タイトル=ねはんへのくらきみちゆき
正体の露見、あるいは急転直下。
ボタボタと音を立てて赤黒い液体が地面にこぼれていく。隊服の上着はすでに血を吸いきれず、右脚を伝う液体が酷く気持ち悪い。呼吸を使って傷口を閉じあわせていても滲む血液の量は驚異的だ。これは動脈を掠っているかもしれない、と胡蝶しのぶは他人事のように考えていた。
小さな体に小さな頭。体躯に見合った可愛らしい顔は蒼白で、常人であればとっくに意識を失い、ともすれば死んでいる状態だ。今、しのぶを奮い立たせているのは不屈の闘志と後輩たちへの責任感、そして何より腹の底で煮えたぎる憎悪だった。
(落ち着くのよ。こんなところで感情を爆発させては駄目。己を制御できないのは未熟者。今は上弦の鬼を斃すことを第一に考えなさい)
しのぶの紫の瞳が足元を駆けまわる氷の童子を睨めつける。本当は今にも飛びついて砕いてやりたいが、あの憎らしい援軍がなければ今頃この場の全員が鬼の腹の中だ。
ふう、と緩く息を吐きだし止血の呼吸を続けながら、目の前の薄緑の羽織姿に話しかける。
「伊之助君、まだ動けますね」
「当たり前だ。頸を斬るのは任せとけ」
対の小太刀を握りしめたまま仁王立ちしている伊之助だってもうずたぼろだ。優美な睡蓮の刺繍がはいった羽織の袖は千切れ、逞しい両腕は真っ赤に染まっている。黒い隊服のズボンでわかりにくいが両脚だって似たようなものだ。それでも、年下の友人は強い眼差しで鬼を追っている。
「心強いです。では、私が仕掛けた後に頼みます。炭治郎君なら臭いで察してくれるでしょう」
「……しのぶ、全員で生きて帰るぞ。ゆびきりげんまんだ」
「こんなところで死ぬつもりはありませんよ」
しのぶはやや濁して答え、日輪刀を構える。彼女の本領は鬼殺隊随一の速度を誇る突き技だ。それにより高濃度の藤の毒を鬼に打ち込み、毒殺せしめる蟲柱。たとえ殺せずとも、仲間がいれば弱らせるだけで十分に意味を成す。
氷の童子たちは入り乱れる炭治郎と禰豆子を壁もしくは目眩ましとして利用しながら壺の鬼を引きつけているが、瞬間移動を止めるほどの火力も速度も持っておらず、あくまで撹乱しているだけだ。そのあからさまな時間稼ぎは、ともすれば剣士らに逃げろと促しているようにも見えた。しかし鬼の思惑に乗る理由も、十二鬼月を前にして勝機が生まれた今、撤退する理由もなかった。
(見極めるのよ、次に壺が現れる場所を予測して打ち込む。生物の思考展開はある程度決まっている。あの鬼も同じこと)
音柱のような完璧な予測はできなくとも、しのぶの明晰な頭脳は確かに壺の鬼の動きの法則を捉えていた。じり、と突きの予備動作に左足を前に出し、わからない程度に腰を落とす。氷の童子の一体がついに壺から伸びた手に捕まり砕かれた瞬間、しのぶは風になった。鬼はすぐさま消えてしまったが、彼女はすでに目も向けていなかった。
――蟲の呼吸 蜻蛉ノ舞 "複眼六角"
炭治郎も禰豆子も瞬間移動に追いつけず少し離れた場所にいる。虹鬼の氷像は巻き込んだところで問題ない。一足で飛び出したしのぶが向かう先に、ことりと陶器が現れ、そこに毒蟲の針が瞬く間に六つの穴を開けた。
「ギャッ!! 馬鹿な、何故攻撃が当たった!?」
「あなたの動きが馬鹿そのものだからよ。さあ、のたうちまわりなさい!」
「この私に突き技など効くものか!」
壺から体を出した鬼に振り払われ、抜けた日輪刀ごとしのぶの矮躯が吹き飛ぶ。血を撒き散らして宙を舞った体を禰豆子が抱きとめ、二人してごろりと地面を転がった。
「があっ、何だ……毒か? 小癪、小癪ううううッ」
「おらああああッ!」
――獣の呼吸 弐ノ牙 切り裂き
