こんなの描いていたら遅れました。次回はちゃんと金曜更新だと思います。
重い扉にカードを押し付け、音が鳴るまで待つ。最悪な気分で開いたドアの奥は光に溢れ、少し目に痛かった。
「……今戻った」
玄関で靴を脱ぎ、靴箱を開く。中に入れようと靴を持つが、そこには自分の靴が入る隙間はない。
仕方なく、整頓された女物のスニーカーとヒールの隙間に革靴をねじ込む。彼女が落としていった黄色いピンヒールは、汚れたまま革靴の隣で倒れて狭い靴箱から零れ落ちた。
しまった、と思っても既に遅く、黄色い靴が一足地面に落ちる。安いピンヒールは少し塗装が剥げ、地面に落ちた衝撃で更に色が擦れてしまっていた。
怒られるだろうか。
そう思っても怒る人は今はいない。気にすることは何一つないというのに、僅かな不安と後悔がわだかまりを残す。
明るいリビングへと向かう足取りはいつもより重かった。
「おかえり、天羽は?」
「最近そればっかだな……」
リビングに足を踏み入れると、明るい照明の下で猫を撫でながらソファに座る林檎と目が合う。
いつの間にか第三位に押し付けられた黒猫の首から聞こえる鈴の音が少し気に触る。カブトムシ姿の05とじゃれついて鳴き声がうるさい子猫は決して好きではない。
何よりこの家の主が猫嫌いだ。上条が飼っていた猫に遠巻きから文句をいうくらいには。
というより、動物全般が苦手なのだ。
本人が犬や鳥みたいだからだろうか。同族嫌悪に近しい感情なのかは分からないが、彼女にとって生き物というのは人間か、それ以外かの大雑把な括りでしか認識していないようだった。
だからなのか、彼女は05にも一線引いた態度をとる。カブトムシに限らず虫も動物としてみなし、作られた体を冷めた目で人を好きで居続けるのだ。
本当に嫌だ。
居ないくせに嫌という程思い出す彼女の腹立たしい笑顔も、呑気に猫と戯れる05を見てそんな考えしか浮かばない自分も。
あの女がいない部屋だと言うのに、何かとつけて彼女の金髪と黒髪を交互に思い出す脳にいい加減嫌気がさしていた。
「会ったんでしょ?」
「……05」
「聞かれたので……申し訳ありません」
キッチンに立ち、袖を捲り蛇口を捻ったところでカウンター越しにじっと大きな目で見つめてくる。表現力の乏しい彼女の不安と期待が入り混じった瞳がチクチクと痛む。
どうやっても、あの女の顔が思い浮かぶのが本当に嫌だった。
「少しだけな。でも帰ってこねぇよ」
「天羽、そんなに怒ってるの?」
「さぁな、どうでも良い」
隠すことでもないかと淡々と質問に答える。蛇口から捻った水は人肌程度に温かく、ゆっくりと溢れ出すと手に弾かれシンクへと落ちる。
袖の中で握った彼女の柔らかさを忘れさせないような温度に胸を刺す痛みが広がった。
「どうでも良いの?ならなんで今も天羽の家に住んでるの?」
「それは、引越しなんて面倒だし、お前も馴染んだ場所にいる方がいいだろ?」
「帰ってくるの待ってるんじゃないの?」
「待ってねぇよ、あんな奴」
彼女の体温を忘れるように濡れた手を拭いて気を紛らわすために冷蔵庫を開ける。
冷気が頬を撫でる冷蔵庫に喉を潤す何かを求めて手を伸ばすもそこには食べ物ひとつ置いてなかった。
仕方あるまい、自炊するような人間は今はもうどこにもいない。
ほとんど何も入っていない冷蔵庫の中身に舌打ちをすると、強く扉を閉めて拳を握った。
「じゃあ嫌いなの?」
「大っ嫌いだ、あんな女」
━━あんな面倒で、馬鹿で、最低で、愚図で、俺が居ないと何も出来ない碌でもない女、どこで死のうが、どこで生きようがどうでもいい。
冷蔵庫が空っぽになる程度、どうってことない。
「垣根、電話なってる」
「あ?こんな時に誰から……病院?」
