変身しましょう。
金を黒に、白を黒に、赤を青に。
世界が反転する。
緩やかな曲線を描く脚は男物のズボンで隠しましょう。
大きい乳房は布を使ってなだらかに。
オーバーサイズの服で身体を隠せば完璧。
白粉もアイシャドウもマスカラも、何もかもを落として。
そして最後の仕上げ。
桃色の後ろ毛をハサミで切り落とす。
じゃきん、じゃきんと軽い音を暗い部屋に響かせながら、桜色の毛束が床に落ちた。
しかし、それだけじゃ終わらない。
遺伝子を変えましょう。
色素を変えましょう。
細胞を、形状を、何もかもを変えましょう。
踵まで伸びた黒い髪、黒い瞳。
藍色が誰よりも似合う人。
天羽彗糸はここにはいない。
◇
「ラスト二つか」
八月十九日の午後、日が沈み、ほとんどの人が家に帰った頃のこと。
天羽彗糸は
「indeed、御坂美琴がほとんどの施設を潰したからね」
ミサカを保護したあの日から今日の夕方まで彼女と御坂は研究所潰しに励んでいた。といってもやったのはほとんど御坂で、彼女はサポートに徹していたが。
その結果今日までに二十もあった研究施設は残り二つとなった。
「
そして今、彼女は布束の護衛として残りの施設のうちのひとつ、Sプロセッサ社脳神経応用分析所に来ている。
彼女はアニメと同じくこの研究所スケープゴートとして呼ばれていた。
それを助けるための護衛として今天羽はここにいるのだ。
いけ好かない研究所。
若い高校生を生贄にする訳にはいかない。
生贄にされるのは文字通り山羊だけで十分だ。
「……uhm、貴方のその格好と声は何?」
下唇を噛み締め、研究所を睨んでいると、隣の少女から少しだけ視線を向けられる。
「え?あぁ、これ?変装だよ、あの格好で派手な行動すると先生に怒られちゃうからさ」
いつもの金色と桜色が眩しい癖っ毛はここにはない。烏のように黒い真っ直ぐな長髪。
鼻にかかるほど長い前髪は左目を光から遮断していた。
表に出ている瞳と、髪の隙間から覗ける目玉は両方黒い。
またいつもの優しい少女の声とは違って、ボーイソプラノ声が喉からでていた。
足の裏まで届く黒髪も、髪の色も、長さも、瞳の虹彩も、高い声も、全てが能力でできている。
潰した胸と、
身体を隠す藍色のカンフー服は萌え袖を通り越して、手がすっぽり見えなくなる程度に袖が余っている。
精一杯アニメキャラのようにデザインして自分で作った衣装。
とりあえず、浮世離れした服装ができれば及第点といったところか。
「why、何故中華服なのかしら?変装だけなら他のものでもいいんじゃないのかしら?ゴスロリとか」
「ゴスは流石にハードルが高いって……」
ジロジロと見つめる布束に困った顔を向ける。
しかしそう疑われても、これしか条件に当てはまるものがなかったのだ。
「藍花悦」が元からいるキャラクターだからだ。
空想上の人物。ならばそれらしい
アニメキャラにありそうな格好で
手軽にミステリアスさを演出できて
動きやすくも体のラインを隠し
記憶に残るようなインパクトのある
それでいて痛々しくないような服装
それがチャイナだ。
ゴスロリやら、着物やら、パンクファッションやらスーツ、他にも候補はあった。
しかしゴスロリは抵抗があるし、布束の私服と被る。あと性別を隠せない。そもそも天羽にとってフリルとレースは似合わないし着れない。
着物も着付けが大変で動きにくい。
パンクファッションは一方通行と被る。
スーツは垣根と被る。
その結果思いついたのがチャイナ服。およびカンフー服。
凝ったデザインの藍色のカンフー服。オーバーサイズで男と誤認させるのにもちょうどいい。
それに大昔からオリエンタル系はミステリアスの代名詞。
また彼女のいた時代では中華モチーフの普段着は普通に流通しているもの、ゴスロリほど着るのに抵抗もない。
あと単純に可愛い。案外可愛いもの好きな天羽のお眼鏡にかない、尚且つ普通に着れる可愛さともあれば選ばないわけがない。
「……So、これからの流れ、分かってるわよね?」
「うん、君を地下まで送り届けることでしょ?」
