誇張でもなく比喩でもなく、正真正銘どんな患者でも立ち所に治療してしまう凄腕の闇医者「蟷螂蚕(とうろう・かいこ)」が主人公の話。

1 / 1
もったいない闇医者

「なんとお礼を言ったらいいか……。本当に妻のガンが治るだなんて」

「いえいえ、私がやりたいことをやっただけです。まあ、お代はいただきますが……」

 これっぽっちも代金をまけてやったつもりはないのだけれど、四十代にしては若く見える浅黒い肌の男は、まるで私を神のように崇め、壊れたラジオの如く礼の言葉を重ねながら帰っていった。

 私、蟷螂蚕(とうろう・かいこ)は闇医者である。免許を持たないが成果は必ず出すという、超有名漫画の主人公のような特性を活かし生きている男、それが私だ。昨日今日はさっきのおっさんの妻の命を救い、一般的金銭感覚で見てそれなりに大きな報酬をいただいた。

「あんなに感謝されて。医者冥利に尽きるってものだな? 蚕」

「馬鹿を言うな兎洞(うどう)。おっさんに感謝されて何が嬉しい」

 私の性格を知りながらおちょくって来るのは、友人兼スポンサーである兎洞練馬(うどう・ねりま)。二年前に彼の母親が死にかけていたところを救って以来、何かと交流が続いている大学生の男……かつ程度を知らない金持ちの息子。それが兎洞練馬という人間である。

「私はね兎洞、若い女をこの世から減らしたくないんだよ」

「うわ……、いや、うん、分かるよ、何度も聞いた。けれどなぁ蚕、それは人としてどうなんだ」

「私の方も、同じ問いを何度も聞いてきたが、未だに少しも理解できないな。人の命を救っていることの、何が悪い?」

「うーむ……」

 闇医者、蟷螂蚕は、何も法外な報酬を要求する悪徳ではない。かといって安くしてやることもないが、断じて人の足元を見ることはするまいと弁えている。

 ただし私は断じて善人でもない。より具体的に言えば私は、若い女の命を救うことにしか興味がないのだ。勤め人のように仕事でやっているわけではないから、当然興味のない依頼には取り合わない。「若く」「生物学的に女であること」、この二つを満たさない人間が目の前で死んだところで、それが赤の他人である限りは、単純に哀れに思うだけのことだろう。それ以上でもそれ以下でもない。

 兎洞はいわゆる善良な人間なので、私のそんな思想をどうしても許すことが出来ないらしい。善良ゆえに「許せないから駆逐する」という方針にはならないようなので泳がせているけれど、いつまでも懲りずに同じ問答を仕掛けてくるその姿勢には、その執念には、さすがに恐怖を感じつつもある。

「お前が多くの人の命を救っていることは、本当に素晴らしいことだと思っている。何せお前が助けてくれなければ母さんは死んでいたからな、救われた人たちの気持ちはよく分かるつもりだ。……だけど、しなくてもいい命の取捨選択をするっていうのは、人間に許された行いじゃないだろう……?」

「力ある者は、最大多数の最大幸福に貢献しなければならない、ということか?」

「……まあ、そう捉えてもらってもいい」

 タバコを一本くわえて火をつける。ため息代わりに煙を吐き出すための物だ。あるいはもしかすると私はすでに、兎洞との問答に対してニコチンが必要不可欠になっているのかもしれないけれど。

「傲慢だな、普通逆だろう。力無き者は、助けて欲しいなら「お願いします助けてください」と這いつくばるべきだ。自分たちに貢献して当然だという態度を、どうして弱者が取れるのか疑問だね。それは強者のやることだ」

「ならお前は、泣いて頼まれれば引き受けるのか」

「嫌だよ、もちろん。それが傲慢だって言うんだ。私には闇医者としての働きで感謝こそされても、文句を言われる筋合いなどないんだよ」

「……はあ」

 力ある者の立場でため息の煙を吐く私のように、その善良性によって社会的な正しさを持つ彼もまた、力ある者としての傲慢さを有しているのかもしれない。これみよがしなため息を吐かれれば私とてあまり愉快ではないのだけれども、彼はそのあたりどう考えているのだろうか。私に人の心があろうともなかろうともだ。

 あるいは彼の傲慢は、兎洞家の潤沢な財産から来ているのだろうか? もちろん兎洞練馬は親の財産を食い潰すだけのクズではない。彼は家族のため世のためあるいは友のため、たゆまぬ努力を続ける勤勉で有望な青年だけれども、それが恵まれた生まれや環境を得ることに足る苦労だと主張するようなら、彼がいつか誰かに刺されてしまってもおかしくはない。世の中には彼と同じだけの苦労をして、人並み以下の物しか得られないような人間も五万といるから。

 いわゆる恵まれた人間は、その善良性が始末に困るのだ。彼らは己のべき論に後ろめたさがまったく無く、だから私のような少数派をこうして追い込んだりもする。

 しかし彼だって見たはずなのだ、十歳以上年下の妻を持つあの男が、私に感謝してもしきれないといった風に振る舞っていたことを。私の性質が善であれ悪であれ、それに関係せず現れたその光景を見たはずだ。ならば、それが全てなのだ。

