月が煌めく夜、痛みによって夢から醒めた天羽は静かに椅子の上に立つ。
重い背中と周りを囲む人達の視線にうんざりしながらため息を着くと、同じように背中に翼を背負った少年と目が合った。
「は……?天使?」
目を丸くして天羽を見ると、彼は小さく言葉を零す。
天使だなんて笑わせる。この世界で生きるための媒体という役割しか持っていないそれに驚かれたって困るだけだ。
彼女は天使ではなく死人なのだ。例え天使になってしまっても、彼女が死んだことには変わりはない。
「全く、嫌になる。こんな椅子に座らせて、こんな世界に呼びやがって」
再び相まみえたあの薄汚い神は彼女を愛していると言った。
神は愛故に彼女をこんな姿にして、愛故にこの世界に降ろした。全てはあの野郎のせいだった。
あの白い世界で知った真実に唇を強く噛み締める。
クソ野郎。一番の願いは叶えられず、初めて願った自分だけの
激しく心を掻き乱す真実に顔が歪む。嫌になるような真実は天羽の思いを踏み潰すようなものだった。
「いやはや、まさか起きてしまうとは!しかもこんな見た目とは。失敗作だと思っていたのですが……見当違いでしたかね?」
「あら?貴方科学者じゃないの?失敗作は新しい可能性の種なんだから、蔑ろにするのは頂けないね」
嫌な記憶にむしゃくしゃしていると、眼中にもなかった白衣の男に話しかけられる。
誰だったかと一瞬戸惑うが、この研究の責任者だと気づくと口角を上げた。苦々しい顔をする科学者は、返事の代わりに銃口を向ける。
彼と、彼の周りを守る警備員の服装をする正気を失った男たちが虚ろな目で銃を構えた。向けられた銃口に更に笑みが漏れる。
「あぁ……そういえば居たね、正義を名乗る意思無き集団」
光のない目で天羽を一斉に見つめる男たちは何を言われても言葉を返さない。
自分の意思でなく他人の言葉で動くのは些か癇に障る。正義とは誰かを幸せにする自分だけの方程式、誰かの言いなりになっているだけでは成りえないのだ。
「あなたの正義を貫くのは素晴らしいよ、けど、自分にとっての正義じゃないと意味が無い」
虚ろな彼らに笑いかけると、たちまち彼らは膝を落とし、地面と接触する。汚い地面に音を立てて倒れ伏す彼らに言葉をかけても、返事を返す人はいない。
規則正しい寝息を立てる大柄な男に、小さな歯ぎしりをする女、多種多様な寝方で夢を見る彼らを車椅子の背もたれの上に座って見下ろした。
「おやすみ、自分の正義を見つけられるといいね」
彼女を殺そうと牙を見せたくせに、殺すはずの相手の演算で寝てしまった哀れな子羊ども。
夜の風と彼らの寝息が耳を掠める。ここに立っていたのは三人、死の運命にある科学者と、悲劇の英雄とそのヒロインの幼い少女。そして天羽はそれをひとり上から眺めていた。
それぞれが互いに鋭い眼差しを向ける。とくに、既視感を覚える姿をした彼女に。
「……やっぱり、お前変だよな」
「余所見してていいの?」
言葉を濁して呟く垣根だが、頭上に影ができると彼は一気に空に飛び上がる。降り注いできた土や瓦礫が地面にクレーターを空けると砂埃を舞いあげた。
未知の物質で出来た翼でその土埃を薙ぎ払うように大きく羽ばたかせて空を飛ぶ。広いサッカースタジアムの光を浴びて彼の翼は神々しく白く光っていた。
美しい姿を地上から目を細めて見つめるとその視線が鬱陶しいのか彼は嫌そうに顔を顰める。
「テメェも飛べや鳥人間」
「解剖学的に人はどんな翼を持ったって飛べやしないよ、垣根くんじゃない限りね」
天使であろうと、翼があろうと、人である彼女は飛べない。
