ごろんと寝返りを打った時に目が覚めた。やけに重たい瞼を押し上げ天井を見上げる。知ってる天井ではない。自室ではないし、病院の天井というわけでもない。
「げほっ、げほっ!」
どこだろうと頭を働かせる余裕もない。何度か咳き込み胸を抑える。咳が止まっても手の位置はそのままに。自分の鼓動を手で聞いている。ゆっくりと深呼吸して息を整え、気持ちを落ち着かせる。
体がだるく、起き上がるのも億劫に感じる。なんとか体を横向きに変え、天井以外の場所へと視線を移す。やはり知らない部屋。見える範囲ではとても質素な部屋に思える。所々に控えめな華やかさが感じられた。
「光上さん目を覚まされたのですね」
「白銀さん?」
失礼なことに他人の部屋を観察していた。声は圭のもので、体を起こそうとすると肩を押さえられた。
「まだ横になっていてください。熱も引いてませんから」
「ここ、は?」
「私の自宅で私の部屋です。手狭ですけど」
「そんなことないよ」
ベッドを置ける余裕もない。ベッドがあったらきっとさらに狭く感じただろうが、一人での生活が可能な大きさがある。光上は今布団に横になっていて、その額には冷えピタが貼られていた。これももう効力がなくなってきてるようで、貼られているそれを圭が丁寧に剥がす。
「汗と一緒に拭きますので、ジッとしててください」
丁寧な口調ではあるものの、その声は有無を言わせない力強さがあった。普段の彼女からは考えられない様子。しかし、それは光上が見ている普段の彼女ということ。当然と言えば当然のことだが、圭は好きな人といる間のほとんどが緊張状態。自然に話せていると思えていたのは、彼女がそこを意識していたからだ。
中等部での彼女とは違う一面。光上からすれば、それが当たり前だった。それが今は一切出ていない。中等部での生活の様子と遜色がない。それでいて素の面倒見の良さが出ているだけだ。
「連続で貼っても嫌でしょうし、濡れタオルにしますね。氷枕があればよかったんですけど、以前に破裂してしまって」
「けほっ。破裂って」
「お恥ずかしい話です」
本当に恥ずかしい話なのだ。その内容は語りたくない。だから恥ずかしい話だと言って予防線を張っておく。こうすれば光上は踏み込むことがない。
ちなみに内容というのは、兄妹喧嘩の際に氷枕が犠牲になったという話である。
桶に張った氷水にタオルを沈め、しっかりと冷やしてから取り出して絞る。冷たさに眉を顰めたものの、これぐらいどうというわけでもない。
絞り終えたら光上の前髪をあげ、先程まで冷えピタが貼られていた場所へとタオルを置く。
「どうですか?」
「ひんやりしてて気持ちいいよ。ありがとう」
「よかったです。光上さんランニングの後倒れてしまって。私本当に焦ったんですよ?」
「迷惑かけてるよね。ごめんね。風邪も感染すかもしれないから、申し訳ないけど白銀さんは部屋の外に」
「光上さんが寝付けたらそうします。ほら、マスクもしてあるので」
「……今日の白銀さんは、いつもとひと味違うね」
そう言われて、細く、息を呑んだ。
人の印象というものは大事だ。その人を表すものだ。第一印象はやはり外見だろう。服装や容姿。それで60%ほどが決まってしまうと言われている。残りが第二印象以降。これは性格面の話。話し方や行動で決まり、それが相手の中で固定化されていく。
ここから離れた行為をしたときに「思ってたのと違う」「イメージが崩れた」となるのだ。それが良い方向か悪い方向かはそれぞれだが。
さて、光上が言ったのは果たしてどちらか。良い意味なのか、悪い意味なのか。日本人の多くは消極的だ。それは迷った時にマイナス面を先に思い浮かべてしまう。
圭は悩んだ。光上のことが心配で、できうる限りのことがしたい。そう思い、緊張を抑え込んで行動している。それが裏目に出てしまったのだろうか。
「うまく言えないけど、けほっ。なんか、魅力的だよ」
「ぁ、ありがとう、ございます」
良い方向に転んだ。熱くなる顔を見られたくなくて、圭は光上に乗せているタオルを少し広げた。視界を覆う程度に。
「白銀さん?」
「風邪の時は目の疲れも著しいですから」
「なるほど」
うまく誤魔化せた。これで熱くなってる今の顔を見られずに済む。思わずにやけてしまうのも隠さないでいい。圭は小さくガッツポーズをした。