 私にとってはその光景が、目に見えた事実が全てである。そこに善も悪もない。そして本当なら全ての人間がそう考えるべきなのだ。いわく悪としての性質を持つ私に、愛する母親の命を救われた彼ならばなおさらのこと。

 しかしその理屈が通らないことを私は知っている。それこそが人間に欠けてはならない、べき論への後ろめたさという物なのだ。

「傲慢って言うなら、お前だってそうじゃないのか。力があるからって」

「自分の傲慢は許せる物さ。皆と同じでね」

 タバコを兎洞に勧めると、彼は手のひらでそれを遮った。さすがにその付き合いの悪さに対して悪意を向けるほどには、私も邪悪ではないつもりである。

 

 

 

 

 

 ある友人から久しぶりの連絡が入った。独自の法によって回る「裏社会」で生きるその友人と、闇医者である私の関係性などたかが知れた物だけれど、どうやら今回の要件は少し趣が違うようだった。

「たしか君は命を救うことと同じくらい、命を奪うことも得意だったはずだね?」

 インターネット技術の知識に疎い私にとっては未知の概念だけれども、何やら盗聴その他の対策を済ませた回線とやらで、彼女は今ビデオ通話を繋げてきている。わざわざ顔を見せるのは「わたしは若い女だ」とアピールしているからだろう。始末の悪い善人でありつつも決して分からず屋ではない兎洞より、さらに話の分かる人物である。逆を言えば私が彼女に好印象を持つ理由など、それ以外にこれといって存在しないのだけれだ。

「否定するほどでもないけれど一応言うなら、救う方が簡単であることに変わりはない。救いを必要としている命は、皆おとなしいからな」

「単刀直入に聞くよ。人間の体の中にゴジラのパワーが備わった超生物がいたとして、君ならそれを殺せるかな」

 画面上に、何かのデータファイルが送られてくる。開いてみるとそれは、国が極秘に開発していた生物兵器の実験体が、それも最も優秀な成果を発揮した個体が、研究所から逃げ出したという情報だった。

 その極秘的情報が不用心に私のもとに送られてきた事実は、友人兼殺し屋である彼女が私のことをとても信頼している様……を意味しているわけでは決してないだろう。漏洩させれば私が消されるだけのこと、というわけだ。

「さあ? やってみないことには何とも」

「なら頼むよ。君にも少しの間だけ、殺し屋として働いてほしい」

「報酬は?」

「キスでどうかな」

「それじゃ労基違反だろう。誰がキスのために命をかけるんだ」

 それもハニートラップの常習犯らしき女殺し屋のキスなんて、恐ろしくて受けられたものじゃない。

「強欲め。そういえばその台詞は、セックスを引き合いに出した時にも聞いたっけ。それじゃあ何か、お医者さんは奴隷でもご所望なのかい?」

「いいや? 私はただ、若い女をこの世から出来るだけ減らしたくないだけだ。そちらの持ってくる治療依頼も、それに則ったものしか受けてこなかったつもりだが」

 今までに受けた依頼は、主に今通話をしている彼女の治療、あるいはその仲間の治療。彼女が若い女だけを仲間に選ぶ理由の一つは、死ぬ前に私のもとまで運びさえすれば、どんなケースでも必ず治療してしまえるからだろう。

「まあそう言うと思ったよ。けれどほら、これを見たらどうかな。きっと気が変わる」

 またしてもファイルが送られてくる。今度は画像ファイルだった。さすが実験体と呼ばれるだけのことはあり、今話題に上がっているその超生物の姿が、あらゆる角度から事細かに映されていた。

 ……それを見た私は、自身の信念の柱としてきた概念が、たちまち揺らぎ崩れかかる感覚に襲われる。みるみるうちに己の認識が改まっていった。だから「なるほど」と、話の分かる人物であるはずの彼女が、私にこの話をもちかけた理由を理解する。

 超生物の名はウカルミ。おびただしい数の管を繋がれカプセル内の水中に浮かんでいるその姿は、まぎれもなく若く美しい女性の物だった。

「君にはそいつを殺してほしいけれど、別に無力化してくれるだけでも構わない。例えばそう、オーバーテクノロジーとしか思えない君の技術でもって、怪物を普通の人間に変えてしまうだとか、そんなことだって君になら出来てしまったりしないのかな。……君がこの話を断れば、その女の姿をした化け物はきっと誰かに殺されるだろうけど、それでもいいかい?」

「……いいわけないだろ」

 私は若い女が死んでいくことが許せない。しかしそこで言う「女」の定義は、生物学的な物ではなかったのかもしれない説が降って湧いてきた。もしも超生物ウカルミが、人の姿をしているだけの人ならぬ化け物だったとしても、私からすればそれは間違いなく「若い女」なのである。

 この話を突きつけられるまで気付かなかったことが情けない。思えば人間の定義なんて曖昧な物だったのだ。私自身が、はたして「人間」の定義に当てはまるのかも定かではないように。

 

 

 

 

 

 兎洞にウカルミの件を伝えると、彼はひどく狼狽した。それは私が死ぬ可能性に対する反応だったのかもしれないし、漏洩させれば地獄よりもひどい仕打ちが待っている情報を、ニュースのトレンドを話すような気軽さで伝えられたことに対する反応だったのかもしれない。

