ボーイ8メンタルアウトアウト   作:真夜中のミネルヴァ

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観光バスの中で3

 

 

          Ⅸ

 

 

 

 人は恋をすると変わるもの、とワケ知りに言う友人たちを醒めた目で眺めていたこともあった操祈だったが、当事者になって初めてその言葉に共感を覚えられるようになっていた。

 かつての自分の、若さ故の狭量さを微笑ましく感じられるほど。

 自分はただひとり、自分だけのもの――。

 そんな自明であったはずの日常は、実はとても脆くて揺らぎやすいものだった。

 恋をするというのは、いろいろな意味で自分を失うことだ。

 多くを失って、より多くを与えられること。

 失うことで得られる歓びと、与えることでもたらされる充足。それは、なにものにも代えられない尊いものだった。

 けれども操祈は、その甘い果実の味を知ってしまった今、見知らぬ不安とも向き合わねばならなくなっている。

 だから、些細なことで心が揺れてしまう。

#オイ、なんかさあ、臭くねぇ? 誰か屁こいたヤツ居る?#

 後ろの方で、また男子生徒たちの声が響いた。その中にはレイの声も混じっていた。

 オマエだろ、いやオマエだ、の言い合いとなって実に中坊男子らしい犯人探しがはじまったようだ。

 その拙いやりとりを耳にしているうちに操祈は、あの中にはとうてい自分の居場所なんてありはしないことを思い知らされていた。

 認めたくないが、これも認めなくてはならない否応もない現実のひとつなのだ、と。

#オイ、レイ、やっぱオマエじゃねぇのっ?#

#え、ボク? ぜったい違うってば#

#そうか? でもやっぱオメぇ、なんかクセぇぞっ、なぁ、コイツ、クセぇよなっ?#

#あ、ホントだ、ナンのニオイだ、コレ?#

#そんなことないと思うけど……#

 あきらかにレイの声音には戸惑いの響きが感じられて、シートのヘッドレストに頭をあずけて瞑目していた操祈は目を薄く開いた。

#たしかに、おまえ、臭いな#

#ああ、へんなニオイがするな……なんだろう?#

#コイツの顔が臭うんじゃないか?#

 誰かのひと言が耳に届くや、操祈はビクッとなって再び、今度は全身を耳にして後部シートで交わされている男子たちの声に意識を向けることになった。

#変なチーズみてぇなニオイな#

#くせぇ、くせぇ、クサレイだっ#

 男子生徒たちのそうだ、そうだとはやし立てる声が聞こえる度に、操祈の顔がみるみる紅く染まっていった。

#おかしいな、トイレで顔、石鹸でちゃんと洗ってきたんだけど、まだ匂うのかな……#

#なんか変なもんでも食ったのか? 道に落っこちてる犬のクソとかよぉ#

 嘲弄する愉しげな笑いが起こったが、逆に操祈は凝固まったまま、唇をぐっと結んで固唾をのむ。

#そっか、さっき、ちょっとチーズ工房に寄ってたから、その所為かな……#

 と、自身なさげに言うレイの声は相応の男の子のものになっていた。

#チーズ工房? ナニソレ、オマエ、京都にきてわざわざそんなとこ行ってたのかよ#

#……だって、ガイドに絶品だってあったから……ねぇ誰か消臭スプレー持ってたら貸してくれない……?#

 スプレーをかけるシューッという音がして、少しして芳香剤の香りが操祈のところにまで漂ってきた。

#もう匂わないでしょ?#

#ああ、だいぶマシになった#

#だいぶ? じゃもうひと噴きしておこうかな……#

 またスプレーの音がする。今度はより念入りに、長い時間をかけての。

#そんなくっせぇチーズなんてよく食おうなんて思えるな#

#おいら、チーズは好きだぜ、チーバーサイコー#

#でもあのニオイ、苦手ってのはあんがい居るよな#

#……発酵臭って、馴れると気にならなくなるもんだけどね……#

#密森ってチーズに趣味なんてあったんだ? お前とのつきあい長いけど、初耳だな、ちょっと意外#

#特別にこだわりがあるわけじゃないけど、でもソコのは絶品だから、それでつい夢中になっちゃって#

#オメーがそんなにウマいって言うンなら、オレも食ってみたかったかもだが#

#うーん、どうかなあ学園都市に居るときも何回か食べてるけど、でも滅多に口には入らないから憧れの高嶺の花だったりするかも#

#へー、そんな高級品なのか? オマエ、よく金あったな?#

#お金っていうより発酵食品ってナマモノだから、発酵の進み方が常に微妙で同じものを食べても香りや風味が随分違ったりするものなんだ。だから……#

 少年たちがチーズやヨーグルトの発酵についての知識を交換しあっていた。

 他の誰にとってもどうということのない話題だったが、このバスの中でたったひとり、操祈にとってだけはどぎつく、自尊心を打ちのめされるような身につまされるものになっている。

 そのため後ろの席にいた女子生徒から声をかけられたことに、動揺していた操祈はしばらく気がつくことができなかったのだった。

「あの、操祈先生」

 ハッとなって振り返る。

「な、なあにっ? 栃織さんっ」

 呼びかけていたのはクラス委員の栃織紅音だった。

「あの先生、大丈夫ですか? お顔が真っ赤ですけど」

「え、あら、そうかしら……暑かったから、ちょっと熱中症になりかけていたのかもしれないわね……」

 操祈は脇に置いてあったショルダーバッグの中の水筒を探すふりをするあいだ、懸命に心の準備を整えようとしていた。

 たとえ中学生であっても同性の目は侮れない。それが心理系の能力者である場合にはなおさらだった。

 栃織紅音はまさにそれに該当していたのだ。レベル1だが、今の操祈にとっては気のおけない相手などとはとても言えない。

 操祈は頭の中で即席の鍵とキャビネットをイメージすると無防備に散らかったままの心のファイルをかき集め、自分にとってもっともプライベートな記憶として引き出しの奥にしまいこんだ。

 たとえメンタルアウトとしての能力は失っていても精神防壁を組み立てて鉄壁のガードを構成することは今でもできる。

 自分の身を守る術は心得ている。

 そのつもりだったのだが……。

 

 

 

 

 

 

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