タイトル=にじのきざはし、かいなのおり
はじまりの分岐、あるいは運命の夜。
美しい娘だ。
顔の腫れが引いてきて元の顔貌がはっきりした琴葉を見て、童磨はいつもの笑みの裏で格好を崩した。豊かな黒髪と輝く翡翠の瞳をもつ、大変愛らしい娘。童磨が好むのは肉質が良い女であるため、出産を経て味が衰えたであろう彼女は当てはまらない。けれど、それを差し引いても目を惹く娘であった。
「元気になってよかった。改めて、親子ともども歓迎するぜ、琴葉。ここでは怖いことは何もない。皆と同じように、いずれ俺が極楽に導いてあげよう」
「ありがとうございます、教祖様」
包帯だらけの腕で大事に赤ん坊を抱いて、彼女は深々と頭を下げた。高座から向けられる虹色の瞳にただ恐縮して、ろくに目も合わせずに部屋を後にした彼女は、怯える子犬のようだった。
琴葉の声が美しいと知ったのは、それから少しして、彼女が赤ん坊の伊之助をあやしているのを見つけた時。青痣が残る横顔が痛ましく、けれど我が子をゆらゆらとあやしながら歌う姿は美しかった。ゆーびきーりげんまんと繰り返し紡ぐ声に、思わず足を止めて聞き入ってしまうほどに。結局、その時は彼女が気づく前に離れたが、翌日には赤ん坊ごと側に侍るよう命じていた。
「教祖様」
高いばかりではない、甘く僅かにとろみがある音色で呼ばれると、完璧に制御しているはずの顔の筋肉が緩んで笑顔のような表情になってしまう。この不思議な作用は意外とくせになるもので、気づけば四六時中、親子と過ごすようになっていた。
琴葉の信頼を得るのに時間はかからなかった。彼女は純心で、可愛そうなほど頭が足りず、童磨が適当に口にする慰めや労りの言葉をすべて鵜呑みにした。伊之助を抱かせてもらうという最大の信頼の証を得たのは、出会って一月が過ぎた頃だった。
上弦の鬼として鬼舞辻無惨に奉仕する傍ら、万世極楽教の教祖として数百人の信者をありもしない極楽へと導く。そんな生活を百年以上繰り返してきた中で、琴葉の存在はひときわ鮮やかな栞のようなものになっていったのだ。
「ゆーびきーりげんまん」
伊之助をあやしながら彼女が歌う。ふわふわした娘が母親の顔をしているのが一際愛らしくて、つい童磨は気まぐれを起こしてしまった。
「琴葉、俺とも約束しようぜ」
「教祖様とですか?」
「そう。小指と小指を絡めてするやつだ」
高座から少し身を乗りだして右手を伸ばせば、童磨の足元でふかふかした敷き布の特等席に座った琴葉は、きょとんとしていた。膝に抱かれた伊之助も、まったく同じ表情で見上げてくるものだから、童磨も表情筋を緩ませてしまう。小指だけ立てて揺らして見せれば、琴葉も華奢な小指をそこに絡めた。
「うふふ、わかりました。何を約束しましょうか」
琴葉は時折、子供を愛でるような瞳を向けてくる。胸をざわめかせるその眼差しが、童磨は少しだけ苦手だった。
「ずっと俺のそばにいておくれ。琴葉は一生、伊之助は大きくなって独り立ちしたいと思うまで、ここで俺と過ごしておくれよ」
捕まえた小指を逃さないよう、けれど繊細な骨を砕いてしまわないよう加減して、望みを口にする。美しい母子が寿命を迎えるまで、手元に置いて愛でていたい。ただそれだけの望みだった。
にこりと告げた童磨の前で、琴葉の顔がみるみる薄朱に染まっていく。おや、と首を傾げる鬼をよそに、彼女は伊之助の腹にまわしている左腕をきゅっと寄せて俯いた。
「琴葉、どうした?」
「……ずっとおそばにいてもいいの?」
「うん、何十年でもこうして隣にいておくれ。俺は甲斐性がある男だ。苦労はさせないし、めいっぱい可愛がるぜ?」
「ふふっ、わかりました。それじゃあ教祖様も一緒に歌ってください」
上目遣いの翡翠の目元と両頬が赤い。これまで多くの信者の相談や懺悔を聞いてきた童磨でも、初めて見る表情だ。しかし悪い雰囲気ではないため、善は急げと頷いた。
「「ゆーびきーりげんまん」」
