こつん、と外殻にあたる手ごたえ。
ワンツーワンツー、と足で拍を取っていた彼は、違うビートがいつの間にか混じっていることに気づき、俯かせていた顔を上げた。
きちきちと音を立てそうなほど凝り固まった首筋を動かして、どうにか正面を見る。
真っ暗で真ん丸な厚ガラスは、憎たらしいほどに分厚く、つるんとしていた。いつもどおりだ。でも、そのいつもどおりの端っこに、ひとつだけ、小さな異変が起きていた。
ちょこっとだけ、ほんのカケラだけの砂粒が、ぽつねん、と存在している。
灰色の小山。先端に開いた穴から、半透明の触角のようなものが覗いている。彼はにやり、と口をゆがめた。久しぶりの笑みに口端から血が滲む。
「とうとうコーティングがはがれたな」と勝ち誇ったように言う。誰も反応してくれないので、「さあ、次はどこが壊れるんだ」と叫んだ。あいにくと、返事はない。ただ、水流の音がするのみ。
『……さん。脈拍弱まってます』
『ご家族のかた呼んできてあげて』
これはフジツボだな、と彼は思った。水中で着くものといったらこれしかない、とも思っていた。ただ、あまりにも遅すぎた。もはや期待はもてまい。もつつもりもなかった。裏切られるのはごめんだからだ。そう自分に言い聞かせた。
「この野郎」とののしってみた。「おれの純情を返せ」。その時、触角がピッと中に引っ込んだ。こちらの剣幕に驚いたかのようで、彼は少し笑った。笑って、疲れて、寝た。
目が覚めて、いの一番にガラスを見た。彼の未だ正常な三半規管は、上下サカサマなことを教えてくれる。
『……さんは、もう私のことも覚えてないのよ』
『母さん……』
『ヘルパーさん、ヘルパーさんって。もう疲れました』
「どうしようもねぇな」と独り言ちた。おおかた、どこぞの海溝に滑り落ちたのだろう、とも思った。サーチライトなんて上等なものは元からついていないので、室内の計器類から灯りをとる。窓側の残量ゲージは特に赤く光っているので、よくよく目を凝らせば見えないこともなかった。
どうやら斜面にいるようだった。半ば突き刺さるような形で、やわらかな砂泥のなかに埋もれている。ガラスの上半分、つまり今下を向いているほうは、柔らかな泥で覆われて見えなくなっていた。
『武勇伝をいくら持ってても、病には逆らえないのね』
『大きなクジラを獲ったーってやつでしたっけ。よく話されていたので覚えています』
『……孫かなんかだと思われてるわよ、それ』
『ええ! お孫さん小学生じゃないですか』
「クソだ」と笑った。「マリンスノーなんてカッコつけても、しょせん何かの老廃物だ」と嘲りたかったが、途中で舌を噛んでせき込んだ。
彼には知りえないことだったが、そこはウミユリの群生地だった。斜面一面に、自然に形作られた等間隔で、ウミユリたちは腕を広げてプランクトンをこしとっていた。たおやかに広げられたウミユリの花が舞う、ある種幻想的な空間だった。
そして、その花園をタンクローリーのごとく平らにならしたのも彼のせいであった。砂泥に半ば埋もれる形で止まったその船は、いくばくかのウミユリを下敷きにしていた。
もちろん、彼は覚えてない。
端っこのほうに、フジツボは、まだついていた。
フジツボは日に日に数を増していった。
身を寄せ合うように集まって、もう半分以上を覆っている。
たくさんのフジツボに水流があたっては砕け、騒々しく音をたてた。
「こちとら独り身なのに、うらやましいこって」
憎々し気な口調なのに、なぜ口角が上がっているのか。
彼自身にもわからなかった。
そのまま、深度計をちらり。いつも変わらず、0から針の動いた様子もない。
安物だったんだ。なにせ、沈み始めてからずっとあのままだ。
呟くように思って、静かに目を閉じる。
それからは、日ましにどんどん沈んでいく。
相変わらず深度計はピクリともしないが、それだけはわかる。思い出したかのように重力にひかれて、さらに奥へと潜っていく。
着底する鈍い音が、船全体を軋ませる。
目を、開ける。
視界は、ほとんど暗闇に覆われていた。
今まで照らしてくれた計器類は、そのすべてが沈黙している。
いろいろなものを失いながら、沈んでいった道の果て。
微かな水の音。
蓄光塗料がうすらぼんやりと光るのを見て、いつもの寝間着を羽織っているのに気づいた。
お気に入りの、パジャマ。
ライムグリーンのケミカルな光に、フジツボの生るガラスが映る。
もう、全体が覆われている。
その、端に。
小さな亀裂が走っている。
__ああ。
知っている。もとよりバラストなど積んでいないこの船は、潜ることしかできない。