体の重さ、筋肉のつき方、どれをとっても翼を生やしただけでは人間は姿を保ったまま飛べないのだ。
常識的に、科学的にそれが当たり前であり、常識外れな能力をもつ垣根でもない限り出来ないだろう。自分は結局、自分の枠組みでしか考えられない。
空が飛べない事実を知っているから、それが当たり前だと思っているから、天羽は彼のように空は飛べない。
「じゃあその輪っかはなんなんだよ、能力とも科学ともかけ離れてるじゃねーか」
「AIM拡散力場の異常だよ。
空を飛び、杠林檎が彼めがけて飛ばす瓦礫を華麗に避けながら彼は苛立った声で投げやりに声を放つ。
翼は本物だが、天使の輪は恐らくAIM拡散力場の影響だろう。
虚数学区が天羽の体にいちばん身近にある天界だ。天国から落ちてきたと仮定すれば、
もっとも、自分の能力にAIM拡散力場があればの話だが。
「それで?天使様、
少し意識をメタ的な要素の考察に逸らしていると、垣根はため息をついて天羽と目線を合わせた。
大きな翼で空気を掻き混ぜながら空を飛ぶ彼の髪が揺れる。杠林檎がぶつけ続ける鉄や土の塊を風ではね返して、壊して。
他人行儀かのように嫌味ったらしく含み笑いを見せる彼に目を伏せながら口角を上げると、同じように彼も目を細めて笑った。
「もちろん……っていいたいとこだけど、もう決着つけちゃったよね?」
「よくわかったな?ま、お前に食らわせた奴だし、わかっても無理ねぇか」
「あたしのおかげだね?じゃなかったら苦戦してたでしょ」
「感謝はしねぇからな。俺の実力だバァーカ」
経験と実践は何よりも大切だと、元学者である天羽は知っている。これまでの積み重ねが物語を変えることも。
彼が生み出した物語の変化や、彼女がいるからこその経験の変化、それによって様々なことが変わってきている。それは素晴らしいことであり、素敵なこと。
これからの身の振り方を改めた方がいいかもしれない、と一人思う。
天羽なんかよりも、よく出来た素敵な少年に色々と教えてあげれば、彼自身の力で不幸を跳ね除けれるかもしれないのだから。
「何を言ってるんです?」
くすくすと互いにしか分からない話で盛り上がっていると、今まで黙り込んでいた木原相似が口を開いた。
天羽を彼から遮断するように、隠すように木原が前にでると、彼は蛇のように鋭い目付きで睨む。
「んー……あの子には問題点が多いよねって話、かな?」
「……言っているでしょう?代替品だと。オリジナルに問題点があれば代替品にも引き継がれます」
すこし非難を含んだような言い方をすると、木原相似はさらに目付きを鋭くさせた。
しかし、そんな顔をされたって現実は変わらない。天羽の首を刎ねたあの
「同じ問題点、なら同じようにすればいいだけだろ?」
「はい?」
だからこそ、今の垣根なら簡単にいなせてしまう。
ぱたり。
今まで荒い呼吸を続けていた杠林檎が柔らかい地面に倒れる音がした。
「人間は案外脆いのよ。血管に空気入れたら死んじゃうし、頭ぶつけたら死んじゃうし、
「ど、どういう」
「まさか嫌いな女の口を閉じるために使った手がこんな時に役立つとはな」
ゆっくりと地に降り立つと、彼は息苦しそうに地面に寝る小さな少女に駆け寄った。
芝生とはいえ、穴ぼこだらけの地面を裸足で走るのは得策ではない。それが小さな女の子なら特に。
呼吸が正常に戻ってきた少女に安堵の溜息を零すと、垣根が小さく寝息を立てる少女を抱えた。勝ち誇ったような笑みを浮かべる垣根に腹が立ったのか、目の前の科学者は少年を見上げて苦々しい顔で睨む。
「あたしは酸素がなくても脳がまともに動けば理論上は生きてはいられる。まぁ、ちょっと前に失敗しちゃったけど」
