冷たい秋の空に浮かぶ太陽がゆっくりと沈んでいく。その空に浮かぶ何便もの飛行機の轟音に鬱陶しさを感じながらオリアナは真っ直ぐ何も無いまっさらな灰色の地面を進み、そして足を止めた。
「こんにちは、また会えたね」
何も無い場所に春を思い出させる甘ったるい色の女が立っている光景は苛立ちを増幅させ、思わず舌打ちをしたくなる。
どうやってここを突き止めた、どうやって先回りした。様々な疑問が浮かんで穏やかに見せかけていた感情を波立たせる。
「どうしてここにいるのか聞きたい?」
「……そうね、教えてくれるなら教えてもらいたいけど」
「まぁ、人の目と、監視カメラ、あとはドローンとか色々ね」
くすくすと、妖精のような邪悪な笑い声が何も無い平坦な地に響き渡る。
クッキーの生地みたいな甘い金髪に、さくらんぼのようなグラデーションと、大きな胸を支えるハーネス。ライム色のチョーカーと爪。
灰色のウィンドブレーカーを翻し、真っ白いスニーカーで地面に立つ目の前の少女の不思議な色の瞳と目があった。
緑と赤の色素異常を起こした瞳がオリアナを捉え、目を細める。笑うと犬みたく目を閉じてしまう彼女の癖は可愛さのかけらもない。
その蠱惑的な笑みは男性なら頬を染め、ベッドにでも誘うのだろうが対峙するオリアナは女性、ただ気持ち悪いだけだった。
「ま、それはいいとして、天使くんは来てないのね。あなた一人?随分度胸があるのね」
「それはアンタも一緒じゃない?分かってて来たんでしょ?」
「……そうね、そんな予感はしていたわ」
明らかに増えた警備の数、人を監視するような纏わりつく視線。決して兆候がなかったわけではない。わざと誘いに乗るようにここに立ち入ったのも事実。
糸のように閉じた瞼の隙間からギラギラと光る瞳が見透かしたかのようにオリアナを見つめる。悍ましい蛇を彷彿とさせる感情をその気味悪い色の瞳の奥に飼っていた。
「さて、全ての正義のため、あたしの個人的な理由のためアンタを殴るけど、覚悟は出来てる?」
空を飛ぶ鉄の塊が巻き起こす風に、二人の金髪がまるで生き物ように舞う。花の匂いをさせる目の前の少女は、母親の香水を勝手に使う好奇心旺盛な子供みたく屈託のない笑みを浮かべた。
何も知らずに背伸びをするこの乙女に、闇を抱えた女は酷く苛立つ。
「はっ、もしかして、バカにされたのがそんなに悔しかったの?それとも彼氏くんを誘ったから?もしくは幸せを変えるから?どちらにせよ、何も知らない夢見る処女には刺激が強すぎたのね」
「挑発のつもり?肌を重ねなくたって愛は伝えられるし、そんな
そもそも不感症だしね、と聞いてもいない情報を付け足すと、名も知らない少女は息を吐くように小さく笑う。コロコロと表情が変わるその顔はまさしく子供だ。
我儘な子供をバカにするような言葉がオリアナの口元から零れ落ちると、少女はキャラメルのような甘い声と顔を歪めて苦味を増す。
その姿を見るだけで、目の前の愚かな子供がオリアナとは相反する思考と、悍ましさを持っているのはほんの少し言葉を交わしただけで感じ取れた。
気持ちが悪い。
真っ直ぐな子供の純粋さと、大人のような汚さを感じさせるチグハグな態度が気持ち悪くて、さらに苛立たせる。喋るだけで、精神がすり減るようだった。
「あら、『ツマラナイ』?誘われたことがないだけじゃない?あ、恥ずかしくて強がってるだけかしら?あぁ、もしかして、彼のためにハジメテを守っているの?まぁ、一途なこと!」
「性愛とか恋愛なんてものがなくたってあたしは生きていけるし、あたしの愛はそんなもので満足できる程度の代物じゃないっての。まぁ、どうせ分かりはしないから、説明するだけ無駄だろうけど」
嘲笑うオリアナに目もくれず、少女は鮮やかな桃色に塗った唇を歪めて唾棄を込めた目線でため息をつく。
愛なんていらないだなんて、オリアナにしてみればそんな主張は戯れ言でしかない。愛とは人間が必ず持つ欲求の一つ、それがないとは思えなかった。
