心地よい微睡みから暖かい温度で覚醒する。柔らかな毛布と、頭を沈めた枕の甘い花の香りが鼻を掠めて眠気を飛ばす。
爽やかで、暖かくて、気持ちの良い目覚めだった。
「……ぬくい」
暖かい布団の中で、まだ焦点が定まらない目をこする。昨晩の熱を帯びたまま狭いベッドの上で身じろぐと、人の気配がないことに気がついた。
確かにそこに大人の女が寝ていたはずなのに、その熱も香りもない。
少し戸惑いつつも、借りたスウェットのシワを少し伸ばして部屋を出る。突き当り、狭い階段を降りて、昨夜騒いだリビングへと向かう。
裸足の裏から感じる朝の冷えたフローリングは、どこか気持ちよかった。
「あ、おはよう。早起きだね」
朝六時。
羽織が欲しくなる寒い朝、暖かい光の向こう、彼女がいた。
ふんわりと香る味噌汁と、炊いた米のほんのりとした湯気、キッチンから溢れる包丁とフライパンの音楽。
おとぎ話のような世界で、彼女は一人、ひまわり色のエプロンを着てそこにいた。
「……おはようさん、そう言うお前こそ早くねーか?」
「ご飯作るからね、早めに起きた方が都合いいのよ」
額縁から現れたような姿の彼女は、母のような優しい微笑みを携えて垣根をまっすぐ見つめる。
キラキラしたヘーゼルの瞳。
その瞳はどこか人形のようだった。
「じゃあ垣根くん起きたし、ご飯食べたら行こっか」
「どこに?」
丁寧に野菜を切りながら、彼女は嬉しそうに目尻を下げる。
「ショッピング!」
酷く嬉しそうな声で、酷く楽しそうな瞳で、緩めた口元がにっこりと弧を描く。
その笑みに、寒さなど吹き飛んで、どこかへ行ってしまった。
彗糸の少し危なっかしい運転で走る車に揺られ、連れてこられたのはたくさんのビルが並ぶ中心街。
人混みは尋常ではなく、クリスマスの次の日だというのに人は溢れるのかと思うほど多い。
「ここが噂に聞く渋谷か」
「行ったことないんだもんね」
連れてこられたのは渋谷。
東京都渋谷区。オシャレの中心地と遙昔に聞いた覚えのある外の世界は。案外暗くて、清潔感はなかった。
「清掃ロボット、居ないんだな」
「技術的にはあるけど、普及するのはもっと先じゃない?」
曇り空に馴染む薄暗いビル街を見上げて、小さく息を吐く。
見慣れないブランドの看板。見覚えのない飲料水の広告。知らないバンドの曲。
この薄暗い世界が突きつける。
ここが、本当に知らない世界だということを。
「しかしわざわざ遠出してきた意味あんのか?」
「地元だと知り合いに出くわしそうだったから」
「なるほど。あ、おい、先いくなよ」
「え、なんで?」
ぼうっと空を眺めていると、金髪が動く。高い背にヒールを履いたいけ好かない女は垣根をおいて、手元のスマホに映った地図片手に目的地まで進む。垣根よりも高くなった目線は、手元を見たまま、声をかけるまで合わなかった。
「迷子になるだろ、お前が」
「えっ!?なんないよ!」
「こっちはテメェの妹に見張ってるよう言われてんだよ」
先に歩き出した彼女の腕を掴んで、制止する。画面上の地図とにらめっこしていた彼女のきょとんとした顔に呆れて盛大にため息をつくと、朝の記憶を思い出してしまい遣る瀬無い。
ナビが示す方向と逆に歩く彼女のことは、妹から聞いていた。
それは今朝のこと。朝食を済ませ、姉の方から借りた無難な服を着たあとのこと。
『どっか行くの?』
金髪の小柄少女が玄関に向かう垣根の足を止め、首をかしげる。姉と良く似た顔の妹は車椅子のタイヤから手を離して興味津々と言わんばかりに垣根を見つめていた。
姉と良く似た、明るい顔だった。
『渋谷って姉は言ってたぞ』
『あぁ、なるなる。そりゃいつものホスト服着れないよねぇ、コスプレになるし』
『うっせぇな。つかお前はいかねぇのか?』
借りた女物の黒いセーター、そしてもともと履いていたスラックスとシャツを着て出かける準備する垣根とは対象に、妹はパジャマのまま座っていた。
どう見ても出かける様相ではない。
『クリスマス過ぎたと言え冬休みですから、人混み多いと進みづらいんすよコイツは』
『……悪いななんか』
だが案外理由は近くにあった。
