澄んだ青い空は地に落ちていく太陽の光を浴びて、その淡い碧を地平線から光る茜色と混じり、桃色と青磁色に染まる。
その空に浮かぶ多数の飛行機に見下ろされるのは二人の女。正確には、一人の女と、一人の天使。
「あらら、死んじゃった?残念、もう少し遊びたかったのだけど」
地面に真っ赤な花を咲かせ、浅い呼吸を繰り返す哀れな少女を眺めながら彼女は言葉を零す。柔らかな肉塊は、血溜まりの中、静かに眠りについていた。
足元に転がるそれは到底同じ人間とは思えない姿で眠る。その姿が神の使いだと知っているオリアナは、冒涜的な見た目に少し眉を顰めた。
墜落した天使から溢れ出る血がオリアナの美しい足を汚していく。
体を覆うほど巨大な白い翼と、脈と共に回転する四角い輪。それをもつ少女は天使と形容する他あるまい。
体から出現したそれは前世で起きた悲劇の証拠。
冷たい灰色に生温い赤い液体を広げていくその少女、天羽彗糸は昔、死んだことがあった。
神に護られた揺るぎない精神はあれど、天国と生身で繋がる身体はとても無防備で、それこそ古傷を開く魔術にいとも容易く呼応し、この惨状を作り出してしまうほどだった。
「さて、邪魔者もいなくなったし、早くやるべき事をやらなきゃね」
惨たらしい光景から目を逸らし、面倒な少女に絡まれて散々だったと呆れながらくるりと踵を返す。血溜まりをよけ、落ちる太陽に向かうが、すぐに足を止めた。
とてつもなく大きな音が耳に届く。
金色の髪を美しくはためかせながら振り返った先、そこにあったのは青と桃色の空によく似合うMARと書かれた大きなオレンジ色の車両と、黒髪の少年の拳だった。
「オリアナァァァァァ!!!!」
「っ、なっ!ガはァ、っ!」
立ち入り禁止のフェンスを飛び越えた車から勢いをつけて跳ぶと、オリアナの頬を目掛けて右手の拳を振り下ろした。
物凄いスピードでぶつかった男の拳はオリアナの頬にめり込み、鋭い痛みをぶつける。恐ろしいほど躊躇なく拳をぶつけたその男は、この世界の主人公、上条当麻だった。
「ッは、ふ、ふふ、やっときたのね」
だがあまりにも遅かった。
それは彼女の野望を止めることではない。派手は音を立てて落ちた車から少年三人が降りると、よろめきながら赤く腫れた頬を撫で彼らを嘲笑う。
かわいそうな紅一点を救うには、少しだけ遅い。
「でも残念、手遅れよ。君の彼女、殺しちゃったもの」
運転席から降りた背の高い茶髪の少年に艶やかな笑みを浮かべた。無愛想な顔をした少年はその視線を追い、そして見つけてしまう。
視線の先には息を飲むほど悍ましく、恐ろしく、美しく、可憐で、浅はかな生き物が横たわっていた。
その異形な姿に目を見開き、口が渇く。
「天羽?」
小さく掠れた声が垣根帝督の口から漏れる。
人形のように動かず、川のように絶え間なく紅に染まった液体を身体中から流すその鳥が茶髪の少年、垣根帝督のものだと気がつくのに一秒もかからなかった。
沈む太陽よりも鮮やかな紅色がその哀れで可愛そうな少女の髪を、足を、手を、頬を伝う。春を告げる暖かい太陽のような金と濃い桜色の髪も、花に止まるメジロに似た緑に塗られた爪も、その全てが目を潰してしまいそうな眩しい赤に塗り替えられる。
曖昧な空の色は少女の鮮烈な赤をより美しく魅せ、淡い桃色に見える翼と四角い光輪に照らされた髪は花のように地面に広がり、その姿は墜落した鳥を彷彿とさせた。
「テメェェェッ!!」
「あら、いいの?お姉さんに構ってて。その子死んでるかもよ?」
「ッくそ!!」
怒りに任せてオリアナを殴りかかるが、彼女の言葉に拳を納めてなりふり構わずに惨めな肉塊へ走り出す。
急いで彼女に駆け寄って真っ赤な血を気にもせずに抱き上げると、少しだけ聞こえる心臓の鼓動と柔らかい肉の暖かさに心から安堵した。
「垣根、天羽は──」
「大丈夫だ、まだ」
怖い。
様々な感情が喉の奥を焼くように心臓から逆流していく。
血が喉を詰まらせ、呼吸が奪われていく目の前の少女から体温が失われていく感覚が鼓動に合わせて指先から伝わった。
服が汚れることを気にも止めず、延々と流れ続ける血液ごと彼女の体を強く引き寄せて、真っ赤に染まってしまった汚い金髪を梳かす。
柔らかい身体と、花の匂いが混じった血の匂い、腕に感じる誰かの重さ。