わざわざ変装をしてまでここに来たのはアニメと同じことをするためだ。
この研究所の地下室でデータを入力するのが目的。あと藍花悦のデータ削除のため。
天羽彗糸の姿でここに来ると、暗部に狙われやすくなってしまう。
黒髪に黒目、青が誰よりも似合うこの姿こそが藍花悦なのだ。
研究に彼女の能力が使われた以上、藍花悦として行動するのは理にかなっている。
不本意だが、今回ばかりは藍花悦として正義を執行せざるをえない。
手札も持ってきているし、これは簡単なお仕事になりそうだ。
「Exactly. 研究所にお呼ばれされたのはいいけど、戦力がないと不安だもの」
「まぁ、あた……ぼくのことはこき使ってくれて構わないよ」
まったく、本当にめんどくさい。
スケープゴートにされるのを知っているのだ、助けるのは当たり前。
殺しはしないが全員痛い目に合わせたってバチは当たらないだろう。
「本拠地の設備ならデータを入れられると思うのだけれど……」
「……まぁ、やって見なきゃ分からないよ。行ってみよう」
冷静を保ちながら彼女達は施設内に足を踏み入れた。
◇
研究所内は騒がしく、バタバタと慌ただしく研究員が働いていた。
その中で二人静かに案内人を待つ。
五分は経っただろうか、待つのに飽きてきた頃、幸薄そうな研究員が一人歩いてきた。
ここの研究所のお偉いさんなのか、どことなく見下した目線で天羽たちを見る男は布束に話しかける。
「お待ちしておりました、えぇと、貴方が」
「布束砥信です。
彼は布束に確認を取ると今度は天羽に目を向けた。
冷たいその目に臆さず、彼女は前に一歩踏み出す。
「……こちらは?」
「
怪訝そうな顔でこちらを向く彼に天羽は精一杯の嘘と本当をごちゃ混ぜにしたセリフを冷淡な声で言ってみせる。
あらかじめ考えていたセリフは機械のように口から流れ、自分の知らないソプラノ声はいやになるほど無機質だった。
口角を釣り上げ、目を細める。彼の瞳に映る天羽の笑みは竦んでしまうほど恐ろしい。
「そのようなお話は聞いていませんが……」
「それはおかしいですね。上に確認してみてください」
「……確認してまいりますので、部屋で少々お待ちください」
ぴくりと男の眉が動く。
多少イラついたような表情を浮かべる研究員だったが、それ以上何も出来ないようですんなりと部屋に案内した。
男が応接間に案内し、部屋に通されると、そのまま駆け足で別の部屋を後にする。
ドアの前で研究員が立ち去るのを確認すると、天羽の視線に気がつき布束はコクリと頷く。
「行きましょう」
「うん」
扉を開き、人のいない道を通って地下へ向かう。
念の為、武器を調達してきたが杞憂だったか。誰とも会わずにすんなりと地下に降りることが出来た。
「今なら手薄なはず……」
「御坂ちゃんがもう一件の方に行っているからね、あっちに戦力を割いているんでしょ」
懐中電灯で足元を照らしながら目的の部屋まで足を進める。
広い廊下には扉が幾つもあり、どれも似たようなものだった。
「ここだわ」
そのうちの一つを布束は迷わず開ける。
真っ白で広い部屋の奥には何らかのモニターや機材が設置されており、壁にはめられたガラス越しに見える装置と繋がっていることが簡単にわかる。
その機械を迷わずに起動させ、布束はデータの入力を開始した。
安全を確認しようと一通り部屋を見渡すが、機械と大きな窓ガラスくらいしか見るところがない。
機械のことはよくわからない。ならばと窓ガラスに顔を近づけると、その奥に人がいるのが見えた。
メカメカしいベッドの上に仰向けに横たわるその人はおそらく御坂美琴のクローンの一人。
「出来そう?」
「分からないわ、でもできる限りの事はするつもりよ」
USBを差し込んでデータの入力をする彼女には焦りと希望が見える。
入力しているデータは感情にまつわるもの。
研究員がクローン達に同情すれば計画も止まる、それが彼女の考えだ。
天羽の考えとは真逆だった。
感情のデータをいれようが科学者が情を湧くことは無い。それは天羽が一番よくわかっている。