「おい、ちょっと待てよ。なんでだ……? いくらなんでも、何でそこまでするんだ!? そのウカルミってやつは本当の化け物なんだろう……!?」

「ああ、そうだろうな。理解が早くて助かる。やはり体験は人を変えるものだな」

「やめてくれよ。行くなよそんな依頼」

「どうして? ……別に同行しろと言っているわけではないのに、私の命が惜しいのか?」

「当たり前だろ!」

 殴りかかられるのではないかという気迫でもって、私は半ば脅されるような形で引き止められる。それでさすがの私も少し驚かされ、その瞬間、その程度の肝で化け物を相手にしようとしている自分自身に、なるほど確かに一抹の不安を覚えた。

「……なぜだ? 私が死んだところで、君の母親が死ぬわけじゃない」

「友達に死んでほしくないって思っちゃいけないのか」

「友達ね……」

 ウカルミへ挑む日程はもう明日の早朝と決まっている。現在進行形で一応国の人間が対処に当たっているらしいが、それで解決するくらいなら誰も苦労はしない、あくまでも足止めだ。そして明日私が失敗すると、あの女の姿をした生物は、きっと即座に別の殺し屋に葬られることになる。

 要するに私に持ちかけられた依頼は、化け物相手は専門外である女殺し屋が、私を介してワンチャンスの稼ぎを狙っているだけという話なのだ。

「友達なら分かってくれ兎洞。私は私の目に見える範囲で若い女が死にそうなのに、指をくわえてそれを見ているわけにはいかないんだよ」

「何でだ」

 悲しいのか腹立たしいのか、感情の読めない様相で、兎洞が私を問い詰める。それは散々繰り返し飽きた問答とは違う、また別の意味合いを持っているように感じられた。

「何でなんだ。お前は何でそうなんだ……? 女以外は見捨てるのに。何がお前を駆り立てているんだよ」

「……話してなかったか?」

 二年の付き合いのうちに、とっくに話している物だと思っていた。だったとしても、これっぽっちの理解も得られた覚えはないけれど。

「もったいないからだよ」

「なに……?」

「若い女が死ぬのは、もったいないんだよ、兎洞。君は軽蔑するだろうが、私は若い女が好きだ。だがそれは肉欲や恋愛感情とは違う。ただ好きなんだ、分からないだろうけどな。この世から好きな物が失われていくことに耐えられないんだよ。だって女はみんな、生きていたって勝手に老いるのに、その上死なれてはたまらないだろう。だから見殺しに出来ない」

「…………はぁ?」

 絶句、あるいは愛想を尽かした顔だろうか。執念深い善人である彼の、今まで一度も見せたことのない表情を私は知った。

「なにを……何を言ってるんだよ、お前。分からないぞ。全然分からない。お前はいったい何を言ってるんだ……?」

 まさか最期の一本にするつもりはないけれど、ここは一つ覚悟の意味も込めてタバコに火をつける。……すると兎洞との問答に比べれば、化け物を人間に戻す方が簡単な仕事のように思えてきた。

「前々から言おうと思っていたんだが」

 ゆっくりと煙を吐き出して、彼が身構えるだけの時間を取る。

「どうして私のことを理解してくれない君のために、私が自分の心に嘘を吐かねばならないんだ?」

 あれこれと文句は言えども、事実として私と兎洞は二年の交友関係を続けていて、その関係性は何も変わらず現在進行形であるように私は捉えている。彼は私の思想を良しとせず、私も彼の思想を良しとしないが、それはそれとして私にとって兎洞練馬は友人なのだ。善悪に関係なく救われる命があるように、思想に関係なく成り立つ友人関係もこの世にはある。

 しかしそれも今回ばかりはどうだろう。私としては、彼が私の主張を受けて「知るか馬鹿」と会話を拒否したとしても、私が見事ウカルミの件を解決して帰還する頃、彼が今日の会話を忘れた顔をしたのなら、また相変わらずなぁなぁの形で友人関係を続けられるだろうと思っている。……けれどそうでなかった場合、その時に「すまなかった」とこちらから謝るつもりは、私には毛頭ないのだ。だから分からない。彼が私に愛想を尽かしたのかどうかなんて、今の時点では。

 はたして、友人とはいったい何なのだろう。善と悪の区別が薬と毒の区別と同じく曖昧であるように、友人の定義もまた実態の知れない物である。さらにそれは、女が好きだと自称する以上何度も考えてきた、恋だとか愛だとかについても同じことが言える。私には何も分からない。しかし分からなくても事実は存在する。恋愛が分からなくても女が好きで、友達の定義が分からなくても、兎洞は友達と呼ぶべき存在であることが分かる。……少なくとも数秒前までは確実にそうだった。

 けれども世の大半の人間は、そんな私の物の見方を分かってはくれない。人間は基本的に事実だけでは満足出来ないらしい。そしてそういった「人間の法則」あるいは常識と呼ばれる物がこの世に存在していることも、それ自体また揺るがしようのない事実なのである。

「帰ってくる頃には、君が私のことを少しは理解してくれているように願っているよ」

 特別な物といえば数本の注射器だけを携えて、私は情報通りの地点へと向かった。と言ってもそれはウカルミの潜む場所ではない。彼女が逃げ出し、そして包囲されている場所は極秘であるから、私はエージェントのような存在に形だけ拘束されて運搬されることとなる。