この重さを、知っている。
その重さを失ったのはずっと昔のことだ。
幼い頃、初めて自身を褒めてくれた髪の長いあの子を失った。とても惨い過去の話。
この翼をかっこいいと初めて微笑んでくれたあの子は、惨めな最後を彼の腕の中で迎えてしまった。
その枷を未だに外せていないからこそ、大切な人の死を恐れ、その死の元凶を激しく憎んだ。
それでも、二回目は上手くいった。
この姿をかっこいいと言ってくれた小さな黒髪の少女を救うことが出来た。それも、目の前に横たわる女のおかげで。
だから慢心していた。
この柔らかい生き物は死ぬことは無いと。
垣根帝督という少年から離れないと。
鳥のように五月蝿く春を告げ、犬のように自分を愛してくれるこの女が、どんな無茶をしたって死ぬことは無いと思っていた。
それは彼女の能力を見て、そして自分の実力を知ってのこと。
ちょっと痛い目を見て、垣根のありがたさを知ればいい。だからこそ、彼女の企んでいることを無理やり止めなかった。
自分の無力さを痛感すればいいと、少し苦味の強い意地悪のつもりだった。ヘマをして何もできない彼女に笑いながら「可愛そうだな」と言って、彼女がそれに怒って、助けてあげて。
それに死んだって構わないのだ、彼に隠すことを知れればそれでこの関係は終わるのだから。
ただ彼女が自分に隠す秘密を知りさえすればそれでいいと、それさえ知れればもう終わりだと、考えていた。
けれどどうだ。
肉塊を前にした途端、恐ろしさのあまり目は見開いて口からは荒い息が絶えず零れるこの体は何を感じた。
腰から伸びる血に濡れた白い翼と、淡く光る四角い天使の輪が浮かぶその頭にこの前の九月上旬のことを思い出す。無力なくせに全て一人で終わらせようとして、馬鹿なくせに全て一人で考え込んで、子供のくせに大人の振りをして、体を傷つけていく。
現に今、皮膚がめくれ、骨が砕けた顔はどう見ても穏やかだった。
━━ふざけやがって、満足そうな顔してんじゃねぇよ。
━━俺のために生きると言っておいて、一人で見当はずれな勘違いを続けてこんなざまになりやがって。この俺を差し置いて、ムカつく女に殺されてんじゃねぇ。
怒りがふつふつと湧く。それは彼女に対して、そして自分自身に対しての怒り。
天羽彗糸という乙女は、自分がいないと死んでしまうような弱者だと、自分が一番知っていたのに。
過信と慢心が己の心をぐちゃぐちゃと掻き混ぜ、目の前の可哀想な女がその汚い心臓を鷲掴む。
ペットへの愛情は、人への愛情よりもずっと重い。
大切な人間を失った垣根にとっては尚のこと重かった。
「……翼に
「どういうことだ……彼女は一体……」
血の匂いがこの場にいる全員の鼻腔の奥を刺激する。白い翼と、ネオンのように光る四角い光輪を持った生き物を、何も知らない魔術師たちは天使と見間違えた。
美しい少年に抱きかかえられた醜い異形の存在に土御門とステイルは唖然とし、言葉が出ない。
違う異質な生き物を抱いてる少年に掛ける言葉も、その生き物たちに近づくことも出来ず、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
「一定以上の怪我を負った人間を昏倒させる術式なんだけど、あと十分は解けないから死んじゃうと思うわ。今はかろうじて生きてるでしょうけど。でもどうする?解いてあげましょうか?それとも死なせておくのかしら?」
「野郎ッッ」
体を強く抱きしめ、嘲笑う魔術師を睨みつける。大事な犬の処置はもちろんするが、それよりも目の前の女を殴り飛ばして殺してしまいたい。
露出した腹を突き刺そうと翼を、未元物質を展開し、剣のように鋭く伸ばす。しかし、彼の肩に置かれた右手がそれを止めた。
「垣根、天羽連れてけ。土御門も」
「あ、あぁ……」
異能を打ち消す右手が垣根の動きを止め、翼が砕け散った。冷静さを少しづつ取り戻すと、重苦しい空気が弾けるように視線が交差する。
今やるべきことはペットの治療であり、ムカつく女を殴るのは全てを拒む右手を持った主人公の役目、悪役の役目じゃない。
「あら、お姉さんの相手は二人?二対一なんて卑怯じゃない?」
「そんなこと思ってもいないくせによく言うね」
重く暖かい体を大事そうに抱えて走り去る垣根と、それに付き添う土御門を背にし、上条当麻とステイル=マグヌスは金髪の女性と睨み合う。
