揚げた魚の濃い油が口の中に広がる。しっとりとした衣と胡椒が生臭さを消し、抵抗なく胃袋へ落ちた。
あとは鞄を所定の位置まで運ぶだけ。例のものを移動させ、目的を果たせば任務終了。
残したドリンクの最後の一滴を飲み干し、レッサーは見えてきた仕事終わりに思わず笑顔になる。
「おっとっとと、と?」
結んだ黒髪を揺らして彼女はカウンター席から立ち上がるものの、腰の位置より高い椅子にふらついて横に置いていた鞄にぶつかった。
模様のある白とオレンジのトランクケース。ドミノ倒しのように他人の鞄を巻き込んで倒れたそれに拾いあげようと手を伸ばす。
しかし、その手は思わぬ所で止まった。
「あれ?」
そこにあったのは全く同じ鞄。ふたつ重なった同じ鞄にどっと冷や汗が吹き出る。
──どっちがどっちだっけ?
伸ばした手に戸惑う。自分のそばにある方が、自分のモノ。それは現場を見れば誰しもが思うだろう。
だがもし目を離していた隙にパブの酔っぱらいが場所を入れ替えていたら?飲んだくれた野郎は沢山いる。飲んで頭がイカれる野郎もいる。
「っ!こっ、こっちが私のです!おじさんのカバンはそっち……」
「おう、そっかそっか」
そして事実、レッサー側の鞄に手を伸ばす酔っぱらいがいた。重なったふくよかな手に焦り、思わず手を叩き落とすと手元の鞄を抱きしめその場に座り込む。
間一髪で他意のないすり替えを止められたことに酷く安堵した。
「せ、セーフ……うっ?!」
だがそこで気付く。
一人じゃない、二人三人、同じ形、同じ柄、同じサイズの鞄を持つ人がいることを。
「ど、どれが本物?」
誰かに盗まれた?
もうほかの魔術結社にバレてしまったか?
様々な想像がレッサーの頭の中で廻る。廻って、廻って、たどり着いた最適なルートを閃くと、がたんと大きな音を立てて、彼女はカウンターの上へと土足で登る。
「ぜ、全員動くなぁ!!!!!」
依頼人である
「しっかし、まさかアンタが出てくるとはな」
乾いた空気に光る暖かい街灯の下を二人乗りの赤いスポーツカーが止まる。
助手席に座る上条当麻の呑気な声と吐いた白い息に運転する金髪の女性は僅かに口角を上げた。
「まぁ、お姉さんにも色々あってね。ちょっと取引をして今ではイギリスのために腕を奮ってるって、わーけ」
「ッうぎゃ!?」
ふっと上条の耳元に息を吹きかけ、彼女は妖艶に笑う。
右目に被さる長い前髪と綺麗に整えられた金色の巻き毛が印象的な彼女、オリアナ=トムソンは相変わらず露出度の高い服を着てハンドルを握っていた。
赤信号で止まった車は青で進む。
ガソリンの匂いと排気ガスの匂いが鬱陶しいオープンカーのエンジン音が響く。
余程技術に自信があるのか、運転中にも関わらず彼女は横目で上条の隣を走るバイクに目を向けた。
「どっちかというと、お姉さん的には天使くんが一緒にいるほうが不思議なんだけど?」
「ただの仕事だ」
フルヘルメットで厳ついバイクを飛ばす垣根帝督は少し苛立ったようにオリアナの言葉に答える。
彼女はあまり好きではない。
様々な理由はあるが、今はその姿が一番癪に障る。
体つき、髪色、胸の大きさ。腹立たしいあの女にどことなく似ているオリアナの姿は正直今の彼には毒だった。
「あら、てっきりあの初々しい子にフラれちゃったのかと。それで旅に出た、みたいな?」
「フラれるもなにも、そういう関係性じゃねぇよ」
「なに、まだシてないの?あんな元気で一途な子、滅多にいないから早く手をつけておいた方がいいのに」
この手の話題を振ってくるデリカシーと恥のなさも嫌いだ。
「ブッ、なっ、オリアナさん?学生にしていい話題ではありませんよ?」
「そう?ああいう子って、一度男を知るとそっちに流されちゃうと思うけど。誠実な子ほどそういうのに弱いから」
「……アイツが俺を嫌うわけねぇだろ」
思いがけない質問にヘルメットで隠れた表情が曇る。