長くを生きてきて初めて歌った歌は、思いの外上手くできたはずだ。途中から何が面白いのかきゃらきゃら笑い出した伊之助も混ざって、音程も何もないものになってしまったけれど、絡めた小指の柔らかさは忘れえぬ記憶として刻まれていた。
* * *
見られた、と思った瞬間、体が動いていた。時間にして一秒足らず。伊之助を抱いて戸口に立つ琴葉の首に指を巻きつけ、壊れ物を扱う優しさで頸動脈を押さえた。抵抗を忘れた哀れな娘は、薄紅の唇をぱくぱくと動かしたが、すぐに視線が虚になって膝から崩れた。伊之助はとっくに童磨の左腕に収まっており、意識を失った琴葉も右腕で支えてやる。体中に被った血は彼女に触れる前に身の内に吸収したため、可愛い母子には汚れひとつついていなかった。
「ふう、危ない危ない」
顔色が悪い琴葉の寝顔を伺いつつ、丁寧に床に横たえる。幸い扉の近くは血しぶきが飛んでおらず、床板は冷たそうだが少しの辛抱だ。隣に下ろされた伊之助は動かない母を不思議そうに見ていたが、童磨が腹をくすぐってあやせば嬉しい時の奇声をあげた。
「よしよし、いい子だ、伊之助。ここで少し待ってておくれ」
鬼は二人に背を向け、床に散らばった食事に手を伸ばす。夜食に選んだのは美しい女の信者だったが、こうなっては味わう興も削がれるというものだ。ぞんざいに肉を胸元にあてて取り込んでいく。口から食べても直接吸収しても、腹に収まれば同じことなのだ。
床や壁の血痕も手のひらをあてて吸い上げれば、みるまに証拠隠滅が完了する。童磨は自らの体や室内に何の痕跡もないことを確認し、一人頷いた。
「う?」
「おや、伊之助。危ないぞ」
いつの間にか足元まで這ってきていた赤ん坊が脚に抱き着いている。伊之助は力が強いのか、童磨がそのまま歩いても猿の子供のようにしがみついていた。状況がわかっていないといえ暢気なものだ。お馬鹿さんだな、と首根っこをつまんで顔の前に掲げてやると、母親似の顔できゃらきゃらと笑った。
「こんな夜更けに何をしに来たんだろうね、琴葉は」
死んだように横たわる女の脇に膝をつき、乱れた髪を顔から払ってやる。普段ならもう寝巻に着替えている時分だが、琴葉は昼間と同じ着物姿だ。食事のため人払いをしていたものの、この親子はいつでも目通りの許可を出しているため、信者らも止めなかったのだろう。今後はカギをかけておこうと気に留めつつ、とりあえず彼女の体を抱き上げた。伊之助とあわせて一抱えの荷物だが、鬼の膂力をもってすればどうということはない。
「とりあえず誤魔化す方向でいこう」
いつも自分が座っている高座、もとい香が焚きしめられた厚い絹布の山へと移動して、ふたつの荷物を転がす。すぐさま布の海に潜りだした伊之助を好きに遊ばせ、琴葉のほうは子供が人形にするように収まりが良い位置と恰好に変えていく。少しの試行錯誤の後、白い絹と黒髪に埋もれて横向きに丸くなった姿に満足がいった。
「……可愛いね、琴葉」
肘をゆるく曲げて無防備に手を投げ出しているのが、なんとも可愛らしい。まるで毛足が綺麗な犬が丸くなっているようで、童磨は彼女の隣に肘をついて頭や頬を撫でていた。
「むうー、ばあ!」
「赤子はもう寝る時間だぜ。俺も寝たふりするから、お手本を見せておくれ」
顔中涎まみれにして胸元に乗りあがってくる伊之助をやんわりと押さえつけ、琴葉を真似て背中をぽんぽんと叩いてみる。綿菓子に触れるぐらいの力加減でいいと教えられたのはいつだったか。ほんの数か月の間に些細な記憶を蓄積しすぎて、体の隅々までこの親子に接する仕様になってきている。
もぞもぞしていた伊之助が寝息を立て始め、母子の並んだ寝顔があまりに似ているのに笑ってしまう。ふと、童磨は虹の瞳をすがめたまま己の口元に手をやり、緩んだそこを指先でなぞった。
「んー?」
形良い唇から逞しい首をたどり、左胸に手のひらをあてる。鬼の心臓の強靭な鼓動はいつもと変わらず、胸の奥でざわめくものの正体はわからない。琴葉はどうだろう、と無遠慮に柔らかい胸元に手をやれば、只人の心臓が優しく脈打っていた。彼女も胸の奥によくわからない熱やくすぐったさを抱いているのだろうか。この胸を切開したらわかるか、と考えた瞬間、酷く不快になってその思考を放り投げた。
