料理人は希わない   作:苗根杏

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終わらない歌 ~1001のバイオリン~

 誰に催促されるでもなく、ふっと意識が目覚める。固く瞑られ、目脂の気になる瞳を手でこすろうと、両手をあげる。そのまま目のあたりに手を持ってきて、左右にこする。全くと言っていいほど、腕や足は痛くなかった。そのかわり、身体を動かす度に、後頭部に鋭い、無数の針が刺さっているような痛みが走る。

 

 瞼をあげようとするも、眩しさのあまり、反射的に目を閉じる。少しづつ目を開けていくと、知らない天井があった。光は天井の照明ではなく、左側から入ってくる日差しだった。キツい消毒液と、マスクを着けたばかりの時のような匂いが漂う。外を見ると、街並みが見下ろせるぐらいの高さのビルにいるようだった。向こう側に霞んだ、東京スカイツリーが見えた。雨が降り、空は黒く曇り、雷が鳴っている。この世の終わりを先取りしたような景色だ。

 

 最悪の目覚めと、頭の痛みにイラつくなか、私はまたしても昔のことを思い出していた。

 

 入院するのは、久しぶりだった。十数年前、旭湯でバイトをしつつ、通っていた高校で、施設の友人がいじめられていたのに腹が立った。確か、校舎の裏でタバコを吸っていた10人ほどを相手に、ひとりで殴り掛かった。最後のひとりと相打ちになり、あいつら諸共病院送りになったんだったか。

 

 あの頃は、みんな誰かの喧嘩に自分まで熱くなり、従うことなど知りたくもなかった。自分の強さを知りたいあまりに、誰かを傷つけることでさえ、強がりのひとつだった。

 

 一か月ほどの入院のおかげで、学園祭にも出られなかった。前年度も交通事故で軽いケガをし、結局私が出られたのは、卒業を間近に控えた三年生の時の学園祭のみであった。二年の時は確か、準備に顔を出しはしたものの、先公に謹慎を言い渡され、また家で療養を続けた。一発ブン殴ってやりたかったが、謹慎期間が引き延ばされるのは御免なので、大人しくしておいた。

 

 もう一回、数時間ほど寝た。看護師が起こしに来て、色々な事情を、一気に説明してくれた。私は、とある男の標的に巻き込まれただけであったこと。頭を銃弾がかすめたのと、ガラスの破片が少し刺さっただけで、間一髪で外傷だけで済んだこと。あの場にいた人たちはみんな無事だったこと、など。

 

 冷静になってみて、いろんな不安が浮かんできた。私は、大事な人を守れたのだろうか。店に空き巣は入っていないだろうか。ガスを止められてはいないだろうか。

 

 それから一週間ほど入院し、廃人のような生活を送っていた。これほどゲームが欲しいと思った時期はなかった。高校の時は、ドラクエやプラモデルで時間を潰していたっけな。

 

 休日には、施設や高校時代の友人が来てくれた。籠に入ったフルーツやコンビニのエロ本を持ってきてくれたり、思い出話に花を咲かせたり。相手が女子高校生だということこそ言わなかったが、恋人が出来たことを伝えると、看護師さんに壁ドンされるぐらいに大きな声で驚かれた。

 

 ケガの原因については、頭の打ちどころが悪かったと説明しておいた。デート終わりに滑って、そのまま頭を強打、って感じに。

 

 退院した日は、友人たちとそこら辺の居酒屋へ飲みに行った。5軒ほどハシゴしただろうか。自由になった反動で飲みすぎて、珍しく泥酔してしまい、家まで友人のひとり(酒は飲まない主義らしいが、単純に弱いだけである)に車で送ってもらった。

 

「すまない」

「いいのいいの! にしても、どうしてあんなに飲んでたんだ?」

「入院中のストレス解消だよ」

「とてもそれだけじゃあないと思うんだケドねェ」

「気にするな。たまにはそんなときもある」

「で、あれが彼女さんかい? 随分子供っぺえ、って言っちゃア失礼かな」

 

 まさか、こころが。とは思ったが、こころが家から随分離れたうちの店まで、こんな夜遅くに来るはずがない。そうは思いつつも、帰りを待っているこころのビジョンを、思い浮かべずにはいられなかった。少し、甘えたかったのかもしれない。

 

「あっ!? ……マスター……なの?」

 

 見慣れた角頭と、星のアクセサリーを首に光らせる少女が、私の店の前で立っていた。戸山香澄だ。

 

