料理人は希わない   作:苗根杏

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太陽の欠片

 布団の中には、妖怪がいる。

 

 かの『呪怨』が走りとなり、『アナベル死霊博物館』にまで伝わった、昨今のジャパニーズ・ホラーの定番とも言えるシチュエーションだが、私は本当に布団の中には何かがいるんだと思う。

 

 勿論、私は映画好きとして多数のホラー作品を見てきたのだが、幽霊や妖怪の類は全くと言っていいほど信じていない。あんなに昔から、オバケとかいう伝説もどきが熱狂的な信仰をもらっているのは、単に人間の『目に見えなかったり、存在もしないものに惹かれる』という性質、というか人間史上におけるバグのせいだろう。

 

 宗教だって、ほとんどが神などの『目に見えないもの』を信じているというものだろう。ジャンヌダルクのような人間でもなければ、確信を得られる事象を見聞きすることはないだろうに。無宗教からすれば、目に見えないものに命をかけて、さらに監視もされているなんて、生きる目的がハッキリしていて生きやすそうだなんて思ってしまう。どうやっても私は、透明なものを信じるなどという不透明な話に、嫌気がさすと思う。

 

 本とは、聖書をはじめとした、聖典を広めるために生まれたという。日本の古事記なんかも例外ではない。そんなものを生み出してしまうぐらいに、宗教とは大きな存在だ。別に、神を否定するってんじゃあないってことは、この場で言っておかなければいけないだろう。

 

 何が言いたいかというと、私が今朝、布団からなかなか出られなかったのも、妖怪のせいだということである。

 

 どんなことがあろうと、誰に会うだとかの約束をしていても、起きたばかりの時は本当に何もしたくない。20代から50代の日本人100人を無作為に抽出して実験した結果、9割がそんな気持ちに襲われるという、どこかの大学の研究結果があったらいいのに。あるわけではない。いざという時の言い訳にしたい。

 

『ほらぁ、あてぃしB型だからさぁ~』って言って遅刻してくるヤツとかがいるじゃあないか。アレだよ。『あと5分で着く!』と言って1時間後に来るヤツと同類のな。

 

 特に月曜日の朝なんかは、八十度寝ぐらいしないと気が済まない。開店準備のため、定休日である第二・第四土曜日以外は、6時あたりには必ず起きている私ではあるが、今日はなんだかヤケに頭がボーっとしている。

 

どのくらいかというと、歯磨き粉とニンニクチューブを間違えてしまったほどだ。おかげで3回、普通に歯を磨くことになってしまった。口の中がまんべんなく二郎系ラーメンを食べた直後みたいになり、さらに気分がヘコんだことは言うまでもない。だとしても、店を開けない理由には到底なりはしない。私自身、店は開きたいし。

 

 高校生の頃は、白紙の課題と偉そうな先公に半ば逆切れしかけつつも、友人と脱衣麻雀をするためだけに学校へ足を運んだものだ。あの場には10人余りの男衆しかいなかったが。あの後、何故か勢いでホテルに行った友人ふたりが、学年イチのバカップルになったのは誰も予想できなかっただろう。周りも周りで、毎日のように補修を受けているようなヤツばかりだったが、そのカップルのことを素直に祝福していたのを、今でもよく覚えている。

 

 あの頃は皆が、先生に従うような馬鹿になりたくなかったのだ。だって、正しいことしか言ってこないから。

 

「ふぁあ」

 

 昔のことをよく思い返すようになったな。

 

 私が子供の頃は世の中がきれいでよかった、などと老害のような台詞を吐くような私ではない。未来に行きたいだの、過去に戻りたいだの、そんな言葉は今までの時代を生きてきたすべての人たちへの冒涜であり、今からの日々を生きていく自分たちへの侮辱だ。

 

 私たちは、決まった時代で生まれて、決まった時代で生きて、決まった時代で死んでいく。原爆よりも非人道的な発明は、タイムマシーンだ。

 

 瞬間瞬間を必死に生きることこそ、一番美しい。どんなに醜くでこぼこな道でも、極めて平坦でつまらない道でも、道は道。私が歩んできた道も、ドラマチックなんて欠片もなかったものだが、生きてきたことには変わりない。運命の出会いがなかったなんて理由は、人の人生を否定する大義名分にはなりゃしない。

