黄金の空の下で二人の男女の視線が交わる。少女の白い瞳と場違いな甘い香りが心臓を圧縮し、心拍数が跳ね上がる。恐ろしいほど背の高い少女の姿に恐怖が、恐ろしさが増す。
青年、フィアンマの頬に汗がつたい、わけがわからないほど体温が上がっていった。
「悩みか。お前が目の前にいることが悩みと言えるな」
「恋い焦がれた神様を前にして、言うセリフがそれ?」
煙の奥で笑う少女を鬱陶しく見つめると、彼女は愉しげに薄く笑った。丸い瞳が四角に変わって、淡く光る。
テレビ画面みたく光る白い瞳は満月のようで、少しノイズが走っていた。
「プロジェクト=ベツレヘムはまだ完成していない。お前のようなハリボテに構っている暇などないのだよ」
「だがそのハリボテをここで殺さなければ、アナタは
口に手を当て上品に笑う彼女は、まるで全てを知っているかのような口ぶりをして目を細める。
本当に自らを神と思っているのだろうか。確かに少女の言う通り、その衣装に随所に神のモチーフが取り込まれている。だが様々な象徴が入り混じっているその姿は本物とは程遠い。偶像の理論すら適合しない偽物。
ただの偽物。贋作。本物とは程遠い存在。
だと言うのに、少女の姿に心臓の鼓動が増し、体で感じる神如き威圧感に背筋が冷える。
彼女の紡ぐ言葉の一つ一つが氷のように冷ややかで、全てを見透かすような禍々しく光る白い瞳には得体の知れないおぞましさがあった。
「……藍花悦、だったか。素体にされただけの部外者に何ができる?」
「なんでもできる。この小説に書かれたことならば、すべて」
「小説……?」
真っ直ぐ前を見つめる少女の視線が纏わりつく。少女が口にする意味の分からない言葉の羅列と、自信溢れる姿が意味もなく怖い。
少女の姿を直視するだけで嫌な感情が湧き上がり、憎悪が増す。まるで本能が彼女を嫌っているようで、感情が彼女を恐れているようで、何もかもが意味不明で、名状し難い。
「アナタには到底わからない異次元の話。理解なんてできない代物よ」
「……そうか。別に興味もないが」
不快感から早く抜け出したい。再び巨大な右手を掲げ、光の束を重ねて巨大な熱量を一本の線のように発射する。
格下の相手には勿体無いほど強火な光線は、凄まじい熱を撒き散らし、一直線に少女に向かって放たれた。
確実に死ぬ。
誰にでも分かる事実に近い予想。
しかし安易な予想はいとも容易く覆される。
「無粋な力を使ってまで、世界をやり直したい?」
彼女は右手で掻き消した。熱は霧のように分散し、光が屈折する。
ただ右手を突き出すだけで、右手が空気に触れるだけで、少女が柔らかく微笑むだけで、人を溶かす光線が跡形もなく砕け散って、消え失せた。
彼が求めているものと全く同じ力だった。
世界を否定する力、神を拒絶する力。
「……
その力の名を小さく呟く。
目が見開いて、唇が乾いて痛い。信じられない、信じたくない光景に少し目眩がした。
「なんだと思う?」
「その腕、奪ってから考えよう」
フィアンマの持つ奇跡の右腕は試練や困難のレベルに合わせて出力を最適化する。ゲームで例えるなら、どんなにレベル差があっても必ずオーバーキルできる最強の呪文、倒すというコマンドそのもののようなもの。
そんな最強の名を我が物にする右腕ですら、彼女に対してどのように出力すべきか迷っていた。
正確には、適切な出力はされている。しかし、それを上回る予想外の力が攻撃のたびに加わり、右腕が行う計算に誤差を生じさせるのだ。
だから彼には彼女の恐ろしさがよく分かっていた。
勝てるか否か、ギリギリのライン。感じたこともない感情がじわじわと脳を侵食し、手に汗を握る。
「神より
「ほざいてろ、神を名乗る不浄の女が」
光線で後ろの地面へ一瞬で移動し、近かった彼女との距離を伸ばす。崩れた地面を挟んで、安全地帯からもう一度大きな右腕を掲げた。
左手に持つ遠隔霊装がかちかちと音を立て、遠い異国で眠る
「警告、第二二章第一節、命名、
