空を仰ぐと涼しい風が頬を掠める。
ビルの下で雇用関係にある男に電話をかけようとスマホに電源を入れてみるも、立つべきアンテナは一本も立っておらず肩を竦めて息を吐いた。
「圏外……」
「無駄よ、この辺一帯に強烈な妨害電波が放射されてるわ。そして、」
この場では役に立たない電子機器をしまうと、地面に降り立った御坂は眉間にしわを刻んで巨大なビルの入口を僅かに細めた目で睨む。
すでに荒らされた敷地に、嫌な気配を感じるのは食蜂だけではないようだった。
「ブラフじゃなかったみたいね」
まるで缶詰の蓋を開けたかのようにぽっかりと、そして丁寧に切り取られた頑丈な入口に息を飲んだ。
吸い込まれるように、切り取られたドアから入るとひんやりと冷たく、物音一つしない静かな廊下を渡る。長い廊下だと言うのに、照らす灯りも、人の影すら見当たらない。
もうすでに手遅れの可能性が食蜂の脳裏に過ぎる。確たる証拠はなけれど、最悪なケースを想定しまうのも無理のない話だった。
「随分と静かだな。撤退した後か」
「無人兵器の反応も感じないわ、天羽先輩が何とかしたのかしら……」
堂々と廊下の真ん中を進み、暗い空間に焦りを感じながら当たりを見渡す。塵一つ落ちて居ない廊下で、目につくものは何もなかった。
廊下を満たすのは三人の
それしか存在しない廊下で、この場が最悪かどうかを断定するのは難しかった。
「ねぇ、ここで働いてた職員たちは?」
「さぁ?
「
奇妙なほど静かな研究所を歩くと、またもや破壊されたドアを潜る。この建物の中で一、二を争う大きな部屋に明かりはついておらず、さっぱり見えない前を感覚で進む。
それでも確かに分かる嫌な予感に、胸騒ぎが耐えなかった。
「この研究所の目的よ。
三人分の足音が何も無い広い部屋に響く。
かすかに聞こえる泡の音と、どこかのモーターの音が混じる暗い部屋をまっすぐ進むと、一度足を止めて結んだ口を僅かに開いた。
「エクステリア計画の本来の目的は私の能力を誰でも使えるようにすることだったんだゾ?」
「はぁっ!?」
「登録された人間は能力者だろうと、一般人だろうと、
人を感知して広間のライトが全て点灯する。白い光に照らされて現れた中央に位置する筒状の大きなガラス張りに手を置き、冷めた目でその奥にある大きな水槽を眺めた。
その奥に浮かぶ、鮮やかな橙色が少し眩しかった。
「ここ、
オレンジ色の液体で満たされた、まるで水族館のアシカやアザラシが泳ぐような円筒の水槽に視線を移す。
「ま、潰した上に乗っ取っちゃったけどぉ」
下から上へ登る気泡を見つめ髪を片手ではらいのけて呆れ返るように呟くと、ふと、昔を思い出す。
ここでの生活、失った友人、得たもの。
洗脳した研究員達は激しく興味がなかったが、この場にある唯一の楽しい記憶だけは大切だった。
「
「能力を増幅させるだけでも眉唾なのに、他人に譲渡なんて……それが都市伝説サイトにあった、能力を生み出すDNAコンピュータ?」
「ああいう噂って、どこから出てくるのかしらねぇ……そもそも、正確にはコンピュータじゃないしぃ?」
ゆっくりと周りを見渡しながら水槽に近づく二人をガラス越しに確認すると、深く息を吐いて再び下で眠る
誰にも知られたくないのに、まさか同じ
けれど、逆に良かったのかもしれない。なんて思われても、何を感じても、同じ境遇の彼らには分かるはず。
同情なんてもの、して欲しくもない。
「私の大脳皮質の一部を切り取って培養、肥大化させた巨大脳。それが、
ごぽごぽと空気が泡となり登っていく橙色の半透明な液体の中、羊水に満たされた子宮に漂う胎児を彷彿とさせる大きな脳がそこにあった。
気色の悪いアクアリウムだと、何度思ったことか。
しかしこれに動じもせず、他の二人は目を見開く事もなく淡々と受け止める。
