タイトル= さんぜんだいせんせかいをかける
二つ目の分岐、あるいは退路を捨てた日。
*2話目はR18につき未掲載。pixivで見れますが、読まなくても話の流れに影響ありません。
それは、いつもと変わらない穏やかな夜の事だった。
嘴平親子の隣で寝たふりをしていた童磨は、ベベンと暗がりに響いた音に即座に身を起こした。眠る二人を起こさないよう気配を潜めて高座から降り、僅かな擬態を解いて宙を見据える。
天井近くに浮かんだ障子から現れた人影が猫のように軽やかに着地する。ほかに誰かが現れる気配はなく、童磨は少しだけ四肢の力を緩めた。
「こんばんは、猗窩座殿。急な来訪だなあ」
「それが貴様が飼っている人間どもか」
「しーっ、声を落としてくれ。子供が起きるだろう?」
短い梅色の髪に無駄なく鍛えられた美しい肉体をもつ男鬼、百年来の知り合いである相手に、にこやかに話しかける。上弦・弐と刻まれた目がまったく笑っていないのに、相手も冷え冷えした視線を返してくるが、これはこの二人のやり取りでは穏便な方であった。
燭台ひとつだけの灯りの下、琴葉も伊之助も規則正しい寝息を立てている。彼らと猗窩座の間に立った童磨がことりと首を傾げれば、わざとらしい仕草に入れ墨だらけの顔が歪んだ。
チッと舌打ちした上弦の参は、けれど先ほどより潜めた声音で口を開く。空虚で素直な彼らしい対応だった。
「あのお方からのお言葉だ。『いつまで引きこもっているつもりだ。小鳥を飼う暇があるなら働け』」
「それは手厳しい! 俺がご期待に応えなかったことはないというのに」
「……貴様、ここ数か月ほとんど動いていないくせに、よく言う」
「いやいや、俺は信者たちに情報収集してもらっているから、ここぞという時以外は出張らないんだよ。俺自身は探索が不得手だから仕方がない」
笑顔で応じる童磨に嘘はない。信者に情報収集させているのも、探知系の能力が一切ないのも本当の事。たとえここ半年寺院から一歩も出ていなくとも、人を喰う頻度が月に数回程度に落ちていようとも、鬼の祖に誓って偽りは口にしていないのだ。
「あのお方に伝えておくれ。万世極楽教の信者にいくつかの藤の家を見張らせてる。柱が立ち寄れば俺に報告があるから、順次始末するってね」
白橡の美しい髪をくしゃりと撫でつけ、生神とあがめられる容姿に似つかわしい表情を浮かべる。猗窩座はそれに心底嫌そうに柳眉を顰め、無言で踵を返した。
「琵琶女」
ベベン。今一度琵琶の弦が響き、拳鬼の姿が障子の向こうに掻き消える。
ぱたりと空間が閉じ、蝋燭で火がおどる音と美しい母子の穏やかな息遣いだけが残されれば、童磨は安心したふりで息をついた。誰も見ていないというのに、人と接しているうちに身に着いた条件反射のようなものだ。ひとつ瞬きをすれば、虹色の瞳から文字が消え、優しい教祖の姿になる。
ゆるりと高座へと近づき、琴葉と伊之助の顔を覗き込む。酷い寝相で掛け布も衣服も剥げた伊之助に口元が緩み、むき出しの白い腹を撫でてから寝姿を整えてやった。琴葉は愛らしい横顔をさらして、息子を包むように手足をまげて眠っている。こちらも子供のような寝相で、はだけた袷からこぼれた左乳房と丸見えの下半身に吐息だけの笑いが漏れた。きちんと布をかけてやってから、豊かな黒髪を梳いていると、桜色の唇がむにゃむにゃと文句を紡ぐ。
「んん……どぉまさんのすけべ……」
「ええー、琴葉、それは酷いぜ」
いわれのない罵倒に小声で返し、童磨も再び横になる。明日以降は、なるべく戦いに出かけなければならない。鬼舞辻無惨がわざわざ上弦をよこして働けと命じてきたのだから、相応の戦果を挙げなければ、次は小鳥を処分せよと命じられるに決まっている。
(嫌だなあ)
童磨の賢い頭は、すでに己が処罰を免れない状態になっていると理解している。主人の命令は絶対であり、すべての鬼の存在意義は無惨の手足となってその望みを叶えることだ。だというのに、短い間に、たとえ無惨の命であってもしたくないことがいくつもできてしまった。
(そうそう招集をかけられることはないと思うけど、あの方を前にしたら、思考を分割して読まれないようにしないと)
ふと逃れ者の鬼のことが脳裏をよぎったが、それは考慮に値しないと目をそらす。僅か二年後には自分も同じくくりに入っているとは、露にも思わず、童磨はもう一度、嫌だなあと呟いた。
* * *
駆ける、駆ける、右ひざ下が切り落とされても、左足で地面を蹴り、跳躍の合間に新たな脚を生やして走り続ける。
