銀嶺が青むまで   作:小栗チカ

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XT 3:鷹化して鳩と為る
鷹化して鳩と為る


少年にとって、その出会いはあまりに大きな転機だった。

その出会いがなければ、今の自分はないであろうと思うほどに──。

 

 

後に『大崩壊』と呼ばれる地球規模の大災害によってマタルは一度死んだ。

しかし、彼の意志とは関係のないところで吸血鬼として蘇った。

なぜ死んだのか、死ぬ直前まで何をしていたのか全く覚えていない。

ただ戦火から逃れるため、家族とこの地へ移住してきたことは覚えている。

だが、その家族のこともおぼろげにしか覚えていない。

マタルはそのことを不幸とは思わなかった。

なぜならマタルの周囲には、彼と生まれも育ちも似たような、記憶を欠損しつつも吸血鬼として蘇った存在がいたからである。

情報収集の末、今いる場所がマタルらの信じる神の教えに背く、碌でもない施設と判断した。

吸血鬼になり記憶の欠損が起ころうとも、生前に習慣と化していた神への祈りとその教えは消すことはできなかったのである。

そして大胆なことに、正面切って施設から集団脱走を図ったのだった。

そんな彼らの祈りと信心に、かの神は応えたのか。

知恵と錬血と火事場の底力、そして神が与えたであろう幸運を発揮し脱走は見事に成功したのである。

人ならざる身、それどころか神の教えに背く存在になろうとも、神は祈りを捧げるものを決して見捨てはしなかった。

彼らはそう認識し、神へ深い感謝を捧げた。

そうして半ば崩壊した地下街に潜り、そこで生活をすることになったのである。

 

宗教は、共通知識を持つ共同体を形成する一面を持つ。

今回はそれが良い方向に働いた。

彼らは協力し合い、生存に必要な血液錠剤や資材の確保に乗り出した。

神の教えに従い、持てるものは持たざるものに分け与えることで、徐々に共同体の輪は拡大。

いつしか崩壊した地下街は、数多の人や吸血鬼が行き来する市場となり活気を見せ始めた。

そんな中、マタルは意気投合した一人の商人の元で手伝いをすることになった。

サーリヤと名乗ったその青年は、やはり生前のことは覚えていなかったが、見た目の良さと巧みな話術、誠実かつ大胆なマーケティングで客を寄せ、優れた商人として頭角を現し始めていた。

 

『人生は無駄と余裕がなければ楽しめない』

 

そう語ったサーリヤの扱う商品は、食料を始めとした嗜好品だった。

 

『まずは世界中の嗜好品を集めたい。そして自分から新たな嗜好品を作り出して商売をしたい』

 

笑って語るサーリヤに対し、マタルは将来のことはまるで考えていなかった。

手伝いで必死だったこともあるが、そこまでの情熱はなかったことと、自分の見た目に対する鬱屈した気持ちがあった。

マタルの見た目は十代半ばあたり、二次性徴が始まったあたりで止まっている。

同年代の友人がいればまだ違っていたのかもしれないが、生憎と年上の男女しかいない環境において、彼は子ども扱い、もっと言うならマスコット扱いされていた。

当然不満だったが、マタルは本能的にわかっていた。

隣に並ぶサーリヤや周辺の大人の姿にはなれない。

この身が灰になるまでずっと子どもの姿のままだ。

ずっと子供扱いされ、一人前として認めてもらえないに違いない。

マタルはそう思い込み、捨て鉢な気持ちとなった。

サーリヤを含めた周囲の大人たちは、すっかり捻くれてしまったマタルの思いを理解していたが見守るに留めた。

事実、どうすることもできなかった。

彼の今後は神のみぞ知る。

マタルに安らかな心が戻ってくるよう祈るほかなかった。

こうして市場は大小様々な悲喜劇を生み出しながら、賑やかな日常を送っていた。

 

 