どうせ意地っ張りから出た見栄だろう。ただ大人になるのが怖いだけのガキで、それでいて大人ぶりたい年頃のめんどくさい思春期の子供。
それがオリアナが考えられる精一杯の解釈だった。
「たとえアンタの幸せが何よりも素晴らしいものだとしても、理解もせず、歩み寄ろうともしないアンタ如きに、この思いを偽物の汚い量産品にすり替えられるのは困るんだよ。だからここでアンタを止める。どんな犠牲がでようとも」
「イキがっちゃって、無様で可愛いわね、貴方。みんなが幸せになれる基準点さえあれば、貴方の愛するあの少年も幸せになれるのに、理解も出来ないのね」
「……この愛を分からない女が他人の幸せだのほざくなよ。この美しい愛の形も理解できないくせに彼に刃向かって、彼とあたしの幸せを変えようとして、あたしの愛を見下すアンタをあたしは一生許さない。だから地面とキスして謝れよ、淫乱女」
オリアナ=トムソンは知らない。
目の前の子供が
その乙女は沢山の嘘を重ねてきたが、自分に嘘はつかない。その口から出る言葉は本当の想いだった。
望むものが違う、愛するものが違う、信じるものが違う、幸せの基準が違うからこそ、人間という生き物は何よりも愛おしい。
上条当麻の幸せ、一方通行の幸せ、垣根帝督の幸せ、もう居ない妹の幸せ、自分の幸せ。全てバラバラで、全ては完全に噛み合う事はない。
そして彼女の幸せとは、彼らを幸せにするために生きること。
人それぞれの幸せに自分を消費して欲しいと本気で想っていた。
彼女の幸せを、誰かの幸せを否定する人は、彼女にとっての悪。
だからこそ少女はオリアナを酷く嫌悪していた。
オリアナの目的は魔術を使った幸せの標準化。
均一化した幸せを求むオリアナたちは彼女の幸せを、愛する人の幸せを否定する。どんなに崇高で、正しくても、余計なお世話としか思えない。
ただ彼女は認めていて欲しかっただけなのに、理解も示さず、認めもせず、あまつさえこの幸福を蔑むようなオリアナたちの幸せは否定しなければいけなかった。
彼女は傲慢な己の意思に従って、自分の価値を揺るぎないものにするためにこの場に立っていた。
それは愛する少年のため、愛する妹のため、自分を選んだあの神にこの価値を分からせるため。
彼女は天国の下、自らの正義を誓う。
「ま、土下座したって絶っ対、許さないけどね!」
とびきりの笑顔を見せて、彼女は胴体を包むウィンドブレーカーから取り出したサイコロを振る。正確にはサイコロに似せた小さな爆発物。
削板軍覇に彼女の思いを肯定された今、彼女を止める安全措置は壊れてしまった。いつもいるはずのセーフティーがいない今、過激な思想を過激な方法で伝えることしか思いつかない。
「っ!同じ手は通用しないわよ!」
「テメェの魔術は分かってんだよ!」
「なっ、!」
馬鹿の一つ覚えと言わんばかりに、なんども、なんども、彼女は危険物をばら撒く。
自分の体を危険にさらしてまで、派手な音と荒ぶる風を味方にして彼女はオリアナをじりじりと後退させ、魔術を使わせる。
弾が枯れるまで、少女は自分の体に傷をつけては治し、危険な行為を続けていく。距離を縮めるまで、止めやしない。
「アンタの魔術は銃と同じ。同じ弾は二度と使えない。使い捨ての魔導書を沢山持ってるってだけ」
誰にも教えていない、ましてやズブの素人に手の内を明かされる。
何もかもを知っている口ぶりで浅葱の空を背に笑う少女の見下すような目が気に食わなかった。
けれどそれは相手も同じ。たとえ可愛らしく笑っていても、水を、風を使って爆発をいなす魔術師に腹の中では煮えたぎるような怒りが体を燃やしていた。
「それに動作に時間がかかる。目的のページを破るのに1秒はかかるんだ、それよりも早く攻撃出来たらこっちのもの。悪いけど、肉弾戦には自信あるの」
「肉弾戦、ね?実戦で出来てなきゃ意味無いわよ?」
「確かにそうだよね、でもパワーならこちらの方が強いでしょ?」
