とある科学の肉体支配   作:てふてふちょーちょ

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55話:踏切の内側

象牙のような真っ白い髪を揺らして、黒髪の少女と明るい髪の小さな先生について行くお昼過ぎ。

緑の目で前を歩く彼女たちを追うと小さな体で先生を名乗る女性に笑いかけられた。

 

「でも驚きですっ!天羽ちゃんにしっかりした妹さんがいたなんて!」

 

「は、はは……ええ、まぁ……」

 

「妹……?」

 

今の自分より三十いや四十センチは離れていそうなその小さな女性に言葉を濁し苦笑いを浮かべると、ブロックが規則正しく並ぶ道を歩く。

月詠小萌と名乗ったその女性は、自分が保護し、愛すべき少女が通う学校の担任を任されている人物で、その少女と化粧を含め瓜二つの姿をしている05を妹と認識しているようだった。

 

ほんのりとウェーブがかった鎖骨ほど長い髪に、可愛い顔を隠す分厚い化粧、そして高い背と、足元が見えないほど大きい胸。

着崩したセーラー服とたくさんついたアクセサリーが幼い少女をどうも大人びてみせるこの姿は、保護対象:天羽彗糸本人に見間違われるほどそっくりだろう。

 

その全てが白くなければの話だが。

 

太陽を彷彿とさせる金色と、春を告げる桃色の花に似た色が毛先に入る髪の毛はその色を失い真新しい印鑑のような象牙色をしており、普通なら温かみのある肌は陶磁器のように無機質で青白い。

くすんだ緑の襟が特徴的なセーラー服も境目がわからないほど白く、同じように茶色いローファーも、金色のピアスやネックレス、緑色のチョーカーもアイボリーに近い白。

そしてアレキサンドライトのような赤と緑の瞳の代わりに、エメラルドも霞むほど眩しい緑が埋め込まれている顔は、たとえ彼女とそっくりでも別人ということがよくわかる。

 

この白い体が彼女と認識されるには無理がある。

より人間らしくなるために色をつけることもできるが、本人が怖がるのでしたくない。

 

「あの、保護……姉は学校ではどうですか?」

 

「いつも通り、頑張り屋さんのいい子ですよ!」

 

この体を妹と認識する担任の先生に話を聞くのはマスターである垣根帝督にとっても好機だと判断し簡単な質問を投げかけるが、返ってきた答えはマスターも05も知っているような事実だけ。

 

頑張り屋なことは彼らが一番知っている。それよりも深い内側だって。

 

それに彼女の姿を借りているからこそわかることもある。

視界、歩幅、体の動かし方、神経が集中している場所に、人からの視線。

 

道路に面した道を歩くのは何も05たちだけじゃない。

いつも化粧で隠しているどこか幼くも年相応な綺麗な顔立ちに、日本人とは思えない体型は人の目を惹き、先ほどから男性の汚い目線と、女性の嫉妬深い視線が鬱陶しい。

思い返せば彼女がマスターとゲームセンターで初めて出会った時もこういった気味の悪い目線に晒されていた。

手首を強く握ると、目を伏せて柔らかい唇を噛む。初めて感じるこの忌々しい人々の目に、彼女は何も思わないのだろうか。

 

天羽彗糸と05の関係性は一言で言えば母と子だ。

母に害する者がいるのなら、それを排除するのが彼女のために作られた生き物の務め。

彼らはこの体の持ち主のために生きている。それが05のやるべきことで、生まれた意味だから。

 

「05、どうかした?」

 

「いえ、なんでもありませんよ」

 

心配そうな杠林檎の言葉に我に帰ると、いつものように笑顔を作って優しく振る舞う。そういう風にプログラムされている思考回路はそれ以外の振る舞い方を知らない。

作られたこの精神と体は例え垣根帝督と同じものを元にしていたのだとしても、改変されている性格は少しずつ変わってきていた。

 

「それでお聞きしたいのですが、彼女がやってる緊急係とは一体なんなのでしょうか」

 

「あぁ!あれですか!あれはですねぇ、天羽ちゃんが自分で言い出したことで、私と、親船先生と、黄泉川先生で上に掛け合ったんですよぉ」

 