その日、市場はある少女を呼び寄せた。

軍服を身にまとい、背にリュックを背負っているのは、よく見かける兵士の姿である。

銃も担いでいるが、誰がどう見ても新兵だと判断したに違いない。

と言うのも、兵士によくある独特の雰囲気が薄めであること、凹凸は少ないものの綺麗と評される顔立ちをしたその目は、飢えや戦火を知らない素直で平和で呑気とも呼べる光が灯っていた。

少女は彼女は用心深く市場を見渡しながら歩を進めるが、どうしても周囲の風景に圧倒されてしまう。

極彩色の布とランプの光。

様々な香辛料やお香、オイルといった生活の匂い。

少女には全く意味不明の言葉でやりとりをする店員と客。

吸血鬼として目覚めて以降、彩度の低い世界で生きていた少女にとってまるで別世界だった。

 

お菓子、置いてあるかな。

少女はこの市場に来た目的を思い出す。

兵士として訓練を始めて数ヶ月、この厳しい世界で生きるために、自立するためにと自ら志願した現在の職業は、確かにその力を与えはした。

しかし、過酷な訓練の日々は少女の心をすり減らしもした。

人の血なんかよりもお菓子が食べたい。

太ってもいい。

教官に怒鳴られてもいい。

甘いお菓子としょっぱいお菓子を交互に食べたい。

そう、少女は世にも珍しい雑食の吸血鬼だった。

人の血は少量で済む分、ちゃんとした人間の食事を取らないと堕鬼化するコストのかかる存在だったのである。

疲弊し、日に日に平べったくなる彼女を見かねた同じく雑食吸血鬼の小隊長が、この市場のことを教えてくれた。

 

『市場の菓子は甘いものが多い。だから思いっきり甘い菓子と上等な塩を買ってこい。じゃがいもは唸るほどある。その塩を使ってポテチなりフライドポテトなり作って食え。食ってこの山を乗り越えろ。あ、俺の分の土産も頼む』

 

そんな訳で市場へとやってきたが、徐々に目新しさに慣れてきたことで気づいたこともあった。

視線を感じるのだ。

視線を感じる先に目をやっても誰もこちらを見ていない。

しかし確かに感じるのである。

もしかして警戒されている?

少女は内心焦った。

私は人畜無害の雑食吸血鬼ですよー、お金もちゃんと持ってますよー、銃を持っていますけど悪者じゃありませんよー、お菓子とお塩を買いに来ただけの、ただの一般客ですよー。

そう訴えたい衝動に駆られるほど、居心地が悪かった。

歓迎されていないのだろうか。

そう思った途端、弱気な心が声を上げる。

今すぐ帰ろうか。

だが、それを上回る食欲がそれを打ち消した。

いや、せめてお菓子の一つ、ナッツの一粒くらいは買っていこう。

買ったら大急ぎで市場を出ればいい。

そして二度とここへ来なければいいだけの話だ。

美人がわかりやすく一喜一憂する姿はどう見ても挙動不審の極地であり、人目をさらに引いていることに少女は気づいているか否か。

行こう、進まなければ始まらない。

少女は誓いも新たに頷いた時だった。

 

「そこのお嬢さん、何かお探しで?」

 

この地の共通語。

見渡せば、一人の商人がこちらを見ている。

少女が自分を指差すと、商人の男は浅黒い端正な顔立ちに屈託のない笑顔を浮かべて頷いた。

 

「そう、君。何か商品をお探しですか?」

「え、あ、はい。えっと」

 

言葉を続けようとして、強い視線を感じてそちらを見ると、その商人の横に少年が少女を見ていた。

いや、ガン見していた。

少女はその視線の圧に耐えきれず、笑顔を作って見せる。

せめて警戒心は解いてほしい一心だったが、少年は目を見開き硬直してしまった。

あ、あれ、もしかして失敗した?