爆炎の中、少女は強く地面を蹴る。アスリート並みの瞬発力で一瞬のうちにオリアナの懐に潜り込み、長い脚を顎めがけて勢いよく振り上げた。
すんでの所でそれを躱すが、女性特有の柔らかくしなやかな体はすぐさま次の攻撃へ入る。こめかみを狙う上段蹴りが素早くオリアナを目掛けて放たれると、頭を守るように構えていた細い前腕にヒビが入るほどの衝撃がぶつかった。
一撃が重い。
こんな蹴りがこめかみに当たったらきっと即死だ。こんなお花畑のような少女が化け物のような力を持つとは、学園都市の作った能力とは恐ろしい。
けれど、運動能力を底上げするだけのくだらない能力なら勝てる見込みはある、そう思って腕に当たった細い足首を強く掴み、遠くへ振り払った。
「なんだ、結構力あるんだ。てっきりテクだけで体力は無いものかと!」
その勢いでバランスを崩し、投げ飛ばされた少女だが、驚くほど柔軟な体は新体操のように音も立てずに美しく回転しながら後ろに飛び去ると、精一杯の皮肉を込めて笑う。
少女には勝てる自信があった。
オリアナは知る由もないが、彼女はこの学園都市が誇るたった七人しかいないの
その実力は一国の軍隊さえ手玉に取れるほど。溢れ出る自信はその肩書き故のものだった。
まともに相手をすれば、素手で骨を砕き、歯は肌を噛みちぎり、足で体に穴を開け、鞭のようにしなる身体で美しく懐まで潜り込まれる。
目の前の可憐な少女は、第七位を除けば、この学園都市の中で一番身体能力が高く、体がしなやかで、強い力を持つ女子高校生だった。
それに加え、今回はしないと制限しているが、他人の体の支配権を奪い取れる力さえ秘めている。ハンデを課していれど、彼女はこの学園都市で一番を誇る女体の持ち主、ただの肉弾戦で勝てるのは聖人か、第七位のみ。
「ふ、ふふ」
「あ?何笑ってんの」
しかしそれを知らないオリアナは少女の言葉はただの見栄にしか見えなかった。面白くもない意地っ張りな子供の拙い見栄に彼女は笑う。
一緒にいた少年に誘うような言葉をかけたことに怒っているとしか少女の愛を解釈できないオリアナは、あまりの必死さに思わず彼女を馬鹿にしたように口を開いて笑い飛ばす。
「あなた、そんなにあの天使くんが好きなの?」
「そんなの好きに決まってんじゃん、今更なんなの?」
「じゃあ、天使くんに見せたくなかったでしょうね」
「は?」
頬を染めることも、照れ隠しに真反対のことをいうありきたりな反応も見せず、少女は首を傾げた。
少女が垣根と呼んでいたあの翼を持った少年を好きになるのは至極あたりまえなことで、その後に続いたオリアナの言葉の意図も何もかもわからない。
「貴方が死ぬところに決まってるじゃない」
「何を……ッ、」
一枚、手に持った単語帳のページをオリアナの唇が捕らえた。
そのページが紙の束から引き千切られると、まるで汚い土の下で凍る霜柱を踏み潰したよう音が少女の耳に届く。
鼓膜に響くその音は他ならぬ彼女の体から響く音だった。
「貴方が弱いのならすぐ殺すんだけど……認めたくないけど確かにパワーは私以上ね。テクニックはないけど持久戦になったら私の不利になる。だから、とっておき。どうやらこれで正解だったようね」
「っあ“、ッがは、っうぇぇ」
「しつこい女に、天使みたいな子ねぇ……学園都市って、面白いわね。あなたみたいな子供がいるなんて」
封をゆっくりと剥がすように、つけた覚えのない怪我が開いていき、じわじわと何箇所にも傷口が広がる。
最初は背中、そして肩。
ぱっくりと目のように割れた皮膚から滲み出る血液が真っ白なセーラー服を汚して、足を伝い地面に血溜まりを作っていった。
傷ついた内臓のせいで口腔に生臭くて酸っぱい胃酸と血液の混ぜ物が込み上がると、呻き声が小さく上がる。
まるで大きな事故にあったような傷が静かに広がるその姿は目論見とは違っていたが、結果よければ全て良しとも言うように、オリアナは大して気にはしていなかった。