それは彼女の足。
症状やら病名などは聞いていないが、四六時中車椅子で移動する妹を昨晩から見続けていたため、足が動かないという客観的事実は分かっている。
だというのに頭は回らなかった。
学園都市と医療や技術に差があるこの世界では、車椅子は非常に不便に違いない。
『生まれつきですから、謝られてもねぇ?普通に生きれるし、なんくるないさーだよ、ていとくん』
『ていとくんって誰のことだ』
『冷蔵庫って呼ぶのはさすがに失礼かなって……』
『どっちも失礼だろコラ』
だが悲観そうな顔一つせず、あっけらかんと彼女は笑う。垣根をからかうことを忘れずに。
妹気質が強すぎる彼女は、不便さなんて気にしてないと言わんばかりに楽しそうだった。
『あ、そうだ。ていとくんお姉ちゃんから目離さないでね、あの人方向音痴だからすぐ逸れるよ』
『は?あいつあんなんでも成人だろ?そんなことあるか?』
『あの人は今日まで勘と運と人徳だけで生きてきた絶滅危惧種のポンコツだよ』
しかしすぐに神妙な顔をしてつぶやく。縋るような、呆れたような、よくわからない瞳を向けて、乾いた言葉を吐き捨てる彼女に少し背筋が凍る。
『……つっても地図ぐらい読めるだろ?』
『ははは、面白い冗談だね』
宇宙人を初めて見た人はきっとこんな思いだったんだろう。
常識を外れた存在とは、意外と近くにいたようだ。
「つーわけだから、絶対、絶対俺のそばから離れるな」
「そんなこと言ったって……」
「ほら、その地図も貸せ!さっきから見てらんねぇんだよ!」
「ぁああ!?まっ、垣根くんやめてよぉ!」
彗糸からスマホを奪い取って、手首も掴んで歩きだす。
この絶滅危惧種は手厚く保護しなくてはならない。
そう垣根の父性に似た保護欲が警告していた。
曇り空とは変わり、明るい照明が眩しい店内。一階から上の方まで同じブランドが入っているビルは、人でごったがいし、かなり狭い。
「店の中っつーのにやけに人多いな。お前はぐれんなよ」
「そんなすぐはぐれないよ!」
「地図も読めねぇ女が何言ってんだ」
ヒールでカサ増しした高い身長、そして金髪が目立つとはいえ、方向感覚が狂っている女を一人にするにもいかず、くっついたまま服を物色していく。
12月というのもあって春物が多いが、分厚いコートやセーターはまだ隅の方にセール品として残っていた。
「それは妹が言ってるだけだから!もう、ほら、服選ぼうよ。これとかかっこいいんじゃない?」
「あ?これポリエステルじゃねーか。他のねぇのか」
半額になったニットを手に取り、『安くてラッキー』と嬉しそうに垣根にあてがう。安いわりにしっかりとした縫製のそれは、学園都市でよく見たものと違い、薄くてやわっこかった。
「んー、そうだなぁナイロン、アクリル、ポリウレタン……後は普通にコットンとか自然素材?」
「は?そんな薄っぺらいので撃たれたら死ぬぞ」
「……いちおう聞くけど、どういう状況を想定してるの?」
「銃撃戦。あるいは抗争?」
服のタグを見ると、学園都市では見ることもない弱くて脆い合成繊維の名があった。彼女が見せる他の服も似たようなもので、強化されたものではなかった。
当たり前だ。
この世界では科学の発達が進んでいない。学園都市と比べてはいけないとは分かっている。
けれど、寒さにも耐え、暑さにも耐え、爆風にも耐え、爆発にも耐える学園都市製の服を知っていると、この布がないに等しいものにしか感じない。
「物騒だなぁ。ないよそんなの……」
「それでなくても女は危険だろ」
こんな薄っぺらい服、引っ張っただけで千切れてしまいそうで、隣の女が急激に心配になる。
薄い服で、どうやってこの世界の無力な人間は身を守っているのか、彼女は守られているのかひどく不安だった。
「ハイハイ。あ、ほら、これ良くない?」
「なんだそれ、セーターか?やけにデカイな」
「垣根くん成長途中みたいだから、大きめ買っといた方がいいよ」
「もう背は伸びねぇだろ」
しかしその不安なんか気づきもせず、彼女はまた別のセーターを手にとる。冬らしい、真っ白なセーターは、あまり好みではなかった。
