ここではない、彼方へ   作:てと​​

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ここではない、彼方へ

 

 

 

「――ひとは死んだら、どこへ行くんだろうな」

 

 

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 右手で銀貨をもてあそびながら、セオ・フローリーはそうぼんやりと呟いた。

 

 ――昼前のカフェで向かい合って座る、若い男女のカップル。それは字面からすると華やかだが、現実は空虚さと陰鬱さに支配されていた。二人の会話には恋人らしい甘さが欠けていた。

 

 私は紅茶で唇を湿らせて、セオの顔を見つめる。ブラウンの髪と瞳はありふれた色だったが、その顔立ちは端正で凛々しく、誰もが認めるような美青年だった。だが残念ながら、今の彼の表情には笑みというものが消え失せ、いつもの魅力は影を潜めている。

 セオはティーカップの水面(みなも)に目を落としながら、彼方に想いを馳せるように口を開いた。

 

「あいつは――お前のことが好きだったんだ」

 

 今はもういない、自分の幼馴染の青年についてセオは話す。

 

 レイ・バニスターは大切な親友だった。彼にとっても、私にとっても。

 綺麗な金髪に、あどけない顔つきをしたレイは、ともすれば少年のようにも見えるのが印象的だった。自分に男らしさが欠けていることを自覚していたのか、振る舞いもどことなく控えめで、あまり自己主張しないタイプの青年だった。

 

 私が話しかけると、彼はいつもぎこちない受け答えをしていた。初めは苦手意識を持たれているのかと思ったけれど、交流を深めるにつれてそうではないと気づいた。もしかしたら私に気があるのかもしれない――そう考えるようになった。

 

 ただ、それだけだった。

 お互いに、実際に好意を伝えることはなかった。私は確信が持てなくてアプローチをしなかったし、きっと彼も同じだったのだろう。けっきょく友人という関係を保ったまま――

 

 レイ・バニスターは、つい先月に死去した。……不幸な事故で。

 

「以前に、ヘレナに告白しろよってあいつに言ったことがあるんだ。……お前が俺よりレイのほうに惹かれていたのは、わかっていたからな」

「……うん」

「そうしたら、なんて答えたと思う?」

 

 私は少し思案して、ゆっくりと答えた。

 

「僕よりいい人がいるだろうから――とか?」

「正解だ。やっぱりお前はレイのことをよく理解しているな。……付き合っていたら、さぞお似合いだったろうに」

 

 そう笑って、セオはすぐに笑みを消した。

 いま私の恋人となっている彼が、そこまで言うのは――それだけセオもレイと仲がよく、彼の人柄を信頼していたからだろう。二人は同じパブリック・スクールに通っていた同級生だった。私が彼らと知り合う前から、セオとレイは親しい友人だったのだ。

 

「――あいつは今、どうしているんだろうな」

 

 ふたたびセオは繰り返した。それは死んだらどこへ行くのか、という問いと同じである。

 死によって人はどうなるのか。古代から論じられてきて、いまだに答えのないその哲学的な問題を、セオは柄にもなく最近よく口にする。それは親友の死の大きさを物語っていた。

 

 死後は楽園へ行く、という宗教の教えはあるが、それを確認した生者など誰もいない。けれども――楽園のような場所で、安らかに過ごしてほしいと私は思った。だから、そういう場所に彼が行ったことを信じたい。

 

「きっと……向こうで幸せに暮らしているよ」

「幸せ、か……」

 

 その言葉に反応したセオは、どこか遠い目をした。

 

「――あいつは、俺やヘレナと一緒にいるのが……いちばん楽しくて幸せって言っていたな」

「そうなんだ? ……レイ、私にはあんまりそういうこと話さなかったけど」

「恥ずかしかったんだろ。お前のことが好きだったから」

 

 そんなものだろうか。まあ、たしかに私も好意をはっきりと想い人に伝えるのは、ちょっと照れくささがあるけれど。

 思い返してみれば……親愛という点においては、私よりセオのほうがずっとレイと近しかった。だからこそレイは、セオに対して自分の気持ちを隠さず口にしていたのかもしれない。

 

 私たちはどことなく奇妙で、それでいて雰囲気は悪くない三角関係だった。

 もっと続いてほしかった。……そう今でも思ってしまうほどに。

 

「……案外、どこにも行かずにいるのかもしれないな。俺たちの近くに」

「守護霊みたいに?」

「そうそう。俺たちのことを見守っているのかもしれない」

「うーん、それはそれで恥ずかしいけど」

 