「オリアナ、悪いがテメェらの企みは止めさせてもらう。命懸けで止めた友人のためにも、絶対に止めてみせる」
力強く答えた主人公は、英雄のような眼差しで目の前の女を討つと硬く右手を握りしめた。
◇
「様態は?」
上条たちが交戦を広げる中、真っ赤に染まった少女を乗ってきた緊急車両に乗せながら、垣根と土御門は互いに言葉を交わす。
鼻を掠める血の匂いに吐き気を感じながら、緊急車両に備えられた簡易ストレッチャーに少女を乗せると、強い鉄の匂いが車両内部に広がった。
「見りゃわかんだろ。出血量が尋常じゃねぇし、骨は触った感じ全部折れてるし、呼吸音はおかしいどころの話じゃねぇし、傷は一向に塞がんねぇし、どういうことなんだよこれは」
「オリアナが言ってただろ、十分はこのままだと。こっちで処理しないとすぐ死んじまうだろうな。かろうじて生きてんのは俺と似た、上位互換の能力のおかげだ。って言っても、魔術のせいなのか、延命も難しいみたいだがな」
肌色が見当たらない醜い傷を触診しながら垣根はほんの少し焦りを見せる。
オリアナの言った言葉が正しければ、彼女の受けた魔術は『一定以上の怪我を負った人間を昏倒させる術式』。
腑に落ちない。
彼女が負っていた怪我を感知して無理やり昏睡状態に陥らせるだけの魔術のはずだ。そもそも彼女の能力ならば傷なんて負ってもすぐ治せるだろうし、一定以上の怪我を負うことはあり得ない。
彼女につけられた傷は大きなものに衝突され、押し潰され、引き摺られてできる悲惨すぎるもの。
まるで車に轢かれたような、それも猛スピードでトラックに突っ込まれでもしない限りつけれないようなものだった。
検死をしたわけではないが、暗部に身を置き、人の生き死にを見てきた垣根にはわかる。
この傷はオリアナにつけられたものではないことを。
「とにかく、このままだと止血すらままならない。ここが病院なら人工皮膚でも使うんだろうが……」
「人工皮膚……それなら何とか出来そうだ。骨も何もかも未元物質で繋ぎ合わせる。血が足りなけりゃ俺が輸血する。ただ問題は……」
しかしいくら考えても、それに答えを見出すことはできない。
なら考えても埒のあかない疑問より、目の前にある問題と向き合ったほうがいい。そう思ってセーラー服にストレッチャーのベルトを巻きつけるが、入り切らない背中の白い物体に舌打ちをした。
真っ白い翼、四角い光輪、人間にはない部位はベルトで固定するにはかなり邪魔で、腹立たしい。顔を顰め、血塗れの翼を掴んで必死にベルトを回す。
「これじゃマジモンの天使みてぇじゃねぇか……」
「そいつは天使じゃないぜよ」
苛立ちながらベルトの金具を強引に繋げる垣根に、土御門ははっきりと答えた。
不敵な態度と、圧倒的な実力に、闇浸かった彼の人生。垣根帝督という人間については悪い噂でしか知らないし、土御門にとっては苦手な部類の人間だ。
次に会うとしたら共闘ではないことだけはわかる。
そんな垣根帝督に、危険人物である天羽彗糸の情報を伝えてもいいのか心がせめぎ合う。
「あ?」
「輪っかだよ、輪っか」
少し唇を結んでから息をはいて土御門は口を開いた。ストレッチャーにのせる作業を続ける手を止め、その手を強く握る。
淡い期待だった。
必死に彼女をストレッチャーにのせる彼ならば、この女の手綱を掴めるかもしれない。蛇のように蠢き、誰の手にもその本性を表さない胡散臭い悪魔を、上条当麻から引き剥がせるかもしれないと、友人想いの彼は期待していた。
「天使の輪には色々と種類がある。丸は天使が、三角は神が持つ。そして四角は神に認められた人間が持つんだにゃー。って言っても、これらは宗教美術的な観点での話で聖書にはなんら関係ないがな」
「三角と、四角……」
「天羽については俺もよく知らない。戸籍だって偽物で、存在自体がない。彼女の経歴も何もかもが不明だ。俺のコネを使って知り得たのは彼女が三番目と呼ばれていることくらい。俺に言えるのはその程度だ」
土御門の言葉に垣根はあの日見た夢をふと思い出す。何もない白い世界にいたあの禍々しい何か。
白い空間の中、定まらない形で汚く蠢き、宇宙を凝縮したかのような輝きを放つ美しいあの塊はその頭上に何を持っていた?