冷蔵庫の前で立ち止まっていると、突然ポケットに入れていた携帯電話から着信がなる。規則的なベルの音を延々と繰り返す携帯の画面に表示されているのは先ほど会って秒速で別れたあの女の勤務先。
まさか仕事に来ず無断欠勤を続けていることを的外れにも垣根に当たられるのだろうか。
面倒見ろと言われておいて約束を守る気がない垣根にあのカエルによく似た医者が説教でもかますのだろうか。
何を話されるかは分からなかったが、どう考えても面倒なことにしかならない。けれどあの病院からの着信をむげにすることも出来ず、面倒に思いながらも通話ボタンを押して耳に当てる。
しかし聞こえた音声は男のものではなかった。
『よぉ、ヨリは戻したのか?』
「……なんでテメェに報告しなきゃなんねーんだよ」
『あの馬鹿の部下だからだ、一応な。それに他のクローン共も気になってんだよ』
強い女の声には聞き覚えがあった。元悪党のいけすかない科学者に舌打ちを鳴らす。
赦しを受け、何事もなかったかのように表で働く彼女があまり好きではなかった。
「戻すヨリなんかねぇよ。それだけか?切るぞ」
『実はあの馬鹿に伝えそびれたことがあってな。藍花の方に関してなんだが、まぁ聞きたくないなら切ってもいい』
「……手短に話せ」
大嫌いな女の名前に心臓の音が大きく鼓動していく。忘れようと思っても、偶然か必然か、ひっきりなしに彼女を思い出させるかのような話が続く現状が腹立たしい。
忘れてしまいたいのに、どうしても忘れさせてくれなかった。
貰った『好き』を忘れればもう諦めがつくというのに、何ヶ月もともに過ごした馬鹿な犬に今更ながら小さな執着心が生まれていたのは確かだった。
『どうやら上層部から藍花悦を生け捕りにする依頼が出てるみたいでな。木原数多の野郎が統率する
「は?生け捕り……?」
『生きていればどんな形でもいいらしい。どっかの研究みたいに脳みそ三等分にでもされるんじゃねーの?』
テレスティーナの言葉に目を見開く。思いあたる節がないわけではないが、それでも驚かざるを得ない。
そんな言葉を想像して居たわけではないのだから。
しかし、どうして彼女が狙われているかは分からないが、確かにありえない話ではなかった。電話相手の言葉に強く拳を握ると、感情を整理するため大きく息を吸って吐く。
最後に見た異形な姿、彼女が起こしたとは思えない悲惨な現場、随分昔に聞いた
例え実際の情報が一切なくても、それだけは確かに言える。
神と見間違う彼女の力は金の成る木のようなもの。
植物に、動物に、人間。その全ての肉と精神に干渉できる彼女は現代社会の問題を全て解決できるほどのポテンシャルを秘めている。
食糧難に少子化、そして死さえ。
文字通り全てを克服する都合のいい女が天羽彗糸という少女であり、今まで目立った被害がないほうがおかしいとしか思えなかった。
『早く連れ戻してこい。アイツがあのおっさんの手に渡るのは同じ木原として腹立つんだよ』
「なんで俺が……」
『テメェらがうじうじして素直になれねぇーのを年上がお膳立てしてやってんだ、つべこべ言わず行け』
「もう俺はあいつと一緒にいる理由がねぇんだよ。あの馬鹿がどこで何されようがどうでもいい」
知らなかった事実が徐々に解像度をあげて脳に鮮やかな悩みを与える。けれどその想いに生身でぶつかるのはプライドが傷つく行為だった。
だから控えめに否定の言葉を呟く。理由という武装を持っていない今の垣根にはその答えにたどり着くことができなかった。
『理由なんかなくたって別にいいだろ、お前らめんどくせぇな』
「大体、なんで俺がアイツを迎えにいかなくちゃいけない。アイツが会いたくないっていうんだから、アイツから頭下げてくるのが筋だろ」