「自分で?」

 

「夏休みに先生のお家に来ましてね、色々計画を立ててたんです!すごい行動力ですよね、天羽ちゃん」

 

道を歩きながら必要な情報を尋ねると、小さな先生は自慢するかのように笑顔で様々な話をしてくれる。

保護対象の新たな情報を集めて、送る簡単な作業を繰り返すが、その処理の裏側で05なりに情報を処理していった。

 

よく存じ上げない係の名に、必死になる研究、その思惑を理解しようと懸命に作られた脳を動かす。

それでも理解は深まるどころか遠くなるばかり。

 

この間、木原相似に連れて行かれた時もそうだった。神だの、世界だの、意味のわからない言葉を発する彼女を簡易なプログラムは理解できなかった。

 

自分を傷つけると宣言していた男について行き、人間にしかできない『秘密』という言葉で05の行動を制限して、弱きを助けようとする。

そんな人間である彼女を、作り物は永遠に理解できない。

 

「いつも、私達に黙って彼女は何をしてるんでしょう」

 

「ん?どういうことです?」

 

「あの人は何かを知っているようにいつも振舞って、そして知らない内に怪我をして、知らない内に何かを解決しようとする。私は彼女の思考が全く分かりません」

 

足を止めると、眩しい青い空が見下ろす。単純な疑問が口という器官から出ると、その言葉に月詠小萌がその空を見上げた。

盾である自分は疑問など持ってはいけない。それでも、マスターとリンクし、彼女と多くを話す05は、今まで考えたこともないような疑問が感知できないほど体に蓄積されていた。

 

「ふーむ、難しい質問ですねぇ」

 

「私も、わかんない」

 

「杠ちゃん?」

 

「……天羽とね、あまり話したことないの。だから天羽のことなんも知らない」

 

05の袖を掴むと杠林檎は少し眉を下げて小さく呟く。掴んだ袖が何を意味するのかは分からなかった。

 

「そうですか?コミュニケーションはあると思うのですが」

 

「んーん、そうじゃない。一緒に住んでるのに、どこの研究所にいたか、どんな服が好きか、どんなお菓子が好きか、そういうのわかんないの。天羽はいつも私の事ばかり聞くからちょっと、怖い」

 

「確かに、天羽ちゃんはあまり自分の話をしませんね。いつも忙しそうですし、自分のことは二の次なんだと思いますよ?」

 

保護対象は、誰の目から見ても頭がおかしい。

 

一番大切なはずの自分自身を狂気と呼べるほどに蔑ろにし、ほかの人間に奉仕する。少し喋った程度の人間でもその狂気を爪の先程度は理解できるだろう。

しかし、毎日一緒に過ごす05たちにはその狂気を他の人間とは比べ物にならないほど垣間見てきた。

自分のことは何も言わずに、他人を一番最初に考える彼女は小さな日常の中にも黒いインクのような狂気を滲み出していく。

その姿は恐ろしく、危うくて、手を差し伸べてくなるほど可愛そう。

 

「でも怖いですかぁ……悪い子ではないんですけどね。自分に無頓着で、自信がないんですよ。それに、杠ちゃんをとっても大事に思ってるってことですから、杠ちゃんから聞いてみればいいかもしれません!答えてくれると思いますよ」

 

「……そんな簡単に人を知れるのでしょうか?」

 

上位個体ですら知り得ない彼女の深淵。それを易々と理解できると宣う小さな教師は随分と大人に見えた。

 

「知れますよ!だって()()()()()ですから!」

 

同じ生き物。

 

その言葉に九月上旬の彼女の姿を思い出す。白い羽を生やし、四角い光を頭上に浮かべたあの姿。

神の使徒と呼ぶにふさわしい姿をした彼女は、どこかで嗅いだことのある甘く濃い匂いをしていた。

 

05は人間ではないけれど、あの姿の彼女なら分かるかもしれない。

彼と同じ、羽を生やした生き物である彼女なら。

 

あの日の興奮が蘇る。

 

木原相似の元へ行く彼女を止めなかった己が理解できなかった。なぜそんな行動を起こしてしまったのか、組み込まれたプログラムは答えを出さなかった。

 

