崩れる身体を引きずるようにして崖に向かって歩いた。
そして、崖の際で足を止める。
振り向き、彼女は人影に向かって崩れかかった顔に心からの笑顔を作った。
「本当にありがとう、優しい貴方」
ルイ、お父さん、みんな、ありがとう。
私の身体、ごめんなさい。
クルスは地を蹴り、背から崖へと身を投げた。
燃える、燃える。
落ちる、落ちる。
火の塊となってクルスは奈落の底へ、地脈の発生地点へ落ちていく。
クルスの五感が、あらゆる感情が、思いの全てが、炎と共に燃えて消えていく。
そのさなか、クルスの脳裏に光が広がった。
世界が壊れる前。
今となっては遠い過去、誰もがこんな未来がくるとは知らなかった時代。
クルスにとっては間違いなく幸せな日々だった。
この日、幼いクルスは自宅のリビングで絵本を読んでいた。
絵本の内容は覚えていないが、夢中になって読んでいた本は佳境に入り、寝る時間を過ぎてもクルスは本に向き合っていた。
しかし、身体は正直である。
クルスは大きく口を開けてあくびをした時、リビングに父がやって来た。
娘の大あくびと置き時計に目をやり声をかける。
「クルス、寝る時間だぞ」
「えー、まだ本読みたい」
「何を言うか」
グレゴリオはわかりやすく顔をしかめる。
「リンゴを丸呑みできそうなあくびして」
「してないもん」
「嘘つけ」
「嘘ついてないもん」
「寝ぼけているんだな。そんなこと言って。ほら、もう寝よう」
クルスは唇を尖らせブーイングの声を上げたが、ふと思い立って父の顔真似をしてみせた。
「何だその顔は」
「お父さんの真似ー」
グレゴリオは思わず渋い顔になった。
可愛い盛りの娘だが、最近は口も知恵も立つようになり、グレゴリオの手を焼かせるようになった。
「クルス、本はしまう。立つ。歩く。寝る」
「……はーい」
「その顔はやめなさい」
クルスは渋々父の言いつけに従った。
父に連れられ、眠気でもたつく足を動かして自室のベッドに横になる。
横になったクルスに、グレゴリオは大きな身体を窮屈そうに屈め、その顔を覗き込んだ。
「クルス、良い夢を」
柔らかく温かい布団。
安心させるような笑顔を浮かべ、穏やかな声で挨拶をする父の存在。
クルスは心から安らぎを覚え、そんな父に心からの思いを込めて言った。
「ありがとう。お父さんの明日が、今日より良い日になりますように」
「お前もな」
脳裏をよぎった過去の思い出に、クルスは思わず苦笑した。
色々綺麗事を言ってきて、実際にやり遂げようと頑張った。
そしてその戦いの果てに見えたのは、綺麗事とはかけ離れた、あまりに小さくありふれた本当の願いだった。
その事実は悲しかったが、間違いなく自分の身の丈にあっている気がした。
ルイのアイデアを強くイメージする。
そして、既に形を失くした手を合わせ、クルスは目を閉じた。
この星に生きるみんなの明日が、今日より良い日になりますように。
クルスは炎と祈りを連れて、地脈の発生地点へと消えていった。
山に囲まれた盆地を無残に引き裂く断崖の底に、真っ白な光が灯った。
それは見る見るうちに断崖に沿って広がり、波打ちながら急速に体積を増やしていく。
ついにそれは断崖をこえ、うねり枝分かれしながら天へ高く大きく張り出した。
それは発光する真っ白な大樹だった。
ヤドリギが成長したのなら、こんな姿になっていたであろう。
四方の山や、その山の背にある審判の棘と比べれば、その高さは実にささやかなものだが、この星のいかなる樹木よりも高く大きい。
その枝葉は天へと広がりながら、次々と赤い雫型の実を実らせた。
変化はそれだけに留まらない。
盆地のいたる所に、高さこそ普通の樹木レベルなものの、それらが岩だらけの乾いた大地に次々と生え始め、しっかりと根を張り、枝に葉と赤い実をつけていく。
荒涼とした盆地は、大樹を中心にした広大で白く輝く果樹園と化した。
その一部始終を、『女王殺し』と名乗った人影が山の稜線から見守っていた。
「それが君の願い、祈りの形か。クルス・シルヴァ」
発光する大樹に向かって声をかける。
もちろん返事はない。
しかし、人影は構わず続けた。
「おめでとう。君の願いは成就した。その身は瘴気を浄化し、赤い実は吸血鬼の乾きを癒やすだろう。それは人に幾ばくかの安寧をもたらす。そして、君の祈りは地脈を通じて木々の発生箇所を少しずつ広げ、人と吸血鬼を含めた生物圏も比例して拡大する。それはこの星に何をもたらすのだろうな」
黒い人影は俯いた。
「しかし我は消えずにいる。『女王殺し』の役割は続いている。それは君が星の傀儡、バケモノと堕鬼の頂点に立つ
幸福にも、人と吸血鬼が大樹の力を必要としないところまで進化するのが先か。
天災や人災によって大樹は暴走し、今度こそ女王と成り果てるのが先か。
それとも、この星が滅びるのが先か。
それは、誰にも知り得ない未来。
はっきりとわかるのは、『女王殺し』の出番は当面はないことだけだった。
黒い人影は髑髏の面を上げた。
「君は、これからもこの星に生きるもののために祈り続けるだろう。しかし、君のために祈るものは数少ない。不肖の身だが、君のために祈らせてくれ」
髑髏の面の赤い瞳が、穏やかに慈悲の光をおびた。
「君の明日が、今日より良い日になりますように」
神秘の地となった深山の盆地。
その遥か上空、審判の棘の偉容も届かぬ天の彼方、鋼を焼いたような夜空に数多の星々が瞬いている。
星の瞬きは、大気の揺れによって光が屈折するためにおこる現象である。
しかし、盆地を見下ろすその瞬きは、クルスの今まで労苦を労るかのように、願いが成就した先の未来を祝福するかのように見えるのだった。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
誤字脱字言い回し等、修正がありましたら都度修正します。
こちらでお知らせなどを語っておりますので、よろしければご覧下さい。
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