見れば、当の商人も意外そうな目でこちらを見ていたがそれも一瞬だった。

再び整った笑顔を浮かべて口を開く。

 

「ああ、こいつのことは気にしないで。それでここに来たご用件は何ですか?」

「えと、はい、実は──」

 

少女はここにきた目的を話し始めた。

 

 

目立つ女が来たな。

マタルの少女に対する第一印象はそれだった。

何も派手な格好をしているわけではない。

むしろ逆なのだが、少女の外見はこのコミュニティにおいては珍しいものだった。

アジア系の凛とした美少女、そう呼んでも差し支えはない。

しかも内面から滲み出る育ちの良さは、いかに軍服をまとい銃を担いでいようとも打ち消せる物でもなかった。

少女は市場の雰囲気に圧倒されながらも、用心深く周囲を見渡している。

もちろん、マタルを含めた市場の住人たちもそれとなく少女の存在に目を光らせていた。

悪気はなかったが、あまりに少女の存在が異質だったのだ。

何かを探しているようだが、どうにも危なっかしい。

声をかけるべきか。

そう思った自分にマタルは驚き、ついでにツッコんだ。

いやなぜ俺が声をかけるんだよ。

そのうち勇者があの女に声をかける──。

 

「そこのお嬢さん、何かお探しで?」

 

隣に立つ男が勇者だったことに、マタルはさらに驚いた。

少女も驚いたようで自分を指差している。

サーリヤは頷き、さらに声をかけた。

 

「そう、君。何か商品をお探しですか?」

「え、あ、はい。えっと」

 

と、少女の視線がこちらを向いた。

あ、やっぱ美人だな、軍服でわかりにくいけどスタイルも悪くないしすげーな。

不躾な視線を送っているとは露と知らず、マタルは少女を観察する。

と、少女と目が合った。

戸惑った様子でこちらを見ていたが、やがて少女は整った顔を崩し、マタルを宥めるかのように笑ったのだ。

その崩れた笑顔に彼の時は止まった。

すぐさま我に返っていたら、サーリヤですらも動きを止めていたことに気づいたかもしれない。

だが、サーリヤの立ち直りの方が早かった。

 

「ああ、こいつのことは気にしないで。それでここに来たご用件は何ですか?」

「えと、はい、実は──」

 

この時、マタルもサーリヤも気づいていなかった。

二人の男が同じ少女に恋をしたことに。

それをマタルが知るのはしばらく先のお話だ。

それはともかく、少女の目的はお菓子と塩を買うことだった。

ついでに上司のお土産も探しているらしい。

 

「それは運がいい。俺の店、取り扱いがありますよ。保存の効くものが主ですが。ナッツはお好きですか? 香辛料の効いたものとか大丈夫?」

 

すると少女の雰囲気がまたしても変わった。

美少女であることに変わりはないのだが、凛としたキレイ系からフワフワ可愛い系への切り替えのギャップがすごかった。

少女は満面の笑みを浮かべて頷く。

 

「はい、どれも大好きです。好き嫌い、あまりないので」

 

両手を握りしめて言う少女の姿は、本当にそこら辺にいる普通の女子でしかなかった。

だがその姿にマタルの心は昂った。

 

「そうですか、じゃあどれか一つ味見してみます? 今日在庫、多少余裕があるので」

「! いいんですか?! お金は──」

「いりませんよ。珍しいアジア人のお客様だ。サービスしましょう。どれにしますか?」

「え、え、待ってください待ってください。えーと、どれにしようかな」

 

マタルは少女から目が離せない。

だが、心の片隅ではこのサーリヤの態度に驚いていた。

菓子の在庫は確かに余裕はあるが、普段のサーリヤなら一見さんにここまでのサービスはしない。

サーリヤも結局美人の女には弱いんだな。

冷めた気持ちでそう思う。

 

「それじゃ、これを」

「ほお、これはこれは。こちらは我々ですらも甘いと認識しているシロモノですよ」

「はい! 頑張ります!」

 

