とある科学の肉体支配   作:てふてふちょーちょ

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今回と次回アンケあります。物語の結末に多くは関与しませんが、アンケで多かった方を前提として書き進めるつもりです。
恋心なのかただの家族愛なのか決めあぐねているので、今回と次回投票していただけると嬉しいです。
あと挿絵あります。自己満足なので見なくても支障はないです。


82話:現実と虚像の交差

信号の赤にアクセルを離す。少しだけブレーキを踏んで調整すると、車は白線を踏まずに停車した。

天羽しかいない車内、タバコの煙とスピーカーから流れるなんてことない通信に鼻歌を鳴らしながら深く背を預ける。

車に跳ねる雨の音が心地いい。煙を吸って、吐いて。

 

『第五学区内、事件現場での証言を元に書庫(バンク)より照合。この者を殺人未遂事件の重要参考人として手配する』

 

泥のように眠ってしまいそうな空間で、微睡みながら赤い光が緑に変わるのを待つ。アンチスキルの通信を傍受する賢い車から排出された一枚の写真に薄く笑みを浮かべながらタバコを吸った。

ホテルへ戻るため、帰路に着く。

 

「上手くいってるみたいで上々だね」

 

なかなか変わらない信号に呆れてシフトレバーを引き、パーキングに変更すると換気のために窓を開く。

遠くのビルが中央の高い塔にぶつかる轟音をBGMに背もたれに寄りかかって大きく煙を吐き出した。大きな灰の塊を落とす短くなったタバコを灰皿に投げ捨て、煙が充満する車内の中小さく言葉を漏らす。

疲れ切った体はもう動きたくないと、根を張るように背もたれに張り付いて動けない。

 

「……でも、ほんとに上手くいってるのかな」

 

「何が上手くいってるって?」

 

変わらない信号をぼんやりと眺めながら不安な言葉を呟くと、聞き覚えのある低い声が開いた窓から響く。

生温い風が吹く開いた窓から恐ろしく笑う茶髪の少年が目に飛び込んで思考が停止してしまう。あまりに突然な声に驚いて言葉が音にならず、息だけが口から漏れる。

フロントドアに手を置いて、酷く冷たい顔で見下ろす少年の綺麗な顔が強烈に目に焼き付いて離れない。

 

「っ垣根くん!?なっ、なんでっ、っぴぇ!?」

 

「何間抜けな声出してんだよ、うるせえな」

 

酷く機嫌が悪そうな低い声で舌打ちを鳴らすと、困惑する天羽を置いてドアを開き無理やり運転席に薄い体を滑り込ませた。

椅子の背もたれを強引に下げ、ただでさえ狭いスペースを独占するかのように抵抗できない体を押さえつけて体に跨ると天羽の体を倒された背もたれに強く押し付ける。

一瞬の出来事に小動物のような叫び声をあげることしか出来ず、思考がまとまらない。

 

「ど、どうしてここに……?」

 

彼の片足が太ももの間を陣取り、首を両手で押さえつけ自由を奪う。下半身の動きを封じられ、彼の体温がじわじわと広がっていった。

暖かい。

雨の中、傘も持っていない目の前の美しい人は水滴の一つすら落とさず、冷たい瞳で見下す。アンバーガラスと良く似た茶色い髪が頬を撫で、少しくすぐったい。

そういえば、最初に出会ったときも彼が上にいた。

 

「それは自分の胸に聞いてみることだな、尻軽女」

 

懐かしさと優しい温度がゆっくりと混乱を収め、ようやく状況を把握する。彼は何かを求めていること、そしてその何かが分からないことだけははっきりと頭が理解していた。

 

考えられるのは二つ。

この命か、体か。

 

前者は因果関係が結び付かず、殺す理由が思いつかない。

二者択一、結果たどり着いた答えは在り来りで陳腐な後者。一夜限りならば男は嫌いな女でも抱ける事実を知っている二十を超えた自分には、その推測はパズルの凸凹がはまるようにしっくりとくる。

 

しかしここはフィクション。彼ら(キャラクター)は天羽に感情の一つも抱かない。彼の言動に意味なんてない。

ムカついたから殴る、ムカついたからこうやって感情をぶつける。たったそれだけのこと。

性的関心が行動に直結しない生易しいキャラクターたち、恋愛感情もままならない奥手なガキがただ自分の性を振りかざして脅しているだけ。

 

