あとストック不足のため来週恐らくお休みです……申し訳ありません……
白い世界が溶け出し、柔らかい風が頬を掠める。体を包む暖かい毛布の中、瞼をゆっくりと開けた。
視界に広がる見覚えのない天井に一瞬戸惑うが、すぐにここが自分の勤務する病院の一室だとぼんやりした頭が理解する。ほんの少し開けられた窓から聞こえる風の通る音と賑わう街の歓声がやけに五月蝿かった。
一つため息をついてベッドに深く体を預けるとスプリングが軋む。頭を抱えて肺から全てを吐き出すと、昨日の出来事を思い出す。
オリアナによって開かれたあの日の傷、そして忌々しい神との逢瀬。
その時伝えられたことが脳裏から離れない。
誰も彼女を望まなかったと、確かに神は言った。
大嫌いな神から言い渡された真実にじんわりと目頭に熱が集まる。
「やだなぁ……」
体を包み込む暖かさが溶け出し、寒さが精神を駆け上る。どうやら神の言葉は自分が思っていた以上に深く心に傷をつけたらしい。
自分に似つかわしくない気色悪い寂しさに寒気を感じると、体を震わせ布団を深く被る。
そこでふと、体に違和感を感じる。なんだろうと体を起こすが、その理由はすぐにわかった。
髪が短く切られ、セーラー服が病衣に変わっている。しかも肌着を着ていない。
唇を強く噛むと髪を元通り胸元まで伸ばし、蔦のように伸びて波を打つ金髪を引き寄せて畳んだ膝に顔を埋める。
普通ならば驚いて慌てふためく状況だが、この光景に心当たりは嫌という程あった。
全部、聞こえていた。
肩を抱く垣根くんの大声も、土御門くんの常識的な宗教芸術学も、その一部始終を。
急に不安に駆られ顔を両手で覆う。
崩れた頬と、飛び出た肉。大昔につけた傷が開いた恐怖が蘇る。
この恐ろしい傷を子供に見せてしまった。
そして、そんな子供なんかに助けられた。罪悪感と羞恥心が大人の彼女に襲いかかる。
強く自分を抱きしめて小刻みに息を吐く。体を駆け巡る他人の血液と馴染まない物質を抑えようと、脳みそが必死に働いていた。
自分とは違う遺伝子がこの体に
割れた骨を、裂けた肉を、破れた内臓を知らない物質が繋ぎ止め、体を巡る血管には知らない血液が少量流れる感覚が気持ち悪いほど能力越しに伝わった。
この血の持ち主と、この未知の物質に対しての劣等感が激しく膨らむ。胃酸が込み上がるような気持ち悪さにぎゅっと強く肩を握り、誰もいない病室で一人項垂れてもそも気持ち悪さは消えなかった。
「起きたか、馬鹿女」
突然、体に響くような大きな音をさせながら勢いよくスライド式のドアが開く。あまりに大きい音に傷心気味の精神は酷く驚くが、何処か冷静な脳は振り返りもせずにその人が誰か理解した。
天羽を馬鹿と呼び、めんどくさそうに欠伸をする少年に心当たりは一人しかいない。
「垣根くん……」
「浮かない顔してんな。オリアナなら上条がなんとかしたぞバァーカ」
彼の苛立った顔をみるのはこれで何回めだろうか、見下す彼の不機嫌な表情に思わず顔を伏せる。
「てか髪伸ばしたのか?便利な能力だな」
「……なんで切ったの?」
「治療の邪魔だったんだよ。深い意味はねぇ」
いつもの調子で喋る彼に少しの違和感を感じながらそのままの座り込んでいると、自分の視界が突然黒に覆われる。
鼻の奥をくすぐる男物の香水の匂いと、懐かしい匂いがするその黒は、彼の着ていたジャージだった。
「…ジャージ?」
「流石にそれだけじゃ寒いだろ」
着ろと言わんばかりにジャージを手放した彼の顔を伺いながらそれに腕を通すと、今度は可愛らしい買い物袋を押し付ける。二人分の距離を開けて座った彼を不審に感じるも、今の自分にはそれを茶化すほどの気力はない。
それよりも気になるのは、疲れ気味な彼の顔。小さなため息をついて髪を搔き上げる彼からはいつもの余裕は感じられなかった。
「で、こっちは?」
「そっちは着替え。感謝しろよ?わざわざ手配したんだからよ」
彼の態度に引っ掛かりつつも、手渡された紙袋を開いて中身を確認する。嫌な予感が纏わり付いて離れない。
開けたくない気持ちを抑えながら、ゆっくりと袋を閉じるテープを色が剥がれかけた爪で切り落とす。手を少し止め、うっすらと目を開けながら袋を大きく広げると、その色に息が止まった。