どんなに可愛い動物だろうと、研究に必要なら殺すのだ。それが研究者という人種だ。
無駄な作業だとは分かってはいるが、藁にもすがりたいという感情は彼女も知っている。だからこそ、どんな無駄な行為だと知っていても応援したくなってしまう。
「……その前に、少し荒事が起こるかも」
そして彼女のやるべき事はその思いを守ること。
正義を妨げるものは例外なく近寄らせない。
「いるんでしょう?」
数は三人ほどか。
生命体を体で感知すると、ひとつしかないドアの向こうに声をかける。
その声に応えるようにドアがゆっくりと音を立てずに開いた。
部屋に入ってきたのは三名、細身の男性二人と一人の小柄な少女。
オレンジ色のノースリーブのパーカーを着た少女は深くフードを被り、口を開く。
「……関係者であることを考慮して上に確認を取りましたが、データ類の移送が完了するまでは、ここへの立ち入りは超禁止とのことでした。それにそこの青い服のお兄さんも客じゃないそうですしね」
十二か十三歳くらいか。幼い少女がこちらに向かって歩いてくる。
暗部組織、アイテムの構成員のひとり。
面倒な能力者を前に、天羽は長い袖に両手を隠す。中に仕込んだ火薬臭い武器は好きではないが、必要ならば使うしかない。
「襲撃者は単独犯であると推測されているが、一方の襲撃が超陽動である可能性を捨てるべきではない。故に防衛組がもう一方の施設襲撃を受けても、対処は遊撃隊に任せて自陣を超堅守すること」
淡々と言葉を紡ぐその少女はそのフードを外した。
栗色のショートカット、チョコレート色の目。可愛らしい顔立ちの少女からは濃厚な暗闇の匂いがする。
「どうやら、麦野の読みは超当たってたようですね」
苗字は絹旗だった。下の名前は思い出せないが、今はその情報は要らない。
能力は窒素を操るもの。
一方通行の演算パターンを埋め込まれたモルモットの一人。
「暗部ですか……そういえば雇われてると聞きましたね」
「ご存知なら、無駄な抵抗はしない方がいいと分かっていますね?」
「無駄な抵抗はやって見なきゃ分からないんですよ」
これは少々まずいことになった。
天羽の、正しくは藍花だが、能力は一番手軽に相手を無力化できる。
触れなくても他人の体に干渉できるのだ、気絶なんて簡単だ。
しかしここにはバレてはいけないオーディエンスが一人いる。藍花と天羽がイコールで繋がっていない布束の前で易々と能力は使えない。
「あなたはやるべき事をやってください。彼女らの相手はぼくがします」
「……超調子乗ってますね。お望み通り、相手してもらいましょうか」
布束にこちらを気にしないように促すと、それに少しイラついたのか絹旗が小さく舌打ちをした。
その隙に左右の袖に腕を伸ばす。腕を組むように袖に入れた手は硬いものに触れた。
「そんな怖い顔しないでください、可愛い顔が台無しですよ」
袖から二本の黒く光る武器を取り出す。白い光に反射して艶めかしく存在を主張するそれは現代の刃、拳銃。
両手で握りしめるこの二丁の拳銃は学園都市製のスグレモノ。
ベレッタやトカレフといった天羽の知っているものより全然軽く、扱いやすい。
「拳銃ごときで、私に勝てると?」
少しだけ拳銃を出したことに目を見開くが、それでも絹旗は微動だにしない。
銃が彼女に通用しないのは前世から知っている。リアクションが薄いことくらいは最初から分かっていた。
「思ってませんよ?」
パンっと乾いた音を立てて拳銃から弾丸が飛び出す。
一ミリの狂いもなく弾丸が天井のLEDライトを撃ち抜くと、ガラスがキラキラと輝きながら雨のように降り注ぐ。
連続で放たれた複数の弾丸は狙い定めたとおりに全ての光を潰した。
腕にかかる負荷と反動。おもちゃとは違うその重さと強さは随分と懐かしいものだった。
それに気を取られた絹旗とその他のチンピラに直ぐさま能力を使用する。
本来なら何も無いところで突然倒れるなど、布束に絶対疑われる。
だが、潰された光源は勘違いをもたらす。
