料理人は希わない 作:首吊ヶ浜 麻縄
運とは、風の流れのようなものである。一旦自分のほうに向けば、勢いがつく。
高校時代にやった賭け麻雀では、周りを含め、ぶっこ抜きや燕返しといったイカサマも使っていたが、結局アガれる手はそこまで大きくはなかった。ところが成人してから、近くの雀荘で何年間か打っていると、まあ揃う。図書館エクゾディアぐらい揃う。
タンヤオだろーがトイトイだろーが、ドラがひとつもなかろーが。一回アガってしまえば、勢いがつく。そのまま乗り切ってしまえば、ゴリ押しで勝てるときもある。
風がこちらに吹く瞬間は、決まっているわけではない。だが、いつかは必ず来る。ふたつの紐が絡み合って、縄が出来ているように、悪いことの次には、いいことが来るのだ。
ところが最近、どうもうまくいきすぎている気がするのだ。いいこと続きで、なんだか気味が悪いぐらいに。字一色と大四喜と四暗刻でトリプル役満って感じだ。麻雀を例えに出すのは、単純にマイブームだからである。各自検索なり何なりしてほしい。
「ありがとうございました~っ!」
「お会計、1,100円になります」
「……仲良く、できてるみたいだね」
レジに立つ私とこころを見て、微笑をたたえる香澄が数枚、コインを青いトレーに置く。
「当たり前じゃない! あたし、庵廿郎のことが大好きだものっ!」
「こころ、お前っ」
「ううん。いいんだ、マスターの好きな人だから」
「香澄……」
「……感情、表に出すようになったね! よかった、笑ってるマスターが見られて!」
「そうか。よかった」
「そうよ! 笑顔は本ッ当に素晴らしいものよ!」
「だよね~! 笑顔が一番!」
この二人の仲に亀裂が入ったりすることがなくて、一安心だ。いや、だな。私を奪い合わないで! とかいう自意識過剰から来る心配ではなくって。単に、この広い世界の人口の半分を占める男性の中の、たった一人を、たまたま二人が好きになってしまったというだけの話だ。
本当に、稀なことだろう。こちらから一歩も動いていないのに、あちらからは二人も舞い込んできてくれた。
香澄には、今も申し訳ない気持ちが若干残っているが、当の本人はいつも通りみたいだ。私のほうも、ゆっくりと元に戻していく努力をしていかなければな。自分に都合のいい、ハッキリ言ってしまえばクズ男の開き直りのように見えてしまうが、ならば私は、これしかないとハッキリ言ってしまおう。
「じゃ、また来るね~!」
「ああ。待ってる」
「ありがとうね~っ!」
あの夜、こころを迎えに来た日から2ヵ月。私たちはもっと近くにいるようになった。休日は、こうして店の手伝いに来てくれる。平日の帰りだって店に寄ってきてくれるし、たまに『ハロー、ハッピーワールド!』のミーティング会場としても使ってくれる。
月1ほどの頻度で、黒服さんやお義父さんたちも来てくれる。多めにチップを置いて行ってくれるのは、こころそっくりだ。私の料理を食べたときばかりは、あの仏頂面の黒服さんたちも、サングラスを外して素敵な笑みを浮かべてくれる。揃いも揃って美人ばかりなのは、多少驚いたが。来てくれる度に少しづつ仕様が変わっている服装も含め、こういうトコにこだわりたい人なんだろうな。醍勲さん。
そうこうしているうちに、ラストオーダー時間を超え、閉店時間になった。表にある看板を『Closed』にし、こころと台所に並んで食器を洗う。家庭科の時間にやったらしく、最低限の要領は得ている。
「クーラー、寒くないか?」
「平気よっ」
「そうか」
洗い物が終わると、外していたお互いのペアリングを指にはめあう。店の手伝いをしに来てくれる時の恒例行事だ。
ひととおりの片付けが終わり、私とこころは二階に上がり、コーヒーを飲んでソファで一息つく。今回は渋さ重視の『シェリー』特製オリジナル・ブレンドだ。こころは両手で、マグカップに残った最後の一滴まで飲み干すと、私の肩に頭を寄せる。
こちらに上目遣いで目線を寄越し、目を細めて口角を広く、上にやる。天使か、もしくは女神の微笑み、とも。
ここから覗ける金髪のつむじ、潤った唇、瞼から伸びている睫毛。Tシャツの襟から見える曲線美の極みとも言えるような鎖骨と、布と布に縛り上げられた白い胸の谷間がY字になって私の硝子体へと映し出される。
