春咲小紅
十数年前、高校を卒業して最初に思ったのは『これから、いったい何が私を縛るのだろう』というものだった。周りでサルみたいな声で泣いているような、タピオカと援助セックスで脳が腐っている、馬鹿な女子とは十中八九真逆な思考であった。
高校生活が楽しくなかったわけではない。死んでいるように教室の隅で分厚い推理小説を読み、たいして頭もよくないくせに「オレは皆と違う」と、周りとの差をつけようとする陰キャだったわけではない。
週末にはショッピングモールの映画館に流行りのスリラー・ムービーなんかを見に行ったり、県立公園でバスケットボールをしたりをするぐらいの友達はいた。
彼女は作らなかった。義務でもないんだ、別にいなくても死なない。などと言って作ろうとしなかったのもあるが、私には女の縁がなかった。
男衆とばかり飲んで遊んでばかりしていたら、アッという間に卒業だ。後悔をしていないのは確かだが、青春のひと柱を構成するのは恋愛だろう。もったいない、という言い方をされれば、それなりに渋い顔はする。
私が良ければ、それでいいのだ。
高校卒業から程なくして、カフェを開いた。進路としては、一応『就職』だろう。子供の頃からサ店のマスターみたいな仕事に、ひそかに憧れていたのだ。
普通のサラリーマンなんかにになるのは、なんとなくカッコ悪いと思った。友人からは、よく意外だけど似合っているなんて言われる。まあ、まんざらでもない。
カフェ自体は、もともと屋敷然としていた家をちょいとばかし改造したようなモノだ。胸を張って『立派だろう』といえるような店ではないが、近所での口コミから意外にも広がり、今となっては平日でも、閑古鳥が鳴くようなことはそうそうないぐらいの店になった。
昼間には、とうに還暦を迎えて第二の人生を歩みだした、もとい暇になった老人たちがおしゃべりをしに。夕方は、勉強や部活でくたびれた学生が羽休めに来るようになった。
一見さん以外お断り、的な細かいアレなんかも特にないし、気安く入れる雰囲気が割とウケのよくなった原因だろうか。
最近世間で流行っているらしい『ガールズバンド』の子なんかも、たまに見かけるようになった。街中のチラシに載ってるような子だ、一目見たら分かる。
ちょっとした有名人である彼女たちも、普通の高校生らしく、騒がしい放課後のティータイムを過ごしているのを見ると、なんだか懐かしく思えてくる。昔は私もよく友人たちと放課後にファミレスやファストフード店に寄っては、日が沈むまで先公の愚痴や胸の大きいクラスの女子の話などに花を咲かせていたものだ。ろくな花じゃあないな。
今もこうして、女子高生相手に接客をしているが、人目を引くようなギターを背負う彼女もまた、ガールズバンド界で仲間と切磋琢磨し合う仲なのだろう。
何を隠そう、今、私が接客をしつつ料理を振る舞っているのは、カフェ『シェリー』。私の店である。
「ごちそうさまでした! 美味しかったです!」
「1,000円のお預かりですね。490円のお釣りになります、ご確認ください」
「はい! ありがとうございますっ」
「はい、ありがとうございました」
うちの店は、電子レジスターがないので、大体は算盤で代金を勘定する。
数年前までは暗算だったが、どうせなら確実なほうがいいだろうと、わざわざ令和の世の中で算盤を売っているところを見つけたところまではいいのだ。いいのだが、普通に電卓とかそこらへんでよかったんじゃないかというのは、その店の電子レジスターに私の野口英世が2枚ほど吸い込まれてからのことだった。
コインケースの硬貨を整理しながら、ふと昔を振り返ってみると、大したスリルもない平坦な半生だという簡潔な感想だけが出てきた。
自分のしたいことはできているし、私は現に、いまのところの自分の人生に満足しきっている。スリルのある冒険も、淡い恋もないが、それでいいのだ。それがいいのだ。
青空に、名前も分からない雲が雑に散りばめられた、一年中空を記録したら晴れの日の大半がこんなんだろうという、言ってしまえば普通に通り過ぎる日常を、私は望んでいる。
