雨は嫌いだ。
じめじめとした空気がどうにも気持ちを後退させて、孤独にどこか寂しさを感じてしまう。
だから。
自分の前にいる一人の女の子にさえきちんと目を合わせられず、何か格好のつく言葉をかけることも出来ずにいた。ずっと用意していた言葉はあったというのに、いざという時には出てくれない。
唇を噛んで、窓の外を見ていた顔をもう一度彼女の方へと向けた。いつもと変わらず無表情で──けれどそれでも、その顔は俯いていたままで。一度吐き出した感情の整理がついていないようだった。
僕はずっと彼女のことを、器用で利口で合理的で、いつも周りとは一線を引くような人物だと思っていた。だから僕という──〝幼馴染み〟という存在は、彼女にとって特別であれると信じていた。
事実そうしていたのだろう。透を除いた彼女の交友関係は、ひとことで言えば広く浅くだ。
だから僕は心のどこかで、この気持ちには時間の余裕があると思っていた。
けれどその彼女に、好きな男性ができたという。
それがちょうど、一時間前の話だった。
◼◼◼
「今日は全国的に晴れの模様で──」
リビングでつけっぱなしにしていたテレビから、ニュースキャスターの声が流れる。眠い目をこすりながら、朝食を急いでとって身支度をする。時間を確認すると、ちょうど朝の七時のようだ。
別にどこかに出掛ける訳でもなく、ただ身の回りを綺麗にしていた。顔を洗って、歯を磨いて、服を着替えて、まるで学校がある日のように時間通りに事を進める。これが僕の毎日のルーティンだった。
生活リズムを壊さない──なんてのは建前上の理由。本音を言えば、目の前に家を構えている幼馴染みに対抗心を燃やしているからだ。
空気の流れを作るため空けておいた窓から、ガチャ、とドアの開く音がした。ふと目線を音の方へと向けると、髪を赤茶に染めた高校生が、日曜の朝七時からどこかへ出掛けようとしているのが目に入った。
つい、横にある鏡に目が移る。だらしなく寝癖が一本跳ねた、まだ眠気が抜けきれていない男がそこにはいた。
それを見て、がっくりと肩が落ちる。
「……頑張ってんなあ、円香」
当の高校生はこちらも一瞥することもなく、やたらと大きい鞄を持って隣の浅倉家へと向かっていた。
こんな朝早い時間からでもレッスンがあるのだろう。近々、大きなオーディションを控えているらしい。
窓から二人を見送る。透はこちらに気付いたのか、軽く手を振って挨拶をしてくれた。円香の方はそれにすら気が付くことなく、透の横をずんずんと歩いていた。
「まあ、脈無しだよなぁ」
──誰にも聞こえない小さな声で、一人愚痴を垂れた。
円香とは小学生からの付き合いだ。単純に家が近くて、親同士が仲良くなれば、僕らのような子供は親の事情で共にいることが多くなる。
そしてそういう子とは得てして、気軽に話し合える相手になるものだ。
現に透とはそういう関係になれた。彼女は元々フランクな性格をしていたが、暇があれば家に来て夕食をねだることもしばしばあるくらいだ。
そしてそういう時には大抵、円香も一緒についてきた。
毎度決まって、〝無〟と〝警戒〟だけが表情にはあった。あの目線をずっと向けられるのはなかなかに辛かったが──結論から言えば、僕は円香とはそういう関係になれなかったということだ。
けれど。
そんな樋口円香に、僕は好意を抱いていた。
それが一度勢い余って、中学三年の頃彼女に告白したことがある。
だが、今こうして二年後再び彼女に恋心を抱いているように、その僕の初恋はあっけなく終わりを迎えた。
今でも振り文句はよく覚えている。「そんな風には見られない、ごめん」と。
そのひとことだけを言い残して、彼女は透の元へと駆け出してしまった。
ちょうど卒業式の前日、桜吹雪の舞う公園。
取り残された僕の視界を、花びらたちは埋めつくしていった。
限られた平面に水を垂らしていくように、僕の居場所を区切るように、孤独を感じさせるように、だんだんと辺りが桃色に染まっていく────。
──追憶を振り払って、椅子に戻った。
円香がアイドル活動に対して真摯に向き合うなら、僕も僕なりに勉強や部活にきちんと取り組んでみせようと。
彼女は努力を惜しまない人間だ。そんな人を好きになった者として、どこか一つでも妥協のある生活をすることは耐えられなかった。
十二時。ちょうど四時間の勉強を終えて、昼食をとる。
午後からは部活だ。所属しているのはバレーボール部、透と円香も中学時代は僕と共に部活にいた。当然だが、今でも続けているのは僕一人だ。
