瞬きをひとつすると、そこは見慣れた風景でした。
身を切るような冷気が体を包み、凍てつく夜空と、吹きすさぶ風に狂ったように舞う雪が視界いっぱいに広がります。
吹雪く闇夜の向こうに見えるのは、苛烈で猛々しい冬将軍のおわす雪山。
ここは私の所属していた部隊が、バケモノを押しとどめるべく総力を持って築いた極寒の地獄です。
私は彼とは違い、君たちを永劫の地獄へと導くものだ。コイツは私が仕留める。貴様らは生きろ! 走れ! 走れ走れひよっこ共が!! 寧々ちゃん、あれ花ちゃんなんだよ。あの堕鬼は花ちゃんなんだよ! 悪い報せだ。被検体の女の子がブチ切れて、こちらに当たり散らすようになっちまった。ますます忙しくなるぞ。生きろよ、ネネ。そんで戻ってこい。俺も生きて、待ってるからな。グレゴリオ・シルヴァの名のもとにここに誓う! この戦いが終わった時、最後に立っているのは……俺たちだ! 今からここに、私と諸君らとでマカハドマを作る。征くぞ中隊諸君、最終防護射撃! ううっ、来るな、こっちに来るな来るな来るなあああ! 昔の戦争では、死ぬ場所を選べないと嘆く奴もいたそうだが、俺たちは死すらも選べないときたもんだ。もうやだ! こんなのやだ! もう動きたくない。もう何もしたくない! 待ってください! まだあそこに第二中隊が、絹ちゃんが! 隊長、撤退だ。命令に従え。私たち、何のために戦ったんだろう。
それは、人類を守るため。
では、私たちが記憶をなくしながら何度も死に戻り、それでも戦った救いと報いはどこにあるのか。
自ら志願したのならともかく、勝手に寄生体をくっつけられて戦わされた元人類は、故郷に帰ることもできずにどこへ向かえばいいのか。
「お前ら、いつまで戦争をする気だ?」
「閣下、未来永劫にです」
司令と大隊長の声。
その場にいなかったはずなのに、鮮やかにその時の状況が見聞きできます。
「閣下が退却の命じない限り、バケモノがそこにある限り、この星が滅びるその日まで、我々はここで戦い続けます。それが、自然の理と人道に背いた欠陥品の存在意義なれば」
こんなはずじゃ……なかったのに……。
私たちはいつから道を間違えてしまったのか……。
死にたくない。
堕鬼になりたくない。
これ以上記憶を無くしたくない。
帰りたい。
凍てつく風と雪に混じって聞こえてくる嘆きの声。
それは私か、別の誰かか、気のせいか。
……ああそうか、死に戻ったのか。
背後にあるヤドリギの光と気配に、自分の立場を思い出します。
記憶のゴチャゴチャは、死に戻った時の後遺症なのでしょう。
今度はどんな記憶を無くしてしまったのか。
……行かなくちゃ。
しかし、銃剣が手元にありません。
探さなきゃ。
戦場へ戻らなきゃ━━。
「みゃあ」
みゃあ。
みゃあ?
……猫?