 逃げ出した実験体ウカルミは研究所を壊滅させたが、一般市民に危害の及ぶ場所にまで飛び出したわけではないらしい。当然だ、そうなっていたら今頃、誰もこんなに呑気にはしていられない。だから私は今、大災害に見舞われたかのように破壊され尽くした研究所へ向かう。化け物はまだその中にいるのだ。そこに展開された包囲網も長くは持たない。

 超生物の暴走に備えて研究所は強力な睡眠ガスを用意していたが、対象から完全に意識を失わせるはずのそれは、ウカルミの動きを著しく鈍らせる程度にとどまってしまったと聞いている。むしろそれどころかそのガスは対象に対して、段々と効果が薄まりつつあるというのだから、外部の人間にまで依頼が来ることにも頷ける。

「これを着用してください」

 私を運搬した男……威圧的なサングラスに黒スーツというあからさまな格好をした男が、これまた如何にもなデザインのガスマスクを手渡してきた。ここは一応素直に従っておくことにする。

「どうも。……改めて確認しますが、無力化で構わないのですね」

「はい。通常の人間と同じレベルにまで奴を衰えさせることが出来るのならば、殺害ではなくそちらでも構いません。……しかしそんなことが本当に」

「出来ますよ。というか、出来なければ殺しは他の人に任せます」

 サングラスの黒越しにでも、彼が私を信用していないことは明らかだった。友人でもない相手とこれ以上問答をする理由もなく、ガスマスクを装着して戦場へ乗り込むことにする。

 敷地内に立ち入ってみれば、そこは瓦礫の山や砂埃と睡眠ガスに満ちていて、千切れたコードから弾ける火花が時おり見かけられる、まさに悲惨な有り様の戦場であった。私はすぐに持ち込んだケースを開き、そのために用意した注射器を一本取り出して自分の腕に打ち込む。

 打ち込んだ物は「36(サブロク)リソース」と名付けた専用の兵器。これを打ち込むことにより私は36分の間、人間を超えた力を発揮出来るようになる。ただし代償として寿命を36時間失うけれど、そんなリスクは気にするほどの物ではない。

 36リソースとは、言い換えれば他人の血液である。どんな物でも構わず、とにかく一定量「他の人間の血液」を体内に取り入れることで、私は寿命と引き換えにしばらく凄まじく強くなる。それが私の能力なのだ。蟷螂蚕は闇医者であり、同時に異能力者でもある。

 私以外の人間は、限られた者しかこの力のことを知らない。知っているのは例えば兎洞であり、あの女殺し屋はこれを知らない。大抵の人間は私のことを次元の違った天才だと信じていて、私は己の才能が自身以外のために使われることが許容出来ないという、厄介な性格の医者を演じている。

 しかしその嘘は、半分は本当のことだ。私の異能力は、私だけのために使われて然るべきなのである。だから闇医者を続けつつも常に「治療」の正体は隠す。恩義を重んじる善良なボンボンの大学生にならともかく、金のために人を殺す女なんかに異能力の存在を教えるほど私も不用心ではないのだ。

「引き返せ」

 まだ何の姿も見えていないうちから、遥か彼方の前方より声が聞こえてくる。若々しい女の声だった。

「人殺しがしたいわけじゃない。わたしの幸せの邪魔になる者は殺すけれど、今引き返す者まで殺しはしない」

 努めて大きな声を出し呼びかける。

「君がウカルミか」

「引き返せ」

 目を凝らすと、三百メートルほど先にそれらしき相手の姿を確認出来た。濡れた青色の長髪を体に張り付かせた不気味な女の姿だ。ちょうど井戸から這い出でるホラー作品のように髪で顔が見えなくなっている。

 超生物だというくらいなら、聴力も並外れた物かもしれない。そう考え至ったので物は試しと、私は小声で、

「断る」

 と呟いた。

 瞬間、触手のような物がこちらへ伸びてくる。いや、伸びてくると言うには鋭すぎる速度だった。あっ、と思った時には、注射器をストックしたケースを持つ右腕が、肩から無慈悲に切断されていた。

 人体のパーツが地面に叩きつけられる鈍い音。さほど丈夫な作りでもないケースが転がる無機質な音。それらが絶望的場面を演出する音楽のように私の耳へ入ってくる。……けれども事実としては、そこに絶望など無い。私の右肩の付け根からは、すぐに新しい腕が生えてきた。当然ながら指先までよく動き、感覚にも一切問題はない。戻って来ない物は服の袖だけだろう。

「私は君を殺しに来たわけじゃない」

 吹き飛んだケースを拾いに向かい、横たわった肉塊としての腕もついでに拾い上げる。こういった物をポイ捨てにしておいて良いのかどうか、あのグラサンに聞いておけばよかった。

「知り合いに金持ちで、しかも無駄にお人好しな男がいるんだ。私の力で君を普通の人間にするから、君はその男の家に養子として入ってくれないか。君のことを殺したくはないし、君を実験体扱いする奴らの手にも返したくない」