気取っているように見えるかもしれない。周りの山あり谷ありの人生を見て僻み、平気なふりをしているだけかもしれない。
だが、それでもいい。どうせ『運命の出会い』だとかいう、漠然とした、都市伝説みたいな話には縁もゆかりもないだろう。
探しに行こうともしていないし、当然といえば当然なのだろうが。
店の中の最後の客を見送り、思い切り伸びをする。
単調作業は苦ではないが、年だろうか、腰が少し痛い。ストレッチしてから寝ると、体の老化を防いだり安眠効果があるんだったか。なんてどこかのTVで言っていた話を思い出し、ふと入口のほうに目を向けてみると、ちょうど年季の入った木製のドアに取り付けられたチャイムが音を立てた。新しい客だ。
「いらっしゃいませ」
どんな客が来るのかと思えば、そいつはドアチャイムをかき消すほどの音を立て、なんだか矢鱈に勢いよく入ってきた。うちの近くの学校だったか、『花咲川女子学園』の上品な灰桜色の制服がよく似合う子だった。
腰ほどまである艶めいた金髪が、開いたドアから入る、暮れかけた太陽の光に照らされる。店のドアは、西日に直接当たるつくりになっているのだ。
背中から漏れ出す光は、後光にも見える。その瞳は、それに負けじと目映く輝いている。彼女はひとつ大きく鼻息を吹いてから、元気よく挨拶をしてきた。
「こんにちはっ! 開いてるのよね?」
「まあ」
「じゃ、貴方がよく見えるように、そこのカウンターに座ってもいいかしら!」
「はぁ、どうぞ」
街でみたことがある子だ。ガールズバンドのボーカルだったか、名前は忘れたが、街中のゲリラライブでバク転なんかをしていたか。
男みたいなのはいるわ、なぜかクマの着ぐるみがDJをしてるわ、ガールズバンドの中でも異端児に数えられるべきであろうシロモノを披露していた。
「素敵なお店ね。落ち着く雰囲気だわ!」
そう言いながらも、身体を左右に揺らしては店中を眺めているけど。
落ち着きのない彼女を見ながら食器類を整理していると、窓のほうから、何とも言えない、一人で風呂場にいるときのような、落ち着かないもどかしさのような何かを感じた。
数秒後、私は『納得、事態を飲み込む』まではいかないが、『理解、把握』はした。彼女の後ろのほうにある内倒し窓の向こう、つまり外に、黒いサングラスに黒いネクタイ、黒いスーツに身を包んだ、よく言えば統一感のあるファッションの人物がこちらを覗いている。
目線こそサングラスに防がれて分からないが、窓ガラスに穴が開きそうなほどこちらを凝視していると、割と自信を持って言っても文句は言われないであろう。
「お嬢さん、後ろの人に心当たりは?」
「ああ! 『黒服の人たち』ね! 友達みたいなものよ!」
「……なんですって?」
「それより、貴方もあたしのことを『お嬢さん』って呼ぶのね? あたしは『弦巻こころ』っていうの! ちゃんと名前で呼んでちょうだい?」
推測の域を軽く飛び越えるぐらいには、自信のある解釈だが、この人は巷で噂の『弦巻財閥のご令嬢』だ。後ろのハンターのような明らかに怪しい人は、SPみたいなものか。いや、かの範馬勇次郎みたいに、衛星か何かで日ごろから命を狙われているわけではないだろうが。
ここも一応都内だ。街を歩いていれば、ちゃんとした有名人や大富豪の100人や200人はいるだろう。さして頭からひっくり返ってイッパツマンみたいに「シビビーン!」と驚くほどのことではない、のだろうが。
自分で言うのもアレだが、何故こんなミシュラン0.05つ星ぐらいの、ドのつくローカルなサ店に来たのだろう。ここらではそれなりに長く営業しているし、人気がないってことでもないが、私からすれば所詮は趣味の枠を出ないような店だ。
自分の料理の修行や単なる自己満足に、客の笑顔がついてくる。個人の営業なんて、そんなものだと私は思っているがね。
「畏まりました。こころさん」
「ふふっ」
「……ご注文は、お決まりでしょうか」
「そうね! ミルクでも貰おうかしら! ちょっとお腹もすいたし、お任せでデザートも!」