何をだよ。

マタルは思わずツッコミそうになってグッと堪える。

甘いものに耐性があると自負した者ですら、悶絶するほどの甘さだと言われているそれ。

手渡しで一つ渡された少女は、その見た目を観察し匂いを嗅いだ。

あ、これめっちゃ甘いやつだ。

その瞳は如実にそう語っていた。

 

「いただきます」

 

軽い会釈と共に形のいい桃色の唇が動き、白い歯がその生地を噛み切った。

もぐもぐと咀嚼する様を見守っていたマタルは、ふと周囲を見る。

サーリヤはもちろん、市場の人々ですらことの成り行きを見守っている。

そんな状況になっていることも知らず、咀嚼を続けていた少女は天を仰いだ。

 

「あっまっ! あっまーい! 蜂蜜の自己主張がすごーい」

 

思わず母国語で感想を述べる少女だが、食べられないことはない。

サクサクのパイ生地とたっぷりと入ったナッツの香ばしくも豊かな風味は、吸血鬼として蘇ってから初めての体験であった。

十分に美味しい部類に入るだろう。

ただ、水が欲しい。

するとサーリヤがすかさず動いた。

休憩中に嗜んでいたコーヒーの残りをカップに注ぎ差し出す。

 

「冷めていて申し訳ないですが、どうぞ」

「ありがとうございます」

 

とっさにカップを掴み少女はそれを飲むと、ようやく落ち着いたようにため息をついた。

 

「コーヒーとよく合うお菓子ですね」

「でしょう。我々の宗教圏では酒は飲めませんので、代わりに甘いものに偏っているのだと言われています」

「ああ、なるほど」

 

さしずめ、この極甘のお菓子は酒で言うならアルコール度数の高いウォッカやスピリッツのようなものか。

もちろん少女は飲んだことがないので、ただの知識でしか知らないが。

残りも口に放り込みコーヒーと共に完食した少女は、満足したような笑顔を向けた。

 

「ごちそうさまでした。すごく甘かったけど美味しかったです」

「それはよかった。これ以外にもあるから良かったら見ていって」

「はい」

 

こうして営業は成功し、少女は菓子の吟味を始めた。

マタルはその姿をただ見つめる。

目が離せなかった。

サーリヤも基本は見守りつつ、時折菓子の解説を挟んで彼女に話しかけている。

もっと真面目に商品の勉強をするべきだった。

マタルは今更ながら後悔をした。

そうすれば、サーリヤのように話しかけることができただろうに。

二人が会話を交わす姿に胸の痛みを覚えた。

サーリヤと女性客の談笑は日常茶飯事のはずなのに、今日に限ってなぜ。

手で胸を押さえる。

どうして胸が痛くなるのだろう、何だよこれ?

マタルの思いなど知る由もない少女は、サーリヤのアドバイスの元、菓子をいくつか購入することになった。

袋に詰めながらサーリヤは問いかける。

 

「後は塩でしたっけ」

「はい」

「おい、マタル」

 

サーリヤに声をかけられ、名を呼ばれたマタルの体がビクリと震えた。

 

「あ、ああ、何」

「塩持ってきて。確か在庫は三種類あったはずだ。それぞれ味が少しずつ違うから選んでもらおう」

「……わかった」

 

マタルは慌てて布で隔てただけのバックヤードに駆け込むが、気が動転して頭の中は空回りを続けている。

あれ、塩の場所どこだっけ?