なんともつまらない。なんともガキくさい。

 

「……あー、やっぱりヤりたいんですか?この巨乳揉みたかったんです?それしか今のぼくにはないですものね!ロリコンのくせに実に思春期らしい願望で──ッふぁ!!!??」

 

彼女がすべきなのはありもしない現実で馬鹿にして、否定の言葉をもらうこと。うまく感情を引き出して、彼が言って欲しいセリフを模索する。

そうすれば目的が見えてくるはず。

 

はずだった。

 

戦略は虚しくも、引き千切られて弾け飛んだ藍色の服によって有耶無耶に消えてしまう。重苦しい服は男の手にかかればただのラッピングペーパーのようなもの、抵抗をする間も無く服は形を崩しただの布切れへと成り果てた。

その光景に、言葉は出ない。

 

「はっ、俺のジャージ着てるとか、本当に俺のこと大好きだな」

 

思考は現状を理解できず、呆気なく開いた服に唖然とする。あらわになった肌と、平たくした胸をかろうじて隠すボロボロのジャージを鼻で笑い、布を引き裂いた。

 

「へ、ぁ?な、なに、どうしたの?」

 

「今ここで、テメェが死ぬまでぶち犯してそこら辺の犬にでも喰わせてやろうかっつってんだよ。そこまでしないとテメェは学習しねぇのか?」

 

黒い瞳はまっすぐ天羽を見つめる。おぞましく低い声が雨の音が響く車内に広がった。

視界を埋める男の体に混乱の波が引いていく。

 

「……ふざけてるの?」

 

「ふざけてるように見えるか?」

 

何を言っているのか理解できない。脅しと取れる発言に苛立ちが増す。

説教をかましたいのか、本当に碌でもない女を抱こうとしているのかはわからないが、その感情に付き合っていられなかった。

 

ただの舞台装置には何もかも意味がないのだ。だからピントのずれた説教にも、面白くもない行為にも興味は湧かない。

脅しの意味を履き違えた子供にこれ以上付き合ってられなかった。

 

「ふざけてんだろ。セックスが脅しだと思ってる時点でただのガキのお巫山戯にしか感じねぇーよ、小学生か」

 

「言うようになったな、ド処女。テメェの人間性全否定してゴミみてぇに扱ったっていいんだぞ」

 

「このあたしが本当に処女だと勘違いしてるのなら、相当愉快な頭してんな第二位様。そんなナリして頭ラリパッパかよ」

 

説教臭い台詞を吐き続ける恋愛経験の乏しい子供に、彼女は教えなければなるまい。脅しとは相手の大切なものを傷つけなくては意味がないと。

お前が相手にしている女は大人で、お前が思っているほど簡単ではない。

 

動きを奪われた足を懸命に動かしてクラクションを鳴らす。突然響いた音に微かに驚いた彼の隙をついて赤い結晶を口に含むと、神の力を用いて車からの脱出を図る。

 

コツンと、ドアを叩く。作られた小さな衝撃は神の演算によって膨大に膨れ上がり、風が生まれた。

作り上げた大きな風が車を駆け抜け、ドアも、ガラスも全て吹き飛ばし、埃を巻き上げ突き抜ける風に体を預けて外に抜け出す。

 

「っけほ、抜けれた……!」

 

バラバラになり、所々凹んだ黒塗りのワゴン車から体を捻り出すと、舞い上がったホコリに咳き込みながら地べたに座り込む。

展開された翼のせいで穴が空いたカンフー服と、壊したドアの鋭利な残骸に引き裂かれたズボン。垣根の安否を少々心配しながら車から遠ざかると、鋭い声に喉が冷えた。

 

「痛てぇな、そしてムカついた」

 

重い翼に垣根の影が差す。恐ろしく冷えた黒い瞳に、吐き出す息が冷えていく。

本能が恐怖を告げる。

 

「あ、ご、ごめんなさっ、いっ!?」

 

「今のはどう見ても能力によるものだよな?どういうことか説明しろ」

 