三人とも中学から始めたスポーツだったが、特に透は群を抜いてセンスに溢れていた。小学校から続けていた人の嫉妬を買っている場面もいくつか見た。
それでは円香は下手だったのかというと、そうではない。円香も透と同じように、小学校からのプレイヤーを簡単に抜き去ってしまう程にはセンスがあった。透の影に隠れていただけで、部の誰もがあの二人に勝てないことなど半年も経たず理解していただろう。
けれど円香は、途中から本気を出さないようになった。
理由はわからないが、円香には昔から
では、僕は。
正直に打ち明けると、上手くはなれなかった。努力は人一倍重ねたつもりだったが、僕はどうやらこの競技に対してセンスが無かったらしい。
だが、努力だけはした。その一環として、円香に何度も頭を下げて、テクニックを教えてもらうことがあった。
透と違って、円香の方はプレイを理論的に理解している節があるように見えたからだ。
最初は当然のように断られた。自分の時間を何のメリットもなく他人に使ってやることが嫌だと。
二回目も断られた。今度は何度やっても無駄だと言われた。彼女は押し負けるような質には見えなかったので、おそらくあれは本気で言っていたのだろう。
一旦僕はそこで彼女に教えを乞うことは諦めて、大人しく自主練に励むことにした。
パス、レセプション、サーブ、スパイク──今まで何度も積み重ねてきた基礎練を、もう一度繰り返し行うことで上達を図った。
今まで何度も積み上げてきたものだ。それでも基礎を固めることに嫌気がさすようなことは無かったけれど、何か革新的なものがあればという思いは拭えなかった。
そんな思いを頭から消し去るために、ただ無心で練習をしていた。
円香から声をかけられたのは、それから二週間が経ってからだった。
「その努力はどこから生まれるの?」
相も変わらず、それは辛辣な一言から始まる。
「努力しないと、上には進めないだろ」
「違う。努力しても進めないときだってあるし、それが大半」
「……それでも、そこで諦めると何も進まないのは間違いない」
「それも違う。あなたはここで才能が無かっただけで、別のところに行けばいい。ここでズブズブと沼に嵌っていくのが一番最悪だよ」
「ッ……!」
それは間違いなく正論だった。
透のように直感的に少ない努力で最短ルートを進める天才もいれば、僕のようにどんなに努力を重ねてもその道を選べない人間もいる。
そんなことはとうにわかっていた。わかっていたけれど。
「……その時は、それでいいんだ」
「はぁ?」
「だから、それでいいって」
「ここで何の成果も出せずに、中学時代やってた部活の時間を全て犠牲にするのが構わないって?」
「別にそうと決まった訳じゃねぇだろ」
つい口調が荒くなっていた。
彼女の顔を見るのが怖くて、目を背けたままボールを撫でていた。ここで現実に、彼女の言葉に向き合うのが、それこそ過去の自分を犠牲にしているような気がしてならなかった。
「人は努力なんて見ない。結果が全て。あなたに結果は伴ってない、これが現実」
「……じゃあ、どうしろって?」
「さっさとここを辞めて、自分の才能が生かせる場所に行くこと」
「……ハッ。良いよなぁ、才能のある人間は」
「あなたさ、私があなたのためを思って言ってるのわかってんの?」
「なんだその言い草? てめぇは母親かよ円香」
「じゃあその努力に意味があると思ってんの?」
「あるに決まってんだろうがッ!!」
空気が重かった。自分の沸点はこんなにも低かったのかと自分を恥じた。唐突に声色が変わってしまったけれど、同時に円香もヒートアップしたようで、ただ僕らの間には灰色の空間だけが広がっていた。
中学二年の夏休み、昼の体育館、窓からはさんさんと太陽の光が降り注ぎ、僕らの頬からは汗が流れる。
「この前頼んだこと、覚えてる?」
ふぅっと円香は一息つき、ジャージのまま床に座って僕に聞いた。
「ん、あぁ」
その質問はあまりに急で、喉から空気が漏れたような声が出る。
「それ、いいよ」
「え?」
「だから、いいよ。教えるよ」
「本当か!?」
「煩い」
そう言って、彼女は床から立ち上がり体育館の外へと出る。
「気が変わった。その努力の底を見てみたくなった、それだけ」
その一言だけを残して。
ポカンと開いた口が塞がらなかった。まるで、時間が止まったような。
風通しの良い体育館で、当時からあった赤みがかった髪が流れる。