ちゃんと把握できていたはずなのに。

少女の視線を布越しに感じる。

それを感じただけで体が熱くなり、さらに焦りを生んだ。

 

「おい、右の奥だよ。商品がどこにあるかくらい覚えろよ」

「わかってるよ」

 

見かねたサーリヤが助け舟を出し、マタルはぶっきらぼうにそれに応えた。

 

「すみませんね。あいつまだ駆け出しみたいなものだから」

「いえ、全然気にしていません。時間に余裕はありますし大丈夫です」

「お嬢さんが心の広い人で良かったです」

 

二人が会話を続ける中、マタルはようやく塩を持ってサーリヤに渡した。

 

「はい。これでいいんだろ」

シュクラン(ありがとう)。じゃあお嬢さん、今度は塩を選んでいただきますか」

「選択肢が続きますね」

 

するとサーリヤは楽しげに笑った。

 

「種類が豊富な方が、選ぶ楽しみがあるでしょう。買い物の醍醐味ですよ」

 

再び味見をさせてもらいながら、少女は塩を選び、言われた通りの代金を支払った。

普段なら値段交渉をしその後に支払うものだが、少女にその考えはなさそうだった。

良い金蔓である。

いや、値切れよ。

本来なら喜ぶべきところだが、マタルはまたしても少女に危なっかしさを感じていた。

するとサーリヤも苦笑した。

 

「お嬢さん、本来なら値段交渉とかできるんですけどね」

「あ、そうなんですか」

「ええ。言い値で買う豪気さは素晴らしいですが、少しでも安く買いたいと思いませんか?」

「もちろんです。でも今回は初めてだし、お菓子とお塩を試食させてもらいました。親切にしていただいたのでこの額でOKです」

 

元々兵士としてそこそこの給料はいただいているし、今回に限ってはこの市場を紹介した小隊長から、土産代として少々のお小遣いをもらっている。

懐には十分余裕があった。

少女は微笑んで言った。

 

「また次回がありましたら、その時は交渉をさせてください」

「……わかりました。また是非お越しください。歓迎しますよ」

「はい」

 

少女はリュックに戦利品を詰めると、素早く背負った。

銃を担ぎ直し、そして会釈する。

 

「ありがとうございました」

 

そうして歩き出そうとして、ふと足を止めた。

少女はマタルの方を見る。

マタルは体温が急上昇するのを感じた。

 

「お仕事、頑張ってくださいね」

 

にっこり笑ってそう言うと、今度こそ少女は振り返ることなく市場の出入り口に向けて歩き出した。

いい人たちで良かった。

少女は一仕事終えた安堵に思わず笑みを浮かべる。

実に無邪気で呑気な思いであり、マタルやサーリヤがこの事を知ったら危機感を覚えていたであろう。

だが、駆け出しの少年のことを思い、身が引き締まるのを感じた。

上の弟と同い年くらいの男の子が、危険な外で働いているのだ。

生きるために頑張っている姿に少女は拳を握りしめた。

私もこのお菓子とお塩で、教官のシゴキに耐えて成長していこう。

そしてまた近いうちに、あのお店に行くのだ。

少女は顔を上げると出入り口を抜け、しっかりとした足取りで彼女の所属する基地へと戻っていったのだった。

 

 

マタルは呆然と、去りゆく少女の後ろ姿を見つめ続けた。

未だに体は熱く、動悸も治らない。

だが、決して悪い感覚ではなかった。

むしろ胸の奥に、何かが灯るのを感じた。

彼女はきっとまたこの店に来る。

確信に満ちた予感があった。

その時に、今度はもっとしっかりした姿を見せたい。

そして話をして笑顔を向けてほしい。

切実にそう思った。

 

「いやはや、何とも不思議な美人さんだったな。美しいと可愛いって両立できるんだな」

 

同じく少女を見送ったサーリヤが声をかけてくる。

 

「育ちはいいけど、大分お人好しなのと世間知らずなのはどうかと思うが、……おい、マタルどうした?」

 

もうすでに少女の姿は視界にないにも関わらず、マタルは出入り口の方を向いたまま微動だにしない。

 

「おーい、マタル? ……もしかしてあれか? ああいう子がタイプなのか?」

 

からかい混じりに言ってくるサーリヤの言葉も耳に入らない様子である。

サーリヤはマタルの顔を覗き込み、異変の理由に勘づいた。

おいおい、マジかよ。

まさか人が恋に落ちた瞬間をこの目で見ることになろうとは。

と、マタルの唇が動いた。

 