気づくよりも早く首を掴み取り、地べたに座り込んだ体を持ち上げられると声が漏れた。痛みよりも恐怖で演算がおろそかになる。

大きな手に締め付けられた喉からは小さな嗚咽と、吐息混じりの弁解しか吐き出せず、背中の重い翼も相待って非常に不快だった。

一体何に対して怒って、なにを伝えたいのか分からない彼女には、その姿は恐ろしく見えて仕方がない。

 

「ッあ、ふっ、たぃ、体晶、飲んだだけです。っ神様の力を、繋ぎ止めるためにね」

 

「体晶……?俺に黙って使ってたのかよ、クソが」

 

息を吸い、小さな声を吐き出し事実だけを述べたつもりだったが、真実は彼の機嫌を損ねる。

捨てるように首を離し、怒気を含んだ低い声が上から降り注ぐように響く。水溜りに落ちた体は雨の中、白い吐息とともにゆっくりと冷えていった。

恐ろしい形相をまともに直視することができない。

 

「申し訳、ありませんが、キミには関係ないことでしたので。だって、ぼくがどうなろうが、キミにはどうでもいいことでしょう?」

 

「……どうでもいい?テメェは自分の責任ってものを分かってねぇな」

 

「責任、ですか。よく分かりませんが、ぼくのこと嫌いなんですから、もう関わらないでくださいよ。キミに迷惑かけたくないのです」

 

「今のテメェの方が迷惑なんだよ!」

 

「っ、う!?ッ!!!?」

 

水に濡れた体に目にも留まらぬ速さで彼の右足がめり込んで、あまりの強さに道路を挟んだビルめがけて体が投げ飛ばされた。体にかかった重力がスピードを落とし、ビルの側面に強く体を叩きつける。

息が止まり、骨が折れると痛みが迅速に脳を駆け巡る。翼が緩衝材になったとはいえ、不意の痛みは泣きたくなるほど不快だった。

 

「っ、はぁ、どうしたんですか、キミが何言ってるのか一ミクロンも分かりませんよ……」

 

傷は立ち上がると同時に治り、痛覚はシャットアウトされる。慣れない背中の重さと、頭上にある丸い光の輪に苛立ちと眩しさを感じながら遠くに見える彼を視線で追う。

抑えきれない情動を吐き捨てる彼の言葉は、自分の理解が及ばなかった。

 

「黙れ馬鹿女!テメェは俺の隣で喚いてるのがお似合いなんだよ!!」

 

「はぁ!??意味わかんない!ほっときなよ!嫌いなんでしょ!?」

 

「好きか嫌いの二択しかねぇーのかテメェは!」

 

カメラの多い地上にいるのは危ないと、狭い裏路地に逃げ込んでビルの屋上を目指す。エアコンの室外機、壁のくぼみ、用途のわからないパイプを伝って空に近づくと、空を飛ぶ美少年が理由も分からず追ってきた。

 

迷惑だ、迷惑で仕方がない。勘違いしそうな言葉と、まるで彼女を心配するかのような説教が、迷惑で仕方がなかった。

 

「嫌いの一択だよ!だって!だってあたしは誰にも好かれないから!」

 

「悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇぞブス!」

 

「ヒロインですらないあたしへの答えが、この世界なんだよ!」

 

ヒロインでも、キャラクターでもない自分への感情は、好意であるはずないというのに。思わせ振りな態度が腹立たしい。

こんな女がヒロインなわけないじゃないか。フィクションの世界で、リアルが主人公になれるわけないじゃないか。

彼の言葉は所詮本当のことを知らないガキの戯言、耳を傾ける必要性もないはずなのになぜかまともに返事をしてしまうのはなぜだろう。

 

「それは、お前が天使だからだと言いたいのか?」

 

「うん、あたし、宇宙人なの、天使様なの、この世界の人間じゃないの!」

 

たどり着いた屋上、手すりの上で高らかに笑う。追ってきた王子様は大きな翼を背に雨模様の空を飛び、笑い声に顰めっ面を見せる。

濡れた髪が顔にへばり付き、張り付いた服が不愉快でも、叫んだ思いのおかげで心はどこか晴れやかだ。

いや、晴れやかというよりは、雨であることを受け入れたような感覚。

 

諦め。

呆れ。

 

この感情が理解されないことへの妥協に近かった。

 

