とある科学の肉体支配   作:てふてふちょーちょ

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梅雨の季節は垣根の季節だったのか……?


127話:新生

揺らぐ水面の輝きに瞼が開く。肌に纒わり付く服の気持ち悪さと、水のぬるさに眠気が飛んだ。

体を抱く揺り籠のような居心地だというのに、横たわる体は凄まじい拒絶反応を示し、どこか薄気味悪い。

 

「……あたしは、いつの間に家に帰っていたのかしら?」

 

視界に広がるのは自宅の浴槽。足を三角に折りたたんで横たわる体に温い水が押し寄せ、体に服が張り付いた。

散らばった長い金髪が透明な湯を金色に染めて、少し眩しい。

 

いつぞやに着た水色のワンピースと白いエプロンを着込んだまま、ぬるい水に浸かる自分の姿が対面の鏡に映る。不思議の国のアリスのようなワンピースは、この大きな体に似合っていない。

ぼんやりとした思考が、曇っていく鏡とは対照的にゆっくりと鮮明になっていった。

 

先ほどまでイギリスにいた。そして50がロシアまで連れてきたはず。

だというのに座る浴槽は日本の、自宅のバスルームで、記憶と考えていたルートが違う。

本来は弱小国の聖女様に体を()()()もらい、意識を戻す手はずだった。けれど彼女がいるのは自宅。

しかし不思議と現実感のない景色に違和感を覚えることはなく、自然と立ち上がって脱衣所へと赴く。

 

ここがどこだか分かっていた。誰がいるのか分かっていた。

 

「まさか、風呂場で逢瀬とは思わなかったんだけど、なんか言い訳とかあんの?神様」

 

濡れた体から滴る不愉快な水に苛立ちを覚えながらシンプルな洗面所の前に立つ。膝丈のワンピースが足に纏わり付いて、徐々に体温を奪っていく。

 

胸元まで写す鏡の前、立ち尽くす。そこに居たのは自分によく似た他人だった。

その中で映る見知った顔に酷く苛立って、ただでさえ増幅していく不快感がさらに湧き上がる。鏡越しの再会なんて望んでいなかった。

 

「ここは汝の記憶に一番残ってる場所。それらしい理由も他にあるがな」

 

鏡で微笑むのは大人だった彼女。腰までの金髪と、大きな胸、大人しい化粧。捨ててしまった自分自身。

どこもかしこも昔見ていた自分。けれど、優しく微笑む彼女が身に纏うデコルテの空いた細身の白いドレスは全く見覚えがない。

それがあったかもしれない未来の姿(ウェディングドレス)なのか、過去に着せられた姿(西洋らしい死装束)なのかは、あまり考えたくなかった。

 

「……それで?今回は何の御用?黄泉に連れてくにはまだ早いと思うんだけど」

 

「神の御使いを求める男に強引に接続されたようだ。我の意思ではない」

 

顔に張り付いた金髪を掻きあげて睨みつけると、それは自分より大人びた顔で寂しそうに笑う。同じ顔の、違う表情。

顔も、仕草も、声も同じなのに、吐き出す言葉も、見せる表情は全く違う。

唯一違う瞳の色は真っ黒で、内に銀河のような光を持っていた。

 

「は?接続?」

 

「男が願った。天使を呼ぶことを。そして汝の身体がその贄に使われた。それだけの事だ」

 

「あぁ……フィアンマだっけ、なんでそうなったのか知らないけど、50へのオーダーは達成されなかったのね」

 

どうやら再びこの世界に呼ばれた理由は、彼女が意図しないところで起きたイベントによるものらしい。

どんな因果関係があるのかはさっぱりだったが、神が愛する彼女に、こんなくだらないことで嘘をつくとも思えず、信じる他ない。

 

興醒めだ。最悪だ。

 

結局何も成し遂げられない。

望んだ未来は手に入らず、空回り。願いなど叶うわけなく、ただ冷たい水の中で死んでいく。

いったい何回死ねば許されるのだろうか。

自分のための地獄で、すり減った精神は許しを乞いていた。

 