『テメェは待てって言われたらどこぞの犬みてぇに待ち続けるような従順な男なのかよ。あんな女に手綱握られてしおらしくしてんじゃねーよ第二位』
「あ?誰がなんだって?」
『本当のことだろ。どうせあの馬鹿のことだからお前に迷惑かけたくないとか意味わかんねーこと言ってんだろうけどよ、迷惑っつーのはかけられる方が決めることだ。テメェはあんな世間知らずの女の迷惑を受け取れねぇほどヤワなのか?』
呆れたようにため息をつくテレスティーナの言葉に心の中で燻っていた思いが一つずつ溶けていく。
歯止めの効いていた感情はもう持ち堪えられそうにない。
「んなわけねぇだろカス。俺を誰だと思ってるんだ、あんな女の我儘の百個や二百個、どうとでも━━━」
『おう、その調子だ。早く連れてこいよ』
投げやりな言葉を最後に電話が切れると、キッチンのシンクに手をおいて大きく息を吐く。気が抜けたといえばいいか、もう悩みなんてどこかへ飛んでいってしまった。
「クソッ!」
嫌になる。
理由を見つけてしまった。また嫌いな女と一緒に居なくてはいけない、重大な理由が。
大嫌いだと、呟く口は心なしか歪んで、口角がわずかに上がっていた。
「05、林檎を寝かせてろ。帰りは遅くなる」
「分かりました」
いまだに黒猫と戯れる林檎と05をおいて玄関に向かう。心なしか軽い足取りに不満を覚えながら、玄関の扉に手を掛けた。
林檎といい、あの女といい、いつから垣根の近くに人がいることが当たり前になったのだろうか。
しかし今ではその当たり前が崩れるのは酷く不愉快だった。
沢山の初めては、いつしか当たり前となり、なくてはならない日常になる。がらでもない、けれど聡明な頭は容易く感情を理解するものだ。
大切な物は失って初めて気がつく、なんて宣う奴はただの大馬鹿野郎でしかない。
ものを食べなきゃ死ぬことも、水飲まなきゃ死ぬことも、息をしなきゃ死ぬことも知ってるくせして、大事な宝物を失ったら後悔することは知らないなんて、ただの頭が足りてない馬鹿だ。
自分の感情くらい理解している。
「ほんと、仕方のない奴だな」
開けた扉の先、土と水が混じり合った匂いが雲に覆われた学園都市に広がる。排水溝を流れる水の音、跳ねた雨粒の音。
肌を掠める涼しい空気の中、梅雨でもないのにしっとりと滴る雨にふっと息を吐く。
藍色の少女を迎えに行くにはちょうどいい天気だった。
大振りの雨の中、水がぶつかる音に耳を澄ませながら橋をくぐる。照明のない暗い橋の下、やけに五月蝿い雨音にかつんと体を支える杖が音を鳴らす。
静かな道、静かな街。太陽はもうすでに沈んでおり、活気はない。その中でかすかに聞こえた異音に気づくとチョーカーの電極に手を掛ける。
「まァ来ると思ってたンだ、こういうバカが」
ボタンを押して、瞼を閉じた。瞬間、大きな黒い車が体を目掛けて飛び込む。
派手な音を立てながらフロントのバンパーが凹んだ車はガソリンの匂いを撒き散らして停車した。
「俺に恨みがあンのか?俺を利用しようとしてンのか?どっちかはしンねェけど、ぶち殺す」
奥にいる武装した男の怯えた顔に笑いかけると、車内にいた男は酷く青ざめてドアを蹴飛ばし逃げ惑う。
その様子に思わず口角が釣り上がる。杖をしまってフロントを強く握ると、簡単に中身が露出した。
見え隠れする車の配線を引き抜いて、掠れた声で笑い叫ぶ。
「あァ、楽しい!!!やべェよォ!!!最高にとンじまったよォ!クソ野郎ォォォ!!」
衝突してくる何台もの車を笑い飛ばすと、大きな音を立ててこの場にある車が全て崩れ落ちる。まるでドミノ倒しだ。
爆発が起きてもおかしくないこの場に笑いながらと立ち尽くしていると、一台の車から恐怖に怯える男が扉を蹴破り走り去る。
ぼんやりとその背を見送ると、目を伏せた。
「つまンねェの」