…………。
や、気のせいだよね、こんな所に猫がいるわけ━━。
「みゃあ!」
瞬間、光と温かい空気が私を包みました。
目の前には驚いた顔をしている巻機さんと、青い目の猫が私の腿を支えに伸びをして私をしっかりと見ていました。
「みゃあ」
「しゃ、しゃもしゃも、お前、鳴くんだな! しかも可愛い声じゃないか!」
立場を忘れ、驚き喜ぶ巻機さん。
私は彼に気づかれないよう呼吸を整えながら、ポイントさんの体を撫でました。
「どうしましたか、ポイントさん」
たずねた後で気付きました。
ああ、ブラッシングの時間ですか。
「巻機さん、猫をブラッシングしながらでもいいですか」
「OK! 構わずやっちゃってくれ!」
「ありがとうございます」
力強く了承を頂きました。
私はカゴにしまってあるブラシを取り出すと、ポイントさんはすぐ膝の上に乗ります。
「しゃもしゃも、良かったな」
巻機さんの呼び掛けに尻尾を振り、ポイントさんは気持ちよさそうな表情で喉を鳴らして、ブラッシングを受けました。
しばらく、ポイントさんを嬉しそうに見つめていた巻機さんですが、やがて表情を改めました。
「俺には、あいつらを守る力はない。だけどここなら、あいつらも安心して過ごせると思うんだ。もちろん、山のことは手伝うよ。住ませてもらう以上はあんたの指示に従う。だから頼む! せめてあいつらだけでも、ここに置いてやってくれないか」
再び頭を下げる彼に、私は小さく息を吐きました。
既に決まっている答えを口にします。
「それはできません」
「何故だ」
悲痛な表情でたずねる彼に、私は猫のブラッシングをしながら答えます。
「それは、あなた方の抱える根本的な問題の解決にならないからです」
「俺たちの問題?」
「はい。あなた方には、決定的に欠けているものがあります。わかりますか?」
巻機さんは眉を寄せてしばし沈黙し、そしてこちらを見ました。
「知識とか技術とか力とか」
「それもありますが、それらを身につけるために必要なものです。この地と吸血鬼たる自分と向き合い、それらを持って自分の力で生きる覚悟です」
私は丁寧に、彼に伝わるように語ります。
「この家に住むことになったとして、ここのヤドリギや周辺の血涙の泉が枯れ落ちたらどうしますか? 私に万が一のことがあった時、あなたが望む生活ができると思いますか?」
彼は絶句しました。
「ここもまた、そういう点では保護区と変わりはないんですよ」
彼に、そして私自身に言い聞かせるように語り続けます。
「この酷い土地で、吸血鬼として生きることは確定した事実です。一番大事なことなのに、もう自分で選択することも覆すこともできない。その上捨てられたような仕打ちは、紛れもなく不幸なことです。辛いお気持ちは分かりますが、生きたいと思うなら、この現実を認めるしかないと思います」
不意にポイントさんは立ち上がると、反対向きになってテロンと寝そべります。
次はこっち、ですか。
大切なお話をしているのにマイペースですね。
「そしてこの地で一人で生きることは、とても難しいことです。それでも私は、ここのヤドリギと血涙の泉が枯れ果て、家を出ることになったとしても生きていけると思います。でも、あなた方にそれが無い。他人が用意した場所と力を持つ存在に依存をすることでしか生きられない。それではいつまで経っても、不満も不安も解消されません。だからこそ、この家に置くことは出来ないのです」
ショックを隠そうともせず、巻機さんは私を見つめます。
「この機会によく考えた方がいいでしょう。あなたはこの世界で何をやりたいですか?」
「やりたいこと」
オウム返しする彼に、私は頷きます。
「はい。そしてそれを、自分でやる覚悟を固めるのです。人や社会が、あなた方のやりたいことに手を貸してくれる保証などどこにもないのだから」
話している間にブラッシングは終えましたが、ポイントさんは私から離れることなく、喉を鳴らして私の膝の上でくつろいでいました。
「現実を認めた上で、自分のやりたいことを自分の力でやる。その覚悟があって、はじめて知識と技術は身につきます。あなた方に欠けているのはそれなのです」
私は猫を撫でながら、呆然としたまま言葉を無くす彼に心を込めて伝えます。
「昨日の夜、巻機さんは言いましたよね。現実は、ゲームみたくUIとUXを考えてはくれないと。でもそれは、人任せにせずご自分で考えることができる━━」
その時、廊下の向こうで不吉な異音が聞こえました。
咳き込むような音に続いて、液体か固形物か、はたまたその両方か、それらが管を伝って逆流する音です。
私は、瞬時に何が起こったのかを悟りました。
「え、何だ」
巻機さんが不安げに声を上げるのを後目に、私はポイントさんを膝から下ろすと、台所から雑巾と消毒スプレーを持ち出して廊下に向かいます。
案の定、廊下には茶トラさんがいて、自分の吐瀉物を呆気に取られた様子で見つめていました。
ああ、やっぱり。
私の足音を聞いた茶トラさんは、慌てて廊下の奥へと引っ込んでしまいました。
私は屈んで吐瀉物を拭き取りながら、廊下の奥へと声をかけます。
「ほらみなさい。だから言ったじゃないですか。慌てて食べるとケロケロしちゃいますよって」