「結局、神様に愛されてようがなんだろうが、あたしはなんも出来やしない。意味のないモブ、どうしたって覆らない」

 

「……少し、誤解をしているようだな、美しきベアトリーチェ」

 

ぽつり、小さく呟くと神は目を伏せる。その仕草がどうにも上から目線で、見下すようで、馬鹿にしているかのようで、たまらなく腹立たしい。

神だというのに、恋する女のように我儘で、面倒で、ムカつく言動を続けるそれが大嫌いだった。

 

「誤解?このおぞましい寵愛も、ふざけたお遊びも、全部きちんと分かってる。くだんないアダ名で呼んで、馬鹿にして。分かってないのはそっちだろうが!!」

 

耳障りな声に洗面台を思わず両手で叩く。強くへりを握りしめると簡単にひびが入って、今にも砕けそう。

腹立たしい感情の行き場はどこにもない。

物に当たることでしか、この言葉にできない苛立ちを幼い精神は処理できなかった。

 

「くだらないアダ名とは心外な。だから理解していないと言われるのだよ」

 

「じゃああたしがヒロインとでも言いてぇのか分からず屋!何もできない人間をとっ捕まえて、こんな地獄に押し込めて!箱庭の中で一人咽び泣くあたしをっ、幸福な女だと思うのか!!」

 

叫び、腕を大きく上げる。振り下ろした拳は腹立たしい神が映る鏡に勢い良くぶつかり、蜘蛛の巣のような亀裂を入れた。

拳についた鏡の破片が気持ち悪い。衝動が抑えられない。凄まじい怒りや吐き気が体を支配し、感情で体が動く。

大嫌いな自分の姿に、現状も相まって精神がひどく乱れていた。

 

「思うさ。この世でただ一人、神が愛する人間なのだから」

 

上がった息で白く曇る鏡が、じわじわと透き通っていく。

 

「少し前、汝は自らを白の騎士と、ウェルギリウスと例えたな」

 

曇りが晴れる鏡の奥で神は何匹もの青い蝶を侍らせ寂しそうに口角を下げる。

神の機嫌はあまり良くない。部屋の空気が急激に下がり、鼓膜の中で嫌な耳鳴りが響いて心臓の動きが早まった。

神の恐怖。恐るべき存在だと、ふと思い出す。

 

「それは違うのだよ、乙女。私の愛する女はそんなものではない」

 

「あ……?」

 

「汝は幼きアリス、愛しきベアトリーチェ。(コッペリウス)が作りし、愛する女の化身(コッペリア)なのだよ」

 

ため息交じりに神は呟く。意味の分からない言葉の羅列に一瞬思考が飛ぶ。

一体何を言っているんだろうか。

大昔の覚えてもいない何気無い台詞を引っ張り出して、神は何が言いたいのか。アリスとベアトリーチェなんて年代も作風も違う作品に当てはめて、何を伝えたい、何を考えている。

全く分からない神の言葉に、意外にも冷静に耳を傾けた。

 

「汝がコッペリアならば神とはコッペリウス。理論を凌駕し、次元を超えた恋の話。不思議の国のアリスも、神曲も、概念は同じだろう?」

 

「……何が言いたいの?」

 

「察しの悪い乙女だ、こんなにも熱い愛の告白だと言うのに」

 

「一体どういう──」

 

「これは神が与えた()()()()。どんな都合も、どんな辻褄も噛み合う、愛する少女に与えた永遠に続く劇。分からないか?汝が神に全てを与えられたことに」

 

理解のできない言葉の数々に脳の処理が滞る。神の言葉を止めたくて声を荒げるが、発言権は奪われた。

少女の言葉を遮って、鏡から細い腕が伸び、濡れた頬を掴まれた。鏡を通る、神の手。頬を触る自分と同じ細い手。

神の世界と自分だけの現実が重なる。侵食し、反転する世界で、神の瞳と目が合った。

 

