番外編。春の陽のような君、あるいは心というもの。
家族になる前、ミリ単位の成長が実を結び始めた頃の一幕。
※誤字報告ありがとうございました!
煌めく黒髪にはなびらがひとつ。
ふと目についたそれに伸ばした指先は、日向の境界線を越えた途端に燃え上がった。縁側に座る琴葉がジュウジュウとした音に気づいて目を向けるより先に、童磨は右手を背中に隠す。影に入った手はすぐさま元通りに再生した。
「どうしたんだい、琴葉」
「お魚を焼くような音がしたのだけど、気のせいだったみたい」
琴葉はそう言って、膝に座らせた息子を抱き直した。三歳になった伊之助は急激に大きくなってきている。もうとっくに琴葉が片腕で抱ける重さではなく、最近の抱っこは童磨の役目であった。
春の陽にあたる母と子からやや離れた室内に座した男は、日光から感じる熱に怖気を覚えながらも、胸にある心地よさに浸っていた。雲雀のさえずりよりなお美しい琴葉の声が、指切りの音色を奏でている。その内容がさかなさかなと繰り返すものであっても、童磨の耳には何より甘美な刺激であった。
可愛らしい歌と時折交じる子供の笑い声。鬼の網膜が焼かれるほどの明るさが、琴葉と伊之助には似合っている。この日向ぼっこの後で彼らを抱きしめれば、太陽の匂いがするのだろう。その時の安らぎを思い浮かべ、優しげな人喰い鬼はうっとりと目を細めていた。
* * *
わんぱくな子供が庭を駆け回る音は、もうすっかり万世極楽教の寺院の日常だ。教祖じきじきに塀の中を一人で出歩くことを許された伊之助は、とても三歳児とは思えない行動力と体力で敷地の隅から隅まで探検し、今や庭師役の信者らよりも庭に詳しい。やれ大きな蝶々だ、つやつやのどんぐりだ、と戦利品を持って帰ってくる毎日であった。
そんなある日の夜。教祖の間で三人で過ごす時間になり、息子の手をひいてやってきた琴葉は髪に薄紫の花を飾っていた。
「おや、藤の花なんて庭に咲いてたかな」
「裏手の塀の向こうから木の枝を伝って垂れていたんですって。ねえ、伊之助」
「うん、みたことないはなだけど、きれいだろ」
だから母ちゃんにあげたんだ、と伊之助が得意げに笑う。高座で寄り添う二人が纏った花の香りに不快感を覚えた童磨だったが、そんなことはおくびにも出さず、柔らかな笑みを浮かべていた。
「どーまさまにもとってきてやったぞ!」
そう言って、子供が袂から取り出した藤の房を童磨の目前にかざす。反射的に払い除けそうになった手に気づいたものはいなかった。
「……ありがとう、伊之助。寝るときに潰れてしまったらいけないから、花はあっちに活けておこうか」
琴葉のも活けておくと長持ちするよ、とさりげなく全ての花を回収する。童磨はにこにこした表情のまま脇の棚にあった一輪差しに水差しの水をそそぎ、器用に藤を活けてみせた。花に触れただけで痛んで変色した肌を高速で回復させることも余念がなかった。
「ありがとうございます、童磨さん。よかったねえ、伊之助」
「うんっ」
何も知らずに笑う女と子供の隣で、童磨もにこりと笑みを深めた。早朝の間に信者に命じて藤を撤去しなければと心に留めながら、琴葉のとりとめのない話に耳を傾ける。そうしている内に花の香りも気にならなくなっていた。
「もう藤の季節か。日が強くなってくるから、日向ぼっこもほどほどにね、琴葉」
「ふふっ、大丈夫よ。私、日焼けしても赤くならないんです」
「そういえば去年の夏にこんがり日焼けしたのに、すぐ色白に戻ってたっけ。伊之助も全然真っ黒にならないし、そういう体質かな」
「童磨さんもとても白いから、おそろいね」
「俺は日にあたれないだけだから、琴葉たちとは違うと思う」