「お、お任せですか。え……うん……はい、承りました」
普段から外食なんて、これでどうやって腹を満たすんだっていうちっこいフランス料理しか出さなかったり、皿の周りに謎にソースをまき散らしている、オシャレをどこかで履き違えている店にしか行かないのか。弦巻のお宅は。マジでああいうとこは、3本ぐらいのパスタをアホみたいにでっかい皿で出してくるからな。教育に悪いまである。
私がいつも行かないこじゃれた店で失敗した話は置いておいて、『お任せ』なんてのは今まで営業してきた注文の中に無かったわけで、少しばかし戸惑ってしまった。注文がいつもメニューの中から来るとは限らない、ってことかよ。どういうことだよ。それにしても、ミルクって。どうせお嬢様なら、キリマンジャロブレンドとかぐらい言ってみせてほしかった。5歳かよ。
いや、決して作れないというわけではない。この私にこなせなかった注文は、今までに一度だってないんだ。ジビエまで用意したことのあるサ店をなめるなよ。
「ふん・ふん・ふ~ん♪ ふふん♪」
ここ数年で最大級には頭の中で困惑している私を尻目に、こころお嬢様はキテレツ大百科の『はじめてのチュウ』を、ご機嫌に、それも割と上手く口ずさんでいらっしゃる。古いよ。いまどき静岡県民しか、そのアニメは知らないと思うよ。気に入らない料理を出せば、私は貴女のお父様あたりに食い扶持と趣味をつぶされかねないというのに。
これはさすがに、ちょいと気合を入れないとかもな。普段より余計に緊張感をもって接客をさせてもらう。
「ミルクはホットですか?」
「冷たいやつがいいわね!」
「甘さは?」
「そのまま!」
「苦手な食べ物は?」
「ないわ!」
「そりゃけっこう」
私は、偏見お嬢様あるある『クソ贅沢な環境で育ってきたので、好き嫌いが激しい』がないことに少し安堵し、まず後ろにある冷蔵庫からミルクを取り出す。
食器棚の奥から、この店で一番高級感のあるティーカップを出し、私のできる最高の打点からミルクを注ぐ。昔、杉下右京の見様見真似で取得した、友人同士の飲み会の一発芸にしか使ったことのなかった技だが、まさかこんなところで役に立つとは。当のお嬢様は、もちろん大はしゃぎ。満足した様子で、杉下ミルクを啜っていらっしゃる。
次は問題のデザートだ。これには、7年前に裏メニューとして我が店に実装されたものを提供させてもらう。
エプロンをいつもよりキツく締めたのち、ボウルをふたつと盛り付け用の皿ひとつ、そしてボウルとはまた別の調理用の容器をひとつ、泡立て器、小さじを出す。
食材として用意するのは、マスカルポーネチーズ150グラム、新鮮な生卵をひとつ、乳脂肪分低めの生クリームを300ミリリットルほど、ハチミツ、砂糖5グラム、ブランデー小さじ一杯ぶん、ココアパウダー適量、あとはお好みの果物をお好みの量だけ。
LESSON1.マスカルポーネチーズと、卵から取り出した卵黄を、片方のボウルでダマにならないように泡立て器で混ぜる。このボウルはAとする。
LESSON2.水滴等のついていない清潔な容器に生クリームを入れ、そこにハチミツを目分量でドサッと追加。同じように泡立て器を使い、こちらは手早く混ぜる。この容器はBとする。
LESSON3.Bにブランデーを小さじ一杯ぶん入れて混ぜる。これをもう一回繰り返す。泡立て器を持ち上げてみると、クリームがとんがる。
LESSON4.使っていなかったほうのボウルに、AとB、さらにLESSON1で使わなかった卵白を入れて、泡立つように勢い良くかき混ぜる。その後、砂糖も入れてさらに混ぜる。ボウルを持っている手も回すと、なお良し。このボウルはCとする。
LESSON5.盛り付ける皿にCの中身を出し、ココアパウダーを適量振る。あとは果物を乗せるとさらにうまい。今回は私のチョイスで、イチゴを乗せている。多分、果物の中では一番合う。