空間が赤黒く裂け、彼の前に浮かぶ二つの魔法陣の間から七秒もしないうちに青白い光の柱を放つ。
魔術の叡智を詰め込んだ一線の光が、自称神様の不埒な少女へぶつかった。
神を殺す光の力が少女を照らす。
偽物の神様と、偽物の
不安はあった。しかし、道は切り開かれると信じていた。
神を名乗るくだらない虚像など、取るに足らないと思っていた。
「
「──ッ!?消、ッッ!!?」
魔法陣とフィアンマの体のごく僅かな隙間、体が少しだけ触れ合った。瞬きもできない一瞬の世界で彼女は間合いを詰める。
キスをされてしまいそうなほど、近かった。
「
「ッ!警告、第二十九章第三十三節。『ペクスヂャルヴァの深紅石』───発動開始」
荘厳な瞳に飲み込まれる前に我に返り、再度後ろに跳んで距離を取る。甘い香りが鼻に纏わり付いて、酷く不快で、クラクラしてしまう。
叫ぶように呪文を唱えて、巨大な右手を振るった。七秒ほどで完成した魔術が少女の足を覆い、魔法陣が光る。
足を封じる魔術。地面が割れるように赤い線が少女の足元を走り、足を膝まで縛り付けた。
見えない力が這い上がるように体内へ沈み、骨の関節を無理やり引き裂くような激痛が襲う、とても単純明快な攻撃。痛みに悶え死ぬ少女の姿は安易に想像できた。
尋常じゃない痛み、燃え尽きるような熱さ。足を縛る痛みが少女を攻めるというのに。
なぜか少女は涼しい顔をしていた。
「警告、第三十五章第十八節。『硫黄の雨は大地を焼く』───発動開始」
場違いなほど涼しく優しい笑顔に酷い恐怖が押し寄せる。背中を這う蛇のようなおぞましき恐怖に喉が痛み、新たに呪文を口にした。
別の魔術を呟いて、立ったまま動かない少女に向けて新たな攻撃を仕掛ける。完全発動まで五秒。
動かない的に当てるのは簡単だった。空に何十本ものほどの熱量を持った灼熱の矢が、少女の頭上に降り注ぐ。
地面に無数の傷をつけて、少女の頭上に降ると爆煙があたりを隠した。
「これがキミの全力?」
しかし涼しい風が少女の周りから生まれ、煙を散らし、視界が晴れる。
傲慢に笑う少女が恐ろしい。まるで本当に神様だと言っているようで、その証拠を提示しているようで、本能が少女を恐れていた。
「……本当に自分を神だと思ってるのか、愚か者。仮に本当に神だというのなら、この歪で歪んだ世界をなぜ正さない?」
「正す?アナタはこの世界が歪んでいると思うの?」
「あぁ思うさ。資源の残量、民族の対立、宗教の差異、食料の不足、国家の闘争、環境の破壊。神様とやらが全て正しく回るように歯車を配したはずなのに、どうしてここまで歪んでしまう?答えは簡単だ、歯車のいくつかがすでに限界に達しているからだ」
その根拠ない傲慢に乗ってみたくなった。
苦虫を噛み潰したような顔と馬鹿にした嘲笑を向けて、神を名乗る子供に問いかける。哲学的で、馬鹿馬鹿しくて、質問ばかりする幼い子供のような、答えのないずるい問いを。
「だからそれを元に戻す。必要に応じて機構を変え、歯車を交換し、汚れを払い、その後改めて十字教という潤滑油を差して元の軽快な動きを取り戻す。絶望的な実力差を思い知れば分かる。従いさえすれば、俺様が世界中の人間を救う瞬間を見れるということに」
「……キミはメシアになりたいのね。世界中の皆を救って、アナタ好みの
フィアンマの吐き出した傲慢を、夢見がちで批判の多い答えを、掬うように、花を愛でるように少女は優しく寄り添う。
神の慈愛を見せる彼女の表情は、場違いにも思えるほど優しげで儚げだった。
「その感情は理解できる。どうにもならない死を目の前に、誰か一人の世界を守り抜きたいと誓ったあたしと、とても良く似ている──けれど少し勘違いをしているみたい」
時計の針のような足が地面を叩く。人間のものではない異質な脚がどこか艶かしくて気持ち悪い。
人を見下す優しい瞳は狂気に満ちていた。
「支配者はあたしだ。救済を与えるのは汝ではない。烏滸がましい考えは捨てた方がいい」
「……傲慢だな。やはり偽物か」
