青いカバーのスマートフォンを耳に当てると、コール音が鼓膜に響く。
何度目かのコール音の後に聞こえるのは無機質な女の声。一向に相手の声に届かない。
「……出ない」
「歩ってんじゃね?お姉ちゃん基本ミュートだから気が付かないよ」
何度目かの発信だが、姉が電話を取らない。借りた妹のスマホには、狂ったような発信履歴が残るだけで、腹の中で蠢く苛立ちはまったく収まる気配がなかった。
「あのクソ女……どこほっついてんだ」
「迎えに行けば?バス停ならすぐそこだし」
「……いく。マップはどうやって見る?」
「んー、っと、アプリの、ここ」
買い物から帰ってこない姉に痺れを切らし、地図を見ながらバス停までの最短距離を計算する。セールスマン問題は得意な方、答えはすぐにでる。
「行ってくる」
「もう覚えたん!!?」
「傘借りるぞ」
玄関まで静かに走ると、傘立てから一本傘を奪って扉を開く。
土砂降りの雨に傘が打たれて水が弾けると、水溜まりにぽたぽたと滑り落ちる。分厚い雲で覆われた空は光を通さず、世界は暗い。
その暗い空に混じって、明るい金色が目に映った。
「彗糸っ!?」
門の前、ふと目を離したすきに現れた長い金髪に足が早まる。
傘をさして、石のタイルを踏むととの空気が頬を冷やした。
買ってもらった部屋着用のスウェットに水がつくと、色が濃くなっていく。吐いた息は白く、暖かい。
「っ!おい、着いたなら電話──」
「すみません、結局送って貰って」
「気にしないでくれたまえ、他でもない君のためだからね」
濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。彼女の目の前でエンジンを唸らせる黒い車と、運転席の男が心を揺さぶる。
そこには知らない男がいた。
困ったように笑う彼女の手首を掴んで門の内側に引き入れると、知らない人間を睨む。
こんな危機感のない女、そんな女が仲良くする男などろくな奴ではないと垣根の直感が囁いていた。
「……誰?男?何?」
「あ、垣根くん!さっきモールで会ったんだけど、この方お隣の──」
「やぁ、こんばんは。賑やかな子だ。仲が良いようで安心したよ」
傘の中に入れた女を強く掴んで、車の男を見定める。車の厳ついエンブレムから見るに外車だろうか、どこか高級感を感じる車体は警戒心を高める。
この女に手を出そうとするもの好きの顔をみようと中を軽く覗くと、長い銀髪を揺らすスーツ姿の男と目が合った。
「この人、お隣のアレイスター・クロウリーさん。民俗学の学者さんでね、それで……垣根くん?」
「なんで、テメェが……」
息を飲む。
その男を知っていた。
銀髪碧眼。中性的な顔立ちの男は、この間見せられた画面と同じ顔をして、スピーカから聞こえた声と同じ声をして、垣根の前に息をしていた。
「……見知らぬ男がいるのは思春期には酷なことだろうね。私はそろそろ戻ろうか」
「あ、ごめんなさい。ほら、アンタも」
「いいさ。また話そう、明日にでも」
「テメェ、こいつに何をっ!」
車のエンジンを鳴らして窓を下げようとするその男に思わず声を荒げて彗糸の前に立つ。
血が湧き上がる。
心臓が波打つ。
別世界に来ても、その憎悪と復讐心は忘れることがなかった。
「あまり声を荒げないほうがいい。垣根帝督」
「な、テメェ何を企んで」
「この世界の神様は都合よく設定されているが喧嘩ごとは喜ばない。管理が面倒になって手離すような結果になるのは、君とて嫌だろう?」
垣根の荒々しい声を遮って、その男は呟いた。
とても冷たく、静かな声。ただ落ち着いたその声からは敵意を感じず、体に溜まった怒りが意図せず萎んでいく。
混乱、困惑、思考と感情が交わらず、体の制御が止まってしまった。
「どういう……」
「家は隣だ、いつでもきたまえ少年」
車が走り去る。本当に隣の家に入って行き、その様子を呆然と見続けることしかできない。
「どうかしたの?」
「……今の話聞いてなかったのか?」
「あ、ごめん。教授からメールきてて。あんまし……」
彼の言葉が耳に残る。都合がいいと、冷たい目で言っていたあの男の声が。
