日課となっているランニングは、圭のバイトがない日を除けば雨の日だって行われる。カッパを着てのランニング。カッパの内側は熱が篭もるが、外側からは冷たい雨に打たれて冷え込む。
それによって体調が崩れては元も子もないとして、圭は雨の日は付き添いがなくてもいいと言ったことがある。無理してつい来てきてもらって倒れられたら。そんなもしものことを警戒し、何よりも光上のことを心配してのこと。
しかしそれは飲み込んでもらえず、雨だろうと雪だろうと光上はランニングをやめなかった。日々のランニングでついた体力は、それぐらいのことであれば跳ね除けるようになったのだ。もちろん限度はある。限界点を理解しているからこそ、それでも大丈夫だと光上は判断している。
限度が来なくても崩れる場合はある。光上の場合だと体が冷え込んだり、体力を消耗し過ぎたりといった身体的な要因と、気に病むようなことに遭うといった精神的な要因が同時に降り掛かった場合だ。
「光上さん大丈夫ですか?」
「なんだか今日は息が上がりやすい日みたい」
ランニングを終えた光上は、営業所前にある花壇に腰掛けていた。報告を終えて退勤した圭が駆け寄り、心配そうに眉を下げながらタオルで汗を拭ってあげている。いつもなら「自分でやるよ」と言うのに、今日はされるがままだった。
「汗も多いですよ」
「今日は暑いもんね。真夏日かな」
「早朝ですし。気温はまだ10度を超えたくらいだと思いますよ」
「あれ?」
大丈夫そうじゃなかった。
圭はタオルを光上の首にかけ、スポーツドリンクのキャップを開けて手渡す。自分が飲んでいたものだが、そんなことを気にしている場合じゃない。
ごくごくと圭にも聞こえる勢いで飲まれる。本人の自覚がなかっただけで、体は水分を求めていたようだ。スポーツドリンクに含まれている栄養も染み渡ることだろう。
「あ、ごめん。飲み干しちゃった」
「いいですよ。帰ったら飲み物ありますから」
「それならすぐに家に向かおうか」
しっかりとした足取りで歩き始める彼の隣りを、圭は不安を抱えながら付き添って歩く。暑そうにしていることには変わりなく、定期的にタオルで汗を拭っている。どこからどう見ても体調を崩している。
(私……気づけなかった……)
きっと起きた時から体調は優れてなかったはず。それなのに圭を迎えに来て、新聞配達に合わせてランニング。いつも通りの様子を出し続けていた。圭は見事にそれに騙された。気づいたのは配達を終えた後。営業所に戻っている時に、息の上がり方や汗の量がいつもと違い過ぎてたから。
そこまでにならないと気づけなかった。それを彼女は悔やんでいるものの、彼女に非はない。黙っていた光上が悪いのだから。
その光上だが、隠し事も極力しないように努める男だ。特に彼が仲良くしている相手には。
筆頭は御行になるものの、圭だって彼の中で存在感が大きい。彼女に隠し事をしようとは思わない。
要は、
「今日は学校を休まれてください」
「大丈夫。授業は聞いてるよ」
「光上さん……」
それも会話が噛み合わないレベルで。
ここまで弱っているのなら、会話に体力を使わせるべきじゃない。そう判断した圭は、家に着くまでの間話しかけることをやめた。彼も声をかけられなければ反応することはない。歩くことに集中している。
「あの、ご自宅までお送りします」
「え?」
圭がそう言ったのは、自宅のあるアパートまでたどり着いた時だった。塀に手を当てて体を支えている彼が、この後彼の自宅まで無事に行けるとは思えない。走って10分ほどの場所だと聞いている。今の状態からして3倍近くの時間がかかるはず。
そんな圭の気遣いだったが、彼がそれを受け入れるわけもなく。
「そしたらその後白銀さんが一人になっちゃう。俺が付き添ってた意味がなくなるよ」
「まずはご自分の心配をなさってください!」
「白銀さん……」
「私だって、登下校の時は一人でも大丈夫なんです。もう子どもじゃないです!」
「たしかに大人っぽいけ、ど……っ」
「光上さん!?」
視界がぐらついた。彼女が何か声をかけているけど、それを聞き取れない。返事をしてあげたいけど、体がまったく動かない。真っ暗な世界へと意識が遠のいた。
「光上さんしっかりしてください! 光上さん!」
彼の体をなんとか受け止める。男女の体格差はあれど、光上は元々体が弱いこともあって体格は平均より細め。そのおかげで中学生の女子でも支えることはできた。
そしてそれが限界だった。完全に意識がない人間の体は、起きてるときよりも断然重たい。しかも持ちにくい状態だと余計に重さを感じてしまう。せめて背負えたらよかったのに、今は正面から受け止めてるだけで手一杯。体の向きを180度変える余裕なんてない。
(どうしよう! どうしたら……!)