 私は苦笑し、紅茶に口をつけた。

 

 結局はいろいろあって、レイが亡くなってしまったあと――私とセオは付き合うようになっていた。友人ではなく、恋人として。

 それをレイが見たら、どう思うのだろうか。嫉妬する……のは、ないかな。そういう性格じゃないし。

 

 ――好きな人が幸せなら、それでいい。

 

 きっと、そういう思考かもしれない。優しい彼のことなら。

 

「……そろそろ、店を出るか」

 

 セオはそう言うと、冷めた紅茶を飲み干した。私も同じようにカップを空にして、二人で立ち上がる。

 ――この喫茶店でお茶を飲んでいたのは、デートの途中で休憩するためだった。

 だから、これからはデートの再開である。友人の死を嘆くのは、もう忘れなければならない。

 

 ……そうやって、ときおり彼のことを話題にしながら過ごしていくうちに。きっと傷は癒え、徐々に悲嘆は薄れていくのだろう。

 日常の中で、彼がいたことを忘れて、私もセオも元気を取り戻してゆくのかもしれない。

 

 そう現実的に考えた時――私はふと思ってしまった。

 好きだった人が、親しかった人が、自分のことを思い返すことがなくなっても。

 ……はたして、その幸せを喜んで見守ることができるのだろうか。

 

「……どうした?」

 

 ふと後方を振り向いた私に、セオが怪訝な声をかけてくる。

 

「……ううん、なんでもない」

 

 私はそう答えて、セオのほうへ視線を戻す。

 いるかもわからないレイではなく、今はっきりと存在する彼を――私は見ることにした。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――スラム街には決して近寄ってはいけない。そこにはジンとアヘンで狂った人間が山のようにいるから。

 

 産業が革命的に進歩し、大量の労働者が首都にあふれるようになってから、ほどなくしてそんな警告を良識者たちは口にするようになった。

 長時間の労働に苦しむ人々は、そのストレスを解消するために安酒と麻薬に走った。そうして中毒になった人間たちがスラム街にあふれている。そして、彼らは次第に正気を失いはじめていた。

 スリや暴行、強盗といった犯罪が社会に蔓延(はびこ)りはじめた。その治安の悪化という脅威に、ようやく政治を支配する上流階級の人間たちも危険を感じ取ったのだろう。少しずつ、貧困者の犯罪を防ぐための福祉政策も意識されるようになった。

 

 ――これは、そんな過渡期に起こった事件。

 

 アルコール中毒者の男が人から金を奪うために、通りで身なりのいい若者をナイフで脅し――

 そして近くに居合わせた警察官が、銃を引き抜いてそれを制止して。

 けれども酒の影響で理性の飛んでいた男は、ナイフを構えて警察官を襲おうとした。

 すると焦った警察官が、新式の連射式拳銃を男に向けて発砲し――

 その時、ほかの薬室への伝火現象(チェーン・ファイアリング)が起こってしまって。

 暴発した銃弾が、まったく関係のない通行人の命を奪い去ってしまった。

 

 そんな、あまりにも不運で不幸な事故。

 多くの市民にとっては、一年もすればすっかり忘れてしまうような――

 それでいて、関係者にとっては忘れがたい悲しい出来事。

 

 そう、セオ・フローリーにとっては……あまりにも大きすぎる、衝撃的なことだったろう。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 私室の机の前でぼんやりと立つ彼を、私は戸口のほうから眺めていた。

 そう年月が経っているわけでもないのに、凛々しかった彼の顔はどこか老け、生気が欠けているように見える。その原因がなんなのか、私は痛いほどよくわかっていた。

 

 彼――セオ・フローリーはため息をつくと、机の引き出しを開ける。

 そこから取り出したのは一丁の拳銃だった。燧石(火打ち石)で火薬を点火させる、古くから使われているタイプのものである。

 

「――銃なんて持って、どうするの?」

 

 私の声にセオは答えることなく、彼は撃鉄を起こした。そして、ゆっくりと引き金を引く。

 燧石が打ち金とぶつかり、音を鳴らし火花を散らした。だが火薬は入っていないので、それだけで終わりである。意味のない行為だった。

 

 もし弾と火薬を込めた銃を、誰に撃ってもかまわないと言われれば――セオはいったい、誰に銃口を向けるのだろうか。

 衝動的な犯罪に走ったアルコール中毒者か、それとも誤射をしてしまった警察官か、あるいは――自分自身か。

 

「――ヘレナ」

 