 友人の車から降りた私のもとに駆け寄るなり、目を潤わせた香澄は、零れそうな涙を強く拭いてから私に抱きつく。こうして直接的に濃厚な接触をするのは、香澄がまだ幼稚園に通っていた時ぐらいだろう。帰りたくないと、私の足にすがりついて泣いていたものだ。

 

 今回も、何故か泣きそうになってはいるが。

 

「……何故、ここにいる」

「えへへ……退院したって聞いて。一番に会いたかったから。というか、入院したなんて聞いてなかったんだよー! 学校のこころんから今日聞いてね…」

「こんな時間までいる必要は、なかったというのに」

「でもでも、無事なマスターが見たかったんだもん!」

「嬉しいのだが、今日はもう遅い。私がこんなんだから、送っていくことはできないが、帰りなさい」

「……あのね、マスター」

「なんだ」

「今日は、ここに泊ってもいい?」

 

 『既に家に許可をとったので、今日は帰らないつもりでいた』とのことで、このままでは野宿をすることになってしまう香澄を、仕方なくと言ってしまってはなんだが、とりあえず家に入れた。

 

 5月とはいえ、それなりに夜は寒い。外で待っていた香澄がくしゃみを繰り返していたので、暖かい飲み物を出すことにした。粉末のミルクココア、電気ケトルで沸かしたお湯を用意する。香澄がコーヒーを飲めないのは、もう何年も前から知っているから。

 

 

 

LESSON1.マグカップに、小さじ3杯のココアを入れる。そこにケトルのお湯を120ミリリットルほど入れる。

 

LESSON2.後ろから、香澄が抱きついてくる。私の服の中に手を入れてくる。

 

LESSON3.香澄は、数えきれないほど前から、私のことを好きだった旨を明かす。私は手をどけさせ、こころと両想いであることを明かす。

 

LESSON4.その場で号泣してしまった香澄の頭を撫で、慰める。手を振り払われるも、一時間後には大人しくなる。

 

 

 

 泣き崩れた香澄に、もうすっかり冷めて湯気もでなくなったマグカップを差し出す。口を付けて、ゆっくり飲み、一息つく。まだしゃっくり交じりの呼吸で、必死に落ち着こうとしている。

 

 こんな酷なことを言ってしまって、傷つけてしまって、本当に申し訳ないと思っている。いっそ、嘘をついて抱いてしまえばよかった。元通りの関係には戻れないかもしれない。いや、元から私の思っていたような関係ではなかったのだが。常連のカフェーのマスターが、小さいころからいた近所のただのオジサンが、好きだったなんて、私は思ってもみなかったのだから。

 

「すまない」

「あ、謝らないでっ。ごめんね、突然言っちゃって……ビックリ、したよね」

「ああ、それはもう」

「ううっ、なんだか二人きりだって考えると…抑えられなくって」

「よく、我慢してたな。私は1か月も持たなかったというのに」

 

 私は、こころに想いを伝えたときの事を思い返した。もし、あの時レストランで、こころにフラれていたら。もちろん、こころ自身が好きになった人と幸せになってほしい。それが私にとっても幸せなのだが、それなりにショックは受けるだろう。その時、香澄に今さっきみたいにズボンの中をまさぐられてみろ。襲いはしないが、簡単に落ちるだろう。

 

 それもまた、愛だと思うから。形がどれだけ歪でも、香澄が私に持っていてくれたのは、確かな愛だと思うから。

 

「でもっ!!」

 

 香澄は、ソファーから立ち上がると、再び零れそうになった涙をこらえるように、両手で自分の頬を叩く。頭をぶんぶん振って、私を潤んだ目で見つめる。

 

「私っ、マスターが……庵廿郎さん、が……幸せになるように、応援してるから!」

「……そう、か」

「こころんと、幸せにね」

 

 ひとりの少女の初恋を、こんなやるせない形で終わらせてしまったことに、自分自身が嫌になる。だが、こんな形に、私がしてしまったことに、責任を持たなければならない。いま、私は愛の『負の部分』を知った。

 

 やはり私は、何も知らなかったようだ。

 

 私はベッドに香澄を寝かせる。最初のうちは、悪いよと何回も言っていたが、泣き疲れていたようで、数分後にはすぐに寝てしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入院中、こころの電話番号に何回も電話をかけた。出ることは一回もなかったし、見舞いにも来なかった。香澄の証言から、学校に来ていることは確かだが、どうも会話や無事の確認がとれない。

 

