ⅩⅩⅤ
朝まだき――。
約束の時間にはまだ間があったが操祈は庭に出ていた。ノースリーブではさすがに肌寒く、シャツジャケットを羽織ってちょうどいい感じになっている。
踏み石伝いに山の緩斜面に拡がる広い庭をひとり散策する。人の気配は無く、眠りから醒めていない下界の街も静かで、操祈に気がついた早起き鳥が高枝の巣からチュクリと啼くと羽音を立てた。
紅葉はまだ先で樹々の葉は
宿が作製していた簡易マップには、竹林は庭の周回ルートを離れた脇道の奥にあることになっていたが、
脇道への分岐はほどなく見つかった。ここから先は遊歩道というよりも山道に近いような小途になっていて、宿のサンダル履きだと歩きにくかったところだが、幸い、持参していたスニーカーに履き替えてきていたのでたじろがずに済んだ。
さわさわという葉の擦れ合う音に惹かれて進むと、杜を抜け少し開けたところに出た。
そこから先が竹林ということらしいが、あまり人の手が入っていないらしく竹やぶに近い状態になっていて、薄暗くてちょっと立ち入るには勇気が要るのだった。
どうしようかと迷っていたところ、近くで鳥の鳴き声がして音のする方を探すと、杉の木陰からレイが現れてこちらに手を振っていた。唇に人指し指をあてて声を出さないようにと注意を促していて、操祈は何も言わずに少年の元へと小走りになった。
「ずいぶん早かったんですね」と少年は笑顔で囁く。
「あなたこそ」
時刻はようやく五時半を廻ったところだった。
空気の冷えた朝は意外に遠くまで声が通るものだから、と少年は声を忍ばせているわけを説明した。
「万が一、先生が先にきてしまって薮で迷子になったりしたら大変だから、ここで見張っていたんです」
「いつから来てたの?」
「ほんの少し前ですよ」
「本当? まさかここで一晩中すごしていた、なんてことはないでしょうね?」
いざとなったらやりかねなかったのだ。
少年は忠誠心を発揮できる機会があれば、けして逃さない――。
操祈にはそんな確信めいたものがあった。
もちろん自分もそうなのだった。もし立場が逆なら同じことをするに違いなかった。
「だって夜間外出禁止ですから無理ですよ、海藤先生の目も光ってるし」
少年は、空が白んできて目が覚めたのでそのまま起きてしまったという。同部屋の仲間を散歩に誘ったが、誰ものってこなかったので独りで外に出てきたのだと言うが、そもそも、そんな朝早くから散歩に付き合うものなど居る筈がないのは操祈にも容易に想像がついた。
もしも操祈がメッセージに気がつかなかったら、それならそれで、七時までここに居て現れなかったらフラれちゃったと諦めるつもりだったと、屈託なく笑う。
「でも操祈先生ならぜったい、気がついてくれると思っていましたけれど」
「あぶなかったわ、危うくスルーしちゃうところだった」
互いに笑顔になって見つめ合い、不意に真顔になると、どちらともなく顔を寄せて口づけを交わした。時間をかけた長いキスになったが情欲をかきたてるようなものではなく、親愛を伝え合うときのものなのだった。
相手の背に腕をまわして身を寄せ合う。体と体を接して思いを確かめ合った。
「会いたかったわ……」
「今朝の先生は、またいちだんと可愛いなぁ……」
「プリーツスカートを持ってきていなかったから……ゴメン」
「そんなことないです、すごく良く似合ってますよ」
操祈は白ニットのノースリーブタートルネックにチェック柄の膝丈のフレアースカートを合わせていて、少女の愛らしさと大人の女の
髪も活動的なポニーテールにしていて、実際、女子高生と言ってもおかしくないくらい初々しくて愛らしい。
「ちゃんと良く寝てるの?」
「はい、大丈夫です……先生は? よくお休みですか? ボクが早起きさせちゃったみたいで……」
「わたしは平気よ、眠たくなったらバスの中で寝るから」
「わー寝顔、見たいな……可愛いだろうなぁ……まだ一度も見たことないから……」
「バカ言ってるんじゃないわよ、先生をからかって」
「先生だけど……でもボクのいちばん大切な人でもあるから……」
少年は真顔になると、
「昨日はごめんなさい……」
そう言って
「ボク、先生にそれを言いたくて……」
「……?……」
たしかに非道いことをたくさんされたとは思うが、それはお互い納得づくのことだと思う。
「バスの中で、ひどいこと言ってしまったから……ボクの不注意で……」
少年が何を気にしていたかわかって操祈は顔を赤らめた。
「前髪に先生のにおいがついていたことに気がつかなくて……他の奴らに先生のにおいを知られたくなかったから……」
「いわないで……そのことはもういいの……それに、よく聞こえなかったし……」
「ごめんなさい……先生……」
少年は操祈の襟足や胸許に顔を寄せると、しくしくにおいを嗅ぎまわり始めた。
「ちょっとなぁに、変なことしないで……」
「すごくいいにおい……先生の体のにおい、ボク大好き……」
飾らない言葉で操祈への思いをのせてくる。
体臭は生理的にその人への好悪の感情をもっとも強く生じさせるものだ。体の匂いが好き、といわれるのは好意や愛着を示されているのと同じことだった。
操祈はまだボディコロンを使う前で起き抜けの匂いを纏っていたが、少年はむしろその方を好むことを知っていたのでそうしていたのだった。
「わたしもあなたのにおい、好きよ……男の子のにおいがする……」
「え、臭いですか? ボク」
「ちがうわ……あなたの命のにおいよ……」
操祈はふと、ドリーのことを思い出していた。
操祈が感じているような幸せを知ることもなく、ほんのささやかなことを人生の歓びとしていた可哀想な少女のことを。
そのことを思うと胸が痛んだ。同時に怒りの感情もこみあげてくる。
人間性を否定して破壊することを躊躇わなかった、人でなしたち――。
そして操祈は、そちら側――に居たのだ。
どんなに悔いても、取り返しがつかない、愚行。
ドリーは、たとえ操祈が直接、少女の生死に関わっていたわけではなかったとしても、操祈にとって自身の犯した罪の象徴といえる存在なのだった。
敏感な少年は、すぐに操祈の心の揺れに気づいて、怪訝そうな顔をして彼女を見ていた。
「どうかされたんですか?」
「え、ちょっと昔のことを思い出していただけよ」
「ボーイフレンドのこととか?」
「ちがうわよっ……わかってるくせに……」
「先生がヴァージンなのは良く知ってますけど、初恋がボクってのは、さすがに高望みし過ぎかなって」
少年はおどけた口調できわどいことを言い、操祈はため息をつく。
「ちょっとお友達のことを思い出していたの……亡くなった女の子のことを……」
「そうですか……あのころは色々なことがありましたからね……」
呟いた少年が、懐かしむような顔をしていて操祈は、はっと胸を衝かれた。
腕の中の男の子が、ひどく大人びて見えたからだった。いろいろな過去を積み重ねた男の顔をしているように思えたのだった。
唐突に、紅音から見せられた古い画像のことを思い出した。そのことを訊こうと思って、機会が無くそのままになっていたことを。
いい折だと尋ねようとしかけた操祈だったが、なぜか躊躇われて、口から紡ぎだされたのはまったく別の言葉だった。
「ところで