 セオが私の名前を呼んだ。

 それは生きる気力を失った声色ではなく。

 どこか決意を含んだような言葉であった。

 

「俺はさ……新聞記者になろうと思うんだ」

 

 あまりに唐突な発言に、私は目を見張ってしまった。それくらい、意外すぎる職業だったからだ。

 工場経営者の父親を持つセオは、そこらの貴族よりもよっぽど裕福な身分の青年だった。次男なので跡取りの可能性は低いが、それでも親の仕事と関係する職に就けば安泰が約束されているはず。なのに――わざわざ記者になるというのは、世間の常識からは大きく外れていた。

 

「……そんなこと言ったら、お父さんから縁を切られちゃうよ?」

 

 セオの父親は政治家とのつながりも多かった。つまるところ、上流階級側の人間なのだ。そして新聞や雑誌などのメディアは、支配階級にとっては抑圧すべき対象として見なされていた。

 昔から印紙税法に対する反発などもあって、新聞各社は政府に対して批判的な立場を取っている。そんな中で、セオが新聞社に就職する道を選べば――彼の父親は絶対にいい顔をしないだろう。

 

 セオはそれ以上、何も呟くことはなく――笑みを浮かべた。

 自分には、彼の意志を変えることなどできない。そうわかっているから――私もかすかに笑った。

 

「……がんばってね」

 

 ――彼のことを、これからも見守っていこう。

 私もそう決めて、優しく応援の言葉をかけた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 学校で教育を受けていたセオにとっては、文章を書くということは大して困難ではなかったのだろう。

 多くの産業が発達し、他国との交流も広がる世相において、新聞という情報メディアは民衆からの需要が著しく増していた。ある程度の知識と教養があるライターやレポーターというものは、どこの新聞社にとっても喉から手が出るほど欲しい人材と言えるだろう。セオが難なく、もっとも影響力のある新聞社に論説記者として雇われたのも当然のことだった。

 

『工場で働く労働者の貧困生活について』

『ペッパーボックス銃の危険性について』

『警察官の拳銃武装は本当に必要なのか』

『アヘン窟の実態、および薬物の依存性』

 

 そんな記事のタイトルは、彼が市民の生活や安全に関わる事物を重視していることを表していた。

 都市に労働者が増えつづける中で、セオが執筆する内容は大いに好評だったのだろう。新聞の売上は順調に伸び、彼の記者としての名声も高まっていった。

 

 仕事の調子だけを見れば、その歩みは明らかに成功していた。

 だが一方で――人生の苦難も少なからずあった。

 

 ある時、セオは帰宅するなりベッドに倒れ込んだ。ぼんやりと天井を見つめる彼の瞳は、いつもの熱意も活力も見当たらない。精神的な疲弊に支配されている顔色だった。

 

「……どうしたの?」

 

 私がそばに近寄って声をかけると、彼はぽつりと言葉をこぼした。

 

「……もう俺は……子供じゃない。独りでだって……生きていけるさ……」

 

 その呟きで、何があったのかを察するのは容易だった。

 今日の昼間、セオは父親と会っていた。私はそこで交わされた会話を間近では聴いていなかったけれども、これまでのセオの生き方を考えれば――行き着くところは明白だった。

 工場経営者の労働者に対する搾取を批判した記事は、おそらく父親の目にも留まったのだろう。それが怒りを招いたのは疑いようもなかった。そう――セオは肉親から絶縁されたのだ。

 

「……大丈夫、あなたは独りじゃないから」

 

 そう私が言うと、彼は目に涙をにじませた。大切なひとが亡くなった時のように、セオは泣いたのだ。それも仕方なかった。生きていようと、死んでいようと、相手と別れることはつらく悲しいものだ。

 

 ――はたして、私はセオとずっと一緒にいられるのだろうか。

 ふと、そう考えて――答えを出すのが怖くなった私は、目をつむって思考を振り払ってしまった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 年月が過ぎるのは、あっという間だった。

 父親からの仕送りが途絶えたのはセオにとって痛手だったが、雇われている新聞社からの給金は増えたようで、とりあえず生活には問題なく過ごせていた。

 借家に帰ってくると、セオは簡単な夕食だけに留めて、すぐにベッドで寝るようになった。そして早朝に起きると、さっさと身支度を整えて出ていってしまうのだ。最初は、ずっと会社で記事を書いたり、図書館で資料を集めたりしているのかと思っていた。けれども――どうやら外出している時に、誰かと私的な会合をしているようだと私は気づいた。