廊下の奥の暗がりでションボリしている茶トラさんを、私のそばに来たポイントさんが距離を置いて見つめていました。
「にゃもにゃも、大丈夫なのか?」
続いて巻機さんも廊下にやってきて、廊下の奥をうかがいます。
「ええ。茶トラさん、食いしん坊で早食いするんです。それで消化不良になって、たまに吐いちゃうんですよ」
「病気とか、変なもん食ったとかじゃないんだよな」
「ええ。吐いたものにその類のものはありませんでしたから」
「そっか」
巻機さんは安堵の表情を浮かべ、廊下の奥でうずくまる茶トラさんに呼びかけます。
「にゃもにゃも、飯、大好きなのか。ならしゃーねーよな。飯をはりきって食えるのは元気な証拠だ。だから気にすんなよ」
人間相手のようなフォローをする巻機さんに、内心でため息をつきます。
……本当に優しい人なんですね。
私は消毒液で廊下を拭き、吐瀉物を片付けて再びリビングに着席しました。
巻機さんも、茶トラさんを気にしつつソファに腰を下ろします。
「放っておいていいのか?」
「構って欲しくなったら向こうから来ます。今はそっとしておきましょう」
ポイントさんは弟(?)を気にして廊下にいるようですが、話を進めるチャンスでもありました。
「なあ、森山さん」
巻機さんが声をかけました。
「はい。何でしょう」
「話の続きなんだけど、この世界でやりたいことをやるって言ってたじゃん。あんたにはあるのか?」
「はい。私のやりたいことは、猫たちといっしょにこの家で平和に仲良く暮らすことです」
巻機さんはポカンとした表情で私を見ました。
「それだけ?」
「はい」
「そんな簡単なこと……いや、簡単じゃねーよな。このご時世に猫を飼うなんて、なかなか出来ないぞ」
「……私は、あの猫たちに救われたんです」
あの討伐戦後、私は心の調子を著しく崩し、現在も心の病院のお世話になっています。
担当医が言うには、私の心は未だにあの戦場にいて、時間と体に追いついていない状態なのだそうです。
だから、ふとした拍子に心は戦場へと戻ってしまうのだと。
雪山は実にわかりやすいトリガーで、見るのはともかく、薬の力を借りても足を踏み入れることは未だにできません。
しかし、あの二匹を飼い始めたことで、私の心は周囲の人が驚く程に回復していきました。
凍ってカチコチだった私の心と世界が、柔らかく暖かな光とともにゆっくりと溶け始め、少しずつ色がつき始めたのです。
そこまで話すと、巻機さんは目線を落としました。
「そうか。あんたも、あの討伐戦で傷を負っていたんだな」
そしてふと顔を上げます。
「そういや、犬や猫って、アニマルセラピーとして人の心を癒す力があるって聞いたことがある」
「ええ。アニマルセラピーとしても私には有用でしたけど、それ以上に猫は、私の生前にも、過去の戦場にもいない存在です。猫と一緒にいる日々はこの現実にしかない。だからこそ、過去へ戻ろうとする私を繋ぎ止めるアンカーになり得るんです」
私は、今の自分の決意を口にします。
「私は、これからも猫たちとこの家で暮らしたいし、猫たちにも元気に伸び伸びと過ごして欲しいと思っています。だからこの家をまず守ります。そして家の周辺を、最終的にはこの山を、猫たちが安心して暮らせるような場所にしたい。それが、私の今一番やりたいことです」
だから、山で生きるための知識と技術を身につけ磨きをかける。
拠点を山小屋として利用し、人と接することで人脈を作る。
組織や人脈で築いた人々の力を借りて、山の整備を進める。
全ては、私がやりたいことをこの現実で成すためです。
巻機さんが目を見張って私を見た時でした。
「にゃも」
特徴のある鳴き声に視線を動かすと、リビングの入口でちんまりと茶トラさんが座っていました。
夕飯を吐いたことによるションボリ状態は継続中。
茶トラさんを見守っていたポイントさんは、さっさとこちらへ来てソファに飛び乗ると、私の横で毛繕いを始めました。
私は彼をひと撫でし、自分の腿を軽く叩きます。
「茶トラさんいらっしゃい。私は怒っていません」
ちょっぴり呆れてはいますけど。
「ほら、膝が空いていますよ。ポイントさんが空けてくれました」
それでも私を見たまま動こうとしない茶トラさん。
巻機さんが茶トラさんに笑いかけます。
「にゃもにゃも来いよ。大丈夫だってさ」
しばらく黙って待ちましたが、来る様子はありません。
諦めて話の続きをしようとした時、音もなく彼は私の足元に来て私を見上げました。
「にゃも」
膝に乗せろですか。
ええ、わかりましたよ。
望み通り抱き上げて膝の上に乗せると、そのまま座ろうとせず、私のパーカーの中に手を入れて中に入ろうとしました。
「はい、どうぞ」
前を開けると、するんとパーカーの中に入り込んで寝そべりました。
まるでカンガルーです。
「にゃも」
「ええ、ビックリしましたね。私もビックリしましたよ。でも、もう大丈夫ですからね」
服の上から撫でながら言うと、茶トラさんは盛大に喉を鳴らしました。
「良かったなーにゃもにゃも。一安心だな」
「にゃんも」
「そっかそっかー。そこがお前のお気に入りの場所か」
「にゃもにゃもん、むにゃも」
「だなー。暖かいもんなー」
会話をしているかのようなやり取り。
……もしかして意思疎通、できてるんですか?