彼女が言ったとおり、光上は目の疲れも感じていた。タオルで覆われる際に瞼を閉じ。ひんやりとした冷たさが、目の疲れを実感させてくれた。ひとつ引っかかったこともある。目が疲れてる時って冷やすのが正解だっただろうかと。未だ思考は大して働かない。集中力が欠けている今ではそれを思い出せず、圭の気遣いを受け取ることにしたのだ。
「光上さん。今後はこういうのやめてください。体調が優れない時は、休んでほしいです」
「うん。……言い訳になるけど、今日は気づけなかったんだ。起きた時は大丈夫だと思ってたんだよ」
「……そうですか。では、お約束だけしましょう。今後はやらないって」
「そうだね」
光上の手を取り、その小指に自分の小指を絡める。光上の方からも、弱々しくだが絡められ、圭は思わず胸がドキッと高まった。ドクドクと強く脈を打つ鼓動。不思議とそれは苦しくなく、むしろ愛おしい。
「えっと、白銀さん?」
「っ!」
名前を呼ばれてビクッと反応する。気づかぬうちに目を閉じていたようだ。視線を手元に移すと、小指同士を絡めてる手を。光上の手ごとそのまま胸に抱え込むように引き寄せていた。
「す、すみません!」
「いや、俺の方こそごめん」
彼は今そこまで体に力が入らない状態だ。早く治すことを念頭に置いていて、圭と話してはいるもののタオルの下で目を瞑っている。そうして受け身の姿勢を取っていたわけだが、それが原因で彼女の成長途中の胸に手が当たってしまった。不可抗力だとしても、紳士として謝らないといけない。
しばらく無言の状態が続いたが、それを破ったのは彼女だった。今の沈黙が耐えられなかったらしい。音痴の兄とは違い、美しい音色で紡いでいく。
「ゆーびきーりげんまん。嘘ついたら針千本のーます。指きった」
「針千本は嫌だな」
「ふふっ、約束を破らなかったらいいんですよ」
「それはたしかに。ところで白銀さん歌上手いんだね」
「そ、そうですか? 自分ではよくわからないんですけど」
そんな事はなかった。圭は自分の歌の技能を自覚している。学校の授業科目にあること、音楽の成績が優秀であること、カラオケで高得点を出せるなど、いくつかの要因で客観的に認識できているのだ。友人からも歌う度に称賛されている。
「上手いよ。白銀さんの歌声は透きとおってるし、聴き入っちゃうほどに優しい。結構好きだなー」
(結婚したい!? 光上さんってば……。私まだ16歳にもなってないのに……!)
酷い聞き間違えだった。このポンコツ具合は兄である御行でも驚く。
早坂が見たら「かぐや様レベルの酷さ」と言いかねない程の妄想を圭は膨らませており、桃色の世界を作り出してしまっている。どういう家庭にしたいか、子どもは何人がいいかと、中学生の段階でやたらとリアルな将来設計が組み上げられていた。
そんなことがすぐ隣で起きているとは光上も想像だにしないだろう。勘違いも積み重なれば悲惨な展開になりかねないと言うのに。
「白銀さんの歌、何か聴かせてもらってもいいかな?」
「いいですよ。子守唄でいいですか?」
「この歳でそれはちょっと……」
「ではバラードにしますね」
「我儘を聞いてくれてありがとう」
「これくらい我儘に入りませんよ」
圭はおかしそうにくすりと笑う。彼女は光上の学校生活のことをほとんど知らない。漠然としか知らないし、家庭のことなんてもっとわからない。理事長の息子であるということ。家が走って10分ほどの場所にあるということ。それぐらいのことしか知らないのだ。
だから、光上晶という人間が、他の人よりも圧倒的に甘え下手であるなんて圭は知らない。光上も彼女のように、付きっきりでいてくれる人なんて知らない。無償の優しさというものに全く触れてこなかったのだから。
ただ、
「おやすみさい。光上さん」
1曲歌い終える前に彼は寝息を立て始めた。重度の風邪はそれだけで体力を奪う。彼好みである彼女の音色は、それだけで睡眠導入剤となっていた。
タオルに手を置く。まだ冷えてはいる。寝始めたばかりだし、冷やし直して起こしても本末転倒だ。彼の目を隠してる部分を戻すだけに留めておいた。そうして顕になる彼の寝顔を、圭は慈しむように見つめる。
いつも世話になっている。兄の御行もそうかもしれない。努力家であることは普段の様子からよくわかっていた。こう言っては悪いが、せっかくの機会なのだから、今日はしっかりと休んでほしい。
(……はぁぁぁぁ。緊張したぁぁ。私、変じゃなかったよね? 看病できてたよね?)