彼らはこれがこの街の当たり前だと知っていた。
そしてその当たり前にひどく安堵する自分がいる。同情も、恐ろしさも感じず、この都市の仕組みを理解する彼らに。
「木原幻生はこれで何かしようと企んでるってわけ?」
「多分。でも持ち出せるとは思ってなかったし、そもそもこれを使うには数日かけて登録する必要があるのよね」
「制圧しても長期的じゃなきゃ意味が無いわけか。そうなると、目的は妹達になるのか?」
「でも彼女には何重にもプロテクトがかかってるわ。解除するには私か、
同情せず、深く聞くことも無く話が続いていく。
その中で何か気になることがあったのか、第二位、垣根が顎に手を当て高い背で見下ろした。
「……なぁ、話変わるんだけどよ、お前さ天羽の頭ん中の覗けたのか?」
「何よこんな時に。そうねー、あの子と今朝方会った時、アナタのカブトムシとの回線を切ったんだけど、その時だけね、彼女の脳内を見たのは」
「っ、見れたのか!」
「一部だけね……話してあげてもいいけど、言ったこと天羽さんに秘密にしてよねぇ」
だが彼が口にしたのは全く違う話題で、彼女のことしか考えていないのかと若干そのマイペースぶりに呆れてしまう。
まぁ、彼はその目的が完遂されればこの件は関係ないわけで、当たり前の行動ではあるけれど、やはり気に食わない。
「で、彼女なら記憶は見れたわ。三歳から今日までのだけど」
「アンタなら普通じゃない、何が変なの?」
「でもね、感情が、考えが読めないのよ」
「はい?」
今日の午後を思い出す。あの意味不明な女と出会ったことを。
協力者の頭の中は必ず覗き、場合によっては洗脳し、手駒にする。それが食蜂操祈の生き方であり、自らを守る方法でもある。
だから当然、彼女の頭の中も覗いた。
何も考えてなさそうな無鉄砲な女の中身だろうと、確認しなくては後々面倒だから。
けれど、その中身はまるでマトリョーシカのようで彼女の力では一番外の蓋しか開けられなかったのだ。
「誰かとの会話は聞こえるの、何を書いたかも、何を言ったのかも。でもその会話の中で何を思っていたかが分からない。感情も、考えも、感覚も、何一つ共有できない」
「はぁ?分からないってどういうことだよ」
「プロテクトがかかったかのように、彼女の想いが読めなかった。記憶もそう、感情が読めないから切り捨てようとしたのだけど、書き換えることができない。だから使ってやってるのよ」
「プロテクト……」
「そうでもなきゃ、何考えてるか分からない人間を私が使うと思う?」
驚いたような垣根の顔を見るに、彼女の能力については何も知らないようだった。
第六位であることを隠しているし、能力の内容も伏せているのだろう。
知りたいと思うことも、隠すことも、食蜂にはできない愛の形。互いに愛されてるな、と思う。
エゴを貫いた愛。
それがきっと彼らの愛の形。そうとしか考えられなかった。
だって、おかしいじゃないか。
彼女の特異な能力は上層部に目をつけられており、藍花悦として垣根帝督に接近すれば確実に両者は引き離される。
だというのに彼らは一緒にいる。
誰かの命を救い、活用し、ゾンビを統率できるポテンシャルは、マッドサイエンティスト達が見過ごすはずもないというのにだ。
それだけじゃない、彼女が上層部に服従すれば、暗部なんて必要が無いのだ。
永遠の肉体、永遠の力。
例え欠落があったとしても、一国の軍隊を殲滅できる
彼女ひとりが背負えばいいのだから。
そういう意味で、彼女は自分の体を代わりに暗闇にいる男一人を助ける程度の価値は持っている。
しかし、価値があるというのは同時に危機でもある。それこそ、第二位の男とつるんでいることがバレてしまったら必ず何かしらの手段を使って関係性を消されてしまう。