 一応は触手の第二撃以降に気を配りつつ、返事を待つ。顔の見えない青髪の女は微動だにしない様子だった。

「……それで騙せると思ったの?」

 何か、物凄く大きなものが、こちら目がけて突っ込んできた。明らかにウカルミの体よりも大きな物。その迫力、触れずとも分かる質量を思えば、あの女の体に収まっていた物とはとても考えられない。

 それは獣の身体だった。剥き出しの筋肉が全身を占めた禍々しい怪物……戦車のように巨大なそれが突進してきたのだ。目を凝らし触手を警戒していたことに加えて、突っ込んできた物が何であるのかを咄嗟に観察してしまったせいで回避は間に合わず、まともに衝突した私の全身を構成する骨は、一撃で粗方粉砕されきってしまった感触があった。

 今までの人生で体験したこともない速度で吹き飛ばされ、すでにほとんどミンチと化した私の肉体は瓦礫の山に突っ込んでいく。……が、もちろんそれは瞬時に再生して、私は瓦礫を全て吹き飛ばし、彼女の視界内へと戻る。

 改めてその怪物をよく見ると、顔面だけは多少既存の生物らしい、巨大な犬の見た目となっていた。さらにトレードマークの青い長髪だけはその頭部に残っている。それらの比較的理解しやすい部分が、今にもはち切れそうに膨らみ血走った筋肉の塊をギャップで余計に際立たせている。……そんな暴力的で醜い犬の姿となった彼女は、ラリったかのように荒い息遣いでヨダレを垂らし続けていた。

 今の一撃で注射器はもちろん、ガスマスクも当然ながら粉砕されてしまったが、どうやら36リソースの無敵性は睡眠ガスに対しても有効らしい。私の身に何か不都合が起こることはない。

「ふむ……。私の理解力が足りなかったのかな。君は睡眠ガスでいくらか弱っていると聞いたのだが……」

「不死身……?」

「36分限定のね」

 正直なところ若干の計算外だった。本当は注射器の予備も用意していたのだけれど、今の一撃でケースごと粉々にされてしまったのでは仕方がない。やはり私の弱点は、能力発動のために道具を要するのに、その道具を守る術に乏しいことだろう。

 しかし、まだ詰んだわけではない。必要な道具とは「注射器」ではなく「血液」だ。血は体内に取り込めば良いのであって、血管に直接入れる必要はない。散らばった予備の血はもはや回収不可能だが、例えば私がウカルミの血を飲み込めば36リソースは成立する。……血を直接飲むという行為は気が進まない上に、ウカルミに対してそれを可能と表現するのは、そこそこ無謀な気もするけれど。

 ただ今回の目的については、それと同じような手段で成立させられる。そちらについては依然さほど問題はない。

「君はどうやら人間に良い印象を持っていないようだが、それはなぜだ? 私は本心を話しているだけなのだが」

「なゼ? ナぜっテ? わたしヲ実験体にしタのが人間ダから? そう言エば満足……?」

 聞き取ることに問題ない程度の発音で言葉を発し終えると、彼女は突然その声を濁点に塗れた、獣が唸るような性質に変えて怒鳴りだし、私を威嚇してきた。一時的とはいえ不死身の肉体を得た私から見ても、それには死を予感させるに十分すぎる圧があった。

「まあそれもそうか。……ここへ来る前に得た情報で読んでしまったのだけれども、君、元々は人間なんだろう?」

「……ダったら何だ」

「戻りたくはないのか、人間に」

「ソれも、そウだったら何だ? お前ノ言うこトを聞けとイウのか? ソんなことをスれば、わたしは実験体ニ戻るだケだろウ。それならわたシは、わたしハ、アんな人生に戻るクらいなら、死んだ方がマシだ」

「そうかい」

 降参と協力の意思を示すため、両腕を広げて、

「なら私を食うといい」

「何……?」

「私は36分の間は不死身だが、その後はただのか弱い人間に逆戻りする。しかし君をその前に倒そうにも、私の奥の手だった薬物はさっき粉々にされてしまった。するとどうせ勝ち目がないのだから、時間が経つまで消化試合をする意味もないだろう? だから今私を食ってしまえばいい。この世のどの生物より強そうな君の胃が、中で私が少々もがいた程度で傷つくほど弱くなければの話だけれど」

 意外にも会話は成り立つものの、荒い吐息の獣は今にも正気を失いそうな風にも見える。しかしそんな獣が、少し前まではそれなりに普通な女の姿をしていた彼女が、さも善良な存在であるかのような躊躇いを見せた。

「……引き返ス気は」

「ない。私は最後のチャンスに賭けるよ。君が私を飲み込んだあとで、やはり気が変わって吐き出し、言うことを聞いてくれる可能性に賭ける」

「無駄死にだ」

「どうせ同じことだ、戻れば私は殺される。奴らそういう連中だからな」

 我ながら良い嘘だった。裏社会の人間から散々な目に遭わされた彼女なら、きっと私の言葉をさもありなんと受け止めるだろう。実際のところは、私は便利な医者として中立の存在が確立されているから、戻ったところで殺されることは(おそらく)ないのだけれども。