しのぶの攻撃と共に動き出していた伊之助が蹲って吐血する異形に斬りかかる。しかし刃が頸に届くというところで、肥大化した鬼の肘が少年の腹を捉えた。メキリと恐ろしい音がして、血みどろでも美しい体が後ろの木の幹にぶつかって跳ねる。
「伊之助ええええええッ!!」
これまでにない速度で距離を縮めた炭治郎が鬼の腕を切り落とし、転がるように崩折れた同期を背にかばう。倒れ伏した伊之助はゴボッと滑った咳をするばかりで、まだ武器を手放していないのが奇跡的だった。
穴が空いてひび割れた壺から全容を現した鬼は、その醜い巨躯の所々を紫色に染めていた。しのぶの毒は確かに効いているのだ。しかし無情にも、変色した肌はゆっくりと気色悪い鱗の色に変じていった。
「そんな……」
「ヒョヒョッ、真の姿になればあの程度の毒、なんということはありません」
禰豆子に支えられて立ち上がったしのぶの愕然とした呟きに、鬼が嘲笑う。見上げるほどの大きさになったそれが本来の姿であり、最強の状態なのだろう。上弦の伍は足元を凍らせようとした氷の童子二体を一瞬で蹴り砕き、炭治郎の隣に立つ最後の一体を視界に収めた。
「それにしても、一体何の真似ですか、童磨。こんな足止めにもならない横槍を入れて、何をしようというのです」
人の声ではありえない声音でも、一言一句を聞き間違えることはない。鬼の口から予想だにしない名前が出たことに、しのぶも炭治郎も目を剥いた。そして、その名に最も関係がある伊之助が何も反応しないことに二人して青ざめる。眉を下げた禰豆子が倒れた体に触れても、応じる動きはなかった。
「炭治郎君、禰豆子さんに撤退を命じてください。伊之助君を連れて山の麓へ、後方部隊に合流しろと。貴方も」
「俺が残ります。しのぶさんも行ってください」
誰かが足止めしなければ撤退もままならないのは明白だ。そして、その役目は深手をおったしのぶでは成し得ない。刀を構えてしっかりと立つ炭治郎の額で痣がじわりと黒ずみ、ゴオオッと深い音を放つ独特の呼吸とともに心拍数と体温が上昇していく。
鬼気迫る少年の横顔をちらりと見つめ、しのぶも失血から震える手で突きの構えを取る。合理的ではないとわかっていても、後輩を置いて逃げ帰るのは柱の名折れだ。
「しのぶさん!」
「上司命令を聞けないなんて悪い子ですね。舐めるんじゃないですよ。私達でアレを討伐してやりましょう」
「……はいっ。禰豆子、伊之助を連れて山をおりろ! 優しくな、あんまり揺らすな!」
「むーむー!」
轡の奥から抗議の声が上がるが、いつ上弦の鬼がこちらに向いてもおかしくない今、炭治郎はもう一度鋭く言い放った。
「行くんだ、禰豆子! 兄ちゃんとしのぶさんも後から追いつく!」
「む……」
禰豆子は叱られたときのように項垂れ、しかし失神したまま血反吐を吐く少年の様子に意を決してその体を抱き上げた。本来の年齢の姿では大きさが足りず、ぐんぐんと妙齢の女性まで育ち、しっかりと伊之助を胸元に寄せる。そうして山の麓めがけて駆け出そうとしたところで、暗がりに立つモノに気づいて凍りついた。
「どうした、禰豆子、早くっ……」
ふわりと漂う悍ましい血臭と胸が痛くなるような冷気に炭治郎が鼻を覆う。しのぶもその冷気に表情を険しくさせ、上弦の伍から注意を離すことなく半身を新手の方へと向けた。
「おや、本体のお出ましですか。丁度いい、お前を片付ければ私が上弦の弐だ。入れ替わりの血戦のかわりと行きましょう、童磨!」
ヒョヒョといびつな笑い声をあげて魚の鬼が相手の名を呼ぶ。もう疑う余地はなかった。虹鬼の名は童磨。奇しくも、嘴平琴葉の夫であり伊之助の父である男と同じ名であった。
「相変わらずよく喋るね、玉壺」