光上が寝たことで、彼女もすっかり気が抜けた。好きな人の看病だ。緊張しないわけがない。それでも、彼は病人なのだ。余計な気を使わせてしまっては、無駄に体力が削られてしまう。それだけは何としても避けたかった。
そうして作り出された鋼の精神。なんとかボロを出さずにやり切ることができた。酷い聞き間違いはあったが。
光上の症状はまだ回復しきっていない。彼が次起きた時に、もう一度取り繕う必要がある。ただし、一度目のそれは不安があった。二度目は確信に変わる。彼女は無事にやり遂げるだろう。
(光上さんが私の部屋にいる。私、さっき髪触っちゃったし、手も触れちゃった! しかも指絡めた!)
抑えていた感情が込み上げて来る。羞恥と喜び。二つの感情が一気に膨らんで悶える。部屋にあるクッションをこれでもかと抱き締めた。
なお、早朝に光上が倒れた際に、彼を抱きとめたことは完全に抜け落ちている。
彼が起きないように気をつけながら、クッションを抱きかかえて部屋の空いてるスペースで右へ左へと転がる。それが少しばかり落ち着いたところで、彼の隣へと座り直して深呼吸。首にそっと手を当てて熱を確認。まだ熱はありそうだ。
今日は一日彼の看病をできる。喜んでしまいそうで複雑な気分。そんな気持ちも、彼を見ていたら吹き飛ぶわけだが。
ここでふと視線に気づいた。
そっちを見ると
僅かな
「そんなに好きなのか」
「~~~~っ!!!!」
すべての感情が羞恥に染まった。
叫びそうになったのを何とか我慢し、クッションを全力で投げつける。僅かな隙間をクッションが通れるわけもなく、ブラインドカーテンに阻まれて床へと落ちていく。白銀兄妹の部屋は一つの洋室をブラインドカーテンで仕切ることで二人分の部屋を確保しているのだ。扉側が御行で、窓側が圭である。
さて、投げたクッションはカーテンによって阻まれ、父に当たらなかった。だが、ここで終わる圭じゃない。
クッションは父親の視界を遮るため。父の視界からクッションが視界から消えた代わりに、目の前には圭の姿が。感情は羞恥から怒りへ。その顔は無表情。その目だけがギラつき。ヤクザすら震え上がる圧を出す。
「パパでも許せないことってあるんだよ」
「ははは。怒ってる姿が妻に似てきたな」
カーテンを閉じようとする父を阻む。成人男性の力を上回るパワーを発揮し、父親がいる方へと体を乗り出す。光上への気遣いは忘れず、父親側に出たらリビングまで連れ出して洋室のドアを閉める。
「いつから見てたの?」
「タオル変えてるところ」
「それは最初からって言うの。知らないの?」
「淡々と話すの怖いよ」
「知ったことじゃない」
父親を正座させ、その正面で腕を組んで見下ろす。こんな状況でも父親にはまだ余裕が感じられた。怖いと言いながらその目は真っ直ぐと彼女を見据えてる。その姿は怖いと言いながらもホラーゲームを楽しんでる人と同じ。
「圭は歌上手いな。俺に似なくてよかった」
「お兄ぃは壊滅的だけどね。話逸らそうとしてない?」
「してる」
「認めるんだ。ふーん?」
「説教って好きじゃない」
「好きな人なんていないでしょ」
事あるごとに話を逸らそうとする父。
それを一切許さない娘。
二人の攻防は、昼食を取るまでの間続いた。
みなさん体調管理にはお気をつけください。作者はかれこれ1週間ほど風邪を拗らせています。
修学旅行編について
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漫画出るまで修学旅行編待機
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18巻の内容までならOK
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ネタバレ気にしないから更新続行