想像もしたくないもしもの話など聞きたくない。けれど一度問題を定義されるとそれに答えを出したがるのが頭脳派(天才)というもの。
考えたくないのに考えてしまう。裸とか、凹凸とか。男とか、女とか。
生々しい想像に小さく嘔吐く。
ようやく吐き出した言葉ですら気持ち悪かった。
「人の感情は変わりやすいんだから。他の素敵な人が彼女にアタックしたらすぐに鞍替えされるかもね?この人だけは私を認めてくれるって」
「アイツがそんな不誠実なことするわけ……」
「でも付き合ってないんでしょ?不誠実も何も無いんじゃない?」
ハンドルグリップを握る力が強まる。オリアナの言葉に心がどこかブレーキを踏みたがっていた。
腹立たしいとしか思えない。何か反論しよう、声を出そう、だが何を言えばいいか分からず言葉に詰まる。
「あら、焦ってる?」
「ちが──」
『──リージェント・ストリートにて所属不明の魔術師が逃走中!繰り返す、リージェント・ストリートにて──』
反論を口にしようと口を開いたと同時に、誰かの声がが大きく響く。魔術が無線か区別がつかないその切羽詰まった声にアクセルを深く踏む。
苛立ちをスピードに乗せて、赤い車と並走しながらターンを決めた。
「お馬鹿さんが尻尾を出したようね」
「うわぁ!!!」
u字に曲がり、あげたスピードで体が揺れる。たくさんのトランクを持って遠くの横断歩道を渡る少女の姿に、自然と視線が向いた。
「なんだ、ありゃ?」
「あからさまに怪しさ爆発!」
何個も同じ外見のトランクを持ち、一つづつ焦った表情をしながら捨てていく。不思議な行動を繰り返す指名手配の少女に、車を止めてオリアナは小さな紙を投げつけて眉を釣りあげ笑った。
「まずは人払い、そしてもうひとつ」
突如無くなった人混みと生活音。静かになった華やかなイギリスの道で轟く爆発音が膨らみ破裂する。
車を通り過ぎ、街に敷き詰められた石畳を走る黒髪の少女の前で火花が散った。
「ちょっとやりすぎじゃねぇのか?」
「いいえ、むしろマズそうよ!」
爆発の衝撃で少し揺れた車体からオリアナは勢いよく飛び出す。
熱風が吹き荒れた道の真ん中で運転手に捨てられたスポーツカー。その隣にバイクを止めてヘルメットに手を伸ばす。息苦しい被り物なんて本当は必要なかった。
「文句は、ないですよね!!」
知らない少女の声が轟く。
知らないは少し違うかもしれない。知識として知っている声だった。
そしてその声が彼らを襲うことも、何を目的としているかも知っていた。
「痛てぇな、そしてムカついた」
「ッッ!!?」
金属でできた槍──知識によれば霊装『鋼の手袋』──を垣根の頭上で振りかぶる。大きく跳んだ彼女の重力で勢いを増すその槍は、真っ直ぐ垣根を狙う。
だが傷がついたのは相手だった。
短く編まれた長い黒髪の先端が二つ揺れる。赤いカチューシャとラクロスのユニフォームような服が目を引く少女は衝撃に軽い体を吹き飛ばされ、数メートル先に慌てて着地する。
今回の
「降参か死か。選べクソガキ」
ヘルメットを投げ捨て、広げた十四の翼を背に赤いスポーツカーの上に降り立つ。
頭上に光る四角い光輪と、オレンジの街灯が神々しく彼を照らした。
絵画に描かれる美しき天使。実態を持った神の御使いがそこに存在した。
「なっ、て、天使ぃぃぃ!!???」
「あら?翼増えたのね」
「相変わらずかっけーな。ラスボス感はんぱねぇ」
驚きと感嘆の声が上がる。透き通る白い翼から零れる光が下で見上げる少女達の顔を鮮明に照らした。
「無理無理無理!!!洒落にならないって!!」
「逃げんのかよ、つまんねぇな」
「ッッは!!?」
手を振りあげ、投げ飛ばした槍を持って逃げる少女に舌打ちを打つ。
目を見開いてうろちょろと逃げ出す鼠の姿が気に食わない。
容赦などなかった。
積もり積もった苛立ちが静かに溢れ出す。手を緩めることなどしない。邪魔者は全て殺す。邪魔をしなければ手はかけない。