 

 ――どうしても、気になって仕方がなかった。

 

 だから、なんとなく悪いことをしているような気分になりつつも。

 私は家を出た彼のあとを、こっそりと追ってみることにした。

 

 晴れた清々しい朝だった。通りには身なりのいい紳士や、華やかなドレスを着た淑女がちらほらと見える。この辺は富裕層の多い地区なので、通行人のほとんどは朗らかな様子だった。

 もっとも――市の中心から離れれば、多くの労働者が薄汚れた服を着て、貧しい生活を送っていることを私は知っている。

 中流以上の階級者にとっても、その実情は憂慮すべきものであった。外国で民衆革命運動が起こった過去もあるため、労働者を蔑ろにすべきではないと世に訴える知識人も増えている。セオが以前から新聞を通じて主張してきたことが――徐々に世論として広まりつつあった。

 

 ――自分の仕事は、無駄ではない行為だ。

 そう実感しはじめたからだろうか。最近のセオは、落ち込んだ様子を見せることがなくなった。日々の生活を楽しんでいるような――明るくて希望に満ちた顔をしている。

 

「……コーヒーを一つ。それと、ビスケットも」

 

 ある喫茶店に入ったセオは、どうやら飲食物を注文をしたようだ。まだ客の少ない早朝の店内で、彼は入り口に近い椅子に座っていた。しばらくして、給仕(ウェイター)の運んできたコーヒーとビスケットを口にしはじめた。

 ……なるほど。朝食をいつも抜いているのかと思ったけど、そうでもなかったらしい。

 

 通りのほうからこっそりセオの姿を眺めつつ、私はふと昔のことを思い出していた。

 たしか、あれは初めてセオと、そしてレイも一緒に喫茶店で雑談した時のことだろうか。コーヒーを好むレイに対して、セオは自分は紅茶派だと言っていた。そして実際に、彼がコーヒーを飲んでいるところは一度も見たことがなかった。

 

 ――嗜好が変わったのだろうか。

 それはあるのかもしれない。人間は生きていく中で、徐々に変化するものだ。興味のなかったものに、関心を寄せるようになったり。新しく別の何かを、好きになったり。ひとはつねに変わってゆく。そう、それはセオだって例外ではなかった。

 

「――フローリーさん」

 

 ふいに新しく店に入ってきた妙齢の女性が、彼にそう呼びかけた。

 知り合いらしき彼女の声に、セオはゆっくりと顔を向ける。その口元には――穏やかで優しげな笑みが浮かんでいた。

 

「……アリス、おはよう」

「近頃は顔色がよいですね。以前は不眠症だとおっしゃっていたので、お体は大丈夫かと思っていましたが――」

「最近は改善してね。寝付きもよくなって、すこぶる健康だよ。心配してくれてありがとう」

 

 セオが「どうぞ」と対面の席を示すと、アリスと呼ばれた女性は微笑を浮かべながら座った。その自然な動作からすると、こうして喫茶店で会うことは何度も繰り返しているのかもしれない。わずかなやり取りからでも、二人の間にはそれなりに親しい雰囲気が感じられた。

 

 談笑する男女の二人。

 それだけで恋愛関係にあると断じるのは性急だったが――否定することもできなかった。

 胸がざわつき、言いようのない気持ちが湧き上がる。

 

 私はなぜ、こんな覗き見をしているのだろう。

 ふと客観視した自分は、ひどく情けなく恥ずかしかった。何か行動を起こすこともできず、こうしてこそこそと二人の様子を眺めているだけ。無力さと愚かさに、私は泣きたくなってしまった。

 

 ――けれども、涙を流すことはできなかった。

 

「……そろそろ、店を出るか」

「ええ。……そうだ。まだ出社までお時間があるようでしたら、一緒に寄ってみたいところが――」

 

 セオたちは席を立ち、そんな会話を交わしていた。

 私はゆっくりと、店の出入り口の前に移動する。そこに立っていれば、外に出てきた二人と真正面から鉢合わせることになるだろう。

 

 現実が待っている。

 本当はわかっていながら、目を背けていた。

 でも、きっと――これは直視しなければならないことだった。

 

「――セオ」

 

 私は彼を呼び掛けた。

 けれども、声が届く様子はどこにもない。

 すぐ目の前にいるというのに――セオは隣の女性に顔を向け、穏やかに会話を重ねていた。

 

 そこにヘレナという女性など、存在しないかのように――

 

「……ずっと見守っているよ、あなたを」

 