「……ふん、まあコレも良イ機会トいうことか。これから生キ残るたメには、わたシも良心を殺サなけレば」

 自らに言い聞かせるかのようにそう呟いて、追い詰められた人間の心と、グロテスクな筋肉で形作られた犬型の怪物は、裂けんばかりに大きくその口を開けて私を丸呑みにした。

 ……さて、これで上手くいった。飲み込まれた先はやや狭く不便ながら、私は彼女の体内で自分の腕の手頃な部分を食いちぎる。即座にその傷口は再生するが、同時にそれなりの量の血液が散らばった。

「ウッ……アアッ……!? ガァ……!」

 異常に気付いた彼女がまず私を吐き出す。ここへ持ち込んだケースに入っていた注射器のうち一本は、この時のための麻酔薬だったのだけれど、ぶち壊されてしまったからにはもはや仕方がない。どのような苦痛が彼女を襲うのか私には想像も出来ないけれど、そうは言っても仕方がない、こうするしか残された手がなかったのだ。

 しばらくの間、獣は呻き声を上げ続けながら悶え苦しんだ。そうするうちに徐々に彼女の過剰な筋肉は衰え、容姿は人間の物へと近づいていく。……それが私のもう一つの能力だった。

 私の血液を体内に取り込んだ者の肉体は、私が望んだように変化する。脳を変化させることは出来ないので人格や記憶に触れることは出来ないが、例えばこの能力を使えば、末期ガンの患者を治療することも可能だというわけだ。いくら若い女を救いたいと願う気概があったところで、医学的知識を持たない私では本来何も出来やしないのだけれど、実際はこの能力に恵まれていたおかげで闇医者を装うことが出来る。怪物に改造されてしまった女を、再び人間に戻すことも出来る。

 しかしだからこそ絶対に、この能力のことはロクでもない奴らに知られてはならない。この能力が公になってしまえば、私が次の実験体にされてしまうことは火を見るよりも明らかだろう。

「ああ、それが触手だったのか」

 曲線美を伴う女性の体に戻った彼女の髪は、初めに見た時よりもずっと短く、そして乾いた物になっていた。血を飲ませて「普通の人間に戻れ」と望んだ結果そうなったということは、あの濡れた長髪は触手だったのだろう。色も今では青から黒に変わっている。

 よほど体に不可がかかったのか、彼女はそのまま眠ってしまった。……と思ったらそうか、ここは睡眠ガスの影響下なのだ。私は他人の血で無敵になった上、彼女もそれなりに化け物じみた動きを見せるものだから失念していた。36リソースが切れる前に急がなければ、早く彼女を連れて退避しなければ私まで意識を失いかねない。

 ガスの散布されていない場所で戦う彼女は、本来どれほど強いものだったのだろうか。二度とそれを確かめられる機会には遭わないだろうけれど、一端だけを見て終わったその実力に今だけ想いを馳せる。

 きっとこんな不幸な境遇の女のことを、兎洞の奴は見捨てやしないだろう。

 

 

 

 

 

 その後はまあ揉めた。まず依頼主(私の友人兼殺し屋の女を含む、様々な刺客に声をかけた人物)は、非殺害のやり方は認めたものの、ウカルミの身柄を手放したわけではないと言い出したのだ。言われてみれば確かにそんな話だった気もする。

 しかし元々は殺害依頼だったはずなのに、生け捕りにしたなら身柄を返せというのも都合が良すぎる話だろう。そのあたりを私はゴネて、ゴネてゴネて、最終的になんとか金の力との合わ技で解決することが出来た。今回の件の報酬はもちろん、私の貯金は全て消え失せ、兎洞家にいくらかの借金も出来てしまったけれど、致命的とまでは言えない損害で済んだのだからまあ大目に見よう。

 そしてその後は兎洞に死ぬほど怒られた。それはもはや問答でさえなく単なる説教だった。人助けは素晴らしいことだけれど、その場にいない人間の人生を勝手に決定するなと、正しさの化身である彼から無限に言い聞かせられた。

 彼はウカルミを引き取ることを先に了承した上で、彼女本人の耳へ絶対に入らないよう場所を選んでから私を怒鳴り散らした。怒られている最中、学校の先生と問題児の構図がなんとなく頭に浮かんだことを覚えている。だからつまり、それなりに悪いとは思っているけれど、ものすごく反省しているのかというと……言葉を濁す他にない。

 何にせよ結局のところウカルミ(人間としての本名は捨て子だったため不明)は兎洞家の子となったので、客観的に見れば彼女はそれなり恵まれた環境を手に入れたように思う。彼女の今までの境遇を想像すれば、それでもまだ人生のプラスマイナスはマイナス寄りなのだろうけれど。

 ともあれ今回もまた無事に、若い女の命を一つ救うことが出来てよかった。そのように十分な満足感と共に日常へ戻った私は、そう離れた日付ではないある日、珍しく兎洞から飲みに誘われた。珍しくというのは、いつもは私の方から誘うことが多かったという意味だ。私から誘う場合、構図上それはほとんど「たかる」とも言える。

