ⅩⅧ
「わたし、まだバージンですからセックスが女にとってどういうことなのか、実感としてはわかりません。でも人間の営みの中で愛の表現ほど美しいものはない、ということを信じたいんです。セックスは愛というもっとも大切な感情を行為で示すこと、互いに言葉にできないほどの思いを体をつかって伝えあうことだと思うので……さっき操祈先生は密森くんのことを本気で愛しているとおっしゃいました。密森くんが先生をとても尊敬していて、そして女性として深く愛していることを私ははっきり感じています。歳が離れていても、お二人は互いを強く思い合う、とてもお似合いのカップルなんです。だから、お二人が愛をつむぐ行為は美しいに決まっています。わたしはそれを目の当たりにして自分の目に焼きつけておきたいのです……」
紅音はふたたび操祈をまっすぐに見上げている。自分が冗談を言っているのではないと訴えるように。
「先生はどうして、こんなにも素晴らしい行為であるはずのセックスが、恥ずべき秘めごとにされているか、そのわけをお考えになられたことがありますか?」
操祈は仕方なく首を振った。
力――の所為で、ある面では思春期というものが普通の少女たちと較べて十分とは言えなかった操祈には、性の持つ意味を掘り下げて考える余裕など一度もなかった。
「私には、秘められていること、それこそが愛と美の本質であるように思えてならないのです。キリスト者が言うように愛は誇らない。そして日本にも美は匿すことによってより光輝くという意味の、秘するが花、という言葉があります。あえて表にしないところにこそ真髄がある、という点で両者は共通しています。すると誰かが、愛と美という抽象を唯一感じる種族である人類に、性を隠匿し、そこに羞恥という感情の鍵をかけることで、動物にとっては単なる世代交代のための生殖行為にすぎないものを聖域にまで高めるように企んだ、そんなふうに考えることはできませんか?……人がセックスを強く求めながら、それを恥じるのは、あるとき誰かさんが始めたその仕掛け……誰かさんを仮に宗教家ならば、神、とでも呼ぶのかもしれませんが、その誰かさんのイジワルな計画に気づかぬまま、従うように仕向けられているからじゃないのかって思うんです。だからわたしはその呪いを乗り越えるために、操祈先生から神秘に至る鍵を片時だけお借りして、美の深淵をこの目で確かめたいのです……芸術を志すものの務めとして……」
「………」
筋が通っているようでいて支離滅裂でもある紅音の思い込みの強さに、操祈はどう応じて良いかわからなくなってくる。
「……これはきっと、わたしにしかできないことだと思うので……当事者である先生にはもちろん、密森くんも近寄り過ぎていて感じとれないことを、わたしならば適切な距離で見届けることができます……ミケランジェロやロダン、ベルニーニでさえ辿り着き得なかった美の極みに、この世でたったひとり、わたしだけが触れることができるかもしれない……これが先生に出会うことによって得た、私の夢なんです……」
紅音が去って部屋にひとり残された操祈は、籐椅子に掛けたまま、またため息を吐いた。
少女の希望はあまりにも非常識で、とうてい受け容れられないもの。にもかかわらず操祈には強く撥ね付けることができなかったのだった。
紅音の話にいちいち論駁することには意味がなかった。
とどのつまりは、男に肌を許すということが女にとってどれほどの覚悟が求められるものなのか、実際にその場に立つまで未経験の少女には想像しえないことだからだ。
どんなに愛し合っていたとしても性の場面で男と女はけっして対等ではない。
だから初めての時、女は自分が受け入れることを決めた男に対して優しくして欲しいと願う。
操祈の場合は自分の方がずっと年上であることの見栄もあって、レイにはそうしたことを口にしたことはなかったが、仮に相手が年下で、自分が体格でも優っていたとしても、男の手に身を委ねるのは怖いと感じるものなのだ。
ただレイの方がそうした女の肌の脆さや心根をよく心得ていて、そういう面での不安は初めのわずかの間だけで、すぐにうち解けた関係になれたのだったが。
実際、レイは信じられないくらい優しい子だった。肌だけでなく心にも寄りそおうとしてくれる。痛みや苦しみを与えられたことは一度としてなかった。いつも温かな手に励まされて、ひとつひとつハードルを乗り越えてきたのだ。
あふれた涙も、感動に追いついていけなかった途惑いのあらわれ。
それなのに――。
今では別の意味で、この歳若い聡明な恋人に怖れを感じるようになってしまっている。
操祈は未だにヴァージンのままに留め置かれていたが、だからといって性の世界を知らないわけではなかった。むしろ年相応の若い恋人たちであれば知りえないようなこと、尻込みしてしまうようなことまで経験させられている。
それは、なまじ交わりを伴わない分、かえって淫靡で背徳的なふるまいなのだ。行為の後で歓びと幸福感につつまれながらも後悔を覚えてしまうのは、強い羞恥の感情はもちろんだったが、愛情の誇張した表現のその先に待っているものへの漠然とした不安があるからなのかもしれないのだった。
少年は自分を何所へ連れて行こうとしているのだろう?
このままさらなる倒錯へと導こうとしているかしら、と。
そしてもう自分からは逃れられない、そのことを操祈は知っている――。
男の愛し方と女の愛し方は違うし、女の歓びと男の歓びもまた違うもの。今となってはこんなあたりまえのことでさえ、紅音と同じぐらいの少女であった頃の自分には想像もしえない世界だった。
切なくも甘く、ふと気がつくと、暗闇もすぐ近くにまで忍び寄っているような危うい場所、そこに今、自分は立っている。
けれども、そうした閨での男と女の機微について、少女に打ち明けられる筈もなく、結局、操祈は「相手のあることだから自分の一存では決められない」という曖昧な返事でお茶を濁してしまった。それが今の彼女にできる精一杯の答えなのだった。
無下にできなかったのは、やはりレイに逢いたい、という思いが強かったからに他ならない。
紅音は自分の夢とデートの支援とは無関係だと強調していたが、操祈にはその二つをわけて考えることはやはりできなかった。
レイに逢いたい、という思いが強くなればなるほど、少女の要望に応えなくてはならないという心の重荷が増してしまうのは容易に想像がつく。
だからといって、紅音からレイに逢える用意が整ったと聞かされれば、きっと自分の心は矢も盾もたまらず、また走り出してしまうことだろう。
長い睫に懊悩の翳りが宿って、彼女の端正な白い面差しをいっそう際だたせていた。傲岸な子供の時分には意思的な形をしていた眉の曲線も、歳とともに丸くなって静かな三日月を描くようになっている。明るい茶色の瞳には大人になりかけた少女に特有の、無垢と成熟とが見え隠れしている。
操祈は、どうやら自分はまたもや袋小路に陥ってしまったようだ、と思ったが、これも運命めというのならば仕方がないと受け容れることにした。これまでにも足掻いてもどうにもならないことをいくつも経験してきていたからだった。
力を失ってそれを受け容れられなかった操祈は、周囲に当たり散らすことで紛らわせようとしていたこともあった。結果、さらに多くのものを失ったことに気がついたとき、はじめて自分を取り戻すきっかけが得られたように思う。
人よりも遠回りをしたけれど、無駄だったとは思わない。
籐椅子から立上がると、張り出しの手摺に両手を置いて少し離れたところにある旅館の新館建物の方を窺った。
視線はいつしかレイが割り振られた部屋の窓を探していたが、操祈のいる部屋からだと、少年の部屋はちょうど反対側に位置していたために見える筈はなかったのだ。
そんな些細な心の揺れにおかしみを感じて、小さな笑みを作ることで流した操祈は、いまは気持ちを切り替えようと心にきめるのだった。