その言葉が真実に思えて他ならない。
スマホ片手に立つ彼女の姿がやけに印象的で、あの言葉の違和感が際立っていた。
「お家入ろっか。寒いでしょ?おふろ沸かしてあげる」
「それよりテメェ、アメリカに行くって聞いてねぇんだけど」
「あれ?言ってなかった?」
苛立ちよりも困惑が思考を支配する。
ただ笑うだけの彼女に怒りが湧かないのは、そのほうが都合がいいからなのか。
あの男の言葉は、全ての物に疑惑を植え付けるほど衝撃があった。
日は跨ぎ、12月28日。天羽家から歩いて数秒、手入れされたイングリッシュガーデンが眩しい隣の家に立つと、恐る恐るチャイムを鳴らす。
門の内側、一般的な玄関の鍵が回る音がすると、忌々しい姿をした男が顔を出した。
「思ったより遅かったな。君も懐柔させられたか」
「アレイスター=クロウリー。ご本人のようだな」
「いかにも。そういう君も、垣根帝督そのものだな」
スタイリッシュなジレとスラックス、長い銀髪に碧眼。英国紳士そのもののような風貌の男がそこにいた。
垣根よりだいぶ歳をとったその男は、垣根の人生で最も憎い男と瓜二つ。
アレイスター=クロウリーその人だった。
「窓のないビルから見てた顔だろ?」
「随分と昔のことだが、覚えているものだな。あの頃と変わらない」
門を隔てて風が吹く。赤紫のスーツが小さく揺れて、甘い洗剤の香りが鼻をくすぐった。
画面から飛び出した男二人が対峙する。
火花が散る。
この男を前に、冷静な判断ができるのはおかしな話だった。
「そういうテメェはアニメで見たときとは違って、随分若いようだが」
「若いといえど、妻子持ちだがね」
「それは、」
「それよりこんなところで話すのも野暮だ。入りたまえ、紅茶とスコーンがある」
しかし彼はその火花を枯らす。穏やかな口調で垣根を招き入れるように玄関を大きく開くと、暖かい空気が外へ逃げ出した。
悪魔の牙は抜かれ、ただそこには無気力な弱者が立っていた。
通された広めのリビングは英国風で、大きな窓から見える庭先の鮮やかな花々が眩しい。カップに注がれた赤い紅茶と甘いスコーンが香り立つ。
しかし甘いそれに手をつける気にはならなかった。
「さて、積もる話は数多くあるが、何から話そうか」
銀髪と、金髪──に近い茶髪だが──が顔を合わせる。
ここはテーブルを挟んだ戦場だ。
いつでも殺せる覚悟があった。
あの女を裏切ってでも、目の前の男にこの怒りを伝えたかった。
「まずテメェがなんでここにいるかからだ。妻子持ちとかいってたが、いつからここにいる?なぜここにいる?答えによってはこの場で殺す」
「その物騒さ、懐かしい限りだ。長い話になるが……まず私は、転生というべきか、生まれたときからここにいる。君が良く知るアレイスターは前世と言っても良いかもしれない」
「前世……?」
「ふむ、そうだな、君はパラレルワールドを知っているかい?」
「知ってるに決まってるだろ」
怒りをあらわにしながら目の前の男の言葉を待つ。案外育ちがいい垣根は、怒りに我を忘れてそれを邪魔することもなく、背筋を伸ばして彼の弁解を聞いていた。
「なら話が早い。ここはあの世界が物語だった場合の並行世界。魔術も奇跡も嘘に反転したひどく色褪せた世界だ」
「その話はおかしくないか。テメェはまだ、一応本編、新約21巻ではまだ生きてんだろ?本体が死んだ俺とテメェは違うだろうが、幸せ者」
アレイスターが口を閉じると、すぐに垣根の口が開く。
彼の言い分は少し矛盾していた。
前世だとか、転生だとか、それは死んだ人間に起きる現象だ。それこそ、垣根のように。
のうのうと生きて、何巻も生き抜いて、主人公に許されて、辛い過去を恥ずかしもせず本の中でひけらかす幸せ者に起きるような現象ではない。
「……なるほど、なぜ君がこんなところにいるのか不思議だったが、そうか、君は彼女を知らない世界からきたのか」
「彼女?誰の話だ」
「君も大好きなクソ女……もとい神様、天羽彗糸だ」
「ハァァ?」
その言葉に何かを理解したのか、彼は深くため息をついて紅茶に口をつける。
だが垣根にはその意味はよく分からない。引き合いに出された彼女の名前がただ体をこわばらせて、顔が引きつるだけだった。