 

 ああ、頭が働かないと、思考もまとまらない。話したいことが次から次へと出てくる。

 

 口内のニンニクを完全に落とし、顔を洗って、服を着替えた。調理器具を準備し、机もひととおり拭いた。あとは、店の入口の『Closed』の看板を『Open』に裏返すだけだ。大きな欠伸をし、伸びをしてから外に出ると、もはや見慣れた金髪が立っていた。

 

「おはよう、庵廿郎っ!! 今日は一番乗りよ!!」

「あー、あー……大きな声が頭に響くよ……」

「ふふ。おねむさんね」

「やっぱし、そう見えるかィ」

 

 私の目の前にVサインを出し、満足そうにニヤケるこころ。ひとしきり頭をかいてから、よもや朝一番で会うとは思わなかったな、これは高カロリーだぞぉ、なんて思いながら看板をひっくり返す。振り向くと、朝日が直接目に入って、反射的に目を細める。

 

「でも、どんなに眠くても挨拶は元気よくしなくっちゃあダメよっ?」

「ん、いらっしゃいませ」

「違うわよ! ほら、朝のあいさつ!」

「……なるほどな……おはようございますッ」

 

 いつもの2倍ぐらいの声を出して、そりゃあ見事に深々ァ~ッと、こころに『お辞儀』の姿勢をとる。上半身を前に90度倒す、謝罪を示す最敬礼より上の『お辞儀』の姿勢だ。

 

 彼女と私自身のプライドにかけて言わせてもらうが、弦巻こころは何ひとつ間違ったことを言っていないので、私はちょっと面倒くさい顔をして頭を下げるしかないのだ。

 

 オムライスを提供した日からも、彼女は何回か店に来てくれた。そのたびにチップを断るという日々を過ごしていたのだ。そういえば、普通のお客からも彼女のことを認知し始めた人たちが、ある程度出てきた。彼女が弦巻家のお嬢だと知ってのことだが、彼女のほうから他の客に触れ合うことが多いので、今じゃ近所の可愛い子ぐらいの認識だ。ここら辺に弦巻財閥の大型開発による立ち退き命令なんかでも出ない限り、彼女が孤立することはないだろう。バンド仲間も引っ提げて、店の中で賑やかに食事を楽しんでいる様子を見ている限り、やはり彼女なりに、周りも巻き込んで満足しているらしい。香澄と話しているのも、よく見かける。

 

 これでも、いろいろ心配はしていたのだ。

 

「そう! 挨拶は大事よ!」

 

 さてとそろそろ頭を上げてみようかと思った瞬間、後頭部の髪に、なにやら慣れない感触が伝わってきた。頭を左右に撫でまわされるような。いやこれ本当に撫でられてるな。と察したときにはもう遅い。

 

 おおかた『そうするだろうな』と思ったとおり、こころは私の頭を手で左右から包み込んだのち、指を髪に食い込ませて、わしわしと洗うように撫でている。気付いていたらとうのとっくに避けていたのだが、なにせ人に頭を撫でられるなんて経験が、『人生に一度もなかった』もので。困惑なんてものではない。

 

 よく考えてみなくとも、今年でもう35歳。いまさら人生で初めての何かを経験するなんて、中々無いものだ。新鮮かと言われれば、映画やドラマなどで見つくしたシチュエーションではあるし、そうでもない。特に貴重な経験でもなさそうなのが、なんだか悔しくはある。

 

 悪い気持ちはしない、というのが素直な感想である。もう少し鬱陶しく、癖のある行為かと思っていたが、案外すんなり受け入れられるものだ。食わず嫌いってわけではないし、そもそもの『機会』がなかったわけであって、この行為に不快な感情を抱いていたってことでもない。

 

「庵廿郎の髪は、犬みたいね!」

「荒れてるのか?」

「ううん、撫で心地がいいの」

「はあ。そういうものなのか」

 

 よく分かってはいないが、適当に相槌をうっておいた。

 

 なんとか彼女の手の中から頭を出し、脱出。ご近所に見られたときには、うちの店が風俗だの、パパ活の庵廿郎だの言われてしまうかもしれん。言われるだけでは済まない。店を閉め、この街から出ていくほかないだろう。