可愛らしく睨む様に笑いが溢れると、丁寧に説明をし始めた。
夏休み最終日。あの日垣根が天羽に何をしたかを思い出しながら、ゆっくりと、丁寧に。
「
彼があの日したこと、それは
酸素という原子に
あの日と同じように羽で巻き上げた風に混じらせ、酸素を新たなものへと変えたのだ。
「
「今の本人なら対策するだろうからこんな失態見せないだろうけど……この子は
八月の半ばで経験した爆発と熱を思い出す。あの日の焦げ臭さと、息苦しさは最強でない杠林檎には堪えるだろう。
「果汁で作られたリンゴジュースと化学薬品で作られたリンゴジュースは同じ
真っ直ぐ、一直線に瞳で科学者を射抜く。
人とは違う生き物を前に、科学者は唇を強く噛むことしかできなかった。
「果汁で出来たジュースは化学薬品で出来たジュースにとって変わることは無い。お互いが本物で、お互いが偽物。代替出来るのはその概念だけ」
本物なんてない。偽物なんてない。
全てが唯一無二で、全てが代替品。
忌々しいあの神を自称する気味悪い汚物が連れてきた平行世界。世界そのものが唯一無二で、彼女の世界の代替品。
だからこそ断言出来る。
世界の全てが唯一無二で、全てが代替品に成りうるのだ。
「
「何が言いたいんですかぁ……?」
「お前、本当に超能力者の価値が見えてんのか?」
天羽の言葉に繋げるように垣根は口を開く。
単純な話だった。
杠林檎は
「お前は超能力者を自分が理解出来る部分だけ解釈して、自分が知ってる技術で代替しただけじゃないのかって話だ」
垣根の言葉に、木原は柳眉を逆立て歯を食いしばる。両手の拳を握って、手袋に深く爪をくい込ませた。
「まぁ、気づいたところでもう遅い。はじめからやり直しだよ」
ぱん、と首を傾げて頬の辺りで手を叩く。
脳細胞の破壊、意識の離脱、痛みのない
救いの糸を暗闇とともに垂らす。夏の夜に
それが彼女にとっての正義だから。
前に進めるように、救いの糸を垂らすだけ。
それが天羽彗糸のやるべき事。
クレーターだらけになったフィールドで黙々と寝息を立てる人達を一箇所に集め終わると、重労働にため息を着く。色々と情報がいっぺんに入ってきたからか、今日はなんだか疲れてしまった。
背中に生えた重い白い塊と、淡く頭上を照らす不気味な四角い冠。嫌な生物との逢瀬を思い出すと吐き気がこみ上げる。思い出したくもない。
吐き気を催す記憶に苛立ち、椅子に深くもたれかかったまま垣根へ視線を逸らす。
サッカー場の芝生の上で子供を抱えて長い足で立つ彼は少々犯罪臭がする。ホストのような少年が可愛らしい幼い少女、しかも薄っぺらいキャミソールだけの子供を抱き抱えるのは傍から見たら通報案件だろう。
「それでその子はどうするの?」
「この場で起して病院に連れてく、後遺症とか心配だしな。お前の病院で検査して入院させろ。拒否権はねーから」
「はいはい、お姉ちゃんは拒みませんよ」
随分と勝手な彼にため息がでるが、彼なりの甘え方だと思うとにやけてしまう。誰かに頼られるため、誰かの役に立つため生きているのだから、嬉しく思うのは当然だ。
姉とは寛大な心も持っているのだ。自分の看護師としてのスケジュールと、少女の容態から分かるアバウトな入院日数を簡単に割り出したり、病室の空きを思い返して少女を守る最適な計画を計算してみる。
なんだかんだと多忙な彼女だが、
色々と考えながら上体を起こしてみるが、不安は消えぬまま。果たしてこの後ちゃんと物語を変えることができるのだろうか。
救った後の未来を考えても、まだ救えていない現状では取らぬ狸の皮算用だ。