それが色恋なら尚更。
だから正体を明かさないのかもしれない。
彼と一緒に居られる綺麗な体のままでいたいから。彼に心配させたくないから。築いた愛を失くしたくないから。
そんな甘い理由で彼女は隠れているのかもしれない。
彼女は自らのエゴを守るため、いまの彼を救わないのかもしれない。
心の中を読めばすぐに分かることなのに、読めない感情のせいで結局は憶測に落ち着く。
もしかして、そうかもしれないなどというただの考え。
でもその『もしかして』に、美しい我儘を垣間見た気がしてならなかった。
「つまり、あいつは自分の脳に不完全なプロテクトをかけて、お前による肉体の操作をある程度とはいえ跳ね返したわけだ」
「まぁ、そうなるわねぇ」
「ってことはよ、他人の肉体に干渉できるアイツなら、お前と全く同じことを他人にできるってことにならねぇか?」
イヤーな女の顔を思い出していると、彼の言葉にはたと気がつく。
天羽彗糸の能力は万能だ。肉体を好きなように干渉できる彼女の能力の中で最も恐るべき点は、他人の体を好きに支配できること。
それはきっと脳内の水分量すら数に入る。
つまり、彼女の能力を使えば、食蜂の力なしで妹達のプロテクトを解除できる可能性があった。
「っ!貴方の妹はこの奥よ、はやくっ、」
その可能性に気がつくと焦って妹を保護した部屋に向かおうと振り返る。想定外の事態に急ぎ、先導するため前に出たが大きな音で足を止めた。
ポケットから鳴る着信音に急いでスマートフォンを取り出すと、人目も気にせず強く言葉を発した。
「っ、もしもし!?」
『やっと繋がりましたカ』
圏外だったはずのスマホから見知った男の音声が流れる。いつもと変わりない声に安堵し、強くスマホを握りしめると前屈みになりながらもカイツの安否を確認しようと少しだけ感情のこもった言葉を送った。
「今っ、
『屋上でス。彼女も一緒でス。天羽さんもいますヨ』
「でかしたわ!屋上ね、直ぐに」
「イエ、襲撃者は手練の特殊部隊を思わせる集団でしタ。人一人抱えた私を取り逃がすとは思いませン。ここに誘導されたと見るべきでしょウ。注意してくださイ」
彼の返答にひと安心し、ほっと息をつく。全員がひとかたまりで居るのなら、こちらも合流しやすいもの。
しかし位置情報を聞いてすぐに動こうと返答するも間を置かずに却下される。
確かに彼の言うことも一理あるが、こちらの戦力を考えれば彼が危惧するほどのことはない。
「大丈夫よぉ、その辺は胸囲力が戦闘力に吸い取られたアマゾーンと大好きな彼女を追いかけてここまで来たイケメンがいるから心配しなくていいゾ☆」
「誰のことかな……?」
「デマを流す行為が常盤台生の間では流行ってんのか?訂正しろ」
『そうですか、
後ろの方からの文句を聞き流しながら明るくカイツに伝えると、安心したような声色がスマホから聞こえる。
しかし瞬間、脳に気持ちの悪い違和感が走る。
彼の声に何かを感じとった訳では無い。ただ、こじ開けられるような脳の違和感が体を駆け上り、冷たい床に両膝を着く。
「ちょっと!大丈夫!?」
『予定とは違うけど、手間が省けたね』
「っ、!」
大丈夫かと駆け寄る御坂達の声に被さるように、年老いた男がスマホ越しに口を開いた。
『いやぁ、登録を煩雑にすることで乗っ取りを防ぐ、甘いねぇ。登録などしなくても、巨大脳を僕と同じ脳波に調律してしまえば、能力は僕のものなんだよ』
その声を聞くや否や、上手く動かない顔を動かして御坂にアイコンタクトを送る。意図を察して走り去る彼女の背中を見つめ、垣根と二人で電話に耳を傾けた。
嫌な予感しかもはや感じ取れない。
『食蜂くんも噂くらいは聞いた事があるんじゃないかな?』
「