「だから愛されないと?ばっかじゃねぇのお前!ウブで鈍感なんてどこぞの少女漫画のヒロインそっくりじゃねぇか!だからテメェが嫌いなんだ!」

 

「ふぎッ!」

 

白い翼の破片が体に突き刺さり、風が体を吹き飛ばした。床に体が落ち、空いた体の傷を塞ぐために脳が動く。

胸を潰すために巻いた分厚いサラシが外れても、必死に体を治し、修復し、立ち上がる。重い翼を支える足は少々頼りなく、足元は覚束ない。

 

「反撃しねぇと、このまま死ぬぜ?どうする、天使様!」

 

「どうすると思う!?」

 

ガムテープが外れ、重力に従って外れたサラシにつまずきながらも走る。

大きく身を乗り出し飛び出すと、高いビルの上から街灯の上へと着地した。片方の靴が脱げ落ちるのも構わず、降り立った衝撃を神の力で受け流すと緩やかに裸足を汚いライトの上に乗せる。

熱を帯びた電灯は、天羽には暖かさも感じられない。

 

「さっきの風といい、テメェの能力は体に干渉する能力じゃねぇのかよ。どうやったら人為的な風を肉体干渉能力が使えるんだ?」

 

「この体は神の血を飲むことで神の脳と繋がり、拡張する。拡張して脳は神の片鱗さえ与えてくれるってわけ。僕の精神は天国と繋がるのですよ」

 

「あぁ、なるほど、神様の世界とリンクして、外装代脳(エクステリア)のように拡張したってことか?んで俺の推測はあながち間違ってないんだな」

 

ようやく違和感に気がついた彼に薄く笑う。聡明で、未知を信じる勇気がある彼は答えを聞くだけで近しい真実に辿り着く。

勘の鋭い少年にもはや笑うことしかできなかった。

 

「そうですよ!ぼくはね、死んで、この世界に天国を通じて藍花悦として産まれ落ちた!シャーマニズムと言っても過言ではないんです!だからキミはぼくが好きじゃない!天羽彗糸(お化け)のことなんて、キミは好きにはならないだろう!?」

 

「お化けって、死んだから生き返っただけだろ?なんでそんなに卑屈なんだ!」

 

もう隠すものがないとわかると、頭は途端に馬鹿になる。風を起こし、近づけまいと躍起になる脳に、これ以上思考を求めても無駄だった。

 

「だから!ぼくは死んでるんです!キミとは違う時代を生きたんです!違う世界で生まれたんです、だからぼくはっ!キミと離れなきゃいけないんです!」

 

「死んだからなんだよ、欲張りなくせに変なところで謙虚になるんじゃねぇ!」

 

髪が風の中で舞う。白い翼と、輝く光輪に邪魔されながら叫んだ言葉は、呆気なく否定された。

彼の顔がまともに見れず、き荒れる風の中で好きな人の怒号に感情が弾ける。様々な感情と思いが巡り、破裂した思考が止まった。

膨大な問題と、障害と、悩みと、感情に、もう体も精神も疲れていた。

 

「うるせぇぇぇぇぇぇっ!!!」

 

吐き出した感情に神は呼応する。白い閃光が頭上の輪から瞬いて、一筋の光を大きな威力で発射した。

眩い光が目を奪う。神の世界と同じ匂いがする焼け跡に、なぜか心は踊っていた。

 

未元物質(ダークマター)ッ……!?」

 

酷く勘の鋭い男は白い匂いに驚きつつ、繭のように体を覆う翼を開いた。自分にしかできないと思っていた特別な力が、二番煎じに薄められて彼はどう思うだろうか。

神の世界を引き摺り出した女へ向ける憎悪はきっと彼女を拒んでくれると、信じたい。

 

「っは、天国の一部分を引き摺り出す、それくらいの奇跡ならば神の御使いだって出来るに決まってる、分からない?」

 

「そうなると、俺の能力は……」

 

「お前のものとは比べ物にならないほど精度も、力も弱いけれど!けれど!三番目になるくらいの力はあるんだか──ッうグァ!?」

 

想いを叫んで、叫んで、叫んだ末、白い泥が口から溢れた。内臓が抉れ、粘りっ気のある白濁が腹の底から湧き上がる。

血の匂いに混じった微かな花の香りに、思い出したかのように見上げた空に見える光の羽に全てを悟り、白濁を口から零す。

 