「と、父ちゃ……ッ」
「伊之助、黙って。舌を噛むし、俺も聞いてる余裕がない」
童磨の胸元に赤ん坊のように紐で括りつけられてゆられている子供は今にも泣きそうだ。負けん気が強い性格がそのまま表れた吊り眉もすっかり下がり、翡翠の双眸で必死に童磨を見上げている。なおも言い募ろうとする子供の口元を童磨の背中から伸びた白い手が覆い、広い肩越しに瓜二つの女が目を合わせて首を振った。
背中におぶさる琴葉に追手の攻撃が当たらないよう、結晶ノ御子を囮に出す。それも三日月状の斬撃の前にすぐに駄目になってしまうが、ないよりはマシだ。かよわい母子が吸い込んでしまうかもしれない粉凍りは使えない。鬼狩りの剣士を殺すために編み出した技の大半は、この状況では無意味と化していた。
(森の外はもう朝日が差してる。駄目だ、二人を日向に放り出したところで、俺がいなきゃ夜になるなり殺される。でも離れないと、俺の所在はあの方に筒抜けだ。どうすれば……)
今この瞬間も、童磨の体内をめぐる黒い血はざわざわと殺気を放っている。このまま逃げていても、じきに呪殺される。そうなったら、残された人間二人はどうなるか。想像するだけで目の前が赤く点滅するほどの不快感が押し寄せ、苛立ちまかせに放った冷気が後方の木々を凍てつかせた。
(嫌だ。嫌だ。琴葉はまだ25、伊之助なんて7つだ。寿命がつきるまで一緒にいるって約束したのに、こんなところでっ)
「きゃあっ!!」
琴葉の悲鳴が耳をかすめ、とろりと香しい鉄の匂いが空気に舞う。同時に、どん、と右肩を貫通する感覚に一気に血の気が引いた。見下ろせば、無数の目が生えた刃が肩を貫いている。伊之助の鼻先すれすれの切っ先には、人間の血が付着していた。
「琴葉っ!?」
足を止めることはできない。距離をつめてくる上弦の壱の気配に追い立てられ、童磨は刀が刺さったままさらに走った。森が途切れる境界線から眩い光がこぼれている。陽の光を恐れる鬼の血が反射的に足を止めようとするが、強く拒めば罰のようにどす黒い液体が口から溢れだした。慌てて片手で抑えたそれが伊之助にかからないよう凍らせながら、木々の影の終わりまで駆けていく。
「琴葉、伊之助、今から俺がいいというまで目を閉じて息を止めるんだ。絶対だ、何があってもだ!」
重傷だろう琴葉がどこまで従えるかわからないが、他に打つ手はないのだ。両手に鉄扇を広げ、あらんかぎりの力で後方に睡蓮菩薩を、己の体の周りには幾重にも氷の膜を張る。菩薩が手をかざすだけで、瞬時に辺りが死んだ森となり、追手さえ巻き込んで凍結した。ぱきぱきと童磨自身の白橡の髪も凍てつき、視界が白一色に閉ざされていく。そして、飛びだした先ーー
「あっが、ぎいいイイイッ、まだっ、だめだ、息を吸うなっ、ゲホッ、ゲエッ……」
氷結に乱反射する日差しの下、母子を連れた鬼はげえげえと黒い血を吐いては凍らせ、全身を黒こげに炙られながらも逃走を果たしたのだった。
【登場人物紹介】
童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛(玩)を知って世界が広がった人間性小学生。この度めでたく家族連れの逃れ者になった。ほぼすべての技が粉凍りを使うため、人間を連れての逃亡では完封されて逃げの一手。しかも上弦の弐なので追手はお察し。太陽を遮るものがない原っぱを、氷の膜で陽光を弱めながら、琴葉さんと伊之助を担いで200メートル走り、真っ黒焦げの状態で見つけた民家の納屋に隠れた。
嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨と7年過ごすうちに体の関係以外はほぼ夫婦になっていった。彼に性欲がないことに気づいている。人間でないことも、今回の逃亡劇で確信した。気色悪い刀に刺されて大怪我をしたが……?
嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく坊主。猗窩座来訪時は5歳、逃亡時は7歳。琴葉は母ちゃん、童磨は父ちゃんと呼んでいる。教団育ちでも野生児の資質を見せており、日中ずっと外で遊んできては、太陽にあたれない病気と思っている童磨に外の様子を教えてあげる優しい子。
猗窩座
特別出演。悪鬼にしては結構いいやつ。でも童磨は嫌い、同じ空間にいるだけで虫唾が走る。
黒死牟
名前どころか影も形もない攻撃だけの出演。大きなハンデありとはいえ童磨を圧倒、もう少しで三人とも始末できたが失敗。無惨様に怒られた。