それは穏やかな美声であるはずなのに、耳を刺す殺気をまとっていた。足音もなく木々の暗がりの合間から長身の男が現れる。白橡の長い髪を揺らし、黒い徳利襟にゆったりした袴をまとった優雅な姿。若々しい白皙は柔らかく整い、ぱっちりした虹色の双眸は本来なら得も言われぬ美しさだろう。けれど、夢のような眼差しは今、無機質に玉壺と呼ばれた鬼に向けられていた。
「虹鬼、お前はっ」
「君たちは邪魔」
身構える炭治郎と視線で殺せるほど睨むしのぶに目もくれず、虹鬼―童磨は玉壺の方へと足をすすめる。斬りかかることができる距離を悪鬼が通り過ぎていったというのに、二人が仕掛けることはなかった。炭治郎は童磨が発するごく薄い臭いに戸惑い、突きを繰り出そうとしたしのぶは体の表面を薄い氷に覆われて初動が遅れたのだ。
「妓夫太郎を奇襲で倒したようですが、私はそうは行きませんよ! ヒョッ、その奇天烈な目玉だけ作品に活用してやろう。さあ、愛らしい魚となれ!」
「……はあ、こんな馬鹿の壺を大事にしてたなんて」
血鬼術で呼び出された巨大な蛸が童磨に絡みつき、動きを封じたところに玉壺自身が殴りかかる。異形の拳が鼻先に迫っても優しげな顔立ちの無表情は動かず、無防備な顔面に攻撃が吸い込まれたように見えた。
パリン。
軽い破壊音を立てて氷の破片が盛大に散らばる。その様を見つめる童磨の顔には傷一つなく、彼が小さく身じろぐだけで太い蛸の足も同様に割れて崩れた。
「ばっ、馬鹿な、何の気配もなかった!」
「生憎かくれんぼは負けなしさ」
鱗に覆われた鬼の体は頭部以外凍りつき、その両脇から息を吹きかける美女の上半身の氷像を信じられないといった風に凝視していた。体の芯まで凍結しているであろうに、上弦の伍は回復力に物を言わせて再生しようとする。割れた拳が元の血色で生え変わるが、それも童磨が取り出した鉄扇であおぐなり氷と化した。
「竈門炭治郎君、これの頸を落としておくれ」
「なっ、なんで鬼同士で」
「早くしないとお友達が死んでしまうぜ」
「くっ……」
炭治郎が唇をかみしめて玉壺へと刀を振るう。首元まで凍結していたため、あっさりと刃がとおり、醜い頭部が地面に転がった。童磨は足元にきたそれを蹴り飛ばし、残った体を扇の一閃で粉々に砕いた。上弦の伍の気配がどんどん薄れ消えていく中、恐ろしい形相で黙っていたしのぶが口を開く。
「お前……っ、お前が伊之助君の父親か! 琴葉さんと伊之助君を騙していたな! 死んだと見せかけて、何年も隠れてっ、何を企んでいるの!!」
「うるさいなあ。怒鳴る暇があるなら、伊之助をさっさと医者に見せておくれよ」
自らも失血で倒れそうだというのに、しのぶの剣幕はまさに仇を見るそれだ。童磨は彼女の殺気をわざとらしく肩をすくめて躱し、人形のような顔のまま禰豆子と彼女が抱く伊之助を見やった。
「綺麗な琴葉と可愛い伊之助。二人との家族ごっこは楽しかったから、ちょっと見守ってみただけだよ。ほら、伊之助の中の俺は優しい父ちゃんだろ?」
童磨はくすくすと嗤って剣士らに背を向けた。比較的傷が少ない炭治郎はともかく、しのぶはもう自力で歩くことができない状態だ。日輪刀を杖のように地面に突き刺し、ただ広い背を睨むことしかできない。童磨の袴の影から氷の童子が三体顔を出したのも、彼らに攻撃をためらわせていた。
「早く行って。気が変わったら全員喰ってしまうぜ?」
「……必ず殺すから、頸を洗って待っていなさい」
「はいはい」
「しのぶさん、背負います。童磨、お前は本当は琴葉さんのことも伊之助のことも」
「うん、気が変わってしまいそうだ」
パチパチと硬質な音を立てて扇を開き、口元を隠した童麿が視線だけを送ってくる。虹の瞳は炭治郎を映してもまるで価値を置いておらず、玉壺に向けていた恐ろしい殺気がなくとも、ひとつ間違えれば殺すと雄弁に語っていた。