何回も爆発に突っ込んできた彼女なら、制服の下に沢山の傷があるだろうと推測して魔術を発動させたが、思っていたものよりはるかに多い出血量に、乾いた笑いが漏れる。
硬い骨の割れる音、柔らかい肌が裂ける音、鉄の匂いが空気を侵食していく。そして同じように、少女の感情も吹き出した血液とともに心から溢れ出す。
「っは、天使、天使って、うるせぇ、んだよ」
「はい?」
「そんなに羽の生えた生き物に会いてぇなら、あたしで我慢しとけっつってんだよ!!」
吹き出した感情は、質量を持ってこの世界に現れた。
赤に染まった上着を脱ぎ捨て、露出したのはセーラー服を突き抜ける一対の大きな翼。
そして頭上に浮かぶ眩しい四角い輪がヘブンリーブルーの空と檸檬色の髪を照らし、体を追うほど大きな翼はオリアナがよく知っている伝説の生き物によく似ていた。
名前の通り、少女、天羽彗糸は正真正銘、天と繋がる生き物だった。
「っは、あなたも!?本当に、学園都市は面白い!」
「いいぜ、相手してやるよ
彼女は酷く恐ろしい顔で心を埋め尽くす汚い想いを叫ぶ。
スカートの下から抜き出した柄の長い警棒を握りしめて、痛々しい声を張り上げた。なりふり構っていられない。
気管を開いて酸素を必死に掻き入れて、瞳が開き、交感神経に刺激が広がる。アドレナリンで動いている体は死に瀕してもなお、この悍ましい感情を伝えるために心臓を動かしていた。
「ッ、嫌ね、醜い女の嫉妬は!傷をつけてもそんなにプライドを守りたい?」
「このッ、この傷を!馬鹿にすんじゃねェ!!」
痛みのない重い体で腕を持ち上げ、オリアナの脳天に警棒を振り下ろす。しかし、徐々に傷が増え、骨が折れていく天羽の体では、攻撃はかすりもしない。
それは酷く懐かしい感覚だった。
軋み、身体中の節々に響く自分の声に聞き覚えがある。それは十年も前の話。あの九月上旬のこと。
猛スピードで迫り来る鉄の塊に体が大きく崩れたあの日の光景が蘇る。
この傷は誰よりも大切なあの子を救った証だと、必死に保つ意識の中、はっきりと理解していた。
「……ふーん、そんな惨めな姿になってまで自分の恋を守りたいのね。本当、貴方って──」
──可哀想。
「この傷は全部あたしの勲章、誰かを救えたって証。だから、だからッ」
オリアナの一言は鋭いナイフのように心に突き刺さった。薄っすらと、透明な雫を目に浮かべ哀れな少女は叫ぶ。
全身全霊、全ての感情を詰め込んだ痛々しい声は空気を突き抜け、空を飛び交う飛行機を撃ち落としてしまいそうな程、力強かった。
「あたしを可哀想だなんて思うなよ!」
警棒を振り上げて、できうる限りの力で重い一撃を放つ。やかましい口を塞いでやろうと下ろした鈍器は灰色の地面にめり込んだだけだった。
その光景に天羽の苛立ちが膨れ上がる。
認めてはいけない、自分が可哀想ということを。
愛する家族を救い、理不尽の権化である傲慢な神に選ばれ、そしてその存在に愛を囁かれたこの自分が、可哀想で、だれかに劣っているはずがない。劣るわけがない。
劣っていてはいけない。
それはこの体で救った命、これから救う命、そしてこの舞台を整えたあの忌々しい神への冒涜。
それだけは許せなかった。
「可哀想ね、そんな血だらけで、犬みたいに唸って。可愛い顔が台無しよ?」
「どうやら、殴られるだけじゃ、っ足りねぇみてぇだな?」
「それはこちらのセリフよ。とっとと終わらせましょう?虫の息なんだから、楽にして欲しいでしょ?」
大きく距離をとったオリアナは、面倒とでも言いたいのかため息をついて再び手のひらの単語帳からページを破る。
それと呼応するように、彼女の周りからコンクリートで固められた地面に紋様が浮かび上がった。あみだくじのように不規則な線が張り巡らせられ、天羽の行く手を阻む。
淡い光を発するその線は、危険な匂いを漂わせていた。
「あ?線?」
「そこから一歩でも動いたら、あなた死ぬわよ」
「死ぬ……?この、このあたしに、死?」
「ハジメテのあなたにはキツいかもしれないかしら?