吐き気を覚える声色で現実に戻される。矛盾する感情に反吐が出そうで、気味が悪くてしょうがない。
神などただの戯言だ。目の前にいるのは悪魔か、怪物。
憎悪を形にした名状し難き混沌。
神は少女の形をしていない。神は狂気を知らない。
彼女は神様じゃない。
巨大な右手で押し潰して、焼き殺して、細切れにしなくては気が済まなかった。
出力を上げても上げてもキリがないのは分かっている。きっと、この悪魔には勝てないとも分かっている。
それでも神を騙る子供を殺すため、彼は奇跡を起こす右手を振るう。
「な、んだ……?」
だが右手は制御を失った。
指先が、手首が、可動の仕方を忘れ、誰かに手を握られているかのように、動きを止めた。奪われた、目の前の少女に。
自分を特別にする神の右手は、神によく似たただの少女に支配権を奪われ、ただのガラクタに成り下がる。
まるで現実で干渉できない
信じたくない現実に、言葉が出なかった。
「なんなんだ、お前は……」
「神様。アナタを救う、舞台上の神様」
理論的でない。説明ができない。認識ができない。この世界の概念を覆す理解不能な力。
神とは違う、文字通り次元の
もしも、もしもこの世界からも観測できない位相があったら、それは彼女と似ているのかもしれない。
誰も理解せず、誰も観測せず、膨大な力だけ持って神と誤解し、人を蹂躙する。
客星。未知からの来訪者。
分からないことが分かる、無知の知。それほど複雑で異様な女だった。
「はっ……?」
「みんな幸せにしたいんだ?フィアンマくんは優しいね、いい子だね、大好きだよ」
母が子供を諭すように、彼女は柔らかい手つきでフィアンマの頬を撫でる。その場違いな優しさが異質な雰囲気の中際立って吐き気が止まらない。
全てを包む異常な優しさと、彼を見る虚ろな目がころころと形を変えていくのが堪らなく怖かった。
「でもね、世界をニュースサイトのまとめ程度でしか認識できていないキミにはこの世界は救えない。愛情を知らないアナタが、愛を振りまくことはできない。世界の広さを知らないアンタには、世界を救うことなんてできない」
彼女には全て分かっているようだった。太陽のような輝きを宿した瞳で見つめて優しく微笑む彼女の姿に嫌な汗が吹き出る。
ベツレヘムの星がなぜ巨大なのか。なぜ世界大戦なんか引き起こしたのか。
本当に最強なら世界中の教会、聖堂のパーツは必要なく、世界中の敵として戦争を引き起こす必要はない。
これらは保険だった。
敵の力によって自分のパラメータが変わる。つまり、敵が強ければ強いほど強引に力が引き出される。
最強になるための保険。
心の奥底。本人すら認知できない深層心理で彼は怯えていた。本当に自分の体の中に世界を救う力があるかわからないから。
「終わってもいない世界を救う前に、まずはアナタから救ってあげましょう」
少し屈んで、彼女は右頬に唇を当てた。甘い香りがぶわっと一気に脳まで駆け巡り、思考に甘い痺れを残す。
聖なる口づけ。神の祝福。
寂しそうに笑って目を細める彼女の姿に
「お前は、一体」
「……さぁ、なんだろうね」
遠隔霊装と接続が切れて、体も何もかも地面へ倒れて落ちてしまう。
魔法のように抗えない睡魔で混濁していく意識の中、少女の香りが脳裏にこびりつく。
とても甘酸っぱい、ラズベリーによく似た香りだった。
「そろそろか」
白い雪景色の中、筋骨隆々な男が手元の紙を眺めながら呟いた。細菌兵器やらなんやら、物騒な話題が書かれたその紙の切れ端、丁寧な英文で書かれた少女の字に彼はため息を吐く。
『元凶を向かわせる、上司の子守を頼む』
短い文章で書かれた天使から最後の依頼。後方のアックアに頼むには随分荷が重い。けれど彼女の知る適任は彼だけ。
知識のない理想論を語る青年の到着を待ちながら、アックアは黄金の空で浮かぶ星を眺めていた。
そしてその光景を見て、重い腰をあげるものがいた。
「流石に、見過ごすわけにはいかなくなったな」
琥珀色の液体の中で男は呟く。異次元の神を前にして、彼はゆっくりと目を開いた。