それが自分の美学。彼女に嫌がられるくだらない美学。
チンピラだと侮辱されるくだらない優しさ。
「ガッハッッ!?なに、をっ???!!」
「テメェに種明かすわけねぇだろ」
「ぅがッ!!」
地面に降り、地面に伏す少女の腹を艶のある革靴で蹴り飛ばす。槍から手を離して咳き込む子供に罪悪感など感じなかった。
「お、おい……やりすぎじゃねぇの?」
「テメェが優しすぎるだけだろ」
腹を抱えて横たわる少女の顔面を持ち上げるようにつま先で強く蹴ると、仰け反った少女の左腕に体重をかけて踏み潰す。
少し慌てたように上条が駆け寄るも、足にかける体重は同じまま。
「ッッぁぐ……」
「頼むぜお嬢さん、テメェを殺して国際問題に発展させたくねぇんだ。何をしてたか、教えてくれるよな?」
「あ、なた、たちに、教えるはず、ない、でしょ」
呻き声が聞こえる薄ら寒い夜、胃液を吐く足元の少女が呟いた生意気な声が誰もいない道に反響する。
強い意志を宿した
あの天使を嘯く悪魔と同じ、星が瞬く眩しい瞳。その言葉に息を吐いて、つま先に力を入れた。
全貌が分かってしまった。求める女がどこにいるのかも、すべて。
「……あぁ、そう。それは残念だ」
「っふぎぃ、ぁッッ!!!」
「垣根!それ以上は死んじまう!」
悲痛な叫びと骨の折れる音。醜い音は現実味がなく、淡々と目の前のものを処理しようとしていた。
興味もない。どれほどの痛みだろうと、心の中で渦巻く苛立ちを止めるほどのものではなかった。
「だから?」
「だ、だから、って……限度があるだろ!」
上条の言葉に顔を上げる。足の力を緩めることなく、ただ冷めた目でヒーローの姿を見ていた。
黒い目玉に映る主役の腹立たしい顔が癪に障る。
もう感情に蓋をすることはできなかった。
「人のこと上から目線で殴ってるテメェが何言ってんだ?」
「あ、え……?」
「人を殴ることも、殺すことも大して変わらねぇよ。同じ傷害。殺人罪になるか殺人未遂になるかの
止まらない憎悪に歯止めが効かない。
「なぁ、何言ってんだよ!それじゃまるでお前が人を──」
「悲劇を体験した人間の末路がどんなものなのか分からないほど、テメェはどうしようもないウブな男なのか?」
ブレーキ役がいないこの場で、ヘドロのような感情が溢れ出してしょうがなかった。
「テメェの仲間って言ってる奴ら、必要悪の教会に、天草式、イタリアのシスター共。そいつらと一緒だ。悪いやつがいて、悪いやつに殺せと命令される。そういう世界で生きてきた、だからこのクソガキも殺す寸前まで追い詰めて情報を吐かせる。テメェだって他人の築いた死体の上を歩いてるくせに、見たことない被害者には目を瞑って、目の前の被害者には手を差し伸べんのか」
ズボンのポケットに入れた手を固く握る。酷く寂しそうな、辛そうな友人の顔が長い髪の隙間から微かに見えた。
羨ましい。善人としてカテゴライズされて、お姫様がいて、誰かを救えて、幸せで、酷い世界も、人の死体も見たことがない彼が。
──俺だって
「そんなに正義を語りてェなら紛争地帯にでも行けよ偽善者。いつもいつもお花畑みてぇな説教掲げて、鬱陶しい」
「偽善……」
「ストップ、今は喧嘩してる場合じゃ──」
「はっ、勝手にやってろ。俺は興味もクソもねぇよ」
翼を大きく広げて空に舞う。腕を解放されすぐに逃げるレッサーとあたふたする上条たちを見下ろして、そのまま月に近づき藍色の空気に白い息を吐いた
「どいつもこいつも、イラつかせやがって」
小さく舌打ちを打ってイギリスの空を飛ぶ。やっと分かったあの子のところへ、全てを投げ打って向かう。
憎悪や不満や怒りが収まらぬ心中、嫌な予感に苛まれながら冷たい秋の風に体を預けた。
垣根くんは今日も不機嫌です。何なら精神が病んでます。
天羽さんも天羽さんで別のところで病んでます。
二人が離れると病みます。何でや。