鮮やかな青い下着に目を奪われる。
レースにリボン、これでもかと可愛さを閉じ込めたそれは深い藍色をしていた。
上下揃ったそれを袋越しに強く握る。丁寧にラッピングされた袋に皺がつくも、心に残ったのは虚しさだけだった。
まるで今までの自分を馬鹿にされているよう。自分の尻尾を追いかけ回す知能の足りない馬鹿な
遠回しの嘲笑が腹立たしい。
こんな皮肉めいた物をもらって喜ぶとでも思ったのだろうか。プレゼントのセンスも趣味も悪い。
「……前のは?」
「捨てた。ボロボロでもう着れないだろうし」
「そう」
「なんだよ、機嫌悪いのか?」
機嫌が悪いかだなんて、ふざけてるにも程がある。腹立たしい彼の言葉に奥歯を噛み締め、袋を中身ごと床に置くと垣根くんは胡散臭い笑みを貼り付けた。
「もしかして腹減ってんのか?なんか買ってきてやるよ、たこ焼きとか、焼きそばとか。それとも甘いもんがいいか?」
「いらない」
「あー、病み上がりだと固形物は無理か。そうだ、あれ買ってこようか?お前好きだったろ、あそこの自販機の
人を魅了する顔の造形だというのに、カッコつけて言った言葉を噛むと途端にその笑みは崩れ、沈黙が場を満たす。固まったまま視線を外す彼との間に流れる気まずい空気に思わず口角があがった。
かっこいい顔に似つかわしく無い可愛い失敗なんて、ずるいじゃないか。そんな子供みたいなことを言われたら、大人は笑顔にならずにいられない。
「っはは、ザ行も言えないとか、ガキじゃん」
「噛んでない、あとガキはお前だ」
「舌の筋肉が未発達だから噛むんだよお子ちゃま。外舌筋でも鍛えれば?」
「ガキじゃねぇ!」
しかし損ねた機嫌はそんなものでは治らない。
「キス下手のクソガキ。どうせガキらしくあたしの裸見て勃起したんだろ?後ろめたさで近づけもしないのかよ」
精一杯の侮辱を込めて、二人分の距離を開けたまま座る彼を鼻で笑う。これくらい言わなきゃ、割りに合わないだろう。
遠回しとはいえ見下され、馬鹿にされた。
いつもなら特に苛立たないことでも、今の自分には何よりも腹立たしいことだった。
彼に全て知られて、神には愚かだと憐れみを向けられ、そんな状況で彼の言葉を聞き流すほどの余裕はなかった。
「あぁ、もしかして、大嫌いなあたしを助けたのは
彼への牽制にはこれくらいで十分だろうと、ベッドから立ち上がる。天羽の上に立とうと気持ち悪い優しさを振りまく彼に、今は嫌悪感しか抱けなかった。
だって嫌じゃないか、彼にまでこの努力を貶されるのは。
言いたいことだけ言って扉の方へ体を向けて立ち去ろうとした途端、今まで黙っていた垣根くんに強く腕を掴まれ再びベッドへと投げ飛ばされた。
急に変わった視界に小さな悲鳴が出ると、髪を強く掴まれる。色のついていない金髪を掴み取り、瞬きもできないほどのスピードで彼の掌が頬を打った。
「っ!な、何!?」
頬が腫れるほどの衝撃に生理的な涙が浮かぶと、物凄い剣幕で垣根くんはガシッと両頬を掴んだ。足に跨り、体の自由を奪われた状態ではそれを振りほどくことは不可能。
初めて見るような恐ろしい顔に見下ろされ、小さく呻き声をあげると彼は手に力を込める。
「んなことするかよカス!テメェが血だらけになって倒れた後、誰がブッサイクになったテメェを一生懸命になって助けてやったと思ってんだ!!そんな俺が、お前になにか求めると思うのか!」
「っ、助けてなくても、治せたし!見返りでもなきゃ助けないでしょ!」
「俺が女に困ってると思うか!?それにな!俺らが駆けつけた時、テメェは車に轢かれたみてぇにボロボロで術が解ける頃には死ぬってテメェのクラスメイトに言われたんだよ!その状態からどう治すというんだ!言ってみろ!」
怒られたことは今までの人生で多くない。
妹が生まれる前は物静かな子だったし、放任主義の両親は天羽にほとんど干渉することもなかった。この世界でも両親とは早々に縁を切っているから育てられたことすらない。
だから誰かからの怒りを初めて受け止めることに恐ろしさを感じる。鼓膜を破りそうな声量の怒号に肩が震えるのも無理はなかった。