この財部庵廿郎、ここ数年は性欲と呼べる何かを背負わずに生きてきたつもりなのだが、こころのカラダの柔らかそうな部分を見ていると、どうも悶々としてしまうというか、ちょっとぐらい触ってみたりしちゃってもいいのかなあ、なんてエロ親父的思考にならざるを得ん。実際問題、ハグやキスの何回かは少なからずあるものの、直接的なセックスと呼べる行為に及んだことは、一度としてない。
今日みたいに、うちへ寝泊まりすることも、逆に彼女の家に泊まらせてもらうこともある。なんなら、お互い抱き合って寝る。手を後ろに回して、身体を密着させて。
だがそれでは、性欲が復活した私のリヴァイアサンさんが首をもたげかねないのだ。威力はまさにゴールデンフリーザ。復活という名に相応しいデスビームを放つ。
誰でもいいわけではない。ただ、彼女と一緒に寝ると、神龍が股間の玉ふたつで出てくるというだけなのだ。なんなら今も、チンピクの領域には突入している。
一応、それがバレたことはない。彼女はぬいぐるみや抱き枕を用意してやると、一瞬で寝られるという特技を持っている。おかげで私の海綿体が盛り上がろうと、サークルやモッシュやダイブが起こるほどアガろうと、気づかれることはない。朝も私のほうが早く起きるので、そちらの対策もバッチリだ。
「寝るなよ。まだ夕食がある」
「あら、そうだったわね!」
「パスタにするか? それともハンバーグ?」
「そうねえ……」
店とは違った、2階の一般的な家庭用台所をウロウロし、品定めをするこころ。食料も、作る場所も、1階の『シェリー』とは差別化してあるのだ。
1分ほど、たっぷり悩んだ彼女の手には、カップ麺が握られていた。ヌードルというか、ラーメン系ではなく、正方形の発泡スチロール容器。スーパーで100円未満で売られているような、派手なパッケージをしている大盛のものだ。最近ハマッていて、5つほど床下収納に入れてあったのだ。
「これっ!」
「……食べたこと、あるのか?」
「美咲が学校で食べてるのは見たことがあるわ! 焼きそばのようなものでしょう?」
「まあ、似てはいるな」
一口に言っても、色々な定義、さまざまなイメージが出てくる。基本的には、スープのないラーメンと、ゴマ油やラー油、醤油、酢などの調味料と混ぜ合わせる料理としての認識が強い。カップ麺なんかのそれは簡易版で、いろいろな油をミックスしたソースをかけるぐらいのものだが。具は主にチャーシュー、メンマ、刻みネギなど、ラーメンとそこまで変わらない。最近ではニンニクを入れるのが主流になってきている。
油を主とした調味料を混ぜ合わせた麺類ということで、その料理は『油そば』と呼ばれている。
うちでも何度か学生さんに作ってやったことはあるが、具の仕込みに少し手間がかかるだけで、あまり面倒くさい調理工程ではない。具なしならば、麺をゆでて調味料をかけて、ハイ完成といった感じだ。
「いいのか?」
「いいの!」
「じゃ、これで。お湯沸かしといてくれ、1100ミリリットル」
「はーいっ!」
本人がゴキゲンそうなので、私としては何でもいいのだがネ。
とは言うものの、今日はいつもよりアレンジを加えてみることにした。袋麵にファミチキを乗せるような、簡単なものだが。
一人前として用意する食材は、カップ麺の油そば。ニンニク、ラー油、酢、青ネギ、刻み海苔、柚子胡椒、ブラックペッパーだ。薬味や調味料、具の分量は全てお好み。なんなら好きな調味料をつけ足してもいい。自分好みの油そばを作る気持ちで行こう。
LESSON1.お湯を適宜沸かす。その間に青ネギを小口切りしておく。
LESSON2.容器にかやくとお湯を入れて、時間になるのを待つ。
LESSON3.時間になったら、ふたの網の部分を開けて湯切りをする。
LESSON4.油そば側についてきたソースを含め、調味料を入れる。申し訳程度に、ニンニクは専用の絞り器でつぶす。
いつもより手間をくわえた、私特製ブレンドの『油そば』だ。もう、見るからに味が濃い。ニンニクと柚子胡椒のスパイシーな香りが、部屋一面に漂う。
「お待たせしました」