「炭治郎君、行きますよ。禰豆子さんは……偉い子ですね、もうだいぶ先にいるようです」
「わかりました……」
後ろ髪を引かれる様子で、しのぶを背負った炭治郎が走り出す。その姿が遠ざかり見えなくなり、鬼の聴覚でも足音が拾えなくなって漸く童磨は詰めていた息を吐き出した。
玉壺を一瞬で凍結させるほどの威力の寒烈の白姫を放つには、相応の血液が必要だった。量にして、上弦の弐を冠していた頃の数十倍だ。鬼舞辻無惨の血からなる血鬼術は当然ながらその血を失えば威力が落ちる。逃れ者となる際、大方の血を吐き出した今では、同じ攻撃でも何十倍もの労力を使うのだ。
(ああ、バレてしまった。伊之助は大丈夫かなあ。二人とも約束どおり、俺に騙されていたって『嘘をつかずに』答えるだろうけど、やっぱり心配だ)
琴葉が待つ家に帰れなくなってしまった。そう思い至って肩を落とす童磨の横顔には、空虚には程遠い覚悟が浮かんでいた。
【登場人物紹介】
童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは8年目。ノープランで挑んだ玉壺戦は力押し脳筋プレーで制した。伊之助の状態に全神経を向けていたが、どうにか呼吸も鼓動も助かりそうなレベルでホッとした。今回は体内の血液を半分以上使って寒烈の白姫を出したため、実はヘロヘロ。火力=使った血の量。逃れ者になって霧氷・睡蓮菩薩は出せなくなっている。早く何人か喰わないとやばいが、愛しの琴葉が待つ家に戻れなくなってしまい、ショックから暫く立ちすくんだ。
嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。今回出番なし。もうじき、あの夜の約束に覚悟を示さなければならない朝がやってくる。今はそんなことは知らずに幸せな夢の中。
嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。15歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。玉壺にエルボーされて下手をすれば死ぬような大怪我を負った。骨が折れ内臓に刺さっている。色々とやばい。拳で殴られなかったのは神回避。殴られてたら可愛い金魚になっていた。禰豆子にお姫様抱っこされて下山中。朦朧とする中、童磨が近くにいた気がした。諸々の覚悟はとっくにできている。
竈門炭治郎(+禰豆子)
原作主人公。背中の箱に鬼になった妹・禰豆子を入れている。玉壺相手に走り回っている内、額の痣が濃くなって最後の方は痣者状態だった。伊之助がやられて玉壺の腕を切り落とせたのはそのお陰。でもまだ誰も気づいていない。禰豆子に伊之助を先に連れて行かせ、しのぶさんを背負って下山中。はじめて遭遇した童磨からは、ほとんど感情の臭いがしなかったけれど、琴葉と伊之助のことを話した一瞬だけ春の花のような優しい香りがした。
胡蝶しのぶ
おこりんぼな蟲柱。姉の足を奪ったにっくき鬼と遭遇したが、上弦の伍の討伐を優先した。琴葉のことが大好きで伊之助とは性別を超えた友人であるため、二人が鬼と結託していたとは思わず、童磨が彼らを飼って遊んでいたのだと『誤解』した。童磨の思惑通りとは露にも思っていない。肩からの出血がやばいため、炭治郎の背中で失神しないでいることに必死。
玉壺
上弦の伍。童磨の脳筋プレーに瞬殺されてしまった。戦闘時間は90秒。冷静に距離をとって物量攻撃を仕掛けていればもう少し長生きできたかもしれない。でも伊之助を怪我させた時点でロックオンされていた。