 翌朝、起きて決心をした。シャワーを浴びて、歯を磨き、スーツを着た。彼女のもとに持っていくロマノフと、香澄の朝ご飯を作る。ロマノフの皿をラップに包み、朝ご飯と置き手紙をリビングのローテーブルに残す。

 

 未だかつて使ったことのない『臨時休業』の看板をドアにかけ、保冷剤の入った、テイクアウト用のパッケージにロマノフを入れ、店を出る。支度をしている頃には、もう午前9時頃だったはず。日曜日の、この時間なら既に起きているだろう。きちんと正装で来たし、『黒い服の人たち』にも認知されている。なんとかなるだろう。

 

 とりあえず、高いところから街を見ようと、ショッピングモールの屋上の展望台に向かおうとしていた、その時。渡ろうとしていた道路に、猛スピードで黒塗りの車がやってきた。もはや見慣れた、弦巻家のリムジンだ。

 

「財部様、乗ってください」

「……『黒い服の人たち』……」

「お嬢様のところへ、お送り致します」

「あ、あぁ。どうも、ありがとうございますッ」

 

 自動で後部座席のドアが開くと、中に大勢の黒服さんたちがいるのが分かった。なんだか落ち着かんが、そんなことを言っている場合ではない。さっさと乗り込んで、送ってもらおうじゃないか。

 

 車内は、車に揺られてもびくともしないような、無言の黒服さんたちが座っているだけだ。よく見るようなミラーボールや、カラフルで目のチカチカする照明もない。静かすぎるというのもあるが、久しぶりに会うもんで、落ち着かない。

 

 最初に車内で口を開いたのは、どこか見覚えのあるポニーテールの黒服さんだった。

 

「財部様」

「えっ、はい」

「こころ様が危険に晒されるなんてことは、ましてや……暗殺未遂、など、今回が初めてでした。弦巻家に仕える者として、そして、貴方の恋人を守るものとして、あんなことにも気づけなかったなんて。情けないです」

「いや、いいんすよ。こころも私も、死ななかったわけだし」

「お気遣い痛み入ります。こころ様が誰かに惚れる、ましてや接吻を試みる。これも初めてのことでした。いつも家に帰ってきては、ご主人や私たちに、楽しそうに伝えてきてくださるのです」

「へェ。こころ、そんなこと……」

「前回のデートで、モブフラッシュで想いを伝えるとのことでしたが…貴方に、先を越されてしまいましたね」

 

 もし私が先に『好きだ』と言っていなかったら、周りの人間が急に踊りだしたりしていたのか。

 

「予算もそれなりにしたでしょう。なんか、スイマセン」

「いいんです。お嬢様が、自分なりの言葉で告白をすることができなかったら、その企画ごと中止でしたから。お嬢様なりの、覚悟のあらわれでしょう」

「……こころ……」

「今、お嬢様は部屋にこもりがちになっています。笑顔も減っていますし、食事も進んでおりません」

「ロマノフ、持ってきて正解だったみたいですね」

 

 車が、弦巻家の豪邸の門をくぐるのが、窓から見えた。もうそろそろで、こころに会える。数日間会わないだけで、ここまで緊張するとは。そういえば、彼女は3日も経たずにまた店に来ていたな。1週間も会わないなんてことはなかったはず。

 

 でも、その緊張よりも、不安のほうが大きい。彼女が笑顔を減らすなんてのは、『らしくなさすぎる』。

 

「ええ……その、財部様がよろしければの話なのですが」

「なんです?」

「今度、貴方の料理を食べてみたいのです。お嬢様の尾行をしているうちに、やはり、その……食べたくなってしまって。店に行かせてください。今度は黒服ではなく、ひとりの人間として」

「頼む必要なんて、ありませんよ。少なくともうちの店では、誰だろーと料理を食べられて、笑顔になれる。故に誰でも入店OK……私の料理、きっと気に入ってもらえると思いますよ」

「は、はいっ」

 

 玄関の前で降ろされた私は、引き続き黒服さんたちに連れられて、こころの部屋へ向かっていた。

 

 外国の様式らしく、靴を脱がずに豪邸に足を踏み入れる。

 

 正面には、大きな階段。白い柱で支えられた2階の廊下が見える。玄関、というかロビーはかなり大きな吹き抜けだ。花柄の赤い壁に、床もまた深紅、カーペットのような素材だ。広すぎるぐらいの空間で、自分が小人みたいに感じた。階段の上、これまた大きなステンドグラスを背に、一人の男がこちらを見下ろしていた。

 

「何ですかアレ」

「ご主人です。振舞い方にはお気をつけて」

「……うっそぉ」

 