きっと理解していたのだ。

彼女を突き落とすことで、同じ土俵に立てると。それが頭の悪い不幸な天使に近づける唯一の活路になることを。

 

「05!杠ちゃん!」

 

遠くから声がする。

 

金色と桃色の少女がマスターの隣に立って05たちを呼ぶ姿を見つけると、背の低い教師に一礼をして杠林檎の手を引きながら彼女の元へ走り出した。

 

 

━━守りたい少女の声が私を導いていく。それはまるで神の示した道のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ太陽が青い空に高く昇っている昼ごろ、美しい金髪に、露出度の高いエスニックな衣装を着た背の高い女性がヒールを鳴らしてぐるりとあたりを見渡す。

想定より多い警備の数に眉を顰め、鋭い目で睨むと小さく愚痴をこぼした。

 

「嫌ね、警備が多くなってきてる。もしかして、お姉さんがいる場所筒抜けだったりする?」

 

数の多い警備員(アンチスキル)はオリアナ=トムソン、ひいては彼女らの野望には目障りなのは確実で、いかなくてはいけない場所に現れる彼らにめんどくささを感じていた。

変更された警備状況を鑑みるに、次に確認できそうな場所は残り少ない。どうするかと短く息を吐くと、青い空を睨みつけた。

 

「……予定を早めたほうがいいかしら。どっちみち殺すことには変わりないんだし」

 

誘い込まれているような感覚が脳裏を掠めるが、あの哀れで無垢な桃色の乙女を泥に沈められるのなら誘いに乗るのも悪くない。

クラゲの足のように腰布から伸びる白い布地がひらひらと風に舞うと、願いを叶えるため、ヒールの音を響かせて女は前に踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緑の芝生に多くの観光客や保護者、学生たちがレジャーシートを広げてご飯を食べたり、食べ終わって談笑したりと賑やかな公園の隅、木陰の下でそれぞれの上着を敷いた上に座る。

暗いからか、垣根たちのカタギに見えない雰囲気に気圧されたのか、木の近くだと虫がいる事実が嫌なのか、賑やかなはずなのに周りに人がいないこの木陰の下はそよそよと心地よい風が頬を撫でた。

 

「ね、好きなご飯は?」

 

「んー、中華かな」

 

「好きな服は?」

 

「Tシャツとズボンさえ有れば生きれるよ」

 

「好きなお菓子は?」

 

「強いて言えばキャラメル?」

 

食べ終わった弁当と、外されたピンク色のガンホルダーなどを置いた地面はたくさんの枯葉が重なり合い、その一枚を手に取ると春のような女が隣で目尻を下げて笑う。

周りに人がいないとは言え、あけっぴろげに自分の情報を喋るのは少し面白くない。しかし垣根の冷たい視線にも気がつかずに、膝に乗った林檎と体を向き合いながら彼女は能天気に面白みのない会話を続ける。

カブトムシの姿に戻った05も彼女の胸の上に居座っており、なんとも居心地の悪い疎外感を感じていた。

 

「パトロールとやらはいいのかよ?」

 

「連絡くるまでは休憩。ねぇー、杠ちゃん」

 

何もせずに桃色と金色の髪を風に揺らす嫌いな女に責めたように嫌味を投げかけると、彼女は林檎を胸に沈めるように抱きしめて長い舌を出す。

 

「むぐ、これ、何が詰まってるの?」

 

「脂肪と筋肉と男のロマンだよ。杠ちゃんもいつか育つから、安心して?」

 

無駄に大きい胸を抱きしめて顔を埋める林檎は初めて感じる人間の柔らかさに首を捻る。貧相な身体をしてる自分の体と比べて不思議そうな顔をしていた。

そして暖かさと女体特有の柔らかさに屈し、顔を埋めて眠そうに欠伸をするとゆっくりと瞼を閉じていく。

すぐに寝息を立てた林檎に優しく微笑んで頭を撫でる姿は年の離れた姉妹に見えた。

 

「ガキ相手に変なこと言ってんじゃねぇ。教育に悪いだろ」

 

「何、嫉妬?触る?」

 

「いらねぇサービスを押し付けるな」

 