考えを巡らせながら横目で垣根達を確認する。この先どうなるかは彼次第だ。
と思ったが、眠った杠林檎を抱きとめる彼に思わず口が吃る。目に飛び込んできた光景に大人として一瞬恐ろしい考えが浮かんでしまった。
「な、なにやってんの?さすがに野外ではマズイんじゃ……」
「光と音で心──いや、脳の電気信号に影響を与えて起こすんだよ。ゴミみてぇなこと考えたら翼もぎ取って四肢へし折って焼却炉に棄てる」
「……はい」
背の高い少年が眠る幼い少女の肩を抱いて顔に手を添えている光景は色んな意味でドキドキする。どう見ても如何わしいことをする五秒前だろう。
たしかこういうのをカップリングと呼ぶのだったか。よく知らないが、目の前の光景に当てはまる言葉はこれくらいしか持っていない。
しかしそんな感情を見透かされてか、ゴミを見るかのような目で舌打ちをされてしまった。
邪な目で見ていたことに罪悪感が刺激されるが、二人の間に蔓延る奇妙な沈黙を破った子供の声ではっと我に返る。
「垣根……?」
垣根の腕にもたれかかっていたお姫様が声を絞り出す。
少しづつ現状を小さな頭で理解していくと、少女は見るからに慌て出した。
「体は平気か?」
「垣根!あのっ!ごめっ……ぁーっ」
声にならない言葉を吐き出すと、彼女はキラキラとした瞳で垣根を見上げる。
「お腹すいた!」
とても可愛らしい笑顔だった。
「っふ、はは、お前、寄りにもよって飯かよ!はは、後で飯食うか?」
「お肉もいいけど、ガレットがいい!」
きらきらと幸せそうな空間が何よりも大切な子供たちを取り囲む。
永遠に醒めてほしくない幸せ。その輪に入ったら壊れてしまいそうなほど眩しくて美しい幸せだった。
誰にだって壊させやしない。
「……問題はここからか」
だが未来を知っている身からしたらそう上手くいくはずないとわかってしまう。
自壊プログラムとかいう意味不明な技術でその命が腹立たしい神の下へ召されてしまうのは何よりもムカつく。
何処のどいつが仕掛けたか知らないが、本当にいけ好かない。
確信を持って言える、天羽は彼女を治せない。
天羽は自壊プログラムなんていう技術を知らないのだ。
天羽の能力でできることは彼女が理解していることだけ。
不老不死になれるのは現代技術では無理でも、理論上なれるという事実を知っているから。
肉体を再生できるのは細胞がどうやって分裂して、どうやって再生するかの理論を知っているから。
翼を生やしても飛べないのは、人が翼をつけても重量や筋肉の量で飛ぶことが不可能だと理論的に知っているから。
故に、時限式の自壊プログラムとかいうものの理論を知らない以上、手が出せない。
似たような症例として心肺停止が考えられるが、それを特定の条件下で引き起こす症例を知らないのだ。
それにプログラムと言うくらいだから機械か何かかもしれないし、生命維持、ひいては延命処置は出来ても完全に助けられるかと言われれば首を捻る。
「垣根さん!」
「あ?誉望、何慌ててんだ」
最善手を出来の悪い頭で模索していると、サッカー場の奥から聞き覚えのない少年の声が響き渡った。
誉望と呼ばれた少年は土星の環のような円形のヘッドギアを被り、小さなパソコンを持ってこちらへ急いで走ってくる。
名前と姿はアニメ経由で知っていたが、こんな声だったのかと思わず感心してしまう。
「貴方達が戦闘中に研究所内のデータを分析してたんだけど……」
「少々面倒なことになったかも知れません」
遅れてやってきた赤いドレスの少女──本名は確か極彩海美だったか──
天羽の頭に乗ってくる05を見るように上を向くと、顔を伝って手元へ降りてくる。