 そう言って、笑みを浮かべた。

 

 二人が私の体をすり抜け、何事もなかったかのように歩き去っていく。

 私は振り返り、セオの後ろ姿を見つめる。

 親友だったレイが亡くなり、そして数か月もしないうちに恋人まで拳銃の暴発事故で失ってしまった彼は――それでも懸命に日々を生き抜き、幸せを見つけつつあった。

 

 何も悪いことではない。

 私とレイの死という悲しみから立ち直り、そして幸福な人生を送ってくれるというのなら……これほど喜ぶべきことはないだろう。

 

 なのに――

 どうしてもこみ上げる寂しさに、虚しさに。

 私は胸を押さえて、遠ざかるセオの背中を見つめることしかできなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 わかっていた。

 過去の苦悩を乗り越えるということは、気にかけなくなるということ。

 子供だった時、私はよく下らないことを怖がっていた。灯りのない寝室で、幽霊が出てくるんじゃないかとビクビクしていたのだ。そんな恐怖も大きくなった時にはすっかり忘れて、暗闇を憂うことなどなくなってしまった。

 

 身近な人間の死も、それにまつわる悲しみも――時が経てば忘却の彼方へゆくものだ。

 それでいいんだと思う。

 ずっと悲嘆に暮れて、陰鬱に過ごし、暗い人生を歩むことよりも――

 悲しかったことを忘れて、今の楽しく幸せな時間を大事にするほうがいい。

 

 ただ、ちょっとだけ。

 ほんの少しだけ、嘘をつけない気持ちがあった。

 些細なことでいいから、たまにだけでいいから――

 

 過去にいた人間のことを思い出してくれたら。

 

 ――私はそう願ってしまった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

「――ねぇ、パパ。これ、なぁに?」

 

 ブラウンの髪の少年が、そう父親に話しかけた。

 父親の私室の机を漁っていた子供は、何やら気になるものを見つけたらしい。その手には重量のある細長い道具が握られていた。

 

 ――拳銃だった。

 雷管式が主流となった今では、滅多なことでは目にしない燧石式のタイプである。

 それを目にした父親は、あわてて子供に駆け寄ってそれを取り上げた。

 

「おいおい! 拳銃なんか勝手に触ったらダメだぞ」

「それ、鉄砲なの? ヘンなの」

「古い銃だから、ちょっと形が違うんだよ。今じゃ骨董品さ」

 

 父親はそう肩をすくめると、拳銃を机の引き出しに戻そうとした。

 だが、ふと何かを思い出したかのように手をとめる。

 そんな彼に、子供は目を輝かせて無邪気に尋ねた。

 

「ねぇねぇ、それって撃てるの?」

「……いいや。弾も火薬も入っていないからね。でも、壊れてはいないから……まだ使えるはずさ」

「どうやって使うの?」

「ここに石があるだろう? これが火打ち石で……この鉄の部分にぶつけて、火花を出して点火させるんだよ」

「……よくわかんない」

「ははは……」

 

 子供には理解しづらいのだろう。父親は小さく笑うと、銃のストックを握った。そして燧石のついた撃鉄を起こし、子供の目にも見える位置で銃を構える。

 そのまま、ゆっくりと――引き金が引かれた。

 ある地点まで引き絞った瞬間、内部の部品が連動して撃鉄を解放させる。勢いよく振り下ろされた燧石は、その先にあった金属とぶつかり、摩擦熱で明るい火花を散らした。

 

 その動作を見た子供は、楽しいオモチャを見つけたように瞳を輝かせた。

 

「うわーすごい! これが火打ち石なの? はじめて見た!」

「…………」

 

 はしゃぎ声を上げる子供に対して、父親は無言だった。何かを考えるかのように、撃鉄の落ちた銃を見つめている。忘れていたことを思い出したかのような――そんな表情だった。

 やがて不審に思った子供は「パパ?」と呼びかけた。それにハッとした様子で彼は返事をする。

 

「あぁ……ごめんごめん。ちょっと、昔のことを思い出してね」

「むかしのこと?」

「ママと出逢うよりも前のことだよ。……とても仲のよかった友達が、二人いたんだ。そう……大切な人たちだった」

 

 父親は笑みを浮かべると、息子の頭を優しくなでた。

 くすぐったそうにする子供の反応にほほ笑みながら、彼はさらに言葉を重ねる。

 

「その二人がいなかったら……きっと今の仕事に就いていなかったし、ママとも知り合うこともなかっただろうね」

「……そうなの?」

「ああ、そうさ……。だから――感謝しなくちゃいけない」

 