藍色の空の中、白い光が巨大な繭のように伸びていた。世界に降ろされた擬似的な天国、虚数学区の姿に体が事切れる。

こじ開けられた擬似的な天への扉はたとえ欺瞞の結果であれ、彼女を愛した神への毒になった。

 

神の鼓動が伝わる。神様に作られた炎の魂にはこの鼓動が酷く痛む。

体に詰め込まれた天国の一部が拒否反応を起こし、炎症を作りながら体を燃やす。

吐き出した白濁の液体は、紛れもなく大覇星祭の時に目の前の少年によって植え付けられた天界の一部だった。

 

「は?……テメェ、まさか本当に俺がいない間に……!」

 

「おぇぁ、ごへ、っ、これは」

 

「この俺を散々悩ませて、散々不快にさせて、散々迷惑かけておいて、お前はその間知らねー男とやることやってたってわけか?」

 

「っは、ちが、おぇ、これは垣根くんの……っ」

 

しかし彼はそんな事実知る由もなく、くだらない推論を並べ立てる。半透明の白い液体に、いやらしい勘違いを思い巡らすのはごく当たり前の反応か。

顔を顰める彼に弁論したくとも、舌に張り付く苦味のある液体が邪魔をして言葉を口にさせてくれない。

 

「ぶっ殺す」

 

白い羽根が街灯目掛けて飛び交う。凄まじい殺気と、素早い攻撃に不安定な足元がおろそかになる。

なんとか避けようと動いても、狭い足場では不十分だった。

 

「っ、おァッ……!」

 

羽根の一枚が強烈な速さで足が貫き、バランスを失った体は宙に落ちていく。吐き出した白と、回る視界に気持ち悪さが胸の底から込み上がる。

反転した世界に白を吐き出すと、体は重力に従いあっという間に地面に近づいた。

 

「飛べねぇ天使とは面白い。その翼はただの飾りか」

 

花の生えてない低木の上に音もなく落ちた体が、なんだかとても馬鹿らしく感じる。鼻の奥から溢れた赤を藍で拭う自分に嫌気がさす。

空から見下ろす垣根の嘲笑と、不快な雨、格上にどうしたって勝てない弱い自分と、リアルとはかけ離れた今に、虚無としか言いようがない感情が芽生え初めていた。

 

「っはぁ、なんで、なんでこんなことに、っ」

 

本当は弱っちい涙腺が、こんな時になって力んでいく。疲れ果てた心は、濡れた肌の不快感に壊れてしまった。

滲む視界に息が上がり、鉄の匂いがする赤い液体が鼻からぼたぼたと落ちる姿は、きっととても滑稽なんだろう。

 

「っなんだよ、泣いてんのか?元はといえばテメェが……」

 

「なんで、っ、あたし、怒られなきゃいけないの?なんもしてないのに、」

 

柔らかい葉の上に座り込み、ボタンの壊れたジャケットを内側から閉めようと袖から腕を出す。

裸同然の姿と、片方の靴がない足元に乾いた笑いと無力感が襲う。馬鹿げた姿に、もう限界が近かった。

 

「どうして、そんなに言われなきゃいけないの?」

 

できること全部やってるだけ。ちゃんと世界を理解して、迷惑かけないようして。

自分の全部を教えてあげた。

未練を果たす仕込みは終わらせた。この世界で一番愛している少年を救う手立てはできた。

 

なのに、なぜこんな目に遭うのだろうか。なぜ神は試練を与え続ける。

どうして、彼は怒っているのか。

 

何もかもがわからない。

 

もう逃げてしまいたい。

 

「垣根くんの、ッバカ!」

 

考えることをやめたかった。

 

叫び声と共に体を預ける低木の枝を伸ばして、広げて、成長させて大きな繭のように体を覆う。隙間から見えた彼の見開いた瞳と目を合わせないように。

花を咲かせる勢いで伸ばした枝の中、息を荒げて必死に涙腺を冷やして嗚咽を漏らした。

 

「ああぁぁ……っ」

 

優しい花の香りに本音が零れる。

もう思い出せない妹と、両親の顔、昔住んでいた東京の風景に、大人だった頃の彼女。

その全てが、もう叶わない。

この地獄に連れてこられた精神は慣れない現実の大きな差に耐えられず、口の隙間からどろどろと煮詰まった砂糖に似た重い感情が溢れ出た。

 