大変な姿になった人をほったらかしてどこ行ってたんだ。彼がいれば天羽が起きる前に垣根と杠林檎をなんとかできたのかと思うと、ムッと口角が下がる。
「05、あんたどこ行ってたの」
「マスターに命令されてデータ解析の手伝いを」
「とにかく、その子を今すぐ機材のある場所に連れてった方がいいわ」
「これ、これみてください」
白々しい05にお灸でも据えてやろうかと頬を膨らますが、慌てた様子の部下二人が上司である垣根に詰め寄る所を見るとふざけている場合でも無さそうだった。
小さなパソコンの画面を押し付けるように誉望が見せると、垣根は眉を顰めた。
「……自壊プログラム?」
垣根の唇から言葉が零れた瞬間、今まで上の空だった杠林檎の体が糸が切れたようにふらりと揺れる。
力が抜けるようにバランスを崩した彼女は地面に倒れかけるが、地面と接触する刹那に気づいた垣根が体を受け止めた。そのため寸での所で汚い地面に体を叩きつけることは無かった。
「おいっ!どうした、林檎!」
受け止めた彼女は弱々しく息を吐き、みるみるうちに顔が青ざめていく。
数秒前とは違う少女に誰もが目を見開いた。
かくいう天羽も例外ではない。05を手に乗せたまま立ち上がり、彼らの元へ足を進めた。
「特定の条件下での臓器への機能停止命令がプログラムされてるんです!」
「クソがっ!おい!しっかりしろ、林檎!」
汚い地面なんか気にせず、垣根は綺麗なスーツで膝を着いて杠林檎を横に抱く。
垣根の膝に頭を乗せた少女はとても苦しそうで、悲しそうだった。
「天羽っ!お前なら何とか出来るだろ!早く!」
「垣根、お願いがあるの」
「なに死にそうなこと言ってんだよ……!」
杠林檎の小さな手を握っていつもとは違う必死の形相で叫ぶ。天羽に縋るように声を張り上げ、大切な人を失いたくないと垣根は必死になって少女の手を力強く握った。
「垣根、お願い、わたしを覚えてて欲しい」
「それが、お前の救いだってのかよっ!」
「なわけないでしょ」
ぺしっと優しく彼の頭を後ろから叩く。
痛みのない衝撃に目をぱちくりさせた垣根の前に杠林檎を挟むようにしゃがみこむと、翼を広げて優しく微笑んだ。
翼で囲った三人だけの白い世界。淡い光と互いの目線が交差する。
「死とは進まないこと、不幸なこと。それが救済であるはずがない」
自分の頭ではきっと杠林檎は助けられない。
現実に縛りつけられた天羽の脳では役立たずなのだ。けれど、常識を覆す力を持つ少年ならきっとできる。
それを分からせる為、手助けする為、きっと彼女はここにいる。
自分の見たい未来のため、天羽は彼を信じることにした。
「垣根くん。あなたに出来ること、あるでしょう?」
「何言って──」
「未知の物質を操る、その可能性を貴方は提示してきたじゃん」
一度落ち着いたはずの口が再び開くが、天羽が人差し指でもう一度閉ざす。
彼の唇を閉ざす人差し指、その手の甲に留まる白いカブトムシと垣根の目が合った。
彼は知らなくてはならない。誰かを救えることを。
そのために彼女がいる。
彼がこの世界を生き抜くため、進めるため、幸せになるため、死なないため、目の前の少年を主人公にしてみせる。
「君の力で誰かを救うことが出来るってそばにいたあたしが誰よりも知ってるよ。誰にだって否定なんかさせない」
垣根の口から手を退かして彼の手を取ると、そこにカブトムシ05を優しく置いた。
カブトムシをじっと見つめると垣根は顔を上げる。もう焦りは見えなかった。
「大丈夫、お姉ちゃんも手伝ってあげるから」
怖くないよ、と言い添えると垣根はふっと鼻で笑う。
