ⅩⅥ
「先生が心配されるのはわかります、ですが本当に大丈夫なんです。先生はただ普通に利用客としてやってきていただければそれで良くて、時間は朝でもお昼でも夜でもかまいません。お店の開いている間の客で賑わっている時間帯ならけっして目立ちませんから。あとは先生のご都合に合わせて密森くんにも調整してもらえばいいだけです」
紅音の父が所有していた雑居ビルは今は建物の大半が人手に渡っていて、住居として利用していた最上階のペントハウスを除いて、他は全て外部テナントが入っているのだという。地下一階から二階までがスーパーマーケットとファーストフード店に、三階から上はレストランや会員制のクラブなどになっていて、スーパーの名前を聞いて思い出したが、操祈自身も学校帰りに何度か利用したことがある場所だった。常盤台からはモノレールで一駅、徒歩でも15分ほどの近場になる。
そのビルの最上階のペントハウスをデート場として使うように勧められたのだ。
「買い物ついでに、ちょっとお茶でもするような感じでエレベーターに乗って、Rボタンを押していただけば、後は扉が閉まってパスワードを要求されますので入力して……エレベーターの扉は屋上まで開きません。そうすると家族専用ということでエレベーターを乗り降りする間を含めて前後1分間の監視カメラデータは自動的に消去されます。ですので記録にも残りませんし、外側からは別の階に停止しているように表示される仕組みになっているので、万がいち誰かに後をつけられていたとしても辿られることはまずありません」
紅音の提案は魅力的なものだった。それに倣えば――さすがに少女の言うように毎日、というわけにはいかないにしても――レイと一緒に過ごす時間を今よりももっとずっと増やすことができそうなのだ。
そう想うと、どんなに抑えようとしていても期待に胸が膨らんでくる。
デートの場所選びは操祈にとってもレイにとっても、いつでもいちばん悩ましい問題なのだった。
これまではそれぞれが別の理由で
何週間ぶりにようやく逢えたというのに、ほんの一時間足らずで別れなければならないというのは、恋を知ってしまった女の身にはさすがに切なすぎる。
相手のことを思って少年の前ではつとめて大人の女を演じてはいたものの、操祈にとってレイとの逢瀬は常に歓びと哀しみとが紙一重だったのだ。
だから、これからはいつでもレイと逢えるようになるかもしれない、という紅音の話は、操祈にすれば提案というよりも誘惑に近かった。既に心は大きく揺さぶられていた。
「いかがですか……?」
「そう言われても……」
ただ、操祈が即断を躊躇うのは、なぜ少女がこれほどまで自分たちに肩入れしてくれるのか、その理由がよくわからなかったからだ。
何のメリットもないのに、人は他人のために自分を犠牲にしてまで奔走してくれたりするものなのだろうか――?
ボランティア?
たしかにそんな例はいくらでもある。
しかし少女の提案には、そういった無償行為とはどこかが違うという肌触り、予感めいたものが働いて操祈は態度を決めかねていた。
「ご家族の方たちのプライベートな場所を、私たちのような赤の他人が使うわけにはいかないわ……」
「そのご心配には及びません、住人だった祖父が施設に入居して以降はあそこはもう何ヶ月も空き家同然になっているので。それにエレベーターのパスワード管理をしているのは私なんです。私がその日のパスワードを決めているんですよ、だから不意に誰かが部屋に立ち入るようなこともありえません」
「………」
「部屋の中ではお風呂もベッドもご自由にお使いになっていただけます。ホームバーや、冷蔵庫の中にある物もどうぞ。ただ、もし傷んでいる物があったりしたら廃棄してください。それから冷蔵庫にご自身で食材を持ち込まれて、キッチンをお使いになられるのも結構です。密森くんに先生の手料理をふるまうってのもアリですし、一緒にお料理したりするのもきっと楽しいと思いますよ。アツアツの若い新婚さんカップルみたいでステキじゃないですか」
少女の言葉に触れて、操祈の脳裏に鮮やかにイメージが拡がっていった。
夢のように甘やかなシーンの――。
「ただし、テラスに出るのだけはご注意を。周りに高いビルが多いので、プライバシーが保たれるとはかぎりませんから。夜遅く、暗くなってからなら大丈夫だと思いますけど」
態度を決めかねて、椅子に深く掛けたまま何も言わずにいる操祈を残して少女は席を立つと、手際よく湯のみに茶を注いでまた戻ってきた。
現れた時には借りてきた猫のようだった少女が、今や態度をすっかり一変させていて、自信を持って話をてきぱきと進めている。その様子はさながら手慣れたビジネスウーマンのようでもある。
操祈には、控えめな様子の紅音こそ猫を被った仮の姿で、本来はこちらの方が少女の本当の姿なのではないかと感じ始めていた。
「わたしがお二人専属の伝書鳩になりますからお任せ下さい。突然の障害の排除や、約束の微調整などを含めて必要なことにはなんでも迅速に対応させていただきます」
少女の頭の中では、すでに計画の詳細までもが煮詰められた状態にあるらしい。
もし仲立ちをしてくれる者が居れば、いままでのようにネットの掲示板でアナグラムなどを使って、二人の間だけに通じる秘密の情報交換をする必要もなくなり、意思の疎通は遥かに確実になるに違いない。
それだけでも操祈にとっては魅力的なことだった。
そのうえ――。
“彼に逢えるかもしれない……学園都市に帰ってからも、またすぐにレイと……逢えるものなら……逢いたいっ……”
「わたし、一人では決められないわ……」
結局、操祈は誘惑に屈してしまっていた。
「では密森くんには私からお伝えしておきます。先生だと周りの目もあるので……それと、部屋の利用料金はいっさい発生しませんので、その点についても心配されないでください」
「そうはいかないわっ」
操祈は固辞したが、少女の話のペースにまんまとのせられてしまっていた。
いつのまにか、決まっていないのはデートの日取りだけになってしまっている。
「常盤台は以前のような特別なお嬢様学校じゃないんです。今は潤沢な給付金があるわけでもありませんし、密森くんも僅かな奨学金の一部を生活費にまわしている筈で、そんな中学生にとって、ホテル代ってスゴく負担だったと思うんですけど、でも先生とのデートには代えられないから……彼の性格からすると費用はきっと割り勘だった筈ですけれど、違いますか?」
紅音の指摘どおりだった。レイは経済的という面でも操祈の庇護を受けることを断固、拒否していたのだ。
そうしないと対等な恋愛関係ではなくなってしまうからというので、案じながらも操祈は少年の意向を尊重していた。
「中学生の彼氏にいままで以上の費用負担をさせるおつもりですか? 私は先生たちには、いつでも、好きな時に、恋人同士に戻って欲しいんです」
操祈には返す言葉が思いつかなかった。