解決方法を考える。救急車を呼ぶのも手だ。というかそれが優先されるはず。しかし両手が塞がっていてそれどころじゃない。「今私光上さん抱き締めてる!」とか喜んでる場合でもない。普段ならニヤついてしまうところだが、今はそんな余裕もない。
人手が必要だ。幸いにも家はすぐそこ。男手が欲しいし、家の中には父親と兄がいる。
圭は一瞬迷った。迷ったけども、自分のその葛藤よりも光上のことを優先した。
「助けてお兄ぃ!」
「どうした圭ちゃん! 何があった!!」
「うっわ出てくるの早っ。キッモ!」
「圭ちゃんが呼んだのに!? ん? 光上!?」
「ほう。いつぞやの少年じゃないか」
「呼んでない人は出てこないで」
「しょぼん」
珍道中もそこそこに。御行が光上を担ぎ上げて家の中へ。圭は救急車を呼ぼうとしたが、その手を父親が止める。人を殺せるレベルの鋭い目で睨みつけるも、父親は動じなかった。経験の差が出ているのかもしれない。職業不定の強みか。
「こういう時ほど冷静に。救急車を呼ぶにしても、症状を確認しとかないとね」
「……うん」
家の中では光上を運んだ御行が、意識を失っている彼の体温を測っている。すでに冷えピタなどの準備もされており、こういう時の行動の的確さと早さが光る。秀知院学園の生徒会長は伊達ではない。
「熱高いな。走った後にしても39℃超えはヤバイぞ」
「走った後という点を考慮してマイナス1℃としても、高熱ではあるな。汗を一度流してもらいたいけど」
「意識がないから無理だろ。俺今日早めに学校行かないといけないし」
「安心するといい。ここは職業不定のパパに任せなさい」
「「任せられるか!!」」
兄妹揃っての激しいツッコミ。御行と言葉までも被ったことに圭のイライラ度が増していく。
「それよりも症状だ。倒れたとなるとやっぱ救急車を呼んだほうがいい気がするが」
「ちょっと待ってね」
「父さん何してんの?」
「触診。数年前に習った」
「いや怪しいな!?」
「まあそう言うな。仕事になりそうなことだったから真面目に習得したんだぞ」
「そ、そうなのか……」
職業不定であっても父親は父親。子供たちを養っていくことが親の役目。そういう大事な部分は決してブレることなく、一瞬足りとも腐ることなく生きてきた。その口で言ったように、仕事になる可能性があるものは身に付ける。
真面目に動く父親の背中を見て、すぐに疑ってしまったことを御行は悔いた。なかなか人に誇れる父親とは言えないだろう。誇りだとは言えないだろう。茶目っ気な部分も含めて他人には知られたくない。それでも、やはりこの人は自分たちの親なんだ。
「これは……!」
「どうしたのパパ!」
「もう少し待て……」
真剣な顔から少しずつ思案顔になっていく。何かよくないことだろうかと圭は不安に駆り立てられた。
何か病気だろうか。もしかしたら手術しないといけないのか。不安になると嫌なことばかり考える。嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
辛そうな妹の姿を見ても、何もしてやれない。自分の不甲斐なさが嫌になる。それがどうだ。恥とすら思ってしまったことがある父親の頼りがいのある背中は。
「なぁ父さ──」
「間違いない」
声をかけるも重ねられて消される。兄が何を言いかけたのか気になるものの、それよりも光上のことを優先。圭は何が分かったのか父親に聞いた。
「この子──いい体してる」
「……」
「……」
(あっぶねぇぇぇえ!! この親父はやっぱり俺の知ってる親父だったわ!!)