バカと小さく呟いて呆れたように笑う彼にこれ以上、言葉をかける必要はなさそうだった。
「
「ぅ、うん……」
ぽんっと05を天羽の頭に乗っけると、彼は力強い声で杠林檎に声を掛ける。
憎たらしい、いたずらっ子のような自信溢れる笑みはとても主人公らしかった。
「でもどうやって?!今から機材を持ってきた方が……」
「
「んなこと、できるとは」
自信満々に垣根は焦りを見せる部下たちに笑う。
「俺の
在り来りで使い古された言い回ししか浮かばない。どんな言葉も、今のあたしの心情を表すことはできなかった。
あの小さな液晶越しに惹かれた少年が目の前にいる喜びを表すにはこの世界は狭すぎる。
決め台詞を力強く答える彼はとてもかっこよかった。
「っか、きね」
「大丈夫、安心しろ。天羽、バイタルとって報告しろ、あと生命維持を優先して能力使え」
こんなにもかっこいい少年に頼まれてしまっては大人としては頷かないわけにもいかないだろう。
ポケットから髪留めを取り出して髪を高い位置でひとつに結ぶと頷いて息を吐く。
脈拍、呼吸、血圧、体温。
怖くないと少女の手を握ると少しづつ上体を確認していき、正常でない箇所を逆算する。
今回の場合だと脈拍と血圧が少しおかしい。脈拍は遅く、血圧が低い。呼吸は荒いが、その割に音に異常は感じられない。
一項目づつ確認していく。
「インスリン、ホルモンの過剰分泌を確認。肝臓と腎臓の機能障害を確認。ブドウ糖供給低下。徐脈性不整脈を確認。心臓、及び脳の電気系統の乱れによるものと断定。薬剤性低血糖と房室ブロックと仮定します」
「……大体何が起こってるのかは理解した。俺が脳の電気系統いじってプログラムそのものを無くす。お前は心臓部の生命維持に専念して、バイタルの変化を逐一報告しろ」
「了解しました。ペーシングと薬剤除去を試みます」
自壊プログラムなんてものの原理は分からないが、似たようなものならば知っている。
それは薬だ。
溶ける速度や形状などを変化させることで薬は必要な地点で効果を発揮する。飲み薬に関わらず、シール型、塗り薬、どんな方法でもそれに変わりはない。
杠林檎の症状を仮定するのなら薬剤による血糖値の低下が恐らく発端だ。
脳にブドウ糖が行かなかった。まずそれを解消するために脳は肝臓からブドウ糖を血液へ流そうと命令を下す。
しかし同じく薬剤の影響で不整脈に陥った為、血液が上手く循環せず、脳にさらに影響を及ぼした。
だから肝臓、腎臓、心臓といった内臓が機能停止させられるのだ。
「かき、ね、っ」
「心配するな」
病気を仮定することは大切だ。そこから新たな発見を見つけて病名を変えていく。
薬剤が投与されているのならそれが及ぼす影響を元に正せばいい。
心臓の電気系統が問題なら正常値まで戻すのを手伝えばいい。
「おい、そっちの制御は上手くいってるか」
「自分の心配しなさい。こういうのの扱いはあたしが一番慣れてんのよ」
「はっ、俺が上手くいってんのは分かるだろ」
杠林檎のおでこに手を添えて、垣根はニンマリと口で弧を描く。
部下の誉望万化から借りたパソコンで少女の脳の情報と照らし合わせながら彼は杠林檎の脳を制御していった。
人体を作り上げた今の彼ならば彼女を助けられる。
不思議と冷静な頭の隅で心は断言した。
「そうね、垣根くんに出来ないことはないのかも」
そしてそれは現実となる。
握った少女の手はゆっくりと熱を帯びてきた。
とくとく、と規則正しいリズムが手首に刻まれる。
体を巡る血液は糖を脳へ送り、心臓は正常に動き始めた。
「血糖値の上昇を確認。エピネフリン、コルチゾール、グルカゴン、それぞれ正常値まで低下。脈拍安定……うん、峠は越えたみたい」
