赤の広場にもゲートが開いてしまったようです 作:やがみ0821
「さっさと砲弾を叩き込めば、それで終わるのだが……何があったんだ?」
ワシーリー・チュイコフ大将は帝都の地図を眺めながら、呟いた。
イタリカをはじめ、多くの都市や街は戦う前に降伏を選んだが、中には戦うことを選んだ都市や街もある。
そういったところはジューコフから容赦なく攻撃するよう事前に命じられている。
といっても、その指示自体はジューコフ個人の判断ではなく、モスクワからのものだ。
そして帝都は降伏する可能性が限りなくゼロに近いこと、赤軍の接近とともに脱出する者が増大することが当初から予想されていた為、ジューコフは帝都を完全な包囲下におくことを命じていた。
市民に扮して重要人物が逃げ出すことを防ぐ為だ。
この策が功を奏し、多くの重要人物の確保に成功しており、NKVDに引き渡されている。
しかし、ある時期からNKVDの動きが慌ただしくなり、程なくしてジューコフから全部隊に対して待機命令が出た。
どうやら重要人物達から得た情報は21世紀の地球に夢中になっているモスクワの意識を、異世界へ向けさせるには十分過ぎるものだったらしい。
今回モスクワから待ったがかかった理由は、軍事的なものではなく政治的なものだとチュイコフは小耳に挟んでいた。
「ともかく、待つしかない」
モスクワが決断を早く出してくれることを祈るしかなかった。
スターリンは1週間という短い期間であったものの日本を堪能し、お土産をたくさん買って2週間前にモスクワへ戻ってきていた。
そして、数日前までクレムリンにおける話題の中心は21世紀世界であり、異世界のことが話に出てくるのはあまり無かった。
理由としては異世界における魔法は重砲や小銃の代わりにはならず、唯一の懸念であった炎龍も損害を出しながらも討伐されており、赤軍を阻むものはもはや存在しないと考えられていた為だ。
なお、炎龍退治ついでにエルベ藩王国も占領している。
この国は資源の宝庫だったが、本格的な採掘の為には道路や鉄道の整備から始めねばならず、そんなことをしていては年単位の時間が掛かることは目に見えていた。
門が閉じてしまう可能性を考慮すれば、21世紀のアメリカに土地を売却した方が良いと判断されている。
基本的には門周辺を除いて、ソ連は21世紀世界のアメリカに異世界の土地を売却する方針であり、これと引き換えにアメリカにはロシアがソ連へ色んなものを渡すことを見逃してもらい、あわよくばアメリカや日本から民生技術を得ようという魂胆だ。
アメリカが首を縦に振らねば日本は動かないが、逆に言えばアメリカが許可を出せば日本は動く。
日本から技術を得る為にはまずアメリカに利益を提示しつつ、交渉することが重要だ。
ソ連にとって異世界はアメリカに高く売りつけることができる商品となっていたのだが、ここでメンジンスキーが持ってきた報告書はスターリンをはじめとした指導部に大きな衝撃を与えた。
市民に扮して帝都から逃げ出そうとして捕らえられたディアボなる第二皇子や多くの貴族達。
彼らによれば、第一皇子のゾルザルとやらは現地の亜人達や門を超えた先で拉致してきた女性達を奴隷としているとのこと。
その中にはノリコという黒髪の女がおり、ニホンから来たと言っているらしいことだ。
彼女以外にもモスクワでの行方不明者もいるようだ。
見なかったことにするというのは簡単だが、これは日本に恩を売るチャンスだ。
ディアボや貴族達の証言によればゾルザルはサディスティックな性格らしく、奴隷の扱いは酷いものだという。
ルビャンカでNKVDが心を込めておもてなしをした結果、教えてくれたことなので、この証言に嘘偽りはないとスターリンは考える。
彼女達が交渉の手札に使えると帝国に気づかれる前に、攻撃を開始しなければならない。
下手に攻撃をしては彼女達の命が危ないかもしれない、と考えて決断を引き伸ばしたところで、それは敵を利する行為でしかないだろう。
「ソ連や日本の被害者だけでなく、ゾルザルの手元にいる奴隷は全て解放しておこう。必要ならばソヴィエトで保護しても良い」
ゾルザルの奴隷の中には、どこにも行く宛がない女が確実に1人はいることが判明していた。
ゾルザル派だという貴族が詳しく教えてくれた為、彼女については他の奴隷よりも多くの情報があった。
現地には深く関わらないという方針であったものの、スターリン個人として亜人は人間にはない能力を活かして、幅広く活躍できるのではないかと思う。
無論、亜人を入れることは人間の立場が脅かされることに繋がりかねない為、非常に面倒くさい問題が起きる可能性もあるが、彼女の経歴は人民の同情を引くには十分過ぎる。
お膳立てをすればうまく受け入れる可能性はある。
とはいえ、彼女達の命を最初から考慮しないというのは問題だ。
宮殿への砲撃は控え、迅速に内部を制圧するという条件をつけ、スターリンはジューコフに攻撃許可を出すことを決めた。
「……帝国はもう終わりだわ」
テューレは狭苦しい部屋のベッドでそう呟いた。
彼女が自らの身体を餌にして従わせた密偵のボウロから、情報を得ていたのだが、それは彼女にとってとても愉快なものだった。
テューレは自分と同じく奴隷にされているソ連から拉致された女性より、ソ連について色々と聞いていた。
当初、彼女の話はテューレも含めて誰も彼もが信じていなかった――ノリコと名乗った女だけは半信半疑であったが――今では皆が信じている。
彼女によれば、スターリンというソ連の指導者は万人が平等に豊かになる社会を理想とし、その実現の為に様々なことをやっており、成果が着実に現れているという。
亜人という存在は地球にはいないが、もしいたとしてもソ連ならば区別はあっても差別はなく、また奴隷となることもないと彼女は断言した。
その根拠としてソ連は皇族や貴族によって虐げられていた民衆が決起して、内戦の末に民衆が勝利して成立した国家だという。
テューレは勿論、他の奴隷達にとってもソ連はまさしく理想国家に思えてしまった。
唯一ノリコだけは懐疑的であったが。
ソ連に行ってみたいという思いもあったが、それは叶わない願いだとテューレは諦めていた。
元女王として最後の仕事だと考えているものが彼女にはある為だ。
それはソ連軍の攻撃による混乱を利用してゾルザルを自分の手で殺した後、同胞によって殺されること。
それによって全ては終わる。
「早く攻撃してくればいいのに……」
何をモタモタしているんだろう、とテューレは思うのだった。