呟いた言葉をかき消す様に眩しい赤が荒ぶる風とともに大きな音を立てて爆発する。
熱をねじ曲げ、炎をねじ曲げ、燃え盛る赤を掻き分け前へ進む。
一瞬にして爆煙が覆う空間を背に、更に大きく声を張り上げた。
「演出ご苦労ォ!華々しく散らせてやるから感謝しろォ……?」
目の前に止まる何台もの軍用車両を鼻で笑う。押し寄せる車は炎の前に停車し、武装した集団が銃口を向けて、派手に燃え盛る炎に強く銃を握りしめた。
「だから言ってんじゃねぇかよ、あのガキぶっ潰すにはぬるい方法じゃダメなんだよ」
しかし一台新たな車両が目の前に停車すると、一斉に銃を下ろす。
一際大きい車の中から、気怠そうなおっさんが開いたドアから降りると握ったグローブを深く手にはめた。
黒い布地に金属の部品がついたグローブを眺めてため息をつくおっさんに見覚えがあった。
「やっぱこの俺じゃねぇとな」
それなりに年を食った金髪頭の男だった。白衣の下に着たジャージと、顔に大きく入れた幾何学模様の刺青が特徴的な男は少なからず因縁のあるクソ野郎で、望まない再会に喉が怒りで震える。
「木ィ原クゥゥンよォ!なンだァ?その思わせぶりな登場はァ?人の面見るのにビビって目ェ背けてたインテリちゃンとは思えねぇよなァ……」
「俺としてもテメェと会うのはお断りだったんだけどな……上の命令だから仕方ねぇんだよ。なんでも緊急だとかで、手段を選んでる余裕はねぇんだと」
頭を掻きながらバツが悪そうに吐き捨てると、今度は鋭く睨む。前面から感じる無気力さは、昔研究所にいた頃を思い出させ眉間に皺が寄るのも無理はなかった。
「だからな、悪ぃけど、ここで潰されてくんねぇか?大体、誰がテメェの力を発現してやったと思ってる?」
「あ?何、何ですかァ?その義理と人情に溢れた台詞、もしかして恩返しとか期待しちゃってるわけ?」
乾いた笑いを漏らしながら真っ赤な炎に照らされる彼に舌打ちを打つと、その目はさらに鋭く歪んだ。
「つかよ、イカれるなら一人でやれよ、俺の体弄った研究者の数なンて、両手の指じゃ足りねェンだよ。いちいちオマエの思い出なンぞ留めておくと思ってんのか?」
「本気でムカつくガキだなテメェは……いやぁ、殺したいわ、めちゃくちゃ殺したいわ……やっぱあん時きちんと殺しておくべきだったんだよなぁ……失敗失敗……何やってんだかなぁ、俺……」
いかついグローブの上から指を鳴らすと、静かな自虐とともに吐き出すような薄い笑い声を飛ばす。
薄気味悪い声が響く雨の中、唯一聞こえた声はひどく不愉快だった。
「そんなわけで殺すわ、クソガキィィ!!」
咆哮とともに、木原数多は勢いよく地面を蹴って一直線にこちら目掛けて走り抜ける。拳を大きく振りかぶって、ただひたすら、愚直に走る男の姿に鼻で笑う。
一方通行に、ただの拳が通るわけがないと知っているはずだというのに。哀れみさえ感じてしまう。
どんなものでも跳ね返す圧倒的な力の前に気でも狂ったのか、それともただのブラフか。
何を考えているかはさっぱりだったが、その行動が致命的だということだけははっきりと分かっていた。
「ッガァ!?」
しかしあろうことか彼の拳はあっけなく自分の頬を強く殴打する。頬から全身に走る強い痛みにつばを吐き出すと、フラフラとした足取りで体を支えるが、それでも足元はおぼつかず不安定。
思考が追いつかない。
能力が効いてないかと思いチョーカーを確認してみても、先ほどと同じように問題なく電源は入っている。
「おいクソガキ、もういっぺん言うけどよ、そのつまんねぇ力はどこの誰が与えてやったと思ってんだ、思い出したかよォ!!」
「うガッッァァ!!!」
体を守る絶対的な反射膜が突破された事実は、なかなか受け入れ難かった。