「テメェは弱いこと知れ!虚勢張って、自分を大きく見せようなんて思ってんじゃねぇ!俺と肩を並べられると本気で思ってんならおめでたい頭だな!お前はいつまでも、俺に守られる弱っちい女だってこと忘れんじゃねぇ!」
真っ直ぐ彼女を見つめる黒い目が恐ろしい。
並べられた正論が鋭いナイフのように突き刺さる。よく動く彼の口を塞いで、何も喋れなくしたいのに。それなのに天羽にできることは何もなかった。
「お前なんて、大っ嫌いだ!」
痛々しい声が病室を木霊する。吐き捨てられた言葉に苛立ちしか覚えられず、頬を包む手を掴み、叫ぶ。
「なら殺しとけばよかったのに!君のためなら何度だって死ねるって、嫌いなら殺してくれて構わないって、何度言えばわかるの!なんでそうしなかったの!」
だって藍色を知られ、藍花の性を知られた彼女にもう用事はないじゃないか。
こんな彼女に損得勘定を抜きにして、打算も、計算もなく、優しくするとは思えなかった。
「いい加減にしろッ!死ぬことがどういうことかお前が一番わかってんだろ!必死こいて治療して、輸血してやって、それで今お前は生きてんだ!それを殺しとけなんてふざけんじゃねぇぞ!」
掴んだ手を強く握りしめて叫んでも彼はわかってくれず、さらに声を荒げる。頬を包む彼の手は、天羽のものと同じはずなのに、彼女より大きい。
なにを考えているのかわからない彼の心情を探ろうと黒い瞳を見つめても、答えは返ってこない。
いやだ。
彼女より上に立つなんて、彼女に説教を吐き捨てるなんて。顔を全て包み込むその手が憎かった。
「こっちは
悲鳴に近い叫びが喉を痛める。思わず叫んだ失言に少し危機感を覚えるが、もうそんなことどうでもよかった。
彼女の『死』は誰よりも重いもの。あの感覚を感じたことがある彼女以上に『死』を感じた人間なんていない。
この思いが、軽々しいものなわけじゃないか。
あの重みを、あの苦しみを、お前のためなら感じても良いって言ってるのに。
なんでわかってくれないの。
「は……?もう死んだって、どういう事だよ」
「……別に、いつもの戯言だよ」
「それは、お前に羽が生えて、輪っかが浮かんで、車に轢かれたような怪我ができたことと関係しているか?」
賢い彼は天羽の分かりにくい失言にすぐさま反応し、顔を掴む手を離す。苦し紛れに話を逸らそうと彼から顔を外したが、どうやら逃げ場はないようだった。
膨れ上がった感情が口を潤滑にし、本音をぽろぽろと零してしまう癖が本当に嫌いだ。心臓が鼓膜まで響き、喉の熱さがじわじわと脳に上り詰める。
まるで察して欲しい構ってちゃんのようで、恥ずかしい。
「そうだよ。あたし死んだの。
「神、さま……?」
馬乗りになる彼の肩を軽く押し、力なく体を起こすとゆっくりと話していく。四方八方逃げ道は塞がれ、退路は見当たらなかった。
たとえそれが如何なる未来につながったとしても、この場を誤魔化しきる方法は、悲しいことに天羽の小さな脳味噌では思いつかない。
どうでもいい。アレイスターに自分の素性がバレても構わなかった。
過去を話したところで何になる。消えてしまった昔を懐かしむことくらいしかできない。
ならば彼に受け止めてもらいたい。二人分の精神を抱え込む一人の体にはもうこの思い出たちは重すぎた。
「トラックにね、轢かれたんだー。ずっと、ずっと昔のことだけど。でも生きちゃった。
彼女はゾンビだ。それともキョンシーと呼ぶべきか。とっくの昔に死んでいたこの体は、きっと腐敗臭の漂う汚い物。
項垂れながら小さく呟くと、シーツを握りしめてあの日を思い出す。
鮮烈な赤と、澄み渡る青、灰色のアスファルトと妹の金髪。
「垣根くんは知らないかもしれないけどさ、死ってすごい痛くてね、すごく汚れるの」
肺は潰れ、骨は砕け、背中は摩擦で擦り切れて、頭は割れて、顔の肉は剥がれ落ち、足も口も腕も動かなければ、声は掠れ、血は止め処なく溢れ続けたあの日、彼女は死を知った。
誰にも否定できないあの日の痛みは彼女の生きる土台となった。
そう、土台。
今生きる体も、トラウマに蝕まれたものだった。
恐ろしい色に、恐ろしい痛み、その何もかもを感じたくないと天羽は経験から封をする。
怪我した時、血を流さないのも、痛みも感じないのも、その経験からくるものだった。