こういう時、女という生き物は本当に厄介だ。ただ男より脂肪分が多いというだけで自分に価値があると勘違いする。

胸当てをつけていないセーラー服の襟を掴んで下着の紐を見せてくる姿に呆れと軽蔑しか出てこない。

確かセーラー服の襟は正面から破りやすいようにできているんだったか。清楚の代名詞であるはずの制服が途端にそういう店での衣装にしか見えなくなってくる。

 

()()()()()()()な見た目と発言なのに、実際は大人ぶってるだけの未経験なのがさらに腹立たしい。十五歳の少女として有るまじき発言をする少女のぼんやりとした無垢な瞳に大人びた化粧は似合っておらず、チグハグな彼女に苛立ちが湧く。

 

「保護対象、そうやってからかうのはマスターだけにしておいてくださいね?」

 

「いいじゃん、全人類のお姉ちゃんはおっぱいもみんなのものなんだし。こんな肉と脂肪の塊触るだけでみんな幸せになるならエコでしょ?」

 

「エコの使い方が間違ってる上、クソみたいな考え方だな。むやみやたらにそういうことしてんじゃねぇぞ。変な奴に声かけられたらどうすんだよ」

 

自己犠牲を尊ぶこの女のふざけた考えはいつまで経っても理解し難い。

自分の胸を寄せ上げて勝ち誇ったような顔をする彼女の思想は理解できないほど馬鹿馬鹿しく、愚かだ。呆れてものが言えない。

 

「そうですよ、ただでさえ前例があるんです。自衛しなくてはダメですよ」

 

「別にあたしがナニしたって関係ないでしょ。どう扱われようが、どうでもいいだろ?」

 

ブローチのように胸元に居座る05の正論にぶすっと顔を歪めると、もう既に寝てしまった林檎を抱き寄せる。強くなっていく口調で的外れな反論をする彼女はあからさまに不機嫌だ。

自分が褒められるのに慣れておらず、人を頼らないことを信条としている人間不信な彼女には、優しさに似たような忠告は酷く居心地が悪いものだった。

だからわざと感情を揺さぶるように気持ち悪い世辞を言い続ける。

 

「……馬鹿でなんもわかってない可愛い可愛いお前が俺以外の暗部の手に渡ったら迷惑なんだよ。頭ん中お花畑なお前が暗部のクソ共に手出されてみろ、そっから先はお前の正義とやらを尽くせなくなるほどの暗闇だぞ」

 

「あたしはみんなのものだからなぁ、暗部に所属するつもりはないよ?でもベタ褒めとは珍しい。とりあえず脳外科、精神科、心療内科か眼科の紹介状書いてもらおうね、垣根くん」

 

「正常だボケ。ほーら、これなんてロリコンにウケるぞ?馬鹿みたいで可愛いよな」

 

悔し紛れに笑顔で使いこなせてない皮肉を呟く彼女の肩を抱いて引き寄せると、キラキラと光を反射するピアスが揺れた。柔らかい肌からじんわりとした温かさが伝う。

掴んだ肩は女にしては少し広いが、それでも垣根よりは圧倒的に小さい。

 

鬱陶しそうにこちらを見上げて感情に任せて喚く姿は本当に鳥のよう。彼だけが手懐けられる馬鹿なメジロ。

威勢よく鳴いても、囁くような低い声で携帯電話の写真フォルダにあった一枚の画像を見せた途端に覇気をなくしていく。

垣根の思惑だと知らず、ぐるぐると顔色を変えていく姿は思わずにやけてしまうほど可哀想だ。

 

「これ、なんで垣根くんが……」

 

「テレビ出てたんだって?」

 

「っ、どうして知って」

 

携帯に写っていたのは先ほど保護者たちに見せた小さい頃の天羽の写真。西洋の人形を彷彿とさせる幼女は、化粧をしていたとしても今の彼女と雰囲気や面影がよく似ていた。

 

「ふーん、本当に出てたんだ」

 

「えっ、っ!?」

 

自分の過去を認めてしまったことに気がつくとすぐに口を手で塞いだ。唇を結んで、視線がうろちょろと彷徨う彼女の顔は笑ってしまうほど青ざめていた。

幼さが残る顔に塗られたピンク色のアイシャドウが冷や汗に混じって溶けていく。

 