「別の世界の君は彼女、一つ年下の幼妻を掴まえてめでたくハッピーエンドを迎えた。永遠に幸福のまま学園都市の中で冒険をしているのだろうよ」
「……おさな、づま?なんの話だ?」
「まぁそこはいいか。とにかく、私は君とは違う世界線のアレイスター=クロウリーであり、超能力者で君の相棒である神に殺され、
ゆっくりと彼の話を飲み込んで行く。ずば抜けて良い頭脳でもこんがらがる不思議な話を丁寧に、絡まった糸を解くように。
「君は神に救われなかった世界の垣根帝督、そして私はその神に捨てられた者だ」
低い声がリビングに響く。ティーカップの湯気越しに見える銀髪の男は、酷く冷めた顔をしていた。
「…………つまり、テメェの世界には超能力者で、俺と行動をともにしたひとつ年下の彗糸がいて、俺はテメェとは別の世界にいたと、そう言いたいんだな?」
「正解だ。彼女がいた世界では、君は10月9日に殺されることもなく、変わることのない日常を噛み締めている。いまでもな」
彼が言いたいことはなんとなく分かった。
「それを哀れに思ったのだろう。彼女がいない世界の垣根帝督を
現時点で三つの世界があるのだ。
垣根帝督がいた世界。
天羽彗糸が垣根を救ったという世界。
そして今いる世界。
アレイスターが殺された世界。自分が死んだ世界。
どちらも存在すると、彼は言いたいのだ。
「俺とテメェが似て非なる立ち位置なのは分かったが、その神って一体誰のことだ。ここは一応そういった類のものはないんだろ?」
「そうはいっても、君をここに連れてきた第三の存在がいるのは確かじゃないかね?それに、魔神程度でも世界に干渉できることも知っているだろう?」
「それが彼女だと?」
「正確には私の世界にいた、神となった彼女だがね。この世界の彼女はいわば他人の空似、君の保護者という役割以上に意味はない個体だ」
そしてそれには『神』が関わるという。
思いがけない発言に戸惑うも、彼の意見は的を射ている。そもそも並行世界の移動など、学園都市の科学力とはいえできないはず。できていたのなら、目の前の男が何かしら作中で問題を起こしていたはずだ。
だができる存在がいる。
それが魔術サイド、世界を何度も作り変えた魔神ならば可能である。
彼の話を鵜呑みにするのならば、もともと魔術サイドか、なんらかの要素で魔術の拒絶反応を克服した天羽彗糸が魔神、もしくはそれに近しい存在に変化したということだ。
「……随分とファンタジーだな、この世界も」
「仕方あるまい。ここは彼女の世界だ、都合が良い方に世界が象られていく。だから神様ってやつは大嫌いなんだ」
非常に壮大で、予想もできない話だ。助けてくれた女が別世界では神様で、垣根を助けたくて別世界に飛ばしたと言われたら誰だって信じる気は起きないだろう。
しかし
慈愛しかないおぞましい女が別の世界で神さまをしていると言われたら、納得してしまうのも仕方がなかった。
「都合が良い、か。ならなぜアイツはアメリカだかどっかに行く?俺が好きなら、ずっと一緒にいたいと思うのが普通じゃねぇの?」
「言っただろう?ここはパラレルワールド、もともとあった別世界に私と君が捻じ込まれたのさ。そうなると、たとえ神の意思が介入していても元々の思想や行動を正すことはできない」
「だからって、俺がいる状況でそのまますぐに行くのはおかしいだろ。というか、普通は最初にいうはずだ」
「彼女はもともと恋人を残して戦地にいけるような性格だ、君をおいて行くのになんら不思議はない」
だがその女神さまは垣根を置いて行く。本物の神様じゃないから、ただの人間だから、垣根を置いて今までの日常を過ごすだけ。
認めたくない。
けれど彼女が出て行くのを止める方法は思い浮かばず。
欲しかった愛を無償でくれる彼女を、ずっとそばにおいて起きたいのに。
「しかし、この世界でも彼女を好きになるのか。どんな因果か、これは興味深い」
「“好き”じゃねぇ。けど近くにおいておかなきゃ、俺はこの世界で安心できねぇんだよ」