「でもね、あたしその痛みでね、妹を救えたの。今まで何もさせてあげられなかったのに、それだけはできたの。足も、普遍的な日常も、今まで何も与えられなかったのに、初めてあの子を幸せにできたの、死なせなかったの」
そして死は新しい習慣と共に彼女に新たな価値を与えてくれた。
何も成せなかった彼女に、彼女にしか出来ないことを教えてくれた『死』はこの心臓を動かす揺るぎない正義だ。
死は彼女に優越感を与えてくれる。出来ない彼女を価値あるものにしてくれる。
それが堪らなく嬉しかった。
「だからね垣根くん、あたしはあたしにしかできないことで垣根くんを助けたい。アナタがこれから受ける痛みを肩代わりしたい。大好きだから、垣根くんに辛い思いをして欲しくないの」
大好きな貴方を痛みのある未来から救いたい。祈るように手を重ね、握る。
死を知ることのないように、幸せな道を歩めるようにこの体を骨の髄まで使い果たしたい。
どうせ元に戻るのだから。
「……お前はナルシズムの塊だな、自分を特別だと信じてやまない。自分だけ棚に上げて、自分だけ不幸になろうとするエゴイスト。お前は他人に幸福を押し付けることで悦びを見出す
可哀想な女を見るかのような視線が体に突き刺さる。天羽を見下ろすその目が気に食わない。
垣根くんを突き放して後ろに倒れると空気が舞い、カーテンの隙間から溢れる暖かい光が目を焼いた。体を受け止めた柔らかいベッドから仄かに洗剤の香りが鼻の奥をくすぐる。
甘い匂いに、彼の苦い視線。溶かしたザラメのような視線は酷く不愉快だ。
「今更気づいたの?お前の前にいる女は碌でもない女なんだよ」
顔を隠して鼻で笑うと彼の切れ長の目がさらに釣り上がった。
高慢ちきで、欲張りで、おまけに怠け者。食い意地は張ってるし、嫉妬深いし、怒りっぽい。そんなこと、生まれ変わる前からずっと知ってる。
彼女を気持ち悪いって思っても、馬鹿って思うのも構わない。
それでも、この想いだけは美しいと知っていて。
この想いが異常だと、可哀想なものだと、気持ち悪くて、汚いものだと思わないで。
これは誰も査定できないほど美しくて儚い、彼女にしかできない愛の形なんだから。
━━頼むから、馬鹿で碌でもない女に可哀想な目を向けないで。
━━何もできないあたしを、これ以上追い詰めないで。
「あたしはね、馬鹿で、愚図で、なーんにも出来ないの。知ってるでしょ、第二位様」
だってもうすでに崖っぷちなんだ。
前世、幼い頃に貼られたレッテルに振り回されて生きている天羽には、二度目の人生は窒息しそうなほど苦しい。
『出来ない子』
今も、昔も、貼られたレッテルは同じ。
それは彼女が自分のために生きることができなかったから。幼い頃から、他人のためにしか生きられなかった。
妹が生まれる前は親のために生きようと、正しい人生を歩もうとしていたが、残念なことに彼らは放任主義の自由論者で、娘に全て考えさせ、『自由』を与えた。
それは正しい道がないということ。
どれが正解なのかわからず、ただひたすら彼らの幸せである『あたしの幸せ』を考えて、考えて。
結局答えは見つからなかった。
出来損ないの自分なんかのために生きたってしょうがないじゃないか。
「でもね、そんなあたしでも人のために死ねたんだ。それだけが誇りなの、誉れなの」
そしたら生まれたのだ、彼女の
彼女より柔らかくて、彼女より可愛くて、そして可哀想な妹。姉がいなくては生きてられない子供。
その赤子を抱いた時に、やっと生きる目標が決まったのだ。
彼女のために生きたい、彼女を幸せにすると。
そして幸せにした。最期に死を肩代わりすることによって姉は妹を幸せにした。
「だから、あたしは誰かの為にこの肉体を使いたい。あたしは誰かの為になるために生きている。それがあたしの生き続ける意味。それはあたしにしか出来ない崇高な愛なんだよ」
彼女の死は愛だ。永遠の肉体が与えた無制限の愛。
誰かのために死ねるってとても尊くて幸せで、幸福なこと。彼女の死は幸福。
それは彼女を唯一無二の存在に、生きる道を示してくれる。あの子を初めて幸せにした方法だから彼女はそれに執着する。
それが天羽彗糸が幸せになるための必須条件。