「朝髭生えてなかったし、まだ伸びるよ。まぁ骨端線とAlpの数値見ないとわかんないけど」
「思いの外本格的な診断出してくんのなお前」
「あとほら、オーバーサイズが流行りだしね。かっこよく着こなそうじゃないか」
「流行りぃ?ブカブカなのはどうかと思うが」
彼女が手にした白のセーターはみるからにシルエットが大きく、垣根の体には合わない。だが他の服もどうやら大きめに作られており、近くにかかっていた女性用のコートも、肩周りを除けば男物と大きさに大差はなかった。
「それが今どき……あ、そっか垣根くんたちの時代背景って10年くらい前なんだっけ?そんで流行もちょっと遅れてるとか……」
「……たしかに、俺が知ってるような服着てる奴らは見かけねぇな」
どうも一律、ほとんどのものがそう作られているらしい。
確かに周りを見渡してみると、どの男も女も、ぶかぶかで彩度の低い服ばかり着ている。女性はくるぶしを隠すロングスカートばかりで、もこもこしたコートを着てる人が多い。
目の前の彼女も、クリーム色のコートと丈の長いワンピースを着用しており、学園都市の原色やらコントラストの高い服から考えると、だいぶ流行がずれていた。
「2010年から遅れてる、ってことは平成初期辺りの流行かな?確かにあのころは細身のシルエットとか、腰パン流行ってたね」
「よく知ってんな。当事者?」
「違うよ、そん時はまだ……4、5歳とか?かな?あたし1996年生まれだから、うん、それくらい」
実際学園都市とこの世界は時間が少しずれている。そう言って悩む彼女は指を折って歳を数え始めた。
一、二、三、指を数える彼女の言葉にわずかに驚く。
現在、2018年。彼女の言葉が確かなら、もうすでに23歳ほど。成人したばかり、まだ垣根と4歳ほどしか離れていないと思っていた彼女は、その予想を少しだけ上回っていた。
「あ?てことはテメェ社会人かよ。大学生くらいかと思ってた」
「院一年だよ。一応まだ学生」
「ふーん?何研究してんだ?専攻は?」
院、つまるところ大学院に通う彼女に少し興味が湧いた。手元のセーターを戻して、ラックに積まれた他の服を物色しながら、話をふる。
単純に、彼女の事が知りたかった。
「生物学。研究対象は生物物理だからギリギリ理工学部かな?人体とか、神経とか、そういうの研究してるよ」
「生物学……その、人体実験とかすんのか?」
しかし彼女の言葉にびくりと体が脈打つ。
手にとったダウンコートのタグを見ながら、平静を装いつつ淡々と言葉を返す。
科学、それも生命科学にいい思い出はない。
たとえこの世界が平凡で、平和で、つまらない世界でも、その言葉にいい感情は抱けなかった。
「人体?自分の体で試すことはよくあるけど、他人はないよ」
「自分の体も使うなよ」
「だって自分で考え抜いた理論を他人でやるなんて勿体ないじゃん?自分の頭の中にあることを、できることなら自分で試したいんだから」
「それはそれで倫理観おかしいぞ」
「そんなもんだよ、科学者ってのは」
それでも彼女はとても楽しそうにコートを手にとって笑う。
目の前にいるのはただの善人、善という塊だった。
心配は杞憂に終わる。彼女はただの女で、普通の人間。
「それに、大切な人のためにしてることなら尚更、誰かを実験体にしようなんて思わないよ」
そのはずだった。
「……?」
「ほら、垣根くん試着室いくよ!サイズわかんないと困るし!」
「……分かった」
小さく聞こえた不穏な言葉に心臓が脈打った。
言葉自体はただの優しい人の善意だというのに、その声色が、その冷たい瞳が恐怖を煽る。
試着室までの足取りが、どうしてか重かった。
暖かい店内から出ると、冷たい風が髪を乱す。暗い夕方、赤く染まるはずの空はまだ雲に覆われていた。
「はぁ、買った買った!いい買い物だった」
「いささか使いすぎじゃねえか?無一文になっても知らないぞ」
たくさんの紙袋、それも統一性のないブランドを両手に提げて帰路につく。駐車場はまた別の場所、移動が億劫だったが、嘆いても意味はなかった。
「大丈夫よ、多分。遠慮しないの」
「けどよ」
「いいの!あんたたちのことを世話すんのがあたしの生きがいなんだから」