こうして、私の自信作、黄金のクリームで出来たイタリアン・デザートが完成した。さっき言ったイタリアンの店からパクった、もといリスペクトを込めて拝借した、うちのとっておきの裏メニューだ。いつもなら、それこそ息を吸って吐くように、いともたやすく作れる料理なのだが、カウンター席から入ってくる好奇の視線に少々緊張せざるを得なかった。
「お待たせしました」
「まあっ! とっても美味しそうね! クリームが光っているわ!」
「そいつは『ロマノフ』です。所謂、ティラミスの上位互換のようなもので、ロシアのロマノフ王朝時代に皇族や貴族に好んで食されてきたことから、そう呼ばれています」
「『ロマノフ』……さっそく食べてみるわ! いただきますっ!」
彼女が、デザート用の小さなスプーンをロマノフの上から入れると、その力を拒絶することを知らない黄金色のクリームが真っ二つに割れる。すくってみても、その材質は固体とも液体ともとれないようなシロモノで、溶けるようにスプーンの端からクリームが垂れる。常に笑顔の口角を崩さない、オーバーワークな口元に運ばれ、ぷるんっという擬音が似合う唇でスプーンごとロマノフを口にする。
私はというと、この料理に至っては自信しかないので、優雅に自分のブルーマウンテンを淹れつつ、彼女の反応を見守っていた。
「……んんんん~~っ♪」
「そのリアクションは?」
「すっごく美味しいわっ!!」
「ベネ(よし)」
「なめらかを極めたようなクリームに、このちょうどいい甘み! イチゴの甘酸っぱさがマッチしすぎているわね!」
思ったより真面な感想、というか、もはやタダの絶賛をもらい、なんだかちょっと恥ずかしくなってしまった。
「そうっすか」
「照れないでいいのよ、貴方はすごい人なんだから! んん、本当に美味しいわねっ」
「気に入ってもらえたなら、何よりです」
また、昔のことを思い出した。私は小学生の頃から料理が好きで、当時住ませてもらっていた施設のキッチンを借りて、友人や職員さんに振舞っては、その笑顔を見るのが好きだったのだ。いつも無愛想な人でも、ふとしたときに見せる笑顔を、私は『料理』という形で引き出せた。
目の前で美味しい美味しいとロマノフを頬張っている彼女も、もちろん笑顔だ。といっても彼女の場合は、通常の表情が笑顔で固定されているようなのだ。これがまた面白くて、さっきまでのきりっと口角の上がっている『THE 笑顔』というより、口元が緩々になっているのだ。なんというか、とろけるような笑顔をしている。
「えへへっ」
私の目線に気付いたのか、こちらを見てさらに顔を緩めるこころお嬢様。完全に溶けきっていらっしゃる。
「貴方も食べる?」
「はい?」
「だから、貴方にもこの幸せを分けてあげたいのっ」
「あ、あぁ、そういう。私はいつでも食べられるので、結構です」
「いいえ! あたしは、今! 幸せを共有したいのよ! ……えっと……」
「私ですか? 『
「庵廿郎! どうせなら、あたしと一緒に食べましょ! きっと庵廿郎も笑顔になるわよ! だってさっきから、表情が全く変わらないんですもの! きっと笑顔を我慢しているに違いないわ!」
「元からこんな顔なんですけどねえ」
そうは言いつつも、機嫌を損ねてはいけない。彼女はお嬢様である前に、一人の客だ。私はブルーマウンテンを持ったまま、カウンターの外に出て、彼女の隣に立つ。
改めて近くで見てみると、まあ見事に整った容姿をしていることに、イヤでも気づかされる。
見開かれた金糸雀色の双眸は宛らドール・アイのように輝いており、服の上からでも分かるルックスの良さが、現実味を遠ざける。食器を持つ指、しゃんと姿勢正しい腰、その下で振り子のようにご機嫌に揺れるおみ足。
どれも少し握っただけで崩れてしまいそうなほど、に華奢かつ端正でありながらも、芯に刻まれた立ち振る舞いから来る上品な雰囲気は、ひとつの財閥のお嬢様であることをきちんと主張している。それにしても、メイクをしているようには見えない。なのに、その御顔を見てみると、なんとまあキメ細やかな肌と、長い睫毛が目立つ。
弦巻こころは、人に造られたかのように美しかった。ああ、それこそ人形のような。
「庵廿郎! あーんっ」
「ん??」