━━誰かのためなら何度だって死んであげる。何度だって人生を捨ててみせる。
━━だからあたしは可哀想なんかじゃない。
「わかんねぇよ、お前の言ってること全て。なんで死ぬことに幸福を覚えるんだよ、気持ち悪ぃんだよ、お前」
「あたしの無い全てを持ってる垣根くんに、あたしの気持ちは分からないよ」
ぐっと彼の肩に手を伸ばし、引き寄せたと同時に体を起こして今度は彼を見下ろした。
茶髪が散らばる白いシーツの感触がくすぐったい。
形勢逆転といったところか、顔のいい男を見下ろすのは気分がよかった。綺麗な顔をした少年が天羽の下でふてくされて、歯を食いしばる姿はなんとも面白い。
美しい顔。彼の顔が見えるように髪を梳いてふと思う。
真っ黒で美しい瞳は、芸術のような切れ長の目に収まり、長いまつげで囲われている。見惚れてしまうほどかっこいい。
彼女とは違う。
茶色と緑が混じった汚いこの瞳とは違う圧倒的な美。彼女が頑張って化粧をしても掴みとれないような強い目元に、下品に見えない明るい髪色。
羨ましい。
優れた容姿に、優れた頭、お金持ちで、地位もあって、背も高くて、性格だって悪くない。可愛くて、かっこよくて。
不幸なことや少し危険な仕事をしていることを除けば彼は女の子にとって理想の王子様だろう。杠ちゃんと二人で並んでる姿なんて、まるで少女漫画の中のワンシーンのようだ。
その姿を守りたい。かっこいい彼を守りたい。
お姫様と王子様の世界を何を使ってでも守り抜きたいと願ってしまう。
「じゃあなんで全部持ってる俺を救おうと願う、なんで死ぬことを惜しまない。矛盾してんだよ、お前」
「それがあたしのやるべきことだから」
ベッドの淵に座ると、垣根くんは横たわったまま言葉を零す。閉じたカーテンの先を眺め、目を閉じるとチクチクと刺す胸の痛みが広がった。
妹を救ったことへの神からの贈り物、そして妹を泣かせたことへの天罰として、彼をスペアに叶えられなかった願いを叶える。
この世界で彼女がやるべきこと。
最低な理由だと、改めて思う。
それでも彼女はそう生きなくてはこの世界を生きていけない。
だってそれが少女の正義だから。
誰かを救い、人を守り、許しを与える。この世界で生きる彼女が成さなくてはいけない贖罪。
神の理不尽を知り、それに抗い、誰かを救おうと、誰かを笑顔にしようと全てを投げ捨てる。
いつだって、彼女の正義は揺るがない。
「俺を愛して、幸せにして、赦すことじゃねーのかよ、前、言ってたじゃねーか。自分で言ったことも忘れてんのか」
「死は愛だよ、垣根くん。それに、死んだって構わないでしょ?どうせお前は全部知ったんだろ?あたしが誰なのか」
この男は知っているはずだ。天羽彗糸が誰なのか。
彼女の役割、藍花悦という人畜無害な脇役の名を知られている。
その秘密に脅威がないことを知れれば彼は天羽の前からいなくなる。
だからこそ、彼の怒りがわからなかった。こんな彼女を生かし、保護をするなんて、わけがわからない。
なにをしたいのか読めずに、ただただ苛立つ。
別に居なくなったって構わない。彼が会いたくないのなら、彼の意思を尊重するだけ。
嫌がることはしたくない。彼のためにならないことはしたくない。たとえそれが二度と会うことのない未来に繋がっても構わない。
前世はそういうやり方で妹を守ってきた。友人と出かける妹の後ろ姿を見て必死に勉学に励み、彼女の居ない海外の大学まで行って。
それ以外にも沢山、
ただ今後やりにくくなるだけ。それ以上の感情は思い浮かばない。
何だっていい。
モブに紛れてでも、天羽は彼を救う。今までと何も変わらない。
本当に?
「まだ何も知らねぇよ、バーカ」
静かな病室に響いた垣根くんの声に意識が戻る。天羽の頭を押し込んでからベッドから降りると彼はそれ以上なにも言わずに彼はそのまま病室を出て行った。
冷たい声だけが耳に残る。なんとも都合のいい言葉だろうか。耳障りのいい言葉を残した彼に、強く唇を噛む。
なにをしたいのか分からない。それでも、その言葉の真偽は分かっていた。
女を喜ばせるのが上手な彼に思い馳せながら、柔らかい毛布に体を埋める。
微かに香る彼の匂いは、少し甘かった。