そしてそれは、そのつど、はじめてで、しかも一度きりのことなのだよ。
―――― M・エンデ
幼い少女と少年がいた。
淡く霞むような時の中。
暖かくも涼やかな世界の中で、幼い二人は共に歩んでいた。
少女は栗色の髪を頭の左右で結わえ、笑顔を浮かべた容貌は幼いながらも整ったものであった。綿雪のような純白色のフリルがふんだんに使われたワンピースに身を包んだ姿は、おそらく周囲の大人達の願望、少女のことを『天使』とでも形容して持て囃していることの現れなのかもしれない。
片や共に歩みを進める少年の出立ちに、相立つ少女ほど特別なものは見受けられない。凡庸を絵で描いたような容貌の中に、幼さ故の純粋で無垢な優しさを湛えてはいたが。
「ハルちゃん」
どこを目指しているのか、迷うことなく軽い足取りで前方を歩いていた少女をその名の愛称で呼び止め、少年は己の小さく弱々しい手を見詰めたあと、おずおずとその手を差し出した。
「…………」
呼びかけられたことで立ち止まり、振り返った少女は静かに差し出された少年の手を見て取り、ゆっくりとだが確実に己の幼い手を重なり合わせる。そして、次に浮かべた表情は、一瞬前まで浮かべていた笑顔ではなかった。
それは正しく、小春かな季節に至って咲き誇った花のような満面の笑顔だった。
思わず、幼い少年は我を忘れ、自分に向けられている少女の笑顔に魅入ってしまう。手を差し出す瞬間に早まっていた鼓動は更にその刻む回数を増し、頬と耳を始まりとして全身の熱が高まっていく。じんわりと胸の奥から拡がる抑えられない不可思議な感覚に戸惑いながらも、未体験の感覚が齎す喜びが無意識の内に少年の笑みをも深めていく。
幼い少年には解っていなかったかもしれない。それでも、笑顔で人を幸せにすることが出来るのならば、今この瞬間に目の前にある笑顔。それこそが『そう』なのだと、少年の持つ無自覚の自我が反応していたのだ。
「ハルちゃん、ボク……ボク……ずっとハルちゃんと――――」
湧き上がった感情が口を動かす。
伝えたい想いがあった。しかし、少年の僅かな語彙ではどのように伝えればいいのかが分からなかった。
それでも、詰まり詰まりではあったが、少年は自分の知る限りの言葉で、あらん限りの想いを素直に表現しようとする。
そんな少年の必死な様子を伺っていた少女は、何を思ったか繋いでいた手を離す。
「え?」
そして、目を見開いて不安で怪訝な顔を見せる少年に1歩2歩と距離を縮め、
「ヒヨちゃん。ハルも……ハルもね、ヒヨちゃんとずっと――――」
少年の頬に、微かに己を触れ合わせ―――――――
「目覚めの気分は?」などと聞かれれば、「普通だった」と答えよう。
よく耳にする話だが、夢で幼い頃の記憶や想い出なんかを見た時は、人によっては陰鬱だったり幸だったりな気分になったりするらしいが、こと自分自身に関してはそう言ったことは殆どないことが多い。
「懐かしいような……夢だな」
ただ、漠然とした感慨と言うか郷愁のような感覚に包まれるだけだったりする。
閉め切ったカーテン越しに射し込む朝の光明は穏やかで、今日と言う一日が何ひとつ問題なく始まったことへの前兆のようだった。
ベッドサイドの脇で己が与えられた役割を果たすべき瞬間を今や遅しと待っている目覚まし時計へと手を伸ばし、本懐を遂げる前にスイッチを切る。
「……よし、起きるか」
甘美で抗いがたい二度寝の誘惑を振り切り、寝ぼけ眼を擦りながら慣れ親しんだを通り越して何も感じなくなった自室の景色を流し見ながらベッドから這い出ると、欠伸を噛み殺しながら部屋から出て、のろのろとした足取りで洗面所へと向かう。
歯を磨いて顔を洗い、寝癖のついた髪をドライヤーと整髪料で簡単に撫で付け、トイレで用を足したあと、再び自室に戻って壁のハンガーに吊っている使用開始2年目に突入した制服に着替える。
手早く着替えを終え、学習机に置いてあった鞄を片手に引っ提げて……ふと、目に付いたのは、机の奥に立て掛けられた写真立て。
長方形の黒の枠縁内に収められた一枚の写真。そこに写っている存在に否応無しに視線と意識が引き摺られ、数分程見詰めていたが、気持ちを切り替えるように嘆息して、さっさと部屋の扉へと足を向けた。
自室から短い廊下を経てダイニングキッチンまで行けば、いつも通りの変わり映えしない朝の光景。書き置きの手紙と冷めたハムエッグにサラダとトーストがダイニングテーブルに置かれている。わざわざ手紙に目を通すまでもなく、内容は大凡想像出来たのだが、一応は確認する為に義務感的に一読すれば、昨晩に聞いていた内容とほぼ同様の事柄が綴られていた。
「冷蔵庫横の収納棚か」
手紙の指示通りの場所を確認すれば、収納棚の上段に茶封筒が置かれ、封筒の中には今日から五日間分の生活費が入っている。
半分だけを抜き取って自分の財布に入れ、残りは封筒に戻した状態で棚を閉じる。初めから生活費を全額持っていると、下手に全て使ってしまいそうに思えた故の行動だった。
おざなり気味に用意されていた朝食一式を胃に突っ込み、シンクで食器を軽く濯いでから全自動食器洗い機に放り込んでおく。
戸締まりと家の中の照明を全て落としたことを軽く確認して回ってから、学生にとっての必需品を全て持って玄関へ。靴を履いたところで、廊下に設置してある姿見に映った自分の姿に目が行く。
イケメンでもなければ醜男というわけでもない、平々凡々のどこにでもいる際立った特徴のないのが特徴の男子高校生。所謂、今時のちょっとヤル気の感じられない表情の少年。
そんな、藍坂 日嘉【あいさか ひよし】という名の自分自身を見た時に浮かぶどうでもいい印象を頭の片隅で考えながら、朝方のほんのばかし憂鬱な感情を扶植する思いも込めて、誰もいない家に向かって「行ってきます」と声を掛け、玄関の扉を静かに開いた。