タイトル=えんりえどはいまだとおく
無知なる母、あるいは暗躍のはじまり。
「しのぶさん」
病室から出た廊下の先に優美な羽織の後姿をみつけ、琴葉は思わず声をかけた。立ち止まり、けれど振り返ることをためらっている様子の相手に自ら歩み寄れば、観念したのか小柄な体がくるりと向き直る。
胡蝶しのぶの可憐な顔は青白く、藤色の瞳の下は疲労から黒ずんでいた。髪も化粧もきっちりいつもどおり身綺麗にしているだけ余計に無理をしているように見えて、琴葉の眉も気づかわしげに下がる。
「こんにちは、しのぶさん。カナエ様のご容体はどうですか?」
「こんにちは、琴葉さん。姉さんは相変わらずです。そろそろ化膿止めの投薬をやめるので起きている時間が増えるけど、お喋りしたがっても休ませてくださいね」
この蝶屋敷の主人である胡蝶カナエは、五日前に両脚に大怪我を負い、全く寝台を離れられないでいる。鬼にひざ下を奪われ、剣士としての生命を絶たれたのだ。いずれは義足や杖を使って自力で動けるようになるかもしれないが、まだ傷が塞がってもいないため、未来の話が躊躇われる状態であった。看護の手伝いとして雇われている琴葉も当然、カナエの惨い傷口を目にしている。しかし重傷者の看護を担当できるほど知識がないため、包帯を運んだりする程度で経過はわかっていなかった。
おっとりした物腰と大和撫子の美貌をもつカナエは、はじめて会った時から嘴平親子に親身に接してくれた。あまり物覚えのよくない琴葉に根気よく看護の手際を教えてくれただけでなく、日々の生活についても何かと気遣ってくれた優しい女性だ。彼女が鬼に敗北し、それでも生きて蝶屋敷に帰ってきてからというもの、屋敷内の空気はずっと暗く張り詰めたままだった。
「わかりました。私にできることがあれば、何でも言ってくださいね。力仕事なら伊之助にも声をかけるわ」
「姉さんにかかりっきりの私やカナヲのかわりに隊士の皆さんの面倒を見てくれるだけで、充分すぎますよ。琴葉さん、本当にありがとうございます。私もそろそろ任務に戻ることになるので、そうなったら姉のことをお願いしますね」
しのぶはそう言ってにこりと笑ったが、ふと真顔に戻って琴葉を見上げた。
「ところで琴葉さん、伊之助君が鬼殺隊に入るのを反対していないというのは本当ですか?」
「ええ、あの子がそうしたいって決めたことですもの。応援しています」
しのぶと伊之助は仲が良いため、今年の入隊選別を受ける予定を知っていても不思議ではない。深刻な顔をする相手に頷いて返せば、彼女は苦し気に言葉をつづけた。
「伊之助君は強いです。きっと最終選別を生き残るでしょう。でも、隊士として任務につけば、どんな鬼とまみえるかわからない。柱だって明日の保証はないんです。今なら、まだっ」
縁起でもないことは口にできない。それでも、カナエの負傷はしのぶの心に深い影を落としていた。
「しのぶさん、ありがとう。とても優しいのね」
唇を噛んで黙った少女に、琴葉は柔らかな笑みをうかべて言った。
「伊之助は鬼の親玉を倒すって言っていたわ。そうと決めたら絶対曲げない子だから、見守ることにしたんです」
「……貴方方を襲った六つ目の鬼は、とても強かったのでしょう? 伊之助君の自慢のお父さん、童磨さんだって逃げるしかなかったって、そう聞いています。鬼殺隊に入ったら、そんな鬼と日々戦うことになるんですよ」
しのぶと琴葉の会話を話を聞いていたもう一人が、琴葉の胸元でもぞもぞと動く。外からわからないとはいえ、左胸に抱きついて顔を埋めているらしい相手を着物越しに撫でれば、その仕草を見たしのぶは何を思ったのか、小声で謝罪を述べた。
「いいのよ、心配してくれているのね。伊之助のことも、私のことも」
「差し出がましいお節介だって、わかっているんです。でも私、琴葉さんにまでこんな思いをしてほしくなくて……本当にごめんなさい」
「ねぇ、しのぶさん、抱きしめてもいい?」
琴葉の美しい声は春の陽のようで、緑の眼差しはどこまでも純粋に澄んでいる。穏やかに見つめられてつい頷けば、しのぶよりも少しだけ大きな、けれど華奢な体に抱き寄せられた。カナエやしのぶとはまるで違う、か弱い女性の腕が背に回り、ぽんぽんと子供にするように触れる。それが、まだ両親が健在だった頃に母に抱きしめられた感覚に重なって、一気に目頭と喉の奥が熱くなった。
「貴方はえらいわ。とっても頑張ってる。まだ16歳なのに、お姉さんをよく支えて、悪い鬼を退治して人々を守って、私のことまで気遣ってくれる優しい良い子ね」
「こ、琴葉さん……」
「でも、ずっと頑張り続けていたら疲れてしまうわ。今だけでも力を抜いて、自分のことを労わってあげましょう? 辛いことは口に出して分け合いっこすると気持ちが軽くなるのよ。私じゃあ頼りないかもしれないけど、しのぶさんのお話を聞かせてくれる?」
しのぶのきっちりまとめ上げた髪を白い手が撫でる。ひぐっと情けない音が喉からこぼれても、琴葉は気づかないふりでしのぶを抱きしめていた。