 

「で、平日の朝から何の用だ。遅刻するぞ」

「? この店に来るのは、食べ物を食べに来たときぐらいよ?」

「いやまあ、そうなんだけれども」

「ふふんっ、今日は『モーニングセット』を食べに来たのよっ!」

「……ほう」

「どうしたの?」

「貴女の家ほどのモノを出せるとお思いで?」

「安心してっ! お家で出る料理も美味しいけれど、庵廿郎の料理は特段ハッピーになれるんだから!」

 

 無駄に休日の昼間に、無駄に高いシフォンケーキと紅茶をたしなんでいる……で、あろう、こいつの家のことだ。私の朝食であるカップヌードルとは大いに違って、もうなんか、ぐわーっとした豪華なもの食べてるんだろうな。私は、自分の料理にはとことんこだわらないので、どれだけ豪華でもコーンフレークやオートミールが関の山だ。

 

 人々は朝食に夢を見すぎている。病的に痩せたり、スタイルを維持するのならともかく、普通の朝食なんて『T・K・G』でいいのだ。偉い人たちほど朝食も質素だという。実際、アメリカの起業家であり、ツイッターのCEOであるジャック・ドーシー氏は、固ゆでの卵に醤油をかけて食べるのを好んでいる。ロシアの大統領で知られているウラジーミル・プーチンも、オムレツかポリッジにフルーツジュースを合わせているシンプルなものらしい。イーロン・マスクやビル・ゲイツなんかは、食べないことすらあるらしいし。

 

 せめて朝食ぐらいは、と贅沢するのも、日々に彩りを加える要素かもしれない。私もたまにチキンラーメンに粉チーズを入れたりするし、食への探求は終わることのない自由研究みたいなものだ。が、SNSなんかでドヤ顔するような、大したものではないんだぞ、ということだ。

 

「うちもれっきとしたカフェーだ。モーニングぐらいメニューにあるさ」

「じゃ、それをひとつちょうだいっ!」

「はいよ」

 

 まったく、朝でも笑顔を絶やさずに、ご苦労なこった。せいぜい遅刻しないように、テキパキ作ってやるかな。それも、喫茶店やカフェーではド定番のメニューをな。

 

 食材は、好きな厚さの食パン1枚、生卵ひとつ、ベーコン3枚、キャベツとレタスを4分の1玉、小さ目のニンジンとキュウリ1本。バター、マーガリン、サラダ油、コールスロー・ドレッシング、マヨネーズをそれぞれ適量。

 

 

 

LESSON1.キャベツ、レタス、皮をむいたニンジンをスライサーで千切りにし、キュウリも端を切り落として斜め薄切りにする。食パンは半分にカットし、トースターに入れて焼く。バターはまだ塗らない。

 

LESSON2.切った野菜たちをボウルにまとめ、マヨネーズとコールスロー・ドレッシングを適量入れ、野菜がしんなりするまで手で混ぜる。

 

LESSON3.卵を茶碗などに割り、溶き卵にする。サラダ油を敷いたフライパンでベーコンを強火で焼いていく。少し油がはねてきたら、卵をベーコンの上にかける。

 

LESSON4.フライパンを前後に揺らし、菜箸で卵を混ぜる。スクランブル・エッグを作るように、焼きつつほぐしつつを繰り返す。

 

LESSON5.先ほど2と4で作ったサラダとベーコン・エッグ、さらに焼きあがったトーストにバターを塗って皿にそれっぽく盛り付ける。

 

 

 

 30分もかからずに、家でも簡単にできる『モーニング・セット』の完成だ。私の場合は、既に野菜などをカットしておくので、仕込みはほぼほぼ抜きだが、およそ10分程度で出来た。手間といえる手間もかかっていないので、うちの中でも比較的軽く作れるメニューだ。ゲートボール大会に出るじいちゃんが、勝負飯として食べていくこともある。

 

「お待たせしました」

「これよ、これっ! 本で見てから、ずっと庵廿郎の作ったモーニングが食べたいと思っていたの!」

「ふうん。絵本以外にも読むんだな」

「最近、美咲に借りてるの! 少女マンガって言うのかしら……ぼくたま? とか!」

 