「なんだそれ。奴隷か何かか?」
「愛の奴隷といわれればそうかもね。アンタたちのことが大好きだから、世話焼きたくなんのよ」
リズムを作るように、軽やかな足取りで人の少ない通りへ行く。駐車場まですぐそこ、機嫌の良い彼女は弾んだ声で、ショッピングバックを揺らした。
身体に沿って広がる長いコートが、曇り空の中はっきりと主張していた。
「そうは言っても留守番させたり、一人で帰らせたり、車椅子相手にすることとは思えないが」
「愛で方と愛し方は違うのよ。甘やかすことだけが愛ではないの」
真っ白なワンピースも合わせて揺れる。彩度のない世界で、彼女だけが眩しかった。
「……何が違う?」
「垣根くんってさ、背筋ピンとしてて、姿勢がいいよね」
少し後ろで歩く垣根に、白い女は振り向く。長い金髪が風に乗って、たなびいて、キラキラして、少し言葉に詰まる。
そのぼんやりした優しい瞳に捕まると、体が動かなかった。
「食べ方も綺麗だし、歩き方もだね。それに、最初に会話した時、なるべくへりくだって、今とは全然違う、かしこまったかんじだったよね。だからあたしはキミを信頼したし、好きになっても大丈夫と認識したわけだ」
多分、彼女は『普通』と違う。
「マナーとかさ、礼儀ってのはさ、自分が有利になるためのものでしょ?ヘリ下れば相手は気分を良くしてくれて、自分に有利な状況を作ってくれるかもしれない。簡単にいえばさ、全部自分を良く見せるすべだよね」
「それがなんだよ」
「でもさ、それってどうやって覚えた?」
多分、彼女は『おかしい』のだと思う。
「誰かに注意されたり、注意された人を見てさ、この行動は他人を不快にするだとか、自分が不利になるって学ぶわけだ。その注意があるおかげで自分が有利に振る舞えて、人生においてプラスを作り出せる。マナーが悪かったり、初対面なのに暴言を吐くような人間は好きになれないでしょ?躾された犬の方が、人間、愛着を持ちやすいのと同じ」
それは確信に近かった。
白い女は、歪な感情を瞳の奥に隠して愛を囁く。
ひどく冷たくて、熱のこもった合理的な愛を。
「あたしはあの子を愛してるから、あの子のためになる生き方をしているの。振る舞いも、善行も、勉学も。あの子があたしを見て正しく行きられるように。あたしが死んでも、ちゃんと車椅子を動かせるように」
「愛だけで、そこまでするのか?」
「するよ。この命は彼女のためにあるんだから」
子を守る狼のような、鋭く冷たい瞳だった。
心を殺して作り上げた徹底的な合理主義。
愛を使って他人を支配する悪魔。
善意を押し付け人を淫らに落とす魔皇。
彼女はひどく頭が良く、ひどく愚かな人間。
彼女は愛を使って正義を騙る。理不尽で、傲慢で、自分勝手な存在だった。
「……母さん気質だな、お前」
「そうねぇ、垣根くんのこと産んであげれたら良かったんだけど」
「そういう話はしてねぇから」
「でも、この世界にきたのが垣根くんでよかった。こればっかりは、神様に感謝しないとね」
きっと、彼女には妹の姿も、垣根の姿も映っていない。
そこにあるのは未来の彼ら。そのゴールに向けて、彼女は合理的に、ロボットのように計算して、大人として振る舞っているだけ。
「きてくれてありがとう垣根くん」
彼女はゲームをしているのだ。
運命を司る神と。同等の立場で俯瞰して駒を進める。
愛に溢れた悪魔は、細めた瞼越しに垣根を見つめていた。
「バーカ、恥ずかしいやつだなお前は」
悪魔とは思えない、ひどく優しい瞳が垣根の奥にある何かをくすぶる。
それは垣根の子供心。
母に、父に、世界に愛されなかった子供のわがまま。
その悪魔の囁きが、この世の何よりも美しい。それが自分も欲しい。
血のつながりだけで愛される妹が羨ましかった。
曇り空はいつしか晴れ、赤い空を覗かせていた。
まぁ、つまるところ天羽さんは他人のことしか考えてない人ってことです。
人生かけた自己犠牲といえばいいか、学だけはあるから理論的に、合理的に判断して子育てしてます。(妹相手ですけど)
だから妹に嫌われるんでしょうね。普通に怖いので。