「黒髪にして、化粧落としたら、人形に見えるよなぁ。青い服を着たら可愛いと思うけど、買ってやろうか?」

 

「……遠慮しておくよ」

 

「遠慮するなよ。藍色の服を着て、髪をストレートにすれば、ほら、人形みたいで可愛いだろ?」

 

別の写真を見せると、掴んでいた肩がびくりと跳ねる。

凹凸のはっきりした女性らしい体を隠すブカブカの藍色のカンフー服と、同じようにブカブカな真っ白いズボンを着た性別不明の人物が写った画面はジワジワと彼女の精神を蝕んでいく。

カラスのように黒く、くるぶしまで届く長い髪を持ったその人物の隠れた顔は、随分と前に見た天羽の素顔と同じだった。

 

「あたし、じゃないし」

 

「嘘つき。化粧で隠そうたって無駄だぞ。それに俺は化粧してないお前を見てるんだ、言い逃れはできないぜ?」

 

藍色の服、黒い髪と瞳、人形のような気怠げで生気のない端正な顔に、胸を潰して作った分厚い胸板、隠した喉元と細い手、声変わりをしていない少年のソプラノ声。

男のような格好をしても、化粧で誤魔化そうとも、近くで見れば直ぐにわかる。彼に隠し事なんてできるはず無いのだから。

 

似合わない化粧が汗で少しずつ剥がれていく。

気だるそうな目を縁取る跳ね上げ気味のアイラインに、トリックアートの要領で描かれた無に等しい涙袋。ぼんやりと境界がぼかされた桃色の口紅を付けた唇は程よく厚みがあり、重みのあるまつ毛がマスカラやビューラー、つけまつげによって必死に上を向いているのがアンバランスだ。

気が強そうな大人の女性というより、元々がアーモンドのような垂れ目だからかただのマセガキにしか見えない。

 

年相応の、大人びた顔。

まるで子供が背伸びをして大人のように振る舞うような幼さが残る少女というのが正しいだろう。

 

武装のように固められた粉は、写真に写った別の姿を隠すためのカモフラージュ。

 

その姿の名前を、藍花悦と()()しておこう。

 

垣根がその名前にたどり着いたのはなんてことない言葉だった。写真を見たあの保護者が言った『青が似合う、黒髪の子』というどうってことのない単語の羅列。

なんの変哲のない言葉だが、少し前、具体的にいうと上条たちと初めて出会ったとき、垣根はその言葉を言っていた。

 

そのとき話題に上がっていたのがこの名前だった。何にもわかっていない第六位の超能力者(レベル5)。藍花悦という華やかな名前と、黒髪に青が似合うということしか分からなかった詳細不明の人物。

 

そこから彼女に繋げるのは簡単だった。

違う名前があるということ、隠蔽された能力があること、神の領域に踏み込める三番目であり、アレイスターが管理したがる能力者だということ。

そして必死に藍色を隠そうとするその姿に藍花悦の名前がちらついた。

 

「あーあ、可愛そうに。必死で隠してたのにな?こんな簡単にバレちまって、怖いか?」

 

「別に、」

 

「そういやお前の本名、結構可愛かったな」

 

それらしい挑発とハッタリをぶつけて彼女の肩を横から抱きしめる。強大な力を持つものからの抱擁は弱い人にとっては優しさよりも恐ろしさを感じるものだ。

青ざめる彼女を馬鹿するようにクスクスと耳元で笑うと、緑色の爪が深く食い込むほど彼女は太ももを握った。

 

彼女は頭が悪い。

要領も悪く、空回りしてしまう彼女は、脳の許容量を感情で埋め尽くされると思わぬところでボロを出し、失言する。

そんなやつに未だ遅れをとっている事実に苛立ちも感じるが、反対に言えば振る舞い以外は完璧に隠蔽しているということだ。

 