 美咲…黒髪の、大人しめな子だったか。『ハロー、ハッピーワールド!』のメンバーは、ちょいちょい店に来てくれるので、覚えつつある。メンバーをまとめるしっかり者で、商店街のマスコット・キャラクターにして、バンドのディスクジョッキー、DJをつとめている。スポブラでもしていそうな、色気に気を使わないイメージだったが、少女漫画なんて読んでるのか。

 

 というか、その年代でぼくたま持ってんのかよ。ぼくたまは色あせない名作だとは聞くが、近い年にやってた『姫ちゃんのリボン』とか『ママレード・ボーイ』も持ってそうだ。花より男子はドラマでメジャーになりすぎたし。

 

 私がそこらへんで読んだのは、漫画版の『耳すま』だ。そう、天沢聖司がヴァイオリン職人を目指していない世界線のアレだ。映画版を見たときは、見た目はおろか普通に設定まで変わっているのについていけなかった覚えがある。あっちはあっちで気に入って、5回ぐらい見たが。はてさて、実写版はどうなることやら。

 

「いただきますっ」

 

 まず彼女が手をつけたのは、皿の手前にあるトースト。マーガリンよりバターのほうが慣れていると思ったが、読みは当たったか。

 

「んふ、あつっ」

「冷ませ」

「ふー、ふーっ……はむぅ」

「……どうだ」

「ん! 美味しい!」

 

 ヨシッ。

 

 サラダをフォークで少しすくっては食べ、ベーコンエッグをはふはふしては食べ、またトーストを頬張る。理想的な三角食べだ。にしても、本当に美味しそうに食べる。何回見ても、何回来ても。味のもとのもとを隠し味に入れた覚えはないのだが。うちの客でも、こんなに美味しそうに、かつハイスピードで食べるのも彼女ぐらいだ。

 

「ミルク、いるか?」

「う~ん……そうね。『コーヒー』がいいわねっ」

「えッ、あんた飲めるのかい」

「驚くほどのことかしら?」

「か、角砂糖は?」

「ブラックでお願いするわ!」

「…………ッ」

 

 ハッキリ言って、かなり驚いた。出会った日の『ミルクを頂戴』は、あくまでもデザートに合うものを選んだだけ。普段の幼めな言動、性格から、勝手に先入観を抱いていた。こんなやつがブラックコーヒーなんて単語を発するだけで、私の中では軽く号外モノである。飲めてもシロップとミルク50杯ずつだよ、でもそれもうミルクティーだよねアハハ、みたいな感じになると思っていたのだが。

 

 納得のいかない話ではない。ここ数日でもう何回言ったか忘れたが、彼女は一応、といってはなんだが『お嬢様』である。それなりの淑女だかレディーだか、ガガだか、ボーンディスウェイだかの教育ぐらい受けてはいるだろう。あまり自分の自慢をしなかったり、喋り方からも育ちはそれなりどころではないほどに良いことが分かる。そういえば、字もかなり綺麗だった。どことなくあふれる上品なオーラに、自分の中で勝手に説明がついた。何気ない日常の身のこなしが、彼女をレディーたらしめる要素となっていたのだ。

 

 SPがついてるぐらいだし。今日も窓から『黒い服の人たち』が無言で『早くしろ』とのフリップを見せながら、こちらを凝視している。あんたら、中の音声とか聞こえるのか。今夜は盗聴器の確認必須だな。

 

「オリジナル・ブレンド・コーヒーだ」

「……美味しいっ! 酸味が控えめね!」

「苦味とコク重視だ」

 

 そうこうしている間に、皿の上から料理は消え、コーヒーも飲んでしまった。こころは今回もすっかり満足した笑顔で、私が出したナプキンで口を拭う。

 

「学校、何時から始まるんだ?」

「もう少しね」

「行かないのか」

「言ったハズよ? あたしは、この店の料理も好きだけど、雰囲気だって気に入ってるの!」

「ふうん」

 

 そう言いながら、いつものように代金をカウンターに置いていく。今度は野口英世、日本円だ。しかもモーニングが650円、コーヒーが350円で値段もピッタリ。

 

「庵廿郎も、好きよ」

「ほぉ……? ……ふぅん……」

 