ただの夢だというのに、垣根の端麗な顔に冷や汗が伝う。
魔術を、そして未知を操る今の垣根に、それを否定する材料は今の所揃っていなかった。
「……手伝い、サンキューな」
「おう、これでチャラってことで」
眠る少女のスカーフを外し、暗に出てけと命じると土御門はあっさり従った。
自分のものの全てを見られるわけにはいかない、だからその紳士的な気配りに安堵すると赤で濡れた深緑の襟を両手でぐっと掴む。
セーラー服は確かに破りやすかった。
「死んだら許さないからな」
彼女だけが、どんなに最低な自分であろうと隣にいてくれる。手放すわけにはいかない。
こんなに都合のいい駒、後にも先にも現れることはないと知っている。
この恐ろしい蛇を、清らかな鳥を、人を愛する犬を手懐けられるのは、ほかでもない彼だけだ。
◇
虚無が続く、白い世界に閉じ込められる。九月上旬以来の訪問に、乙女は眉を逆立てた。
「あーぁ、また死んじゃった」
──乙女、汝は天と繋がる魂を持つ。死を目にして再び相見えることとなった
四度目の天国に翼を広げ、丸い光輪をくるくると風ぐるまのように揺らす彼女は明らかに不機嫌だった。
彼女の前に君臨する異形の存在、人が神と崇めるそれは彼女の姿を見て表情の声色で呆れたように告げる。
彼女は一度死んでいる。
それは決して変わることのない現実だ。
この世界とは異なる場所、位相から力を引き出す魔術はこの世界の住人でない天羽の体には毒でもあり、同時に人畜無害な代物でもあった。
神による
だからこそ、魔術という異世界からの法則は、神の人形と呼応した。交わるはずのなかった前世での肉体と、彼女の精神を世界に留める現世の肉体が共鳴し、あるはずのない傷を精神から呼び起こした。
「どうせ死ぬのなら、彼の為に死んであげたかったのに。こんな出来損ない、生きていたってしょうがないじゃない」
小さく、低い声が白い世界に響き渡る。色のない世界に響いた色のない声は、天から降り注ぐ水のように冷ややかだ。
白い世界に溶ける宇宙のように、何よりも美しく、全ての穢れを掻き集めた姿で神は彼女を見つめる。
悍ましい思考を持つその乙女は、神にも呆れられ、そして愛されていた。けれど、神の寵愛を受けているはずの彼女は願った通りの道を進めない。
神に決められた台本をなぞることしかできなかった。
──
神の一言が、意図せず乙女の心の奥深くに突き刺さる。
「……そっか、お父さんもお母さんも、妹も、あたしが
それが本当ならば、彼女は前世でも生きていたのに。
目の前の汚物が放った言葉は、可哀想な乙女が昔、誰にも愛されていなかったことを示し、己の絶対的な価値を見い出すために生きる彼女に大きな傷を作った。
わずかに残っていた枯渇した愛情への飢えが自尊心を酷く痛める。誰にも必要とされないことが恐ろしかった。
誰かのために生きているのに、誰にも求められない現実が酷く虚しい。
誰かに求められる価値あるものになりたくて、誰かを幸せにできる勇者になりたくて、誰かを救える主人公になりたかった乙女には、神の告げた真実は心を壊すに値するほど残酷だった。
──神が望む、汝の生きた想いを。ならば生かす、それのみ
「あぁ、そうだった……まだ生きてられるのはお前のせいだったな、クソ野郎」
お前のせいこんな目に遭っているというのに、辛く苦しいというのに。思わず叫んでしまいそうな感情を短い言葉に乗せて、彼女は犬のように唸る。
こんな人間、早く死んでおけばよかったと、疲れ果てた意識の中ぼんやりと肩を落として項垂れた。
──愛しき少年の元へ帰るがいい、乙女。務めを果たし、正しき道を歩め
神の一言に彼女は顔をあげる。疲れた笑みを浮かべ、彼女は呟いた。
「言われなくたって」
その言葉が何に対しての返答なのかは、乙女にしかわからなかった。