『木山くんに脳波調律のインストラクションを授けたのは、僕だからね?』
腹立たしい老人の嘲笑う声にスマホを握る手に力が篭もる。
何もかもに遅れをとった自分の不甲斐なさと、至らなさに言葉にならない憤りだけを募らせて、少女は立ち上がった。
◇
元気そうな老人が電話を切ると、レーザーポインターを手にしてこちらを振り返る。後ろで硬直する第五位の協力者に目もくれず、一直線に座り込む少女に向かうと、彼は奪ったスマホをポケットに入れた。
暖かい風が頬を撫でる屋上で胡散臭い笑顔を見せる老人の名前は木原幻生、白衣に身を包んだイカれた研究者のひとりだった。
「妹達に仕掛けた多重プロテクトも、今の僕なら解除することは容易い」
「それはどうかな」
一〇〇三二号の前に立つ彼に低い声で警告を発する。守るように彼女から視線を遮ると、老人はわざとらしく考えるふりをして笑う。
この場をどう乗り切るかを必死に足りない脳で考えるため、時間を稼がねばいけない天羽の葛藤を見透かしているようだった。
「あたしの能力知ってるんでしょ?他人の脳内だって、調節可能よ。アンタのおもちゃと、あたしの能力、どちらが先に支配権を奪うか、試したっていいんだぜ?」
「ふむ、力比べか。でも、君にとっても悪い話じゃないと思うんだけどねぇ?」
「は?っ、なんのつもり?」
何を考えているか分からない義眼でわずかに見下ろされ、レーザーポインターの赤い光が額に向けられる。
ポインターを向けたままボタンを押すと、電子音とともに肩に止まっていたカブトムシが二匹とも滑り落ち、ピクリとも動かなくなった。
しまったと思ってもすでに遅く、動かないのを確認すると彼は芝居がかったように咳払いをして話を続ける。
「これを使えば、あの『窓のないビル』を突破できる。そう言っても?」
「……それは」
「一瞬の揺らぎが命取りだよ、藍花くん」
彼の提案に、瞬きよりも短い一瞬、思考が停止した。
このスピンオフの最後を知らない天羽には、その言葉が現実になれる
本当のことを言っているかもしれないと、わずかに期待してしまった自分に苛立つ。
二度目のスイッチの音に体が動かなかったのは、全ては自分の欲のせいだ。
「君は如何せん要領が悪い。一度思考を止めてしまえば、他人への干渉が疎かになる。君の探知機能が御坂くんのような受動的なものじゃないのが一番わかりやすいかな?」
「どうしてそれを……」
『教えたからですよ、それ以外あります?』
屋上に置かれた給水タンクや、空調機器の隙間から見覚えのあるロボットが現れる。猫のようなしなやかなフォルムとマズルについたホースに、犬のような身のこなし。
馬場の操っていたロボからは、なぜか先ほど別れた男の声がした。
「相似くん……」
『木原に科学技術の対処を任せてはダメだと、なぜ分からないのですかね』
「取り乱してるねぇ、藍花くん。でもそんな君を突破すれば、妹達に特製のウイルスを打ち込めるって訳だよ」
「っ、ああああぁぁ!」
想定外の見た目でのご登場に取り乱していると、地面に転がる一〇〇三二号の額に向けて呆気なくレーザーの光が当たる。
軽い音ともに押したスイッチは簡単に彼女を捉え、考える余裕も与えずにか弱い少女は咆哮をあげた。
苦痛に耐える呻き声から恐ろしいほど黒い稲妻が走る。放出された大きな稲妻は束となり、空を覆い尽くすと、赤い閃光を飛ばしながら宙を蠢いていた。
「素晴らしいねぇ、そうは思わないかい?」
『でも、用途がなければ無意味では?』
「なら、一番面白い使い道をしようじゃないか」
空に留まる稲妻を見上げながら老人と機械は愉快に喋る。その空間だけ異変がないかのように、孫と祖父のような朗らかな会話が進む光景は理解不能で思考が追いつかない。