「そうなの? じゃあ、私と伊之助が童磨さんの分までお日様でぽかぽかになって、こうしてくっついたら、童磨さんも日焼けしないかしら」
「ふはっ、面白いことを言うね……俺が日焼け、あはははは!」
自然にせり上がった衝動に負けた童磨が背を丸めて笑う。きょとりとした琴葉は、気分を害するでもなく「今度試しましょう」と鬼からさらなる笑いを引き出した。二人の間に挟まって寝そべる伊之助は、手持ち無沙汰で白橡の髪で遊んでいたが、笑いすぎて眦を拭っている童磨にふいに問いかけた。
「どーまさま、おそとにいけなくてつまんなくないか?」
子供の問いかけにぴたりと静かになった鬼が視線を落とす。
「夜や天気が悪い日は出かけられるから、外にいけないわけじゃないぜ。この間も留守にしたじゃないか」
「だったら、おれ、どーまさまとおそとであそびたい。よるはおでかけできるんだろ。にわのおもしれーとこおしえてやる!」
「伊之助、夜はお休みする時間よ」
「どーまさまとあそびたい!」
上半身を起こした伊之助が童磨の腰に抱きついて駄々をこねる。力いっぱい腕を回してくる子供に、童磨はその黒く小さな頭を撫でてやった。そして、眉をさげて嗜める琴葉にいいさと首を振ってみせた。
「それなら明日は三人で月見をしよう。満月じゃないけれど、上弦の月も乙なものだよ」
「つきみってなんだ?」
「お月見は、みんなでお月さまを見て綺麗だねえって言うのよ。伊之助は細いお月さまを見たことがあったかしら」
「わらってるおつきさまはみた! あと、まんまるなの!」
「まんまるのお月さまにはうさぎさんがいるのよ、伊之助」
「うさぎ……みみがながいやつ?」
「そう、ぴょんぴょん飛ぶ可愛いうさぎさんが、月でお餅をついてるの。今度一緒に見ようねえ」
似たもの親子の会話が自分を置き去りにどこかに転がっていくのはいつものことだ。童磨は愛でるようにそれに聞き入り、やがて琴葉が指切りげんまんの音色で餅を食べる歌を口ずさみ始めるのに笑いを飲み込んだ。
(こういうのを、楽しいっていうのかなあ)
じわりと胸のうちが熱をもった気がして、心臓のうえに手のひらをあてる。美しい親子の気配を五感のすべてで感じながらそうしていると、その熱が体中に心地よさを巡らせた。
(ああ、思い出した。このぽかぽかした感じ)
これは太陽の光に似ている。暖かなふたつの体を長い腕で抱き込んで眠るふりに入る時、童磨はそんなことを考えて、ひっそり嗤った。
【登場人物紹介】
童磨
十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がりつつある人間性幼稚園児。家族連れの逃れ者ライフを送るなどまだ夢にも思っていない。まだ琴葉と伊之助との距離感は愛玩動物とのそれに近いが、日々じわじわと執着が強まっている。鬼の本能のはずの太陽への恐怖や藤への忌避感はかなり薄い。
嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。童磨と添い寝すること早二年、すっかり遠慮が鳴りを潜め、寝るときに密着しても恥ずかしがらなくなっている。伊之助の成長が嬉しい可愛いお母さん。童磨が太陽にあたれない病気だと思っているので、できるだけ日向ぼっこして太陽の香りと暖かさを彼に届けようとしている。
嘴平伊之助
お母さん似なわんぱく幼児。まだ獰猛ではない三歳児。母親と童磨が大好きで、そろそろ童磨のことを父親的存在として見始めている。根っからのアウトドア派であり、毎日寺院の庭を探検しては新しい発見をしている。なお、伊之助が見つけた藤は、童磨に命じられた信者が朝早くに処理した。