 私たちのほうに向かって、ゆっくりと歩いてくる、ご主人。もとい、弦巻こころの父。その顔は、自信に満ち溢れたような笑顔だった。

 

 屋敷の壁より、蛍光色に近い、明るい赤のスーツを着ている。ただのスーツではない、宇宙世紀の軍服みたいに、金と黒のエングレービングが襟と裾についている。人中あたりから顎にかけて、伊藤博文を彷彿とさせる髭が生えている。こころと同じ色の金髪だ。赤い彗星を意識したファッションなのだろうか。

 

「財部庵廿郎くんッ!」

「は、はい」

「まずは、私の元・部下の無礼を詫びよう。すまなかった」

 

 一旦歩くのをやめ、深々と頭を下げられた。突然のことなもんで驚いたが、こんな格好をしていても、この屋敷の主だ。礼儀正しいのも頷ける。

 

「いえ、この通り無事なので」

「よく来てくれた。歓迎しよう」

「……そりゃ、どうも」

「ときにッ!!」

 

 突如叫んだかと思うと、足を速め、階段の途中でジャンプしたかと思えば、驚くべき跳躍力で向かってくる。空中で2回ほどひねりを入れ、私の背後1メートルもないところに着地する。びっくりして尻もちをついてしまった。

 

 後ろを見てみると、黒服さんたちは既にいなかった。こうなることを知っていたな、あの人たち。明らかにヤバい人じゃあないか。私より年上なのに、どうしてここまでアクロバティックなパフォーマンスができるんだ。

 

「……君は、こころに惚れたそうだね」

「は、はい。そりゃもう本気で」

「その堂々とした姿勢、まさしくガチだねッ! まあ、私が育てた娘だ。無理もないな!」

「認めて、くださるのですか」

「ああッ!! ふたりには、是非幸せになってほしいと思っている……さあ、ここからが本題だ」

「はぁ」

 

 顔の距離をぐいぐいと近づけてきた、常に笑顔を崩さないこころの父親。私は思わず、後ろに身体が行き、たじろいでしまう。

 

「結婚願望とかは、あるのかね」

「……ええ。あの子と一緒に暮らしたいです」

「なら、うちで暮らすのはどうだい!?」

「へッ?」

「君については、調べさせてもらったよ。昔から両親がいないようだね。養子とまではいかなくとも、私たちのもとで暮らそうではないかッ! ここなら料理のための設備や材料にも困らないだろうッ! 店はもうやらなくていい! 親代わりとなって、世話をすることを誓おう! なんなら、跡継ぎにだって考えてもいい!」

 

 要は、店をたたんで、この豪邸で暮らそうということか。三食おやつ付きはおろか、可愛い娘付きだ。こころと、この屋敷で暮らす。働かなくとも、世話は一生してもらえる。というか、この弦巻家の跡継ぎ候補にもなれる。悪いことは、一見してひとつもないように思える。

 

 婿養子、か。

 

「嫌です」

「そうかそうか! やはり私たちと……えぇ!?」

 

 『だが、断る』。最初の『店をたたんで』という部分からして、気に食わん。

 

「私の料理は、決して『誰かのもの』ではないのです。店は続けたいですし、ぽっと出の私がそこまで深入りするのが、正しいとは思えません」

「親が、恋しくはないのか?」

「……ハッキリ言って、普通の家庭はめちゃめちゃ羨ましいッ! だが、その苦しみを忘れず、『普通であることの幸せ』を与えたい! こころのことは!! 『私自身の手』で幸せにしてみせますッ!!」

「……ふふ、私も坊やだったということか。チャンスは最大限に生かすのが、私の主義なのだが……あえて言おう! この弦巻醍勲(だいくん)、感動したぞッ!!」

 

 そう叫ぶと、こころの父親、醍勲はその場で指パッチンをする。

 

 すると、足元が急にガクンと揺れる。見ると、なんとロビーの床が丸く窪んでいる。ざっと半径10メートル。そして下がった足場は、そのままエレベーターのように下がっていく。

 

「どこに!?」

「地下室だよ。この部屋で、こころが待っている」

「……壮大すぎる」

 

 地下室なんて、階段でコソコソ行くからいいんだろ。なんて考えている場合ではない。この先で、こころが待っている。そう考えると、なんだか緊張よりも、嬉しさのほうが勝ってきた。

 

「さあ、存分に楽しむがいい! 私の娘のナイス・バディをッ!」

「誰が!」

「当たらなければ、どうということはない! フハハハハハ……」

 

