最初は、おじいちゃん主人公をとりあうフジツボとホネクイハナムシの予定でした

1 / 1
夏ですねぇ!


それシロナガスクジラの骨ですよ

こつん、と外殻にあたる手ごたえ。

ワンツーワンツー、と足で拍を取っていた彼は、違うビートがいつの間にか混じっていることに気づき、俯かせていた顔を上げた。

きちきちと音を立てそうなほど凝り固まった首筋を動かして、どうにか正面を見る。

真っ暗で真ん丸な厚ガラスは、憎たらしいほどに分厚く、つるんとしていた。いつもどおりだ。でも、そのいつもどおりの端っこに、ひとつだけ、小さな異変が起きていた。

 

ちょこっとだけ、ほんのカケラだけの砂粒が、ぽつねん、と存在している。

 

灰色の小山。先端に開いた穴から、半透明の触角のようなものが覗いている。彼はにやり、と口をゆがめた。久しぶりの笑みに口端から血が滲む。

 

「とうとうコーティングがはがれたな」と勝ち誇ったように言う。誰も反応してくれないので、「さあ、次はどこが壊れるんだ」と叫んだ。あいにくと、返事はない。ただ、水流の音がするのみ。

 

  『……さん。脈拍弱まってます』

  『ご家族のかた呼んできてあげて』

 

これはフジツボだな、と彼は思った。水中で着くものといったらこれしかない、とも思っていた。ただ、あまりにも遅すぎた。もはや期待はもてまい。もつつもりもなかった。裏切られるのはごめんだからだ。そう自分に言い聞かせた。

 

「この野郎」とののしってみた。「おれの純情を返せ」。その時、触角がピッと中に引っ込んだ。こちらの剣幕に驚いたかのようで、彼は少し笑った。笑って、疲れて、寝た。

 

目が覚めて、いの一番にガラスを見た。彼の未だ正常な三半規管は、上下サカサマなことを教えてくれる。

 

  『……さんは、もう私のことも覚えてないのよ』

  『母さん……』

  『ヘルパーさん、ヘルパーさんって。もう疲れました』

 

「どうしようもねぇな」と独り言ちた。おおかた、どこぞの海溝に滑り落ちたのだろう、とも思った。サーチライトなんて上等なものは元からついていないので、室内の計器類から灯りをとる。窓側の残量ゲージは特に赤く光っているので、よくよく目を凝らせば見えないこともなかった。

 

どうやら斜面にいるようだった。半ば突き刺さるような形で、やわらかな砂泥のなかに埋もれている。ガラスの上半分、つまり今下を向いているほうは、柔らかな泥で覆われて見えなくなっていた。

 

  『武勇伝をいくら持ってても、病には逆らえないのね』

  『大きなクジラを獲ったーってやつでしたっけ。よく話されていたので覚えています』

  『……孫かなんかだと思われてるわよ、それ』

  『ええ! お孫さん小学生じゃないですか』

 

「クソだ」と笑った。「マリンスノーなんてカッコつけても、しょせん何かの老廃物だ」と嘲りたかったが、途中で舌を噛んでせき込んだ。

 

彼には知りえないことだったが、そこはウミユリの群生地だった。斜面一面に、自然に形作られた等間隔で、ウミユリたちは腕を広げてプランクトンをこしとっていた。たおやかに広げられたウミユリの花が舞う、ある種幻想的な空間だった。

そして、その花園をタンクローリーのごとく平らにならしたのも彼のせいであった。砂泥に半ば埋もれる形で止まったその船は、いくばくかのウミユリを下敷きにしていた。

 

もちろん、彼は覚えてない。

端っこのほうに、フジツボは、まだついていた。

 

フジツボは日に日に数を増していった。

身を寄せ合うように集まって、もう半分以上を覆っている。

たくさんのフジツボに水流があたっては砕け、騒々しく音をたてた。

 

「こちとら独り身なのに、うらやましいこって」

 

憎々し気な口調なのに、なぜ口角が上がっているのか。

彼自身にもわからなかった。

そのまま、深度計をちらり。いつも変わらず、0から針の動いた様子もない。

安物だったんだ。なにせ、沈み始めてからずっとあのままだ。

呟くように思って、静かに目を閉じる。

 

それからは、日ましにどんどん沈んでいく。

相変わらず深度計はピクリともしないが、それだけはわかる。思い出したかのように重力にひかれて、さらに奥へと潜っていく。

着底する鈍い音が、船全体を軋ませる。

目を、開ける。

 

視界は、ほとんど暗闇に覆われていた。

今まで照らしてくれた計器類は、そのすべてが沈黙している。

いろいろなものを失いながら、沈んでいった道の果て。

微かな水の音。

蓄光塗料がうすらぼんやりと光るのを見て、いつもの寝間着を羽織っているのに気づいた。

お気に入りの、パジャマ。

 

ライムグリーンのケミカルな光に、フジツボの生るガラスが映る。

もう、全体が覆われている。

その、端に。

小さな亀裂が走っている。

__ああ。

知っている。もとよりバラストなど積んでいないこの船は、潜ることしかできない。

もう足首まで浸かっている。

水音は、静かに勢いを増している。

まあ。

 