チョーカーに気を取られて意識を別に移していると再び拳が頬にめり込む。口の中に広がる鉄の味に不快感を覚えると同時に脳に伝わった衝撃に吐き気を催した。
地面に叩きつけられ、手放した買い物袋を踏みつける男に視線を移す。
眼球の痛みに気がつかないふりをしながら見上げた先、大きな男の足が色のついた箱を踏み潰した。子供が好きそうな、いかにも女児向けなデザインの小さな箱。
袋から飛び出た少女向けの絆創膏を踏みつける大きな足にただただ大きな憤りを感じる。
自分を待つ少女のために買ったキラキラした包装が踏み潰され、汚される光景に言葉は出なかった。
「似合わないねぇ……ま、あれはこっちで回収しといてやるからよ。テメェは安心して潰れて壁のシミにでもなっててくれ。そっちの方がテメェらしいだろうしな」
「ナメてンじゃねぇぞ、三下がァァ!!」
強い怒りに大きな風を巻き上げる。竜巻に似た凶暴な風を演算し、あたりを吹き飛ばさんとした。
この男を殺してやろうと、強い感情を抱いて。
「ダメなんだよなぁ……」
しかし、風は響いた不愉快な笛の音であっけなく掻き消えた。
笑いながら首から下げたホイッスルに似たものを掴むと、小さな隙間から吹く風のような音が響く。
不快な音に掻き消えた旋風は体を無防備に曝け出し、簡単に攻撃を受け入れた。
鉄パイプかなにかで殴られると、体は宙に浮き大きな音を立てて歩道に面したガードレールにぶつかる。
背中から広がる痛みに呻く。あり得ない現実を直視するには頭の回転は間に合わず、男からの攻撃をまともに考えることができない。
能力のような不可思議な現象に、ただ呆然とするほかなかった。
「オマエ、まさか、自分の体に超能力の開発を……?」
「あ?は、はははっ!違う違う、そうじゃねぇよ、そういうのは実験動物の仕事だろうがよ。あんなバカげた力使わなくたって、テメェ一人潰すことに苦労なんかしねぇんだよ。今日はこいつの調子もいいしな」
考えを馬鹿にするよう嘲笑う木原数多は手にはめたグローブを鳴らし、大事そうに目を細める。
明らかに大事だと教えるそぶりに思考しない頭でも理解し、なりふり構わず手を伸ばした。
それさえ壊せばいいと思えば簡単なことだった。
「っ、ァアアア!とりあえず、死体決定だクソ野郎!!!」
「そっかそっか、力の秘密はこのグローブだと思ったのか。けどそうじゃねぇんだ……」
反撃されないようすぐさま体勢を立て直し、グローブを粉々に打ち砕く。そのまま殴ろうと拳を握り懐に入ると、不意に呆れるような笑みを零して木原数多は呟いた。
「いつまで最強きどってんだ!このスクラップ野郎が!」
瞬間、再び激しい痛みが頬を打つ。予想と反し、グローブを失った拳は無慈悲に鼻をへし折る。
「テメェの反射は絶対の壁じゃねぇだろうが。ただ向かってくる力のベクトルを反対に変えてるだけだ。なら話は簡単でよぉ、直撃の寸前に拳を引き戻せばいい。言っちまえば寸止めの要領だな」
激しい痛みに悶え地面に倒れ臥すと、内臓を揺さぶるように背中を何度も蹴り続けた。持続する痛みと吐き気に嗚咽を漏らしながら痛みから這い出そうと再び演算を試みる。
だが笛に似た音を鳴らすと同じようにパタリと演算が停止し、能力は発現しない。
「つまりテメェはわざわざ殴られに来てるって訳だ、分かってくれたか?マゾヒストくん?……ガキの頭にはちと難しすぎたか?」
蹴りを入れるのをやめ、腰を踏みつけながら男はダラダラとお喋りを続ける。
痛みに耐えながら酸素を掻き入れ、今か今かと反撃の好機を見計らうも木原数多はただ見透かしたように見下ろしているだけだった。
「さっきの風も同じことだ。テメェの能力はベクトルの計算式によって成立してる。ならソイツを掻き乱しちまえばいい」