 そう言って、彼はエレベーターでまたロビーへと上がっていった。

 

 本当に変な人だった。溜息をつき振り返ると、あの屋敷からは想像もつかないほど、普通の部屋があった。豪華ではある。かなり高級なホテルの一室のような内装だ。

 

 その部屋の隅にあるダブルベッド。並みのシングルベッドに、こころは座っていた。水族館で買ったペンギンのぬいぐるみを両手で抱きかかえており、服装はへそのあたりが透けているようなネグリジェ。手にはまた、水族館のマリンアクセサリーを巻いていた。本当に笑顔は消えており、こころなしか痩せている。目の下にはクマさえできている。

 

 彼女は私の顔を見るなり、ハッとしたような表情になる。ひとしきり驚いた後、顔中をくしゃくしゃにして、こちらに歩いてくる。手を広げてやると、彼女のガラスのような目からは遅れて涙が出てきて、私の胸に飛びつくまでには、涙が止まらなくなっているようすだった。

 

「ごめんなさいっ……ごめんなさい……!」

「こころ、謝らないでくれ」

「あたしが……あだしがッ! いるがら……ッ」

「違う。貴女のせいじゃあない」

 

 声は極めて弱気に聞こえた。いつもの自信満々で、私に楽しいこと、嬉しいこと、思いの丈を打ち明けるときの至福に満ちた表情さえ、跡形もなく消えてしまっている。整った顔立ちぐらいしか。以前のこころの面影はないと言っても過言ではない。

 

「だって、そうじゃない!」

「私は恨んでもいない。むしろ、守らせてほしいとまで思っている」

「あたしと一緒にいたら、貴方は死んじゃうかもしれないのよ!!」

 

 そう言って顔を上げたこころの顎を、私はやさしく手でつかまえる。メイクはボロボロ、髪も乱れており、よっぽど落ち込んでいたのが分かる。

 

 リップの隙間から見える、いつも通り、素の薄ピンク色の唇。私は、自分の唇を、そこに重ねる。

 

 あのとき出来なかった『はじめてのチュウ』だ。

 

 口どうしをくっつけただけなのに、今までの色んな思い、感情、そしてありったけの『スキ』の感情が伝わり、そして伝えられたような気がした。見開かれた、涙に潤う金糸雀色の瞳が、ゆっくりと瞼に隠れていく。睫毛どうしがぶつかりそうなほどに、私たちは密着する。

 

 何時間もの間、このままでいたような気がした。私は唇を一旦離し、持ってきたロマノフをあげようと思った。しかし、彼女は私の両手首をつかむと、床にゆっくり、ゆっくりと倒していく。

 

「ありがとう、庵廿郎」

「こころ、愛しているよ」

「……本当に、ありがとう。それと、ごめんなさい」

「いいんだ。それより、ちゃんと食べてないな?」

「の、喉を通らなくって……」

 

 紙製のパッケージから、ラップに包まれた皿を取り出す。初めて会った日とおなじ、イチゴが乗ったロマノフだ。

 

「こころのために持ってきたんだ」

「あっ、あの日の……」

「口を開けて」

「? ……ふふっ。私たちだけの秘密ね! あーん!」

「そうだ、あーん」

 

 幸せを共有する、だったかな。自分の景色を相手にも見せてあげたり、幸せのお裾分けをする。なんだか、あの時はそこまで響かなかった言葉が、気づけば心に染みている。

 

 そうか。

 

 とっくに、愛を、教えてくれていたんだな。

 

 彼女の前にスプーンを差し出しながら、私は思わず「フフ」と口に出していた。自分の顔は見えないが、おそらく私は清々しいほどの笑顔が浮かべているだろう。

 

 こころは金色のクリームを口に含むと、ゆっくりと噛みしめるように味わい、そして飲み込む。喉あたりが一瞬膨らむ。直後おなじみの、口元を緩め、目を細めた笑顔になる。至福の微笑。この人のために料理を作ってもいいと思えるような、あの時と同じ笑顔だ。

 

 揺れる睫毛。ピンクの頬。つやめく唇。細い指。何から何まで、あの時と一緒。

 

「んん~~っ♪」

「美味しいか?」

「当たり前じゃないっ!」

 

 唯一違うのは、嬉し涙が流れていることぐらいだろうか。

 

 彼女と、またキスを交わした。何故か口に広がる、甘すぎるぐらいの味と幸福は、クリームのものではないことは分かる。

 

「庵廿郎。好きよ」

 

 ああ、愛おしい。

 

 

 

 

 

 

 

 




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