服の中でくつろぐ猫を撫でながら、私は巻機さんを見つめました。
「今のこの地で、やりたいことを見つけるのはとても難しいことです。でも、きっとあるはずです」
巻機さんも私を見つめ、そして小さく笑いました。
「ああ、見つかるといいなあ」
遠い目をして子供のように言う彼。
その表情は、私の言葉も先の未来を信じることも、今は難しいことを雄弁に語っていました。
散々な現実を見てきたのですから、無理もない話です。
でも、きっと彼にもあります。
人にも動物にも寄り添える明るく優しい心と、才能豊かで素敵な歌声を持ち、あの過酷な戦場で人々を慰め勇気づけてきた彼なら、きっと見つけられるはずです。
「昼間に歌った歌が好きだと言った貴方なら、見つけられますよ」
「にゃも」
巻機さんは目を見開き、そして相好を崩しました。
「ああそうか。あの歌の解釈、今本当の意味で理解出来たような気がする。なら、考えるところから始めてみるか」
そうして話は終わり、巻機さんは冷めてしまった紅茶を一息に飲み干すと、挨拶をして部屋へと戻りました。
おやすみなさい、今夜も良い夢を。
私は猫たちを撫でながら、深く息を吐きだします。
……疲れました。
回復傾向にあるとはいえ、全盛期に比べれば明らかに衰えている私の心の体力は、先程のやり取りでスッカラカンです。
目を閉じると、人影が浮かび上がってきました。
……お父さん、お母さん、これで良かったんだよね。
私は二人に呼びかけます。
私は彼らに、自信を身につけて欲しいんだよ。
「死に戻りが当たり前、記憶の欠損は吸血鬼として一人前の証なんてほざくバカもいるようだが、死に戻るごとに
中隊長が言ってた。
そんな俺たちは、不死なだけで何者も信じることが出来ないあまりに無責任で弱い存在なのだと。
だからこそ、信じるものがあることはとても強いことだ。
死に戻りに頼ることなく生きて、蓄えて、積み上げて、お前ら自身をまず信じられるようになれと。
だから私は──。
二人は微笑むばかりで何も答えてはくれません。
一抹の寂しさを覚えますが、いつものことです。
私にできることは、あの三人が自分の力で立って歩く日が来ることを信じること。
そして、疲れたので身体を拭いて歯を磨いたらすぐに寝ることです。
と、膝に気配。
見れば、ポイントさんが音もなく膝の上に乗ろうとしているではありませんか。
「乗りたいですか、そうですか」
私はソファの上にあぐらをかくと無言で彼は足の間に入り、ペソリと寝そべって喉を鳴らしました。
今日はまた随分と甘えん坊さんですね。
そして気づきました。
今日は朝から午後まで、ほぼ家にいませんでした。
だからですかね。
「大丈夫ですよ。私はここにいます」
柔らかく温かい体を撫でながら語りかけます。
「例え離れることがあっても、必ず貴方たちの元へ帰ってきますからね」
そう、必ず貴方たち元へ、この現実へ必ず帰りますから。
そうして猫たちが私を解放してくれたのは、一時間以上すぎてのことでした。
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