帰りたい(死にたい)な……」

 

死は決して救済ではない。死んだ彼女は、死後もこうやって苦しめられている。

神の願いによって愛された魂は地獄という舞台に連れてこられた彼女こそが、死が終わりでない証明。

けれどこの世界からの唯一の逃げ場は死であり、最後にたどり着いた答えもまた死であった。

 

もう体は動かない。

何もかもに疲れ果てた。許容を超えて流れ込む神の苦痛は生きる気力すら奪う。

 

花と雨の香りで満たされた暗い繭の中、怠惰な感情が心を蝕み、体は精神と共に機能を停止した。

 

「紫陽花の下には死体が埋まってるとはいうが、まさか天使が泣いてるとは誰も思わねぇだろうな」

 

冷えた風が動かない体を撫でる。繭を開き、大きくなった雨音に薄く目を開くと腕を取られ、草を通り抜け明るい夜に連れ出された。

花開いた紫陽花の繭が割れる。

鮮やかな紫陽花の藍が目に焼きつき、雨粒が睫毛に弾かれて世界がきらきらと輝く。夜の淡い光を反射する柔らかな雨は、腕を掴んだ彼の体温のおかげか不快ではなくなっていた。

 

「言いたいことがあるなら直接言え、俺にだってお前の泣き言を聞いてやる余裕くらいあるんだぞ?」

 

秋の寒さを吹き飛ばす暖かい手が腕を引く。こんな女に見せてはいけない柔和な笑みを浮かべる少年に、心の奥が疼いた。

 

「……頼むから、嫌いな女に優しさなんて見せないでよ」

 

「嫌いな女、ね。お前は一から十まで全部言葉で言わなきゃ分からないのか」

 

「言わなくてもわかるよ。キミたちはぼくが嫌い。だってぼく、ヒロインでも、ヒーローでも、なんでもないのですから」

 

フィクションのキャラクターは現実の人間を認識しない。二次元と三次元、読み手と創作物、生き物と無機物。

だが、干渉するはずないものは神によって立体となり現実と成った。

 

認知され、認知し、関わる。本物と同然の並行世界。

けれどここは本当の世界と違う。歴史は煩雑で、未来は決定付けられ、人によっては過去は曖昧で、誕生日も、血液型も、身長も定かではない。それは感情も同じ。

 

全て決定付けられた世界にいる彼女はただの装置で、小さな変化を捻じ込み変わりゆく世界を傍観するしか脳がない。

決められた感情が、傍観者に移ることは決してないのだ。違う生き物に感じる愛情なんてない彼らは、たとえ天変地異が起きても装置に愛情を感じることはない。

 

孤独な世界。

 

でもそれでいい。もともと貰えもしないものを、代替品に望んだって意味がない。

たとえどんなに飢えていようが、自分が愛を与えれば潤う心にとってはこの世界は都合がよかった。

 

「そのヒロインとやらじゃねぇから自分の我儘は通らないと?俺に幸福を与えようと自分の幸せは貪っておいて、我儘は言えないってか?」

 

「嫌いな女の我儘なんて、気持ち悪い以外何でもないでしょ?」

 

「もう少し柔軟になれ、お子様。少しは心情を読む努力をしろ」

 

彼の言葉がやけにうるさい。掴まれた腕を引き剥がして数歩後ろに下がっても、かさぶたを剥がすように痒みを増していく心に頭がどうにかなりそうだった。

 

ここは都合がいい世界なんだ。

愛情なんか貰わなくたって生きていける。

誰も望まない人間が創造物に愛されるはずもない。

誰にも望まれなくても、我儘()を貫ける舞台。

大嫌いな神に刃を突き付けるための世界。未練を叶える世界。

 

彼と一緒にいたいのは天羽の我儘。情が湧いた少年を最期まで見届けたいという欲。

欲望、我儘。本当は一緒にいなくたっていい。彼は天羽が嫌いで、それを尊重するのが姉だ。

だからこの我儘は叶えられることはない。

 

ないはずなんだ。

 

「垣根くんは、そんなことあたしに言わない。絶対、絶対、君はそんなこと言わない、君は、あたしを……」

 