真っ暗な部屋の中でなら勝手に天羽が全部仕留めたと勘違いしてくれるだろう。特に、似たような猫騙しをしたことがある布束なら。
「っな、なにが、っ、がは」
脳の電気信号を遠隔で弄られた少女とその他のチンピラは何もわからずに膝から崩れ落ちる。
人間、少し細胞を弄ったり、電気信号を変えたりするくらいで痙攣したりするのだ。
実に脆くて壊れやすい。人間はトラックに撥ねられた程度で死んでしまう弱い生き物。
窒素を操るとしても、体の水分やら細胞やら電気信号を直接操作できる天羽には意味が無い。
とはいえ通用しない能力者もいるが。
「何が起こったか、それは君が理解できないことです、教えるつもりはありません」
暗い部屋の中で口元に指を立てて寝転ぶ少女を見下ろす。
唯一の光であるスクリーンの青い光が足元を照らしていたが、突如赤く色が変わる。
見慣れたエラーの色に少しため息をつくと、後ろで機械をいじっていた布束が小さく声を絞り出した。
「……だめ、エラーが出てしまう」
「やはりダメですか……まぁいいでしょう、ここにいる一体に直接インストールすることは出来たのですよね?」
「……実験を止めることはできないのね」
わかってはいたけど、失敗か。
何か行動を起こしたこと過程は大切だ。何かが変わることだってあるのだから。
しかし、楽観的な天羽とは違い、布束は暗闇でもよく分かるほど落ち込んでいる。
悲しいことだが、二〇〇〇一号を何とかしない限り何も出来ない。それを伝えるつもりはないが。
「それはまた考えればいいことです。とりあえず戻りましょう。先に行ってください」
「……sure、外で待ってるわ」
彼女を落ち着かせる必要があると考え、一人になれるように配慮する。
こういうのは時間を置けば気分が落ち着くはずだ。
扉から少女が出ていくのを見届けると、まだ少しだけ意識がある少女に声をかける。
瞼を閉じたり開けたりしながら、荒く息をする絹旗はとっても眠そうだ。
「……さて、君はアイテムの一人ですよね?確か名前は……絹旗、でしたっけ」
「なん、だ、超、しってるん、です、ね」
「これでも職業柄、暗部のことはよく知ってるんです」
低い声でそう言うと睨まれる。
あの医者の元で働いているのだ。前世の記憶が無くても、そういった暗い世界の話は流れてくるので知っている。
「あんたは、いったい、だれ、なんです」
「そうですねぇ……」
わざとらしく笑顔を作り、彼女に向ける。
「ぼくは藍花悦、君の上司の二つ下の位の者、と言えば分かりますかね?」
「……第、六位」
苦虫を噛み潰したような表情をみせる彼女を他所に、天羽は少年のような声で話を続けた。
「正解です。けどまぁ、この学園都市に藍花悦は何人もいますからね、本人ではない可能性も考慮してくださいね?」
「それで?そんな、超大物が、こんな、研究所に、なんの用、です?」
「探しものを見つけに来たんですけど……」
途切れ途切れに彼女は言葉を発する。
弱々しくも強さを忘れない声。
しかしなんの用と聞かれても、彼女に伝える訳にはいかない。天羽個人の目的は藍花悦に関するデータの消去だ。
さすがにそこまでの情報を彼女に伝えるのは得策ではないだろう。
「まぁ、ここに用はもうありませんね」
「……殺すんですか」
布束の護衛もあるが、天羽の目的はこの施設のデータの改ざん、ここに用はない。
軽く言った言葉だったが、暗部的には死刑宣告と同じように重く聞こえたらしい。
唸るような声は可愛い盛りの少女が発するものとは思えなかった。
「まさか、するわけないでしょう」
「じゃあ、なんで」
「無駄な殺生は嫌いなんですよ。これでも博愛主義者なんです」
単純な話。
そう答えると彼女は呆れたような顔をみせた。
「超、意味、わかん、ない、ですけど」
「わかんなくてもいいです。君はこれから眠ることになりますし、起きた時にはそれを考える暇もないでしょう」
彼女の脳内活動に手を加える。
シナプスへの介入。
それは彼女を眠りへと誘う。
「おやすみなさい」
◇