「考えたよ、お前が言ってたこと」

 酔いの回りをこれっぽっちも感じさせない様子で彼が言う。感じさせないというか、彼は本当に酔ったことがないのではないかと私は疑っている。

「ほう」

「俺には、お前の気持ちが分からん」

「だろうな」

 タバコを吹かす。わざわざ喫煙可能な店を選んだ。しかし都内ではそのうちこれが脱法的行為になるらしい。脱法と言っても、ジョークの意味合いが強いはずだけれども。

「だけど、人助けに善悪がないって話は、ちょっと思い当たるところがあったよ。……去年のことだったかな、小さな子どもが迷子になっているのを見つけてさ」

「女か?」

「え? あ、あぁ、そうだよ女の子。それで、俺は声をかけたんだよ。どうしたの? って感じでさ。……それで最終的には、無事に親御さんのところまで送り届けられたんだけど。初めに声をかけた時その子、すごく怯えた顔をしたんだ。迷子になってしまったことに対する物とは全然違う怯えだった」

「それがショックだったのか?」

「そうなんだよ。俺はあの時怖がられたことがショックだった。だからそのことについて考えたんだ。俺はもしかしてあの時、あの子に感謝されたくて手を差し伸べたのかなとか、自己満足のために助けようとしていたのかなって」

「それで?」

「それでそんな風に悩んだけど、おかげでお前の言っていたことが分かった気がする。俺の動機がなんだろうと、俺のしたことは純粋に、迷子の子どもを助ける行為だったんだ。そこに嘘はない。人助けに善悪がないってそういうことだろ?」

「ふん、まあそうだな」

 タバコを灰皿に押し付ける。念入りに、火をすり潰すように。

「だから蚕、お前の人助けを前よりは少しだけ、正しいかもしれないと思えるようになったんだ。けれど人を見捨てることだけはやっぱり許せない。それはお前が聖人だったとしても同じことだ」

「そうかい」

「それと……お前のその女に対する執念は、理解は出来ないけど把握はした、ってことも言っておく。きっと俺がそれを理解出来ないように、お前も俺のことが理解出来ないんだろう……? お互い様だったら、悪くは言えないなぁと」

「道徳の模範生か、君は」

 頼んだ何杯目かの酒が運ばれて来て、飲むとアルコールのにおいが強すぎる気がした。それでふと我に返ってみれば、少々意識のふらつきを感じないでもない。

「あの子はどうしてる?」

 兎洞は元実験体の女のことを「ウカルミ」と呼ぶことを良しとしない。それもまた道徳の模範による物なのだろう。では彼女には何という名前を与えられたのかというと、さて何だっただろうか……? 私はそれを忘れてしまった。道徳に興味がないからかもしれない。

「元気にやってるよ。社会常識に疎いのに地頭は物凄く良くて、いろいろなことを学ぶ速度が尋常じゃないんだ。そのうち社会にもすぐ溶け込めるだろう」

 捨て子から実験体となってしまった彼女……つまり「まともな教育の機会をごっそり失った人間」と流暢な会話が成り立ったことから考えて、ウカルミはおそらく知能も人為的にいじられていたのだろうと想像することが出来る。地頭の良さとやらが残ったことは、私の血液が脳に影響しない性質だったおかげだろう。……脳だけ化け物じみた性能をしていることで、今後の彼女に何か問題が起こらなければいいけれど。

「そうか、それはよかった。……ところで兎洞、私はその件で天才的な発想にたどり着いたんだ」

「なんだそれ」

「私は今まで出来る限りの女を助けてきた。しかし人は老いる、知らないところで死ぬ。高齢化が嘆かれる現代社会では、少なくとも我が国において、若い女は結局のところ減る一方だろう」

「はぁ。まぁ、そうかもな」

「ああ、だから私のしていることは所詮は気休め、自己満足以上の何にもなれない。それが人助けに繋がったことは君や今までの患者達、そしてその身内達から見て幸運なことだっただろう。……けれど私は、気休めを次の段階に進める方法を思いついたんだ」

「なんだよ。悪行じゃないだろうな」

「もちろん」

 またしても、我ながら良い嘘だった。善良な人間である兎洞は、私の言葉を疑う能がないはずなのだ。彼はお人好しすぎる。そうでなければ利害の関係もなしに私と友人関係を続けられるはずがないことも、それを証明している。

「まあそのうちお披露目するさ。楽しみにしておくといい」

「ふむ、なんだろうな。……まさか手あたり次第に不老不死を与える気か!?」

「いやそれは無理だ、残念ながらな」

 怪我や病を治すことが出来ても、寿命自体を伸ばすことは出来ない。それが私の能力の唯一決定的な欠点なのだ。おそらく私の能力は「寿命」を運命的概念として見ているのだろう。36リソースが寿命を削るのもそのせいだと推測出来る。そうでなければ私は、無限に能力を使えば無限に無敵でいられる……つまり不老不死になれるはずだから。実際のところそれは不可能なのである。

 私の血でいくら肉体を治し、若返らせても、いくら不老不死を装わせても、然るべき時間が経過すると問答無用で人は死んでしまう。これは試したわけではなく、第六感的に理解できることだけれども、その第六感は絶対の物なのである。何せ第六感で詳細を理解出来ないようでは、そもそも私は自分の異能力に気付けるはずもなかったのだから。

「ああそうか分かった! お前が女になることだ!」

 ぱちんと手を叩いた彼が、予想を述べたその一瞬、ドキリと息が詰まるような感覚に襲われた。その瞬間のことだけ、自分がどんな顔をしていたかの記憶が抜け落ちる。

 相手が親の恩人だというだけで、彼は人を疑う才能を失ってしまうくせに、その他の部分はそれこそ地頭の良さが出ている。兎洞練馬という奴はそんな風に、私と違って「人間の定義を外れかねない力」を持たずとも優秀な男なのだ。