「ランニングや水泳というのはバランス良く体を鍛えられるものでな。水泳はその競技の方法上、ランニングよりも肺が鍛えられるわけだが。それにしてもバランスのいい体だ。ところで御行。何か言いかけてなかったか?」
「何も言うことねぇわ! たった今綺麗さっぱり消えたわ!」
「パパもう光上さんから離れて! 二度とこの人の体触らないで!」
「あーくそっ! 時間が……! 圭ちゃん。救急車は呼んでおくから後頼んでもいいか?」
「もちろん」
光上の体を触って楽しんでいる父親を突き飛ばし、そのまま何度も踏みつけている圭に声をかける。御行ももちろん光上のことが心配ではあるが、今日は朝から生徒会関係でやることがある。会長である自分が休むわけにもいかない。
「まぁ待て御行。彼は普通に風邪だ。このまま家で休ませてやればいい。彼の家と学校に一報を入れておいてやれ」
「嘘だったらパパを一生恨むから」
「怖っ」
ふざけたことをしでかした後だというのに。父親の言葉は力強く、その目の強さは確信を抱いてるものだった。御行も圭もそれが分かってしまう。分かってしまうから渋々了承し、御行は救急車を呼ばずに光上家へと連絡。学校への連絡は光上家から行うと言われ、それをお願いして電話を切った。
「それじゃあ俺は学校に行くから。父さん光上に変なことすんなよ!」
「俺はまだ妻に未練があるし、男趣味はないから安心しろ」
「そういう事じゃねぇんだよ! 圭ちゃんは……、中等部にも連絡入れとく。風邪ってことでいいか?」
「うん……。それでいいよ」
「わかった。風邪、うつらないように気をつけろよ」
「過保護」
いつもほどのキレはなく、圭は御行の方を一切見ずに光上のことを見ていた。その姿を見て御行もようやく圭の気持ちを理解し、同時に渦巻き始めたいくつかの感情を飲み込んで家を出るのだった。
(娘に春が来た。でもこれ今は駄目なやつ)
さすがに自粛する父なのだった。
「そんなわけで朝はドタバタしていてな。さすがに焦ったものだよ。……いろいろと」
危うく父をカッコイイと思いかけたという複雑な思いが浮上した。
その話を聞いた生徒会の面々は各々違った反応をする。
「それは心配ですね……。光上くんが風邪を引くのも随分久しぶりですし」
藤原は純粋に心配するし。
「心配ではありますけど、あの人って元々体が弱いって話ですよね?」
石上は心配が半分で、それも仕方ないのではという思いが半分。
「ここ数カ月とかは休み無しだったんですよ、彼」
四宮は特に何か思うわけでもなかった。強いて言うなら、意外だなと僅かに驚いてることか。
「前に休んだ時は入院するほどでしたし、さすがに心配で……」
「そうだったな。あの時期は…………今回もヤバイんじゃね!? クソッ! あの野郎!!」
「会長落ち着いてください!」
父親に騙された気がしてきて仕方がない。妹の想いに気づいてしまった以上、圭が悲しむことは避けたい。まだ認めてないけども。
突然荒ぶりだした御行を四宮が止める。誰だって好きな人に止められたら大人しくなるしかないのだ。
御行が大人しくなると、話題を少しずらすことにする。頭を使ったことであれば、そのイラつきも散漫になると読んだのだ。
「私は原因が気になりますね」
「原因ですか?」
「ええ。彼は医療従事者並に健康に気をつけてる人です。さらに、ある程度の体力をもつようになったことで、ちょっとやそっとの事では体調を崩さなくなりました」
「それでも今回高熱が出た。何かあったということですね?」
「ふむ……」
四宮の狙い通りに全員がその原因について考え出す。最大の狙いであった御行も深い思考を始めた。
(あ、今の会長良い!)