突然、彼女が喘いだわけではない。右手のソーダスプーンに乗せられるだけのロマノフを、私の口の前に差し出してきたのだ。
「家ではやっちゃダメっ! って言われてるケド……私たちだけの秘密よ? はい、幸せのお裾分け! 受け取ってちょうだい!」
「…………」
「どうしたの? もしかして、お腹がいっぱいなのかしら? それとも、自分では食べられないの?」
「そういうことではございませんが……えぇ~……」
今のは、明らかに嫌な態度を表に出した困惑ではなく、先生が集会の時に出す言葉を考えているときと同じ用法の「えぇ~」である。今の状態で言えば、もじもじ、というよりも、たじたじ。
どうやら、このくらいのレベルのお嬢様になると、高校生になっても『間接キス』も知らないらしい。言論統制でもされてんのか。この街には、白いポストは置いていなかった気がする。。
私がこのくらいの年の頃は、手を繋ぐのでさえ付き合ってからという風潮が主だったのに。まあ繋いだことないから、あんまり詳しくは分からないんだけど。
正直この私、財部庵廿郎、未成年や児童に性的な興奮や恋愛感情を覚えるような悪趣味な性癖は、一切として持ち合わせてはいない。どころか、もはや性欲も枯れている。精巣が仕事をサボっている。でなければ、こんなに可憐で美しい彼女を見て、無事でいられるわけがない。そりゃもう色々とヤバい。
だが、今の私には女性関係はどうでもいいというか、必要ないとすら言える。だとしても、このイベントは避けることができないだろう。さっきも言ったが、客の機嫌を損ねてはいけない。いやでも、未だに窓に張り付いた弦巻家のスーツが気になる。お嬢直々にもらっているのだ、少しは大目に見てくれ。やりたくてやってるんじゃあないんだ。頼む。殺さないで。
かのTHE BLUE HEARTSも歌っていた。どうにもならないことなど、どうにでもなっていいことだ。言葉はいつもクソッタレだが、私とてちゃんと考えてはいるのだ。
「よろしいのですか」
「遠慮することないじゃないの! さあ、食べてっ!」
「はい、では」
彼女の手に握られたスプーンを受け取ろうとし、軽く引っ張ったところ、彼女はここにきて初めて笑顔を崩し、キョトンとする。意地でも直接食べさせるつもりだな。色々察した私は、色々観念して、口でロマノフを『直接』受け取りに行った。私が、客がいなくてよかったと思ったのは、開業以来初めてのことだった。涙さえ流れそうになった。これもまた初めてのことであった。
フリーザ編で挫折し、恐怖に絶望したベジータのような気持ちであった。
舌に、彼女の体液のついた甘いクリームと、イチゴの粒がのっかった。冷たいスプーンが、上下両方の唇で、付いたクリームを落とすかのように引き抜かれる。唾液が、解け、混ざり、合う。寸分の狂いもないほどに、予想通り、大変美味である。
もっとゆっくり味わいたいところだが、誰に証拠隠滅するというのでもないのに、カップに残ったコーヒーを飲み干す。まだ彼女の唾液が口の中にあると思うと、落ち着かないったらありゃしない。
「自分で言うのもなんですが、上手くできていますね」
「でしょっ! ふふ、これで『共有できたわね』!」
「『幸せ』を、ですか?」
「そうよ! あたしの見ている景色、貴方にも見せてあげたかったんだもの!」
その笑顔からは、悪気が微塵にも含まれていないと確信できたが、私から言わせてもらうと、余計に『たち』が悪い。ほかの人にもこんな所業をしているのか。そこら辺の男子高校生なら、勘違いや自意識過剰というレベルではないほどに、俺に惚れていると信じざるを得ない。
「ごちそうさまでしたっ」
「はい、お粗末様でした」
「庵廿郎! あたし、驚いたわ! 貴方は人を笑顔にする天才だわ!」
「かも、しれませんね」
「でも、笑顔にはならなかったわね。やっぱり、出し惜しみしているんじゃあないの?」
「別にそんなことは……」
「笑った庵廿郎、きっとすっごく素敵だと思うのよね」