「なんだか、嗅いだことはないけれど、すっごく美味しそうな匂いがするわっ!」
おろしたり潰したニンニクの匂いは、人類の遺伝子レベルで染みついているのだと思う。私も小学校のときにニンニクチューブの中身を味見したときは、鼻孔に入ってくる得体の知れない刺激と、その美味さに衝撃を受けた。なんでもアリなのがまた強い。
こころは興味津々といったようすで麺を混ぜつつ、今まで見たことのないものへのチャレンジに、目を輝かせている。彼女にとってこの食事は、県外で見かけたラーメン屋に、あえてレビューを見ずに入っていくような、所謂『冒険』なのだろう。
「いただきます」
「いただきまーすっ!」
麺を箸で混ぜ、その中の数本をつまみ、口でつかむ。一気に息を吸うように啜ると、あっという間に、麺で口の中がいっぱいになる。
ひとことでしょっぱい、辛い、酸っぱいなどという感想ではまとめられないような味だ。それぞれの調味料の主張が伝わり、混ざり、分かれ、ぶつかり合う。そしてまた混ざる。飛び抜けて伝わる風味は、柚子胡椒とニンニクといった、匂いが特徴的なものだ。奥歯でブラックペッパーがはじけ、また違ったラー油の辛さも感じられる。ネギの食感が心地いい。
割とジャンキー、というかスクラップ、いやガーベージに近いようなシロモノを出してしまったが、こころはちゃんと油そばの本質を味わえているだろうか。ローテーブルの向こうで正座して食べている彼女のほうを見てみる。
「はふ、ちゅるっ、んぐ」
「……聞くまでもないと思うが」
「おいひいわっ!!」
「元気があってよろしい、花丸満点だ」
笑顔を浮かべる暇もなく、口いっぱいに麺を頬張り、熱そうにも一生懸命咀嚼してみているようだ。
手に巻いていたヘアゴムを髪にあてがい、慣れた手つきで簡易的なポニーテールをつくる。家系ラーメンの店やフードファイターの番組でも見られる、臨戦態勢のようなヤツだろう。
「んっ、むぐ、ずるる、はぐっ」
「じゅっるる、んぐっ、んぐ」
オノマトペを詰め込んだみたいな、賑やかな食事だが、交わされる言葉はほとんどない。目の前の容器に入ったものを味わい、楽しみ、胃の中に片付けることだけを目的として、食事の時間を過ごしている。マナーも品性もあったものじゃあないが、そこにあったのは確かな満腹感と、混ざりあった味の数々に対しての満足だけであった。
途中、私は席を立ち、麺を口に含んだまま台所に向かった。食器棚から大き目のどんぶりを出し、その中いっぱいに白飯を盛る。冷蔵庫からはマヨネーズと粉チーズを取り出し、リビングのローテーブルの真ん中に置く。
彼女は何かを察したかのような笑みを浮かべ、残り半分ほどの油そばにたっぷりのマヨネーズと粉チーズをぶっかける。俗にいう、『味変』だ。餃子の小皿にラー油を足すような、油そばとしてはメジャーな味付けだ。マイルドな味わいになるだけでなく、これほどまでの油たちを摂取している背徳感というスパイスまで付いてくる。
私は人さし指を立てた手を、顔の前で左右させ、「ち~っちっちぃ」と首を横に振る。
そして白飯を手に取り、油そばの容器に残った調味料と、マヨとチーズをどんぶりにまとめて『潜影蛇手』。混ぜて混ぜて、油たちを絡ませると、いい意味で身体に悪そうな色のご飯が出来上がった。
「まあっ」
手で口をおさえて驚く彼女の目の前で、ある程度のご飯を発泡スチロールの容器によそい、一気に箸で口の中へとかきこむ。最後の一粒まで入れ、ゆっくり、ゆっくりと咀嚼。それにならって彼女も、ご飯を容器へ入れ、まだ余っているそばと絡ませて口へ放り込む。
思わず、心の底からの笑みがこぼれた。
それから何分経っただろうか。飯を口に入れては笑い、噛んで飲み込んでは笑いを繰り返していた。テーブルの上から食べ物がなくなった時には、既に私たちはフローリングに倒れていた。口角は未だ下がらないまま、お互い黙って余韻を感じている。それは、ある意味での食事の楽しみ方における、最上級に位置するものであった。
リビングに沈黙が続くなか、最初に油まみれの口を開いたのは、こころの方からだった。
「予想以上だったわ……」
「こういうのも、アリだろう?」
「もちろんっ!」