邪な狙いもあったようだ。
「病は気から、とも言うし。それもあるかもしれんな」
「会長にしては珍しい意見ですね」
「いや何。元気が有り余ってる人ほど、微熱も平気な人がいる。反対に病気がちな人は気の弱い傾向がある。精神面を考慮するのも悪くないだろう」
「たしかに光上くんとか昔は気が弱かったですからね~」
「光上先輩が!? 想像できないんですが!?」
「気が弱い……まぁそう言えたかもしれませんね」
一言でそう言えない事情もあるのだが、話が脱線するから流すことにした。何よりも、その手の話は本人がいない場所でするものじゃない。御行の存在は四宮にとってもストッパーとして機能していた。
「両方で考えるか。外的要因と内的要因。風邪を引くことの典型例は感染か、体が冷えることだったりするな」
「でも昨日は晴れでしたよ」
「クラス内で風邪をひいてる方はいませんでしたし。ゲリラ豪雨もありませんでした。濡れることなんてないのでは?」
「そうですよ~」
(…………あれ? 昨日光上くん……池の中に……)
藤原は笑顔とは裏腹に冷や汗をかいた。
「内的要因だと、ショックな出来事か」
「そういえば昨日は光上先輩校内にいましたね」
「図書室にか?」
「いえ。生徒会室前に。ギャルの先輩と一緒にいましたよ」
「早坂さんのことですね~。私も昨日光上くんと会って、早坂さんと3人で私のリボンを探してもらったんですよ~」
その発言を聞いた瞬間に、3人の視線が藤原に集まる。「犯人こいつじゃね?」という疑いがかけられた。しかしリボンを探してもらっただけ。普通に考えれば何かが起きるほうが考えられない。
(だが藤原書記に常識は通用しないからな……)
できれば疑いたくない。仲間が友人を陥れたなんて考えたくない。
「不幸なこととかって連続して起こりやすいですよね。弱り目に祟り目と言いますか、泣きっ面蹴ったりと言いますか」
「石上会計。そのネタがここで通じるの俺だけなんだが」
「ぷぷー! 石上くんそれ泣きっ面に蜂ですよー!」
「ネタだって今会長が言ったでしょ」
普段正論で殴ってくる石上を、ここぞとばかりに藤原が襲撃する。
だがしかし! へらへらと笑ってる藤原は冷や汗をダラダラと流していた!
(私昨日光上くんにありもしない罪を……)
信じてるなんて言っておいて、揶揄い気味に彼をえっち呼ばわりした。その事を藤原は思い出したのだ。
(私のせいで──)
この話は生徒会メンバーだけが聞いているものじゃない。
四宮かぐやの侍従である彼女もまた、ワイヤレスイヤホン越しに話の一部始終を聞いていた。今もなお話は聞こえてくるものの、半分ほどは聞き逃している。
背中を壁に預け、薄明かりの虚空を見つめる。
そこに見えるのは──
(これ……ウチのせいだ)
触診で風邪云々の判断は演出の都合です。
「お兄ぃ」と呼び「パパ」と呼ぶ圭ちゃん可愛い。
修学旅行編について
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漫画出るまで修学旅行編待機
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18巻の内容までならOK
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ネタバレ気にしないから更新続行