「さっぱりわからないなあ」
人形のような表情で独りごち、人間二人に余った絹布をかけてやる。童磨が宙に手をひらめかせれば、室内の灯りがほとんど冷気にかき消され、辺りは薄暗がりに包まれた。
* * *
傍から聞こえる息遣いが覚醒のそれに変わる頃合いで、童磨はぱちりと目をあけた。教祖の間は窓がないため時間の情報は体内時計かその日の予定を告げにくる信者頼みだ。耳をすませると寺院の所々で信者たちの声が聞こえる。もう朝日が昇りきった時分なのだろう。
「うぅ、ん……」
昏倒から寝入ったためか、起きがけの琴葉は気だるげな呻きをこぼしている。童磨は悪びれず彼女の手を取り、綺麗な指先をちろりと舐めた。ぴくっと震えた人差し指をまるごと咥えて吸ってみると、薄い肌を通して甘い風味が感じられた。
「ふぁ、おはよぉ、いのすけ……」
「おはよう、琴葉。伊之助はまだおねむだぜ?」
童磨が明るい声を出せば、琴葉は一拍置いて飛び起きた。隣で寝ていた伊之助もその拍子に目を覚まし、琴葉の腹に抱きつく。寝起きでも美しい顔を真っ赤にした琴葉の目が、伊之助から童磨、そして童磨が持ち上げたままの右手へと泳ぐ。そこで衣服の乱れを確かめないのが、彼女らしいと思った。
「おはよう」
「お、おはようございます、教祖様。あの、手を、はなして」
「はいはい。すっかり寝坊してしまったなあ」
今起きましたとばかりに長い腕をぐっと上に伸ばして背をそらす。人間のように凝り固まる作りではないが、強めに慣らした関節がばきりと音を立てた。白橡の髪を適当に手ぐしでほぐして立ち上がる。ずっと琴葉の視線が追ってきているのがこそばゆかった。
「ところで、昨日の添い寝はよかった。また頼むよ、琴葉」
「添い寝?」
「夜いきなりやってきたから驚いたけど、川の字で寝るのもいいものだなあ。でも次は先に言っておくれよ。夜に不在にすることもあるからね」
赤ん坊を抱いた女が目を白黒させるのに、にこーっと完璧な笑いを浮かべて告げた。嘘はひとつもついていない。彼女の恥ずかしがりようから、昨晩の記憶が飛んでいることを確信していた。
「やだ、私ったら覚えてなくて、ごめんなさい!」
「いいさ、いいさ。俺は気にしていない」
結局、琴葉は伊之助を抱いて出ていくまで恐縮していたが、あの様子なら童磨の食事のことなど欠片も覚えていないだろう。その可哀想な注意力のなさが可愛いのだ。
また、胸の奥に異物がつっかえたような気がして、上着の裾をたくしあげて胸元を確かめる。爪を伸ばした右手を手首まで突き入れて中を探ってみたが、背中側までかき分けても血肉と骨と臓腑以外に何もなかった。念入りに触れた心臓も、ただ鼓動を刻むだけだ。
「……何なんだ、これ」
ぎゅるぎゅると血の一滴まで巻き戻って傷が消えても、違和感がなくならない。もう一度、今度は胸を開いて確かめようとした時、朝の予定を告げにきた信者の声がして、仕方なく朗らかな言葉を返したのだった。
【登場人物紹介】
童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性幼稚園児。琴葉と伊之助の健やかな一生を見守りたい。ボディタッチが大好き。でもやましい気は全くない。最近体の調子がおかしいため、親友に相談したら「頭に蛆でも湧いたか」と睨まれた。解せぬ。
嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。声が美しく歌が上手い。純真で母性溢れる善性の人。教祖様が人間じゃないことはうすうす気づいている。とても怖い夢を見た気がするが思い出せない。
嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく赤ちゃん。お母さんが大好き。童磨のことも好き。そろそろ6か月児、成長が早く、爆走はいはいを身に着けつつある。