 けれど悲しいかな、彼が賢いことは事実だが、同時に致命的に間抜けだった。優秀な男である兎洞は、しかし決して完璧な男ではない。

「なってどうする。私が女になるということは、普通に手術をするということだ。自分の血を自分に取り込んだところで何も起こらないからな。私は何も全男性が性転換手術を受けるべきだとは考えてはいない」

「ああそうか。ははは、なんだろう。正解が気になるな」

「近いうち分かるさ。天才の発想に恐れおののくがいい」

 なんとなく緩んだ雰囲気の中で彼にタバコを勧めてみると、やはりそれは手のひらで遮られ断られた。その一連のやり取りにて、如何にも一つの話題が終了したような感覚が生み出される。

 そしてその日、私はいつもより多くの酒を飲み、前後不覚になるほどひどく酔った。すると案の定、兎洞は私を自身の家に泊まらせてくれた。というのも過去何度も私から彼を飲みに誘った時に、何度か同じようになだれ込んだ前例があるのだ。その時の私は、君の家は広すぎるのだから良いだろう……なんて言っていたことを記憶している。

 そして実際彼の家に泊まった時には、兎洞練馬以外の人間と鉢合わせた試しが無い。それが今日の計画において、なおのこと好都合だった。

 

 

 

 

 

 朦朧とする脳みそを気合いだけで叩き起こし、遺伝子から命令されたかの如く何よりもまず眠りたがる体の衝動に抗って、消灯され真っ暗くなった部屋のベッドの上で、私はなんとか腕に注射器を刺した。飲みへ行く前に自宅から持ち出し懐に忍ばせていた物だ。その注射により36リソースを発動して、私は酒の酔いを取っ払う。36時間の寿命なんてこの程度の使い方で構わない。

 案の定、自分の部屋に鍵をかけて眠るほどの警戒心が兎洞には備わっていないらしく、彼の部屋に侵入することは容易だった。だから彼への注射も迅速に終えることが出来る。入れたのはもちろん私の血だ。

 蟷螂蚕の血は肉体を変化させる。その能力を「治療」として使うことで、私は今まで正体を隠しながら闇医者として生きてきた。そしてその期間があまりにも長すぎて、私は自分自身でさえこの能力の真髄を忘れてしまっていたのだ。

 他人に使えば治療、自分に使えば無敵化。そういった固定観念にいつの頃からか縛られていたらしい。ウカルミを連れ帰った際、トップパフォーマンスの彼女はどれだけ強かったのだろうと想像したことで、偶然にも私は呪縛から解き放たれることとなった。

 肉体を変化させるということは、私がウカルミを人間に戻したように、ウカルミを再び超生物に改造することも可能だということになる。が、もちろんそんなつまらないことは実行しない。人間の女は人間の女として存在していることが一番良いに決まっているから。

 本題はそこではないのだ。重要なのは疑問に思うことだった。どうして私は自分の能力を「人間を超生物にする力」として使わなければならないのだろう? 「治療」と「強化」、その二種類でしか能力を使って来なかったので、私はそんな疑問にたどり着くことさえ遅れてしまったのだ。

 これはまさに地頭の悪さだ。医学的知識が皆無なまま闇医者を名乗っている男にふさわしいミスと言える。けれどミスは取り返せばいい。取り返すことは今日からでも遅くない。いやむしろ、今日だからこそこの閃きは、より多彩な意味を持つようになるのかもしれない。

 友人とは何なのだろう。兎洞によって呼び起こされたその問いに、私は答えを見つけたのだ。その答えは「そんなことを考える発想さえ浮かばない、大切な関係性が友人である」だ。

 悩むこと自体が間違っている。あれこれと考えることなんかせず、私は兎洞のことをただひたすらに「大切だ」と思うべきなのだ。現に兎洞は自身の持つ「友人の定義」やそのあり方について、私を引き止めようとしたあの時、少しも疑う素振りは見せなかった。

 しかし私は兎洞のように善良ではなく、心が広いわけでもなければ、頭が良いわけでもない。だからそんな私でも選べる解決策を実行した。それが選べる私で良かったと心底思う。

 ……翌朝、私は兎洞の部屋を訪ねる。彼は寝癖もそのままに寝ぼけ眼をこすりながら、

「なんだ朝から、珍しく早起きだな」

 と、普段と変わらぬ様子で言う。私はそんな兎洞に手鏡を渡した。

 なんだよ、寝癖くらいしょうがないだろ……。そう言って鏡面を覗いた後、数秒のフリーズを伴い経て、私の大切な友人は目を見開く。

 兎洞はまず顔に触れ、その次に胸に触れ、さらに次は下半身に触れて、そうして最終的に、今この瞬間だけ言葉を失ってしまったようだった。けれどそれは予想通りのことだ。問題ない。

「どうだ兎洞、これが新発想だ。これならきっと私は、君ともっと良い友達になれることだろう」

 兎洞練馬、私の友人。「彼女」は、また今までに見たこともないような表情を私に教えてくれた。明確に好きなものがこの世に一つ増える、実に感動的瞬間だった。

 



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。