だが動かない脳は勢いよく打ち破られたドアのけたたましい音で起き上がる。
スライド式のドアを電撃で外した少女は、天羽の目の前に転がる瓜二つの少女の顔を見て声を張り上げた。
「その子に、なにをしたぁぁぁぁ!!!」
第三位、御坂美琴の甲高い声が空を突き上げるように響いた。
青白い電撃を身に纏って叫ぶ彼女の必死な形相に木原幻生の口角が歪むように上がる。
「
瞬間、行き場を失っていた黒い稲妻が空から彼女を目掛けて降り注いだ。
「御坂くんは、
体が飛ばされそうなほどの風と、体を突き抜ける微弱な痺れに態勢を崩し、膝をつくと白い生き物が視界に映る。
御坂美琴と同じ姿をした真っ白な生命体は周りに火花を散らし、焦点の定まらない黒い眼球で真っ直ぐ前を見つめていた。
「……嘘」
白い生き物はとてつもないスピードでこの場を離れると、遠くに雷を轟かせ地面に振動を響かせた。
その姿を満足げに見つめると、木原幻生は壊された扉から何処かへ消えてしまう。しかし、そんなことはどうでもよかった。
御坂美琴が怪物に成り果てたことも、一〇〇三二号が気絶したことも、食蜂操祈の協力者のことも、カブトムシも、垣根帝督のことも、全てどうでもよかった。
天羽の心を掴んだのは、そんなものではなかった。
匂い、あの懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
垣根の香り、05の香り、天国の香り、そして、神の匂い。
御坂美琴が掴んだのは、神だった。
その事実が、一人の少女をかき乱す。
彼女を殺して、彼女に世界を作り、彼女に体と命を与え、彼女を愛していると言ってくれた忌まわしい神は、今や御坂美琴の手にあった。
『愛だの恋だのほざきながら、結局欲に走った結果がこれですか。ざまあ無いですね』
鬱陶しい声がロボット越しに愉快に喋る。
その声に返答するほどの余力は残っていなかった。何もしたくなかった。
どんなに嫌おうと、神は絶対的な指標である。
彼女を愛故にこの世界に落とし、使命を与え、地獄で未練を果たすチャンスをくれた。そして彼女はその愛に応え、あの理不尽の権化を見返して、未練を果たすために誰かを救い、赦す。
彼女を愛するあの汚物を、彼女は刺し違えてでも殺したかった。
それがこの世界。天羽彗糸に与えられた神の
ドールハウスに入れた人形が親によって勝手に手入れをされていたら?
知らない踊り子が、主役を差し置いて舞台監督に気に入られたのなら?
━━神が
『あーぁ、可哀想に。口が聞けないほどショックでしたか?哀れですねぇ、本当に』
「……うるさい」
『そう睨まないで下さいよ。藍花さん』
「その名前で呼ばないで」
『なぜ?これが貴方の本性じゃないですか』
彼女だけの味方がいない、それはこの世界の台本がないに等しいこと。
愛という確かな繋がりがないだけで、神はいとも簡単に介入し、傍観者の立場を手放してしまう。
神がいたからこそ、好き勝手に動けたというのに。
立場が確約されているからこそ、奔走できたのに。
それは裏切りと呼ぶに相応しかった。
裏切りは最も重い罪だというのに、神は天羽彗糸という愛さなければならない相手をいともたやすく裏切った。
その事実に絶望に落とされたまま、機械から発せられる青年の声が耳を通過する。
『七人しかいない
言葉を言い切ったその時、誰かの息遣いが屋上に唯一繋がる非常口から足音が聞こえた。
壊されたドアが落ち、開けっぴろげになった出口の先で茶髪が曇り空の下で揺れる。前髪の下から黒い瞳が覗く、背の高い、美しい少年と目があった。
綺麗な人。愛する人。会いたくない人。
少しだけ開いた彼の可愛い大きめの口からは乾いた声にならない音だけが溢れる。
互いに言葉を交わさずとも、悟る。
今日はとても最悪な日だと。