「テメェは何を怖がってんだ。目の前にいるのがこの垣根帝督様だということを忘れてんじゃねーぞ?ちょっとは素直になれよ、お姉ちゃんなんだろ?」

 

こんな優しくて柔らかな暖かい感情が向けられることなんてないはずなのに。

 

理解から遠のいた現実に吐き気を催す。ウブでも、鈍感でもない天羽には彼の挙動に心臓が高鳴るのを分かっていた。

まるで好きだと言われているようで気味が悪い。あり得ないはずの優しさに磨り減った精神が痛みを増して行く。

あまりの熱に溶けてしまいそう。

 

「……いいの?こんな醜い我儘を美しいキミにぶつけても」

 

初めての熱に体は崩壊寸前だった。

熱が唇を溶かしていく。貰ったこのない言葉の数々に手は震え、足先は冷える。縮こまる翼と光を失意かけた頭上の輪が感情を物語っていた。

 

「テメェの願望を叶えることくらいなんてことねーんだよ。常識を超えて、その願望を実現してやるさ」

 

「……どんなものでも、叶えてくれるの?」

 

「俺がどんな願いも抱きとめてやる、だからこっちこいよ」

 

神様が美しく微笑んだ。

 

その美しさに、次元の壁が崩壊する。彼の姿に目が眩んだ。

 

面倒と言いたげな困った笑みと、遠慮がちに広げた腕に心が瞬く。

限界だった精神は、初めて貰った微かな愛情に悲鳴をあげて神に縋り付いて離れようとしない。

 

叫びたい、この愛を。

好きだと、何よりも好きだと、どんな世界でも君を一番に愛していると、叫びたい。

けれど、代わりに出たのは可愛らしくもない嗚咽。満身創痍の体を引き摺って、優しい少年の胸の中に飛び込むことしか、今の天羽にはできなかった。

 

「俺がお前の汚い我儘を受け止められないくらい甲斐性のない男だと思ったか?テメェごときが抱える悲劇なんざ、今度は俺の力でハッピーエンドに変えてやれるんだよ、バーカ」

 

そう言って盛んに伸びた紫陽花を一本だけ手折り、ぐしゃぐしゃになった自分に美しい花を差し出した。

藍色の美しい花。藍花悦にふさわしいその色を手に取る自分の顔はきっと緩み切っていただろう。

 

「色々聞きたいことはあるが、いまは帰るぞ。この身一つで空の旅をプレゼントできる男なんかこの俺ぐらいなんだからな?」

 

腰を掴まれ、白い翼が視界を覆う。乱れた髪の隙間から見えるのは彼だけだった。

高揚感と浮遊感が心を襲い、脈が早まるのがよくわかる。

浮ついた熱は空を飛ぶ体を風にも冷めないほど熱い。初めての感情に戸惑いながらも、熱を持った心臓は心地よい風に感情を噛み砕き、一つの願いを生み出した。

 

破滅願望。

彼女の脳はコッペリアを受け入れた。

 

願う。

自分の全てを捧げたいと。

 

誰かの代替品じゃない。

誰かの代わりじゃない。

他ならぬこの男だけのために。

 

名前も、戸籍も、財産も、誇りも、記憶も、体も、感情も、何もかもを。

最悪な終わりを迎える不幸な少年に、幸せな世界を生きて貰うために何もかもを失いたいとすら思う。

 

彼のためならば、何度だって地獄に落ちる。

世界で一番好きな人のために死ねるなんて、彼女はなんて幸せ者なのだろうか。

 

これは崇高な愛の形。彼女にしか出来ない鮮明で美しい愛。

こんな女を家族だと思ってくれた少年に渡せる唯一の贈り物。

 

あなたのためなら、なんだって出来る。

 

あなたのためなら、なんだって赦せる。

 

主人公の為ならば、コッペリアはその身を滅ぼしても惜しくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の為じゃなくて、あなただけのために死にたいの。

他でもない貴方だけのために、あたし、死んでしまいたい。

 

この我儘をどうか叶えてください、神様(垣根くん)

 

 

あなたのためならば、悪魔にだってなってみせるから。

 

この感情は、

  • 無償の愛、兄への愛、家族の愛
  • 初めての恋、男への恋、邪な恋
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