死ぬと言われ、目の前の天使は瞳孔を狭めてあからさまに動揺し始めた。メリーゴーランドのように頭上の四角いネオンの光輪が回り、セーラー服を刺し通した大きく翼を広げると、顔を伏せて風に髪をなびかせる。
「くっ、ふふ、ふふふふ」
「……何か面白かったかしら?」
二人を隔てる線を見つめ、嘲るように天羽は笑う。不気味に笑う声を不快に感じるのは思い違いじゃない。
腹を抱え笑う彼女の悍ましさが、その神々しい姿も相まってオリアナの目に恐ろしく映った。
「イカせる?!悪りぃが、こっちはもうとっくの昔に
「はぁっ!?」
「もう死なんざ怖かねぇ!それ如きで、あたしは止めらんねぇんだよ!!」
「あなた、頭おかしいっ!死ぬって言ってんのよ!?」
誰かのために生きて死ぬことがおかしいわけがないじゃないか。それを目の前の愚かで教養もない馬鹿な女に叩き込まなくてはいけない。
手にした鈍器を大きく振りかぶり、地面に刻まれた死線を跨ごうと力強く一歩を踏み出す。
「誰かのためにあたしは死ねる!
しかし、その手は届かなかった。
硬いキャンディーを噛んだ時にちかい、軽くも痛々しい音が足から体へ伝う。プレス機に潰された金属のように、軽々とへし折れた足の骨はもう動かない。
跨ぐことが出来なかった地面の線は、彼女の心情を理解することもなく消え失せた。
あとほんの数歩で、振り上げた警棒が届くという距離で、体は地へ落ち、冷たい地面をどろどろと真っ赤な血が覆う。
「ぅがっ、ぁあ“!!」
もうすでに声が出なくなり、あの日と同じように指先から体温が奪われていく。掠れた呻き声と、動かない手足では彼女を作るこの激情を伝えることも、見せることもできない。
痛みを感じない体でも、視界に入るワイン色の液体は彼女のとっくになくなったはずの心にあった古傷を抉った。
「はぁ、騒がしい子ね。ようやくスタミナ切れ?」
倒れ伏した自分の姿が見下ろすオリアナの冷たい目に映る。見るに堪えない惨たらしいその姿は、あの日を思い出してしまうほど赤かった。
あぁ、やっぱり、死んだ時こんなブスだったんだ。
酸素の足りない脳は、こんな時だからこそ、昔の感情を蘇らせる。
裂けた皮膚はきちんと化粧で隠れたのだろうか、あの子は怖がらなかっただろうか、トラウマになっていないだろうか。
美しくない自分の姿を早く化粧で隠したい。きっと自分が化粧を手放さないのは、あの時の妹の恐怖に染まる顔と、自分の体が死んでいることに起因しているのだろうと、動かない頭でぼんやりと考える。
そういえば、あの日も空は青かった。
どくどくと流れる血液に、治しても治らない傷と、折れたまま動かない体であの傲慢な神がた住む空を眺め、溢れ出る想いを心の中で呟く。
よかった、あの子がこうならなくて、と。
青春を謳歌する妹が、こんな惨めな姿にならなくてよかった。死んだのが自分だということがたまらなく嬉しい。
体から溢れる血の暖かさを感じながら、冷たくなる自分の体の心を嬉しさで加熱する。
あの子をこんな目に合わせなかった自分を偉いと褒めてあげたい、褒めてもらいたい。この体を見下ろすこの女は一生自分に勝てないと、誰にも理解できない優越感が血液のなくなっていく体を満たしていった。
◇
ねぇ、アンタは処女を馬鹿にしてたけど、あたし、そんなことよりもすごいことしたことあるんだよ。
誰かの為に命を捨てたことがあるの。ねぇ、処女なんて目じゃないでしょ?
だから、あたしは可哀想なんかじゃない。