「汝はルイス=キャロルの愛したアリス=リデル、ダンテ=アリギエーリの愛したベアトリーチェ=ポルティナーリ。虚像と現実を繋ぐ人。夢の支配者(アザトース)と称すべき、次元の境目にいる者だ」

 

宇宙の輝きを内包する真っ黒な瞳と目が合った。

自分の瞳とは違う異質さ、おぞましさ。

星よりも大きな宇宙の煌めきが、体を強ばらせる。感覚で分かってしまう偉大なる神の存在感に気圧されて、怖かった。

 

「ここは汝のために作られた世界。物語に落とし込まれた本物。神が与えた愛に溢れる贈り物」

 

同時に悟る。

自分は、これと同じだと。

内に秘める恐怖は、従属としての感情。下位個体としての怯え。

 

「不思議の国のドードーも、鏡の国の白の騎士も、天国に導かれるダンテも、すべて違う。この世界の理由そのもの、物語に閉じ込められた神の愛する永遠の乙女である」

 

ここにいるのは二人の神様。

創造神と、その愛を一身に受けた神の片割れ。

神の独り善がりな片想いで、人間は神様になってしまった。

()()を司る神様が作った、異界のひとつを貰い受けた幼い神様。

この異世界ではそう定義される。

 

世界を夢見る魔皇、外側(メタ)を超越する永遠(キャラクター)、世界を掻き乱す幼きアリス、本物(ダンテ)虚像(天国)を繋ぐベアトリーチェ。

 

決して、ただの愛称じゃない。

神が紡ぐ言葉は真。

ベアトリーチェとは概念、アリスとは象徴。

 

生きた人間が、虚像の世界を贈られたフィクションの代表格。

彼女と同じ。同じ存在。

 

「愚かな神の恋を叶えてくれ、私のアリス=リデル、私のベアトリーチェ。与えた世界で幸せになれ、それが世界の願いだ」

 

涙と冷や汗と脂が混じる。唇は氷のように冷たく、動かない。

齢十六のか弱い乙女にのしかかる。神としての責任、支配者の義務、願いの末路。

 

「汝に、幸福が訪れんことを」

 

影が重なった。

触れた唇、心音と温かさ。そのおぞましさを忘れることは無い。

彼女たちは、間違いなく同じ存在の、同じ神様だった。

 

「行け。その扉の先で、彼は汝を救うのを待っている。天使が降りたあの日と同じように、その腕を引き上げるのを」

 

恋する数学者は、恋した少女に夢ある物語を与えた。

恋する哲学者は、愛する女性に天の称号を与えた。

そして恋する神は、麗しき乙女に世界を与えた。

 

なんてことない愛だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞼を柔らかく照らす光に意識が覚醒する。厳かな祭壇で、少女が目を開いた。

どろどろと溶けていく真っ白な右腕と両足。片足の中から見える剣と、光を反射する長い金髪の輝きが、夢で見た水面の煌めきを呼び起こす。

 

神の言葉は酷く不愉快だった。

 

殺され、愛され、神にされ。

一方的な愛情に押し潰されて、精神は疲弊して、疲れてしまった。

 

「……こんな夢、早く醒めてしまいたい」

 

四肢の代わりとなっていたパーツがどろどろと溶けていく。

本物の体を生み出して、服も、髪も、全て彼女の思い通り。

無から有を生み出し、一を十にして、彼女は完璧となる。

 

そこに居たのは少女でも、乙女でもない、一人の神様だった。

 

 

 

かつんと、金属が石のタイルを蹴る。剣を手に、少女が立ち上がった。

白い服と四肢(パーツ)はバレリーナのような衣装に。

長い金髪は高くふたつに結ばれて、大きな窓から流れる風に揺れる。

 

アリスならば、ポーンはクイーンに成り、盤上の最後で夢から醒める。

早く、この夢から醒めたかった。

 

鮮やかな白の瞳で、巨大な神様は空を見つめる。

最後、もう一度だけでも彼に会いたかったと、寂しい願いを込めて。

 

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