 危ない。反射で動揺しかけた。

 

 見たか。こういうやつなのだ、弦巻こころは。すぐに好きとか言っちゃう。女子校じゃなけりゃ、誤解する男子、もとい被害者もそれなりの数になっていただろう。

 

 一通りモーニングを食べ終わり、優雅に一休みしながら時計を見ていた彼女を、私はじっと見ていた。口の端に、ベーコンの欠片がついていたのだ。別に、いくらこころが美人だろうと、我を忘れて見とれることなんてしない。細かいところが気になる性分なのだ。が、そんな私のほうに振り向いて、名指しで『好き』だなんて言われてみろ。おまけに、ベーコン付きとはいえ、満面の笑みだ。

 

 違うんだ。ああ、違うとも。未成年に欲情なんてしないとも。このくらいの年齢は、香澄で見慣れているし。だが、こんなに改まって、割と真面目に好きだと言われれば、少しはビクッとしてしまうだろう。彼女のほうはというと、目が合って一瞬ハッとしたような顔をしたのち、目を細め、閉じた口の両端を緩やかに上へ向けた。心なしか、耳が紅くなっている。私も、今頃そんな感じだろう。顔と耳が、熱い。

 

 しばらく、こころは私の目を見たままだった。私のほうも、何故だか目を離せずにいた。気まずくって、少なくとも私からは何も言い出せずにいた。なんとか腕を動かし、緩く微笑む彼女の顔に手を伸ばし、口元についたベーコンをとろうとする。彼女は、私の右手の指が顎についた段階で、ゆっくり、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 口元を軽く拭き取るだけすると、私は焦って、思わず猛スピードで席を立ってしまう。何をするでもなしに立つのは不自然だろうと、頭を冷やすという意味でも、コップにミルクを入れるために冷蔵庫のほうへ向かう。

 

「分かってるわ」

「なにが」

「なんでも?」

 

 終わったかと思うと、彼女はちゃっちゃと席を立った。いつもより少しだけそっけない態度でいて、しかし満足げな表情をしていた。満腹になったときとは、また少し違うような笑顔だ。

 

「さすがね、庵廿郎」

「なにがだ」

「なんでもっ?」

 

 私がミルクを一気飲みして振り返ると、彼女は既に店を出ていく間際だった。もう一度目が合い、ヤバいと思った私は、すぐに顔も合わせずに見送ろうと思った。客とはいえ、なんだか一生見ていられるような気がして、少し怖かった。実を言うと、先ほどの流れで、女の子の顔を初めて触ってしまった。あんなに見つめあうのだって。恋愛的な意味ではないにしろ、真剣に好意を伝えられるのだって。これが最初で最後かもしれないことを、1日に何回もされては、冷静なんて言葉ごと忘れるさ。

 

 しかし、ドアを開けた途端に見えた景色が、ふたたび私をその場に張り付け、硬直させた。実質的な『磔刑』だ。

 

 季節は5月。春も過ぎようとしていた立夏。朝の涼しげな空気と、外に置きっぱなしにした缶ビールみたいにぬるい風。その風向きに素直に従い、サラサラとした金髪と制服の布がなびき、流れる。身体の7割ぐらいを占めているんじゃあないか、と思うほど長い脚が露出する。膝の上、太ももの付け根。いつもは見えないような部分があらわになる、それだけだ。高校の時、女子のスカートなんざ何回もまくり上げた。だが、違うんだ。こんなレベルじゃあない。ここまで惹かれるのは初めてだ。

 

 桜田淳子の『サンタモニカの風』が、頭の中で流れる。乱れた髪を、耳にかけるしぐささえも美しい。少しバターに濡れた唇が薄いピンク色に光り、長い睫毛が揺れている。甘い、甘い匂いがした。アナ・スイの香水だろうか。いや、ブルガリか。どちらにしろ、心地の良さと、臓器ごと飛び出そうな動悸が、私の脳髄ごと酔わせに来るようで、息切れさえするような気持ちだった。

 

 夢見心地である。

 

「また、来るわ」

「ああ。いつでも、待ってる」

 

 咄嗟に口から出る言葉が、信じられなかった。私だって、今だって。

 

「ふふっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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