その日も自主練を繰り返した。最早ルーティンとなっていたもので、自分の中では半分マンネリ化したようなものだったが。
その日だけは何故か、プレイに身が入らなかった。何かをしようとする度に、円香の顔が頭をよぎった。
あそこまで自分と向き合ってくれる人はいなかった。自分を否定する人も、自分に怒ってくる人も、そして、自分の努力に報いてくれる人も。
体育館を出ていく時の、いつもは見ることのできない彼女の笑顔が記憶に残っていた。無表情を少しだけ柔らかくしたような笑顔だった。
窓を眺める。
さんさんと、太陽から光が差し込む。傍に置いてあったスポーツドリンクを片手に、ボールを左手で回転させる。
上がった息がどこか心地よかった。これからの僕のバレーボールに円香が居るのだと思うと、心が踊って仕方が無かった。
──そしてその辺りで、よくやく気付いた。
僕はあの時から、彼女に恋心を抱いていたのだと。
◼◼◼
『今日は全国的に晴れの模様で──』
体育館の隙間から見える、灰色の空。
大粒の何かが地を打つ音。
僕のプレイを妨げるかのような、遠くから響く雷鳴。
少し休憩をもらって、気晴らしに体育館の外へと出た。冷たい風に当たれたらと思っていた。
けれど僕を待ち受けていたものは、一寸先すら闇と見紛うほどの大量の雨だった。なんとなく予想はついていたのだが。
聞き慣れているはずの嫌な音が、ただただ無機質に響いている。ざあ、ざあっと。
僕は雨が嫌いだ。
このじめじめとした空気が気持ちを後退させて、いつもなら慣れている筈の孤独がいやに寂しく感じてしまう。
(……あのニュースキャスター、嘘ついてんじゃん)
ふと円香のことが頭に浮かんだ。彼女はこんな雨の中レッスンから帰らなければならないのか。
いやそれとも、この雨が止むまでレッスンは続くのだろうか。何分も、何時間も、十何時間も。
部活はいつでもやめられる。こんなものは自己満足の域にあるものだからだ。けれどアイドルはそんな簡単なものじゃない。裏にたくさんの大人が動いて、同時にたくさんの金が動いている。おいそれと辞められはしないのだ。
円香はきっとそれもわかって、この厳しい業界に身を投じた。
話を聞く限りでは、それはきっと透のためだ。自分の一人の親友のために、自分一人を犠牲にした。
彼女は努力を惜しまない人間だ。僕はそんな彼女に惹かれていって、振られてしまった今でも彼女のことを忘れられないでいる。
灰色の空を見上げた。稲妻が走っている。
不意に、冷たい風が身体を揺らした。
冷たい風に当たるというのは、案外気持ちの良いことでも無いらしい。
午後五時。
部活もようやく終了となり、部活のメンバー全員で外へと出た。外は相も変わらず大雨で、止むような気配はどこにも無い。
学校からの帰り道に、(少し遠回りをすればだが)円香たち283プロの事務所がある。
いつもなら、というより一度も通り過ぎたことのない場所だが、今日は何となく外観だけでも見てみようという気になった。
円香が──〝あの〟円香が、そこまでして打ち込むものだ。
努力は惜しまない。何事に対しても才能がある。
……それなのに。それなのに、どこか自分に逃げ道を作っている。本気を出さない、失敗した時に諦めが簡単につくような逃げ道を。
事前にやれることは全てやっているのに、本番で自分の全てを出し切ろうとは思っていない。
自分で自分の努力に報いようとはしないというのに、底の見えかけていた僕に対しては、あの時もあれからも、ずっと向き合ってくれていた。
それが無性に、僕を苛立たせていた。
午後五時半。
雨はいっそう強さを増して、傘を貫通するのかと思うほどに強い。
そんな中、人通りの多い道をぼんやりと歩いていた。
足元を汚しながらも必死に走っているサラリーマン、身体に障害を抱えた妻を支えている老父、親を困らせながらもはしゃぐ子供。雨の中は人の顔がよく見える。
皆それぞれの思惑を持って、この雑踏の中で僕とすれ違う。
今の僕は、どんな顔に見えているのだろう。
雨は嫌いだ。
十分ほど歩いた先に、〝283〟と書かれている建物を見つけた。
大手のプロダクションなのは確かな筈だが、事務所は随分と小規模なようだ。
ふと、目の前に赤みがかった髪を見つけた。
「……円香?」
僕が声をかけると同時に────その影は地に倒れた。
もともと一つの短編だったものを分割して投稿しました。近いうちに次のも投稿できればと思います。