もう足首まで浸かっている。
水音は、静かに勢いを増している。
まあ。
「潜ってる間はいろんなものが見れたしな」
_もう思い出せないくらい前の、銀色に光る魚の群れ。/幼い息子。
_至近を悠々と通り過ぎたサメやアカエイの巨大な影。/息子の結婚式。
_深海に移る暗闇の中、無数に落ちるマリンスノー。/若かりし頃の妻
_どこを目指して泳いでいるのか、虹色に光る瓜のようなクラゲ。/まだ赤ん坊の孫。
_先客として鎮座する、フジツボやカニにたかられた、巨大な全身骨格。/若い自分。
あれはきっと、シロナガスクジラに違いない。
彼は静かに目を閉じる。しわだらけの口が弧を描く。
いつも鏡像にうつっていたのは、痩せこけおいさらばえた一人の老人。
厚ガラスは唯一の観察窓でいて、彼をも映す姿見だった。
その姿見も過去のもの。今ではフジツボに覆われ、往年の輝きを失っている。
ゆえに、彼の姿を目にしたものはおらず。
涙の味がすべてを覆ったころ、彼はようやく、死んだ。
阿呆みたいに照り付ける日差し。
男はリールから手を離して、首元にかけたタオルで額の汗をぬぐう。
たくましいものだ、とふと思う。のんきに釣りなどと。
父は最近死んだばかりで、その遺骨をこの海にまいたのも自分だった。
生前は骨格標本にしてくれなどと、滅茶苦茶なことを言う人で。
それにあこがれたときもあったが、今考えると、少しらしからぬ女々しさだった。
「結局、思い出してくれなかったしなあ」
アルツハイマーだったのは、百歩譲ってよしとしよう。でも、息子や自分の妻のことは思い出せないのに、娘と義娘と孫のことだけ覚えているってどういうことですかねぇ、と独り言つ。
『老々介護ばかりだったから間違えたんです』
あの人プライド高かったから、ヘルパーさんってことにしないと生きていけなかったんでしょう。死にましたけど。そうすました顔で言った母は、今では友人と旅行中だ。なんでも、未亡人仲間らしい。なんだそりゃ。
俺も、悲しくなかったわけじゃない。
汗ばんだポケットが震える。竿を左手に持ち替えて、震える携帯を耳に当てる。
「お父さーん」
未だ舌足らずな娘の声。干潮で潮が引いている今のうちだけ、向こうの砂浜で遊んでいるはずの娘の声は、いささか興奮を含んでいる。
「どうした」
「えーとね、でっかい骨を見つけたの。もうすごいでっかいんだよ。まじで」
鼻息荒く力説する姿が、目に浮かぶようだ。思わず苦笑する。
「ほんとうか?コウイカの骨とか、プラスチックの板とかじゃないのか」
「ちがうって。ほんとに大きいんだって。たぶん前父さんの言ってたクジラの骨だよ、あれ」
__ああ。
過去の情景が一瞬のうちに再生される。
遠い昔。くしくも似たような炎天下。砂浜に漂着したクジラの死体を発見したのは自分だった。
5、6メートル程度の、昔の彼にとっては小山のような存在感。
まっさきに教えた父が地元の博物館に連絡し、彼らは標本を作るため、シャベル片手に穴を掘る。
地面のしたでゆっくり骨以外を腐らせ奇麗にする。骨格標本作りの一工程。
遠めに見守りながら、父と喋っていたのを覚えている。
「コマッコウだとよ」
「コマッコウ?」
「マッコウクジラの小さいやつだと。まあ、あの大きさじゃあなあ」
惜しむような、残念がるような声音。
ようやく、コ、というのが小さいということだと合点がいった彼は、父を見上げて質問する。
「じゃあ、ダイマッコウならよかったの?」
「……そんなのいねえよ!」
こちらの頭をなでながら笑った父は、少し思案して。
「そうだな。シロナガスクジラなら文句なしだ」
なにしろでかい。三十メートルぐらいはあったな。そういった父は、まるで見てきたような口ぶりで。
父は、クジラに会えたのだろうか。
「お父さん?」
「ああはい。なに?」
「ちょっと、ボーとしてたら困るよ。こっち来てって言ってるの」
「ええ、わざわざそっちぃ?」
「実際に見ないと納得しないでしょ」
今度はすまし顔が目に浮かぶようで。電話の持ち主の妻の声が、通話口の向こうから娘の名前を呼ぶ。それに元気よく返事して、ちゃんと来てねと念押しして一方的に電話を切られる。
ちょっと遠いんだけど、仕方ないなぁ。
ため息をついて、重い腰を椅子代わりのクーラーボックスから持ち上げる。
片手に竿。片手にクーラーボックスを背負って、えっちらおっちら。
吹き出る汗をぬぐいながら、砂浜目指して歩き出す。
口元は、僅かに笑っている。
太陽光にきらめく波間が、鏡のように大人の彼をいたずらに映す。
生ぬるい潮風が吹き抜ける、ある夏の午後の話だ。