小春日和の拠点 プロローグ
マタルは手にする通信機を見つめた。
チャンネルはすでにお目当ての場所へセットしてある。
後はボタンを一つ押せばOKなのだが、そこで止まっていた。
最後にネネと無線で話をしたのはひと月ほど前か。
もっと頻繁に連絡を取りたいのは山々だったが、通信機のバッテリーの充電は日に日に難しくなってきている。
ついでに言えばマタルもネネも日々忙しい。
手帳に挟んであるネネの写真を見つめては、寂しさを紛らわせる日々を送っていた。
それに、この離れて過ごす日々は彼女と自分にとって必要なことだった。
共依存になりかけていた関係を修復し、互いに自立するために。
自分の死と家族の死を忘れることなく吸血鬼として蘇ったネネの心は、ほぼ選択肢のない状態で選んだ過酷な戦いの日々を送ることで疲弊し、女王討伐戦が終わってからしばらくしてついに壊れた。
マタル自身、女王討伐戦時において、市場はもちろん兄のような存在だったサーリヤも含めて仲間と居場所を全てを失った。
行く場所のなかったマタルは、壊れたネネに寄り添い祖父母が住んでいたという山へと向かった。
そして奇跡のように家の形を残し、ヤドリギが生えていたその家に二人で暮らすことになったのである。
医者の力も借りてネネの心の治療の手助けをしたが、やがて自分も引きずられるように疲弊していった。
それでも良かった。
マタルが側にいる間、ネネは死を選ぶことはない。
ネネを喪ったら、マタルは吸血鬼として生きていく理由がなくなる。
ネネのいない世界など、マタルには死に滅んだ世界同然であった。
ネネが死を選ぶのなら一緒に死のう。
ついにはそこまで思いつめるようになった。
だがネネと共にマタルも見てきた医者は、彼女と距離を取るように指摘したのである。
ネネ自身、マタルが潰れて朽ちていくことに心を痛めていた。
──俺ではネネを救えなかった。
嘆くマタルに医者は言った。
『衣食住を確保するのも彼女の大切な支えです。自分を卑下する必要はありません。貴方が外で働くだけで貴方も彼女も少し救われる。適材適所、無理せず自分のできるところからやり直してみませんか』
医者はマタルに労るような微笑みを浮かべた。
『心の傷の回復はマラソンのようなもの。貴方が想像する以上に長くなることもあり得ます。ランナーだけでなく伴走者も一人で背負い込まずに、使えるものは全て使って焦らずに進んでいきましょう』
こうしてマタルは商人として本格的に復帰し、ネネの心の状態を確認しながら週に一度の割合で山に戻る日々を過ごしていた。
当初は不安でしかなかったが、医者の言う通り、ネネと離れる時間を得ることで心のコントロールができるようになった。
山で要救助者を助けていくうちに、ネネの家と山を守ってくれる人々も出てきた。
自分の目に叶った吸血鬼たちに山を教えることで、繋がりが増えることを期待した。
ネネと離れる期間も伸び、全てがうまく回り始め、ネネも山の外にたまに出れるようになった。
そして、決定的な出来事が起きた。
ネネが捨てられていた子猫を二匹拾ったのだ。
彼女に必死にしがみつき、この酷い世界で懸命に生きようとする命を見て彼女自身どう思ったのか。
『許されるなら猫を飼ってみたい』
マタルはネネの望みを叶えるべく、今まで培ってきたネットワークをフル活用して猫が住める環境を整えた。
前例がないと、役人にいい顔をされなかった行政処理も一手に引き受けた。
戦いのないところで静かに暮らしたい。
家族を悼みたい。
山の中でずっと喪に服すことを望み続けたネネの、前向きな変化を後押ししたい一心だった。
マタルの尽力は身を結び、ネネは猫と共に暮らし始めた。
相変わらず感情は希薄で抑揚も乏しい。
だが、少しずつだが積極的に人と触れ合うようになっていったし、猫と接しているときは心なしか表情も穏やかになった。
八方塞がりになりかけていたネネとの関係も、猫を介することでそれが解消された。
ネネだけでなく自分も救われたことに、神と猫に感謝した。
現在のマタルは、ネネと山の生活を支えるべく普段はこの地を渡り歩いて商売をし、数ヶ月に一度戻ってくる日々を送っている。
そして季節は巡り、平地でも冬の気配を感じるようになった頃、マタルは毎年冬の間だけ山に戻ることになっている。
冬の間はネネの精神状態は不安定になりやすい。
今は猫もいるが、それでも事情を知る存在がそばにいた方がネネも安心だろう。
というわけで、ネネにそのことを伝えるため通信機を片手にしているのだが、初恋の男子のようにやけに意識し緊張している自分にマタルは呆れ果てた。
この数年間でやること全てやった相手だぞ、しかもひと月前にも連絡したよね、バカかよ、ポチッといけよポチッとな。
だがボタンは押せない。
マタルはため息をついた。
第一世代の吸血鬼として、見かけよりも中身ははるかに大人になり、彼を知るものは誰一人としてマタルを子ども扱いしなくなった。
商人のギルドの関係者にも、一目置かれる商人にまで成長していた。
なのに、ネネと対するとどうしても外見通りの精神年齢になってしまうのだった。
これが恋しているってことなのか。
あれだけの出来事があったのに。
あれだけ苦しく辛い思いをしてきたのに、それでも性懲りもなく片想い続行中なのか。
マタルにはわかっていた。
今のネネは、マタルを生きる為に必要な大切なパートナーとして受け入れているだけで、恋をし愛しているから受け入れているわけではないことに──。
その事実は悲しかったが、今は待つしかなかった。
地獄の戦場となった雪山から、ネネが戻ってくるのを待つことしか今はできない。
マタルは手帳を広げて写真を見つめた。
そこには控えめな笑顔で手を軽く上げているネネと、その左隣に仏頂面のマタル、そして右隣に今は亡きサーリヤが写っている。
吸血鬼として蘇り、ネネと出会ってしばらくしてから市場の人に撮ってもらったものだ。
──好きだよネネ、俺はずっと好きだよ。
切なく顔を歪ませて、写真の彼女に伝える。
待っている、どんなに変わってしまったとしてもずっとお前を待っている。
だから焦らずに、気をつけて帰ってこい。
マタルは勇気を振り絞り、ボタンを押した。
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