「潜ってる間はいろんなものが見れたしな」

 

_もう思い出せないくらい前の、銀色に光る魚の群れ。/幼い息子。

_至近を悠々と通り過ぎたサメやアカエイの巨大な影。/息子の結婚式。

_深海に移る暗闇の中、無数に落ちるマリンスノー。/若かりし頃の妻

_どこを目指して泳いでいるのか、虹色に光る瓜のようなクラゲ。/まだ赤ん坊の孫。

_先客として鎮座する、フジツボやカニにたかられた、巨大な全身骨格。/若い自分。

 

あれはきっと、シロナガスクジラに違いない。

彼は静かに目を閉じる。しわだらけの口が弧を描く。

いつも鏡像にうつっていたのは、痩せこけおいさらばえた一人の老人。

厚ガラスは唯一の観察窓でいて、彼をも映す姿見だった。

その姿見も過去のもの。今ではフジツボに覆われ、往年の輝きを失っている。

ゆえに、彼の姿を目にしたものはおらず。

涙の味がすべてを覆ったころ、彼はようやく、死んだ。

 

阿呆みたいに照り付ける日差し。

男はリールから手を離して、首元にかけたタオルで額の汗をぬぐう。

たくましいものだ、とふと思う。のんきに釣りなどと。

父は最近死んだばかりで、その遺骨をこの海にまいたのも自分だった。

生前は骨格標本にしてくれなどと、滅茶苦茶なことを言う人で。

それにあこがれたときもあったが、今考えると、少しらしからぬ女々しさだった。

 

「結局、思い出してくれなかったしなあ」

 

アルツハイマーだったのは、百歩譲ってよしとしよう。でも、息子や自分の妻のことは思い出せないのに、娘と義娘と孫のことだけ覚えているってどういうことですかねぇ、と独り言つ。

 

『老々介護ばかりだったから間違えたんです』

 

あの人プライド高かったから、ヘルパーさんってことにしないと生きていけなかったんでしょう。死にましたけど。そうすました顔で言った母は、今では友人と旅行中だ。なんでも、未亡人仲間らしい。なんだそりゃ。

俺も、悲しくなかったわけじゃない。

汗ばんだポケットが震える。竿を左手に持ち替えて、震える携帯を耳に当てる。

 

「お父さーん」

 

未だ舌足らずな娘の声。干潮で潮が引いている今のうちだけ、向こうの砂浜で遊んでいるはずの娘の声は、いささか興奮を含んでいる。

 

「どうした」

「えーとね、でっかい骨を見つけたの。もうすごいでっかいんだよ。まじで」

 

鼻息荒く力説する姿が、目に浮かぶようだ。思わず苦笑する。

 

「ほんとうか?コウイカの骨とか、プラスチックの板とかじゃないのか」

「ちがうって。ほんとに大きいんだって。たぶん前父さんの言ってたクジラの骨だよ、あれ」

 

__ああ。

  過去の情景が一瞬のうちに再生される。

  遠い昔。くしくも似たような炎天下。砂浜に漂着したクジラの死体を発見したのは自分だった。

  5、6メートル程度の、昔の彼にとっては小山のような存在感。

  まっさきに教えた父が地元の博物館に連絡し、彼らは標本を作るため、シャベル片手に穴を掘る。

  地面のしたでゆっくり骨以外を腐らせ奇麗にする。骨格標本作りの一工程。

  遠めに見守りながら、父と喋っていたのを覚えている。

 

  「コマッコウだとよ」

  「コマッコウ?」

  「マッコウクジラの小さいやつだと。まあ、あの大きさじゃあなあ」

 

  惜しむような、残念がるような声音。

  ようやく、コ、というのが小さいということだと合点がいった彼は、父を見上げて質問する。

  

  「じゃあ、ダイマッコウならよかったの?」

  「……そんなのいねえよ!」

  

  こちらの頭をなでながら笑った父は、少し思案して。

  

  「そうだな。シロナガスクジラなら文句なしだ」

  

  なにしろでかい。三十メートルぐらいはあったな。そういった父は、まるで見てきたような口ぶりで。

  父は、クジラに会えたのだろうか。

 

「お父さん?」

「ああはい。なに?」

「ちょっと、ボーとしてたら困るよ。こっち来てって言ってるの」

「ええ、わざわざそっちぃ?」

「実際に見ないと納得しないでしょ」

 

今度はすまし顔が目に浮かぶようで。電話の持ち主の妻の声が、通話口の向こうから娘の名前を呼ぶ。それに元気よく返事して、ちゃんと来てねと念押しして一方的に電話を切られる。

 

ちょっと遠いんだけど、仕方ないなぁ。

ため息をついて、重い腰を椅子代わりのクーラーボックスから持ち上げる。

片手に竿。片手にクーラーボックスを背負って、えっちらおっちら。

吹き出る汗をぬぐいながら、砂浜目指して歩き出す。

口元は、僅かに笑っている。

太陽光にきらめく波間が、鏡のように大人の彼をいたずらに映す。

 

生ぬるい潮風が吹き抜ける、ある夏の午後の話だ。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。