これは彼女の口から感情と真実を吐露させるための狡い作戦。なにせ今の垣根には彼女が藍花悦と繋がる物的証拠、あるいは確信的な証拠がない。

ただの憶測をつなぎ合わせただけのハリボテに過ぎないこの辻褄だけがあった推論。

証拠集めは部下に頼んでいるが、もし上層部が絡んでるなら間違いなく証拠を集めるのは困難だろう。

 

だから垣根は彼女の口からこの推論を肯定させなくてはならなかった。

 

彼の知らないこの女の脅威を一つずつ、確実に紐解いていく。

垣根しか知ってはいけない、彼しか彼女を理解できない、彼しか彼女を救えない。その領域に踏み込んで良いのは彼だけだ。

 

「……そう、そうですか。それはどうも」

 

しかし、思惑とは裏腹に彼女は失言も、怯えもせずに言葉を漏らした。

彼女の顔から考えが読み取れない。一体何を考えているのか分からないのが恐ろしい。

 

楽しいときは無邪気で無垢な笑顔、困ったときは口と眉をへの字に曲げて、恐れたときは顔を青ざめさせ、悲しみに暮れるときはポロポロと静かに涙をこぼし、酷く怒ったときは獣のように唸る。

彼女の顔は容易く感情を教えてくれるはずだというのに、時折、何を考えているのか分からない、人形のような不気味な顔を見せる。

 

初めて会った時もそうだった。何を考えているのか分からない、気怠げな目で冷たくゲームを眺めていた。そして今も。

 

心臓が一瞬、動きを止めた。想定外の反応に脳がフリーズを起こす。

どの言葉が間違いだったのだろう。垣根の目を見ない彼女に恐ろしさを感じていた。心臓がこれ以上ないほど悲鳴をあげる。

 

瞬間、どくどくと脈打つ心臓を脅かすように、その高鳴りと同じような高い音が彼女のポケットから鳴り響いた。

 

「あ、迎えが来た」

 

「迎え……?」

 

思わず掴んだ手を緩めると、彼女は寝息を立てる林檎を垣根の膝に乗せ、05をその額に置いて立ち上がる。

そしてシルバーグリーンのスマホを取り出し内容を確認すると、徐々にいつもの笑顔に戻っていった。

 

「オリアナ、見つかったの。だから行ってくるね」

 

外していた胸を強調する太いハーネスをつけ、ウィンドブレーカーを拾い上げて袖を通す。

 

「それは俺と一緒じゃダメなことなのかよ」

 

「この件は緊急係が責任を持って解決に当たらなきゃいけないことなんだよ。あたしは哀れな子羊を導きに行く義務があるからさ」

 

恐ろしい色をした瞳が垣根を見下ろした。龍のような得体のしれない悍ましさが彼女に纏わり付く。

突き放すように冷たい言葉で距離を置く彼女は、垣根が知っている彼女とはかけ離れていた。

 

「それに、もうあたしはいらないでしょ?」

 

言いたいことだけ伝えると、ウィンドブレーカーを翻して彼女は立ち去る。

もう花の残り香は消え失せていた。

 

「……今は泳がせておくか」

 

引き止めればよかったと後悔するが、既に手遅れだ。

もうすでに見えなくなった女の背に向かって小さく呟くと、強く拳を握りしめる。

 

あの女が考えていることが分からないことが自尊心を傷つけていく。垣根しか理解してはできない領域が遠ざかっていくことが不安で仕方がない。

 

「マスター、我々はいかが致しましょう」

 

「林檎を巻き込まれないようにしろ。あの女は俺の手で躾る」

 

どうせ拗ねているだけ、怖がって虚勢を張っているだけ。垣根がいないことに寂しがって、悔やめば良い。

あんな女、ちょっとくらい痛い目にでも合えば良いんだ。そして彼の元にまた戻って来れば良い。

 

━━そして俺こそがお前の飼い主にふさわしいと理解しろ。

 

 

 

いつだってあの女の上に立っていたい。無力で無謀だと分からせたい。

夢も希望もないのだと、その先にある茨の道に行くなと伝えなくてはいけない。それが彼女を任された身としてやらなくてはいけないことだと知っている。

 

 

傲慢な女の醜い最期を見たくないから、少年は彼女の側にいた。

 

 




踏み越えてはいけないものぐらいあるんですよ。
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