それから少し経ち、誰も居なくなった研究所の一角、真っ暗な部屋の中で天羽は一人、青く光るスクリーンを眺めていた。
座り心地のよい椅子に座りながらカチカチとスクリーンに繋がれたキーボードを打つ。
出てくるデータは全て
「……藍花悦の能力データの流用、か」
他の部屋よりいくらか広く、この施設の全てのデータが集まるこの部屋の中には数人の白衣を着た男たちが倒れており、火薬臭い。
倒れている人からは血は流れておらず、息をしていることから彼らが眠っていることが容易にわかる。
とはいえ、眠らせた張本人はこの天羽なので死んでいないのは元々知っているのだが。
「全く、人のデータで勝手に遊ばれても困るっつーの」
クローンと藍花悦に関する情報の移送はまだ終わっていなかったらしく、探すのは簡単だった。
あとは消去するだけ。
消去しますか?とウィンドウが目の前のスクリーンに表示される。長い袖をまくり、藍色の服から覗く黒い裏地を見せて腕を出すと、手袋をはめた手でスクリーンを触った。
ウィンドウの右下に配置された「はい」のボタンをタップすると、みるみるうちに藍花悦の情報が消されていく。
黒髪ロングで黒目の少年は跡形もなくこの施設のデータ上から消え失せていく。
(まさか人の能力データでクローンを作るとは、思ってもみなかったけど、やっぱり不完全な代物っぽいな)
藍花悦の能力がクローン技術に適応されているとは思いもよらなかったが、そのおかげで良い方向へ未来が改変されていると考えると少し複雑だ。
「てことはぼく、ミサカちゃん達の母親みたいなものなのか?」
ぼそりとつぶやくが、誰も返事を返さない。
布束をひとりで研究所から脱出させた後、データの消去の為残っていた天羽は移送していた研究員達はあらかた片付けた。
もちろん殺してないし、拳銃も数回しか使っていない。
麦野沈利も来ていたようだが、幸運なことに鉢合わせることはなかった。
「……第六位、か」
スクリーンに写った自分の顔はいつもと違う。
本当の顔に、黒髪。瞳は漆黒に。
スクリーンに反射した天羽の顔はいつもと少し違う。
いろんな人種が混ざった不思議な顔。人形のような正気のない顔。
化粧をしていないから普段よりその感覚が色濃く出ている。
「藍花悦、アナタは一体誰?」
別の存在、別の生き物。
天羽彗糸は存在しない。
「存在するぼくと存在しないあたし、どっちが本物なの?」
この世界に天羽彗糸という少女は存在しない。
しかし、藍花悦という名を持つ少女はこの世界で生まれて、生きて、息をしている。
本当の顔だって藍花悦のものだ。
どちらが本物か、もはや分からない。
それほどまでに天羽彗糸は藍花悦という存在を脅かし、反対に藍花悦も天羽彗糸の存在を否定する。
「……新しい名前、新しい世界。新しく人生を歩めって神の意向なのかな」
いつだって神はお節介を焼いてくる。
余計なお世話だというのに。
あぁ、嫌だ。
神という忌々しい存在に自分が縛られるのが何よりも嫌だった。
天羽は神に縛られるほど弱っちくない。神に仇なす強者でいたい。
救いの糸を垂らすのは神ではなくて、この
この世界が
神に値する存在が天羽の運命を決めている事実が気に食わないのだ。
傲慢で、理不尽で、残虐。
神と称する存在はいつだって彼女を不幸にする。
その理不尽に彼女は抗わなくてはいけない。それが天羽彗糸の使命で、生きる意味なのだ。
不幸の星に生まれた
それがきっと、
「あたしは絶対あたしでいてやる。藍花悦として生きるものか」
弱々しい声が部屋に響く。
それがどんなに無謀で不可能な事だと心の奥底で理解していても、抗うことは決してやめない。
苛立ちが脳を埋めつくしているといやな音がスクリーンから鳴った。
ビーっと鼓膜を突き破るような音は赤いスクリーンとともに失敗を天羽に伝える。
「エラー……?くそ、手を回されたか。名前を伝えたのは間違いだったか?」
崩れるような音を立ててスクリーンを叩き割る。電子の光を反射して砕け散るガラスは天羽の手に傷の一つも付けやしない。
詰んだ、詰んでしまった!