その言葉の意味、真意などは分からないが、どうやら私の作ったロマノフを気に入ってくれたことには違いはない。私の料理で笑顔になってもらったからには、相手が誰だろうと、まあ、どちらにしろ嬉しいというやつだ。食べている時の顔は、少なくとも、たいへん幸せそうなものであった。
「お金はいくら払えばいいかしら?」
「ロマノフとミルク、あわせて750円です」
「じゃあ、『チップ』で……はいっ! このくらい置いていくわね! お釣りはいらないわ!」
綺麗に片付けられた、うちの中でも特に高級感のある皿の横には、紙幣が三枚重ねられていた。それも、きちんと3人の福沢諭吉が見えるように。最初に頭に浮かんだのは、『欧米か!』という、何のひねりもない突っ込みだった。
いや、750円とチップを足してコレか。オーバー・キルや過払い金なんて話ではない。
「待ったッ」
「心配しないで! あたし、この店気に入ったの! また近いうちに、いや、明日にでも来るわ!」
「いや違くて。こんな量はさすがに受け取れませんよ、って話です」
「あら、足りなかったかしら?」
「……十分『すぎる』ンすよ」
「なら満足はしてもらえたみたいね! あと、あたしには『敬語』なんて使わなくってもいいのよ? こころ、って呼び捨てにしてもらえたりすると、すっごく嬉しいわ」
噂によると、ひとつの空港を所持しているとの逸話がある弦巻財閥のご令嬢に、タメ語とは。私もでっかくなったものだ、などと気休めを言っている場合ではない。畏れ多いどころの話ではないぞ。ハッキリ言って、めちゃくちゃに気が引ける。
どうせ、こんなに庶民にフレンドリーな彼女のことだ。きっと、少しでも私みたいな一般庶民のそばに寄って、観察でもしたいのだろう。彼女にとって、この街など、所詮アリの巣観察キットみたいなものだ。知らない存在に、どうせすぐ飽きる癖に、興味を示している。
飽きたら何時でも捨てられるという権力、財力の大きさが、腐っても私たちより上の存在であることを実感させる。
とは言いつつも、ドラマの悪役みたいな態度でもないし、もてあそんでいる的な意図は、これっぽっちも感じない。『目』を視れば判る。
「あの」
「ん?」
「また……来るのかい」
「当たり前よ!」
「なら次は、食べたいものを考えてくるといい。和食や中華から、フレンチにイタリアン、何でもいいから」
「!! 分かったわっ! さっそく考えなきゃ!」
元気よく答えると、彼女はわくわくしたような様子で、店のドアを開ける。
「ありがとうございました」
私がマニュアル通りの台詞を口にすると、なぜかもう一度、こちらに顔を向け、今日一番の笑顔を見せた。もちろん、その笑顔は額縁に入れて玄関に飾れるほどに綺麗なものであった。
「ありがと、庵廿郎っ」
店に入ってきたときとは違い、日は暮れているが、相変わらず後光のさすような笑顔。風になびく髪の毛とスカートが、それこそ絵画のように映え、美しい以外の言葉が出てこなかった。
この小一時間、弦巻こころという人物に対して『可愛い』と心から思うことは終ぞなかったが、『綺麗だ』という感想は何十個だって出てくる。彼女ひとりで美術館でも開いたらいいんじゃあないか、などと考えながら、スプーンをくわえる口元を隣で眺めていたのは秘密だ。
もし、私が料理人ではなく画家だったなら、間違いなく彼女のフルヌードを描いていただろう。私が料理人ではなくアーティストだったなら、一晩で彼女のことを詠う詩を書きあげていただろう。頭に鮮明に残る、見目好い顔は、当分の間は忘れることなどできそうにない。
私は、カウンターに置き去りの30,000円を無造作にポケットにしまう。その横の食器を、厨房の中に戻って洗い、パイプ椅子に座って一息つく。
「こころ、か」
誰に言うでもなく、店の天井に向かってつぶやくと、長らく使われていなかった表情筋が、口の端を無理やり吊り上げる。
あそこまで喜んでもらってしまっては、料理の出し甲斐のありすぎる客だ。腕が鳴る。と思いつつも、その感情に少し納得がいかない私もいた。おかしい。彼女に『店に来てほしい』のは、明らかな事実なのに。
To be Continued.