「だがアメリカについて行くわけにもいかんだろう?そもそも私とは違い、いわゆる転移の君は戸籍がなく、パスポートを作れないからな」
その感情は筒抜けで、テーブルを挟んだアレイスターは目を閉じたように顔を伏せて笑う。
「それにこの世界ではその名前で生きるのも難しいだろうし、科学力が違うことも致命的だ。常飲していた薬もなければ、能力者は繊細だからな、特に君のような規格外は病気になっても医者にかかれない」
かわいそうな子。そう言われた気がした。
「……それがテメェになんの関係がある?」
「手伝ってやると言っているのだ、この世界で生きたいんだろう?」
「なぜ?テメェにどんなメリットがある?」
紫のスラックスを握りしめて、狼のような唸り声をあげる。中性的な顔が垣根を見下ろし、まるで威厳があるかのように振舞っていた。
──テメェのせいでこんな目にあってんだろうが。何の面下げて上から目線で見下ろしてんだクソ野郎。
そう言いたいのを必死に我慢して、静かに睨む。
力のない年上を殺すことなど容易いが、保護者である女の顔を思い浮かべると行動が抑制される。
「メリットか。そうだな、私は神が嫌いだ。そして、神に監視され続けられるこの世界も」
「それが俺を手伝う理由だと?嫌いなら手首でも切って死ねばいい」
「監視さえなければ、という話だ。この世界そのものは望んでいたような世界に近い。物理が世界の中心で、奇跡など起きないこの世界は」
垣根の感情に流されず、アレイスターはただ話す。上から目線で自分勝手な願望を。
そして、垣根にとって都合のいい提案を。
「だから、垣根帝督、君の助けになろう。神に愛された君を助ければ、私は許され、いつこの世界を取り上げられるか分からない恐怖から解放される」
「……俺の読んだアレイスター=クロウリーが言うようなセリフじゃないな」
「お前だって分かるだろう?一度極楽に浸かれば抜け出せなくなる。昔なくした妻子が、しがらみのない世界で私と一緒にいてくれる、その世界を手放したくないのはいたって普通の思いだ」
落ちぶれた悪役に胃が締め付けられる。
そうだ。一度甘い砂糖を知ってしまったら、それ以上を望む。それ以外見えない。精神が依存を繰り返す。
部屋中に飾られた彼と、彼の家族の記念写真。叶わなかった夢がここで叶うというのなら、人は愚かにもその糸を掴む。
「神の施しを、まだ手放したくないんだよ」
慈愛を自分のものにしたい。
それは垣根も同じ。
「それで、私の手をとるかい?」
「……あっちの知識は残ってんだろうな?」
「もちろん。君たちのデータからプランまで、覚えているさ」
悪役二人。
可哀想な過去がある二人。
報われなかった二人。
この世界で報われた二人。
救いの糸を手放しなくない二人。
答えは決まっていた。
「なら、手を貸してもらおうか」
「では何から始めようか。戸籍取得からかい?それとも職探しかな?」
けれどまず、やるべきことがある。
「そうだな、それはテメェを殴ってから考えさせてもらう」
忘れられていく子供たちの復讐だけは、終わらせなければいけない。
重いドアを開く。ぬるい空気が通り抜け、甘い花の香りが舞う。
「あ、おかえりー。どこ行ってたん?」
「……散策」
靴を脱いでリビングへ。ダイニングテーブルの上で教科書を広げた少女の前で強く拳を握る。
悩ましい顔で空白を埋めて行く彼女に、なんて切り出せばいいか分からなかった。
「おもろいもんあったけ?」
「ない」
「そういえばさ、カブトムシ完成したん?お姉ちゃんに見せた?」
振られた話題にピクリと眉が動く。彼女から出る姉という単語が酷く耳障りで鬱陶しい。
嫌いなくせに、彼女の愛にあぐらをかいて貶すくせに、都合のいいときだけ愛を受け取るこのガキが、今ではアレイスターよりも憎らしい。
「まだ調整中だ。それより、お前に話があるんだが、今いいか?」
「なんすか」
だから、彼女から奪う。
血の繋がった女を。
「お前の姉についてだ」
神様も同じ気持ちだろう。
異教徒などいらない。愛を受け取らない愚か者なんて、そばにいる意味なんかない。
嫌いだというのなら、捨てろ。
いらないのなら、奪ったっていいじゃないか。
来週最終回です。