腰から伝わる痛みに嗚咽を漏らす。強く踏みつけられた背に感じる強い侮辱に反吐が出そうだ。
「特定の音波や電波で全てジャミング出来んだよ!こっちはテメェの特徴、計算式、自分だけの現実、全て把握済みだ!伊達にその力開発してねぇぞ!」
この状況を打破しようと演算をしてみるも、耳を擘く笛の音に気を取られ演算は強引に消される。この場を打開する策は何一つとしてない。
真っ暗な感情だけ押し付けられ、もうどうすることも出来なかった。
「なぁ一方通行、テメェはあれの意味を理解してねぇんだよ」
おもむろにしゃがむと、木原は馬鹿にするように乾いた笑いを漏らす。地面に転がった虫でも見るかのような腹立たしい目で見下ろす彼がひたすらに憎い。
しかし今は殺したくても殺せない現状に歯痒く耐えるほかなかった。
「大体よぉ、
「クソッタレが……」
隣にしゃがんでせせら笑う男に怒りが湧いた。屈辱や憤怒といったおどろおどろしい感情が殺意を増幅させ、唸り声のごとく低く罵声をひねり出す。
けれど彼は変わらずにムカつく顔で笑う。
「感動的だねぇ、ほれ、本人だって大喜びだ」
痛みの中、木原数多の言葉を飲み込みながら顔を上げた。彼の視線の先にいる誰かを確認したくて開けた目に飛び込んできた光景に喉が渇く。
自分を待っているはずの少女が、茶色い髪を雨に濡らしてそこに居た。背の高い男二人に拘束され、意識のない体が運ばれる彼女の姿が視界に入ると木原は面倒そうにため息をつく。
もう用はないと暗に伝える彼の顔が憎かった。
「回収完了ってところだな。こりゃ藍花悦の方は要らねぇか」
「藍……?」
「あ、本命は生け捕りって話だったけど、あれはほんとに生きてんのか?まー、そんときゃ第六位に生き返らせてもらうからいいか」
振り向きもせずに木原は早々に立ち去ろうと腰をあげる。仕事が増えると文句をたらたら流しながら足を進める彼の背を掴もうと、痛みがじくじくと残る腕を伸ばす。
どうしてもあのガキを救いたい。
けれど一瞬のうちに助け出し、能力を無効化する音を使わせないことができるのかが微かな不安として残る。
計算も、能力も使える。しかし今は圧倒的に隙がなかった。
その一瞬の隙のためならばオカルトにだって祈る。
どうか、誰でもいい、あのガキを助けてくれ、と。
「遅いと思ったら、こんなところにいらっしゃったのですか」
叶わないと思った願いに、転機が訪れた。
知らないソプラノ声が優しく響く。雨の雑音を掻き消すはっきりとした少年の声がこの場にいる誰もの視線を奪ってしまう。
高い少年声が耳に纏わりつくようなくすぐったい笑い声をこぼす。どこかで聞いたことのある笑い方に体を起こすと、雨に鎮火されていく赤い炎の上、見下ろすように橋の上で男を侍らせた少年の右目と目が合った。
「……藍花悦?」
乾いた喉でその少年と思しき人物の名を呟く。そこに立つ少年はその名に相応しい藍色の少年だった。
前髪で隠された左目と、幼い顔に似合わない背丈、体を覆うサイズの合っていない服のせいで分かりにくいが14歳前後だろうか、170cm程度の声変わりが来ていない幼い少年が木原の部下とよく似た男たちを従わせてそこに立っていた。
「雨は嫌いなんですよねー、ぼく」
「あ?」
雨に濡れた酷く長い黒髪と、藍色のカンフー服を身に纏った少年は女のようなドールフェイスで笑う。
雨がとても似合うと、余裕なんてないはずなのに緩やかに回復していく思考の中で思ってしまうほど、少年に目が奪われていた。
柔らかい声で笑う少年はどこか浮世離れしていて、目が離せない。
「だからあんまり待たせないでくださいよ」
甘い花の香りが少年の動きとともに優しく舞う。静かに燃え上がる炎に照らされた藍色の少年は冷淡にこの場の全てを見下ろした。