「ううっ、怖かったんです、姉さんが殺されてたかもしれないって、相手の気まぐれで生かされただけだって知って、怖かった!」
「ええ」
「怖くて、それ以上に許せない! お父さんとお母さんを殺した、姉さんを傷つけた鬼が憎いっ!! それなのに、それなのにぃ、あんなにされても姉さんが変わらないから、私っ」
矮躯とはいえ呼吸を使う剣士に縋りつかれて痛いはずなのに、琴葉は身じろぎひとつしなかった。ただ静かにしのぶの背を撫で、彼女が吐き出すものを受け止めていた。細い肩に額を押しあてて俯く少女剣士が、琴葉が一瞬だけ浮かべた悲しげな表情を知る由もなかった。
「無理よ、姉さん……鬼と仲良くなんてできない。人を喰う化物とどう分かり合うっていうの?」
「……しのぶさん」
「あっ、琴葉さん、ごめんなさい!」
名前を呼ばれて我に返ったしのぶが、ぱっと体を離す。小さな手が触れていた箇所は着物の下で変色しているかもしれない。それほどの力で縋りついていたのだ。感情を制御しなかったことに恥じ入り平謝りするしのぶだったが、琴葉は柔和な笑みでかぶりを振った。
「気にしないでいいのよ。少しは気が楽になったかしら?」
「……はい、誰にも言えないことだったので、胸のつかえが取れました。ありがとうございます」
事実、しのぶの瞳はもう昏く淀んではいなかった。琴葉の母性とその魅力について男性隊士らが盛り上がっているのを聞いた時は、なんて俗っぽいんだろうと白けたが、ああして抱きしめられて思い知った。彼女の善性は、周りまでも染めていく尊いものだ。容姿の美しさも相まって、彼女なら鬼さえ心動かされるのではないかと思ってしまうほどに。
「それならよかった。もし疲れてしまったら、またお話ししましょうね」
「はい。あの、琴葉さん」
手の甲で涙をぬぐい、しのぶは彼女らしい勝気な笑みを浮かべた。そして、小首をかしげる琴葉に言い放った。
「やっぱり貴方が悲しむのは嫌なので、伊之助君をうんと強く鍛えることにします! 任務と看護の間の時間、全部特訓に費やしてやりますから、毎日顔を出すよう伝えてください」
笑顔のしのぶは知らない。琴葉の胸元に隠れた姉の仇が己への殺気を内に押し込めていることも、生意気な年下の友人が鬼を人に戻すために入隊しようとしていることも、何より春の陽のような女性がその人喰い鬼を愛していることも、この時は知らなかったのだ。
* * *
真昼間に鬼殺隊の施設の中を鬼が歩いているなど、誰も思わない。それが四寸ほどの大きさで気配を消すことに長けた鬼であるなら、気づかれる可能性もないに等しいのだ。
昼食前のこの時間は幼い看護婦らが厨にこもり、しのぶも自己鍛錬のため病棟から離れる。琴葉も配膳の用意で忙しく、童磨がひとこと断って着物の袷から這い出ても追ってくることはなかった。
「まったく、琴葉に痛い思いをさせるなんて、しのぶちゃんじゃなかったら殺してたよ。我慢したおかげで面白い夢物語を聞けたけれど」
童磨は物騒な独り言をこぼしながら集中治療室への廊下を歩いていく。琴葉お手製の紺鼠色の着物と月白の帯を身に着けた姿は、まるでよくできた人形だ。精巧な美しさの中で、どろりとした血色の頭頂だけが禍々しさを放っていた。
「さて……鬼と仲良くしたいならお互い歩み寄らないといけないぜ、カナエちゃん」
集中治療室の前でぴたりと止まり、一瞬で本来の大きさへと変貌する。瞬きの間に普段の徳利襟と袴姿でその場に立った鬼は、牙を覗かせて朗らかに嗤い、胡蝶カナエがいる部屋の扉を開いたのだった。
【登場人物紹介】
童磨
元十二鬼月・上弦の弐にして万世極楽教の教祖。愛を知って世界が広がった人間性初心者。家族連れの逃れ者ライフは6年目。今日も今日とて柔い胸に挟まれていたが、しのぶの抱きつきでむぎゅっと潰され、そのうえ愛しの琴葉に青痣ができて機嫌が暴落した。別に復讐のためにカナエのお見舞いに来たのではない、筈。
嘴平琴葉
ちょっぴり知能に難ありな超絶美人ママ。善性も母性も天元突破しているが、童磨に関してだけは自身の善性に従えないことがあるのが苦しい。しのぶのことは頑張り屋さんで優しい、素敵な女の子だと思っている。なお、カナエの脚が凍っていたとは知らない。
嘴平伊之助
お母さん似な獰猛系美少年。13歳。弱肉強食を世の真理としているスーパードライなうり坊。しかし両親にはウェット。今回出番なしだが、琴葉による会話イベント(違)のおかげで強化フラグが立った。
胡蝶しのぶ
花柱の妹にして継子の中級隊士。おこりんぼな16歳。琴葉の母性にノックアウトされてしまった。ばぶばぶ。他の鬼殺隊の面々と同じく、嘴平家の父は鬼に喰われ、琴葉は未亡人だと信じ切っている。誰も嘘はついてないのに思い込みって怖い。この後、伊之助に全集中の常中を叩き込む。
胡蝶カナエ
優しく美しい元・花柱。集中治療室の住人と化しており、やっと化膿止めの投薬が終わった段階。ラストの直後、真昼間に思わぬお見舞いがやってきたことで心臓が口からまろびでそうになる。不憫枠だが不幸枠ではない、筈。