私は這いずるようにソファに移動し、寝転ぶ。そこに勢いよくこころが飛び込んできて、私の身体の上にかぶさる形で抱きつく。
この年代の少女にしては十二分に軽いほうではあるのだろうが、腹に来る衝撃としてはまあまあの威力に情けないうめき声を出しつつ、それでも両手を背中に回してやる。サラサラとした髪が顔にかかって、くすぐったくもあるが、悪くはない。むしろ割と心地いい。
「お風呂、入らなきゃ」
「ああ、いってらっしゃい」
「…………あのね」
私を抱きしめる力が強まる。彼女は至って真剣な声で、耳元でささやく。
「一緒に入らない?」
「……んん?」
「あたし達、一回も一緒にお風呂に入ったことがないじゃない。だから、その」
「あ、ああ。言いたいことは分かる」
不意打ちだ。というか闇討ちに近い。坂本龍馬や犬養毅の感覚だ。
ああ、私としても入りたくないわけではないさ。何回かイメージ・トレーニング、もとい妄想はしてきた。そりゃあ彼女の『オゥ! モーレツゥ♡』なボディが、一糸まとわぬ姿で見られるのなら、興奮しないわけがない。
しかし、彼女の通っている高校の校則や、弦巻家の者の何か条があるとかは知ったこっちゃないが、条例というものがあるのだ。淫行がどうとかいうバカげたものだ。
法律でこそ裁かれることはないが、条例に逆らえばそれなりの懲役や罰金なんかもあるだろう。なにより、社会的に死ぬ。こころが私と付き合っていることを軽々しく口外するような人間だとは思っていないが、まあ心配ではある。近所にこころの嬌声が聞こえることだけは避けたい。この家、地味に壁が薄めなんだよな。
というか、まだセックスすると確定したわけではない。『牙狼剣を押し込め!』に過ぎない演出だ。常識的に考えれば、油そばを知らない彼女が、性行為を知っているはずがない。
「そうだな、たまには悪くない」
「……その、なんていうか」
「ん?」
「庵廿郎は、あたしの身体を見て、えっちな気分になってくれるかしら?」
当たり前だ!!! と叫びたかった。見なくてもなるわ。
薄々気づいてはいたが、やはり『そういうこと』の知識も多かれ少なかれ持っていたようだ。誘い方が、映画で見たものとまんまソックリで、現実味を帯びていなかったのもあるが、やはり彼女に対しての印象に左右された。
とても性行為とかに対しては詳しくなさそうな彼女のことだ、親と一緒に入る感覚なのだろう。もはや私が彼女とセックスしたいだけだとも思っていた。
「するさ。好きだから」
「そ、そう! あたしも、なるしっ」
「えっ、それは」
「ちが、違くて! あたしは庵廿郎が好きで、だからぎゅーってしてる時も、お腹のとこがね……」
涙目になりながら弁解する彼女の口に、私の唇を重ねる。彼女は一瞬黙ると、一生懸命キスをし返してくれた。それも驚くことに、あちらから口の中に舌を入れて。
ひたすらに、舌の先で口内をかき回す。不器用だが、必死に、私もやられてばかりでは申し訳ないと、舌を絡ませてみる。
感想としては、ここまで気持ちのいいこととは思わなかった、というものだ。所詮雰囲気を盛り上げるためのレクリエーション程度にしか思っていなかったが、頭の中がとろけるような感覚だ。これだけで満足してしまうほど、気持ちいい。
ずうっと、そのままでいたような気がする。そのうち彼女は、唇を離して、おでこ同士をくっつけた。照れながらも、まっすぐにこちらを見てくれている。
「大人のキス、よ。お風呂で、続きをしましょう」
「……ああ。私、初めてなんだが」
「あたしもよっ」
彼女は、頭をかく私に抱きつき、風呂場方面へ半ば強引に連れて行こうとする。息遣いだって既に乱れているし、顔もすりすりと私の身体に摺り寄せている。
このエピソードに、見る意味なんてのはないだろう。その場で経験した事がすべてであって、他人に見せびらかしたり、アルバムに綺麗に飾ることもない。しかし、もし仮に、このエピソードを何年も先まで覚えていることになるとしたら、やることなんて限られてくる。
お互いの初々しさをほほえましく見守るか、赤面した顔を覆ってその場で転がることぐらいのモンだ。ニンニクの味しかしないディープ・キスを思い出しながら。
弦巻こころは、こんなこと言わないと思います。