結局何もせずここから立ち去らねばならないのか。
腹立たしい、実に腹ただしい。天羽は出来ない子という証明が消えることがないと、割れたスクリーンと無機質な音が伝える。
貼られたレッテルは永遠に剥がれない。
「……くそっ、こんなあたしなんて、死んじまえ」
自分の体を抱きしめ、ぶつぶつと言葉をこぼす。
出来ない子と言われるのが何よりも嫌だった。
何も出来ない現実を見たくなかった。誰も救えていない天羽を認めたくなかった。
何もかも疲れてしまった。自信を無くした心は徐々に精神を蝕む。
苛立ちと不安に押し潰された心臓は机に置かれた銃のグリップを握れと囁く。
掴んだグリップ、頭に向けた銃口。乾いた音を立てて弾丸が放たれると、こめかみに衝撃が走る。
カランと涼しい音を立てて床に落ちたのは、使われた薬莢とこめかみに打たれた銃弾。
打たれた銃弾はこめかみを貫通し、血をこぼさずに床に落ちる。床には血の一滴も落ちていなかった。
痛みも、寒さも、暑さも感じないこの体は正常に機能する。
彼女は生きていた。
生を願わなくても生きる体。トラックに撥ねられようが、銃弾で打ち抜かれようが、剣で貫かれようが彼女は死なない。
「……そうよ、そうよ、あたしは、あたしは出来る子なのよ。何万回殺されても生き返る、
その生が彼女に希望と自信を与える。
永遠の生命が彼女を強くさせる。誰よりも傲慢な自信は人を超越したこの体から溢れていた。
落ち着きを取り戻し、椅子に座ると揺れた髪から漏れた火薬の臭いが鼻をくすぐる。
クンクンと髪と体の匂いを嗅ぐが、強い火薬の匂いが鼻を狂わせる。それでも拳銃のグリップを握っていた手が酷い臭いということだけはわかった。
学園都市製の拳銃とはいえ、火薬を使っているので臭いのは当たり前か。
日本は安全な国、この国で握ることはないと思っていたのに。嫌な匂いが昔住んでいた国を思い出させる。
心臓は再び苛立ちを増した。
もう来ない妹との平穏。戻りたい世界。
「……くそっ、最悪」
早く帰って、シャワーを浴びよう。気持ちを入れ替えて席を立って、部屋を去る。
重い足取りは朝焼けの美しい外の世界に向かっていた。
死に損ないの出来損ない。
誰かを救わなければ自分の価値も見いだせない欠陥品。
嗚呼、ダメな
◇
明るい部屋の中、部下の報告を黒い革製の椅子に座って男が聞いていた。
白衣を着るその男はいかにもな研究者ルックをしており、疲れた目をしている。
先ほどまで上司と口論をしていたその男は、いつになく焦燥気味だ。
「藍花悦が来た?」
「えぇ、研究所で護衛をしていた暗部組織が遭遇したとのことです」
部下からの報告は随分とめんどくさいものだった。
介入予定のない第六位が姿を現した。その事実は実に厄介だった。
「……面倒なことになったな」
「彼女へ実験協力は却下されてますし、彼女がこちらに牙を向けるとは思っても見ませんでしたね。天井さん、どうします?」
「彼女に対しての有効的な攻撃手段はないんだよ、どうしようもない」
あの女が動くのは想定外だ。そもそも実験が彼女の耳に入るはずなかったというのに、どこで間違えたのだろうか。
天井と呼ばれた男がため息をつくと、部下は首を傾げた。
上司の言葉が理解できなかったのだ。
「彼女は不死身というだけでは?捕まえて実験に使えばいいのではないのですか?」
「アレは人間じゃない。それに上層部のお気に入りをそう簡単に潰せない」
藍花悦はその性質、その能力、その本質から上層部に匿われていた。
だからこそ彼女に実験データを見せてはいけないとの御達しがあり、厳重に隠していた。
それが突破された事実は責任者である彼の胃をキリキリと痛める。
「まぁ
「そうじゃない。彼女は本当に
彼女が上層部、つまるとこアレイスターに匿われていたのはその肉体故のことだった。
彼女は人間ではない。
人と乖離した存在を知るアレイスターはそれを理解していた。
深く理解することはなくとも、彼女が人ではないと、彼の守護天使が囁く。彼女が神の頭脳を持ってしなければ知り得ないことをアレイスターは知っていた。
とはいえ、彼女が人外に近い得体の知れない化け物ということは万人が知っている情報ではない。
現に、この男も
しかし、そんな立場にいても
どんな事実が隠されていようと、それしか彼は知らされていない。しかし、それを詮索することが命を脅かすことだけは知っていた。
「それってどういう……」
「それは君が知ることじゃない。とりあえず藍花悦に関する情報は厳重に管理しておけ、面倒なことになる前にな」
だから彼は詮索しないように部下に忠告する。
彼女に情報を漏らさないように、厳重に鍵をしなくては。
ただでさえ擦り切れた精神は彼をじわじわと狂気に陥れていく。