「間に合ったか……」
呼吸音、心拍、全ては規則正しくリズムを刻み、手首からは地面を流れる真っ赤な溶岩のような血液の鼓動が響く。
少女が生きている証だった。
「でもまだ油断は禁物だよ。ほらお友達連れて病院行きな。あたしが連絡しとくから」
杠林檎を抱き抱える垣根のポケットからひょいっと携帯を摘み出し、冥土帰しの番号を入力する。
少し嫌そうな顔をしたが、直ぐに困ったように笑うと彼は立ち上がって部下に車を出せと命令すると急ぎ足で出口へ向かった。
「ありがとな」
飛び出す前に一言つけ加えて。
「……子供は純粋で、可愛いねぇ」
誰も居なくなった広い空の下で呟く。高校二年生の男子生徒にこれ程まで可愛さを感じたことはない気がした。
母性と呼ぶべきか姉心と言うべきか、一心不乱に頑張る彼らはとてもいじらしくて可愛らしい。
「保護対象、マスターと一緒に向かわなくて良いのですか?」
「お姉ちゃんはでしゃばらないのよ、こういう時は」
翼の因子を崩すように、肉体を収束するように演算をしてみると、思った通り翼はまるで花が蕾になるかのように消えていく。
バランスも取れるようになり、軽く感じる。頭上で浮いて瞼を照らしていた光る四角い冠も消え失せ、ただの人に成り下がった。
その姿に驚きながら頭に乗っていた05が人の形をとって地面に足を着けると、こてんと首を傾げて無機質な緑の目で見つめてくる。それの言葉に先程の情景が目に浮かぶ。
「それにさ」
ありがとうなんて、恥ずかしがりながら呟いた上品でいじらしく、愛らしい少年の笑顔。
不幸が決められた少年の笑み。
「自分で助けた方が彼のためになるでしょ?」
その笑顔を見るために彼女は生きている。
それが彼女のやるべき事なのだ。
自分で救うことが彼の幸せになるのなら、彼が人を救う手助けをする。
自ら積み上げたもので自らの想い人を救うことが彼の希望になるのならその道へと導く。
そうして迎えたのが天羽の夢見たハッピーエンド。お姫様は王子様によって救われた。
05を作り上げた今、彼には可能性がある。物語を自ら壊す可能性。
その可能性は天羽がいるから見えるもの、ならば彼が正しく成長するようにコントロールするのも姉の役目だ。
誰かが幸せを掴む為に、彼女は救いの糸を垂らすのだ。
「貴方は、本当にマスターのことを考えているんですね」
「そりゃあ、この世界で一番幸せになって欲しい子だから」
05の言葉に微笑むと、それは「理解し難い」とだけ言って黙り込む。
生まれたばかりのお前に分かるわけがないだろう、前世から続くこの未練を。
誰かの為に生きていたい。
誰かの為に祈りたい。
誰かの幸せの礎になりたい。
他人の為に命を使いたいのが彼女の願い。好きな人に自分のエゴを押し付けることでしか生きられない。
それは叶えられなかった未練、あの子を救えなかった後悔。
あの子を裏切ってしまった、あの子を泣かせてしまった。その事実にひたすら悔しいと心臓が叫ぶのだ。
とっても悔しかった、とっても虚しかった。
だから今度こそ、ちゃんと自分の力で
彼女は姉だから、大人だから。
神にさえ叶えられない独り善がりな祈り。
それがたった一つの願い。
「まぁ、他にも救うべき子羊はいるみたいだけどね」
後ろに横たわる哀れな子羊たちにため息をついて、天羽は青く眩しい空の下で踵を返した。
医学的なこと言ってますけどネットの知識寄せ集めなのでおかしくても許してください。作者はズブの素人なので。適当なこと言ってます。この物語はフィクションですし許して。
あと次回は金曜です。リアルが忙しくなってきましたので。