「サーリヤ」

「……何?」

「俺、商人になる」

 

マタルは振り向き毅然とした眼差しをサーリヤに向けた。

 

「俺の形はずっとこのままだろうけど、でも一人前の商人になって店を出す」

「おう、そっか」

 

サーリヤは弟分の心変わりを驚きつつも面白そうに見つめた。

 

「こんな形だけど、中身は一人前になれるよな」

「外面は知らんけど、中身はいくらでも変えられるだろ。お前次第だと思うよ」

 

マタルは頷いた。

その顔は今までの鬱屈した表情と違い、やる気に満ちあふれたものだった。

このひと時でこうも変わるものなのかね、凄いな恋って。

サーリヤは思い、両腕を組んだ。

動機はともかく、マタルのやる気には応えたい。

 

「んじゃ、今からもっと真面目に仕事に取り組んでもらおうかね。まずはバックヤードの商品の場所と在庫、しっかり覚えろよ」

「ああ。今日一日で覚えてやる」

 

再び頷くマタルから目を離し、サーリヤはすでに少女はいないであろう出入り口を見つめる。

先程の少女とのやり取りを反芻し、妙に浮足立った気持ちになった。

ついでに甘酸っぱいものが脳裏を桃色に染め上げる。

何てこった、まさかこんな事態になろうとは。

サーリヤは思わず苦笑いを浮かべて頭をかいた。

これは中々厄介で面倒な、でも面白いことになってきた。

 

「彼女、また来てくれるといいな」

「別に」

 

本音でそう言ったが、マタルの反応はそっけないものだった。

照れ隠しなのがバレバレなのが面白くて、サーリヤは煽り半分本音半分で告げる。

 

「そう? 俺はまた来て欲しいと思っているよ。名前、今度聞いてみようかな」

「好きにすれば」

「ああ、好きにさせてもらうさ」

 

余裕のあるサーリヤに、マタルは苛立ちを覚えた。

俺が先に名前を聞いてやる。

マタルの闘志に火がついた。

美人で可愛い上に素直で育ちの良い、危なっかしい年上の女性。

いっつも余裕綽々で女受けのよいサーリヤに、そんな彼女を好きなようにさせたくなかった。

形なんて関係なかった。

なぜそう思うのか理由はわからないし、それすらもどうでもよかった。

俺が彼女を守るんだ。

少女の預かり知らぬ所で勝手に決心したマタルは、未だからかいの視線を向けるサーリヤを一睨みし、そっぽを向いた。

 

 

こうして、一人の少年に大きな転機をもたらし、ついでに青年にも変化を与える出会いは、こんな些細なものだった。




ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
誤字脱字言い回し等、修正がありましたら都度修正します。
こちらでお知らせなどを語っておりますので、よろしければご覧下さい。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view_list&uid=68614

今回は番外編、前回の話でメインキャラとなりましたマタルの過去編になります。
またしても誰得の話ではありますが、私自身が書きたいなと思って書いた話です。
また、マタルの兄貴分にして問題児サーリヤの心情を書けたのも楽しかったです。
飄々とした男の人、結構好きだったりします。
一貫してその態度を崩さずに、物事をサラリと解決するのもカッコいいですが、その態度が崩れて必死になる姿もまた美味しいのではないかと思います。
まだこの話では余裕がある様ですが、今後どうなりますやら。
というか、書くことができるのか?w
という疑問はあるものの、CVのお話を気がすむところまで書き続けられればいいなと思います。

ちなみにタイトルの『鷹化して鳩と為る』は春(仲春)の季語です。
春の訪れに鷹は鳩(カッコウとも)に変身するという中国のお話からきたものだそうです。
まあ、何となく何を言っているのかはお分かりになるのではないかなと思います。

それでは、次回のお話でまたお会いしましょう。
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