 その言葉は、自分自身に向けたものだったのだろう。感情を秘めた強い口調だった。

 子供はそんな父親に、率直な疑問を口にした。

 

「……そのパパのお友達は、いまどこにいるの?」

「遠いところさ。……二人とも、もう彼方に旅立ってしまったんだよ」

「……かなた?」

「こことは違う世界……もう会いに行くこともできない場所だよ」

「……そっか」

 

 まだ小さいながらも、その言葉からなんとなく友人の死を理解したのだろうか。子供はどこか寂しげな顔で父親を見上げていた。

 そんな息子を、彼は愛おしげに抱き寄せる。

 

 今の彼にとっては、かけがえのない存在を。

 過去の積み重ねがあったからこそ、存在する今を。

 父親――セオ・フローリーは、何よりも大切にして愛していた。

 

 ――親しかった人間の死。

 それが悲しくつらいことであるのは、疑いようがないだろう。

 だが、それと同時に――

 過去は否定するべきものではないことも事実だった。

 

 事故による二人の死がなければ、きっとセオは新聞記者にはなっていなかったはずだ。

 そしてアリスという女性と親しくなり、次第に交際を深め、やがて結婚し、そして子をもうけることもなかっただろう。

 現在(いま)の幸せとつながっている、過去(むかし)の不幸な出来事。

 それを――なければ良かったのに、などと思えるはずがない。

 

 だから、そう、きっと――

 こういう時。

 故人を偲ぶ者が抱く感情は、たぶん決まっているのだろう。

 

 ――セオ・フローリーが、ふと顔だけ戸口のほうに向けた。

 

 誰もいるはずのない場所。

 何も見えるはずがない方向。

 

 そこに立っている“私”に、気づいているはずもないのに。

 それでも彼は、穏やかな笑みを浮かべてかすかに呟いた。

 

「……ありがとう」

 

 そばの息子にも聞こえないような声量。

 それでも口の動きは、たしかに感謝を伝えていた。

 

 ……それで、十分だった。

 幸せな生活の中で、ふと一瞬ながらも思い出し、そして過去の人に感謝をしてくれるだけで。

 ずっと見守ってきた私は――報われた気分になれた。

 

 ありがとう。

 きっと私は、その言葉が聞きたかっただけなんだ。

 あなたがヘレナという女性と付き合い、そして不幸な事故で失ってしまい、悲しみと嘆きの底へ突き落され、それでも絶望することなく、やがて新しい幸せを見つけ、日常の喜びに包まれ、満ち足りた人生を歩みながら、それでも――

 ふと思い出して、過去に想いを馳せてくれる。

 そんなことを、私はずっと願っていたのだろう。

 

 ……もう大丈夫。

 未練はどこにもない。

 

 私は清々しい心地で、立派な父親となったセオに笑顔を返した。

 

「……さよなら、セオ」

 

 そう言い残して、彼に背を向けようとする。

 もう彼のもとから離れて、遠いところへ旅立つために――

 

 私はゆっくりと、後ろへと振り向いた。

 

 そこで、初めて――気づいた。

 

 昔とずっと変わらない、忘れもしない……綺麗な金髪と、あどけない顔。

 少しはにかんだ笑みで、彼は私のことを見つめていた。

 いや――見守っていてくれたんだろう。

 セオを、そしてセオのことを忘れられない私を。

 あなたは静かに、優しく――私たちのことを見守ってくれていた。

 

「……なんだ、ずっと待ってくれていたの?」

 

 くすりと笑う私に対して、彼はゆっくりと右手を差し出した。

 控えめな性格の彼が、そんなふうにリードするのは初めてだった。

 きっと――最初で最後の誘い。

 行く当てのない、行き先のない旅路。

 だけど不安はなかった。そう……一人ではないから。

 

 私はそっと腕を伸ばし――

 彼と手を重ね合わせ、握り合わせた。

 

 

 

「一緒に行こっか……レイ」

 

 

 

 ここではない、彼方へ――

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 









 本作をお読みくださいまして、ありがとうございました。

 今回は二作目の女性向け作品として執筆した作品でしたが、どちらかというと恋愛よりヒューマンドラマに近い内容となりました。女性主人公の視点ながらも、男性読者でも共感できる部分は多いかもしれません。

 作中ではレイという共通の友人の死から始まり、そして途中で主人公の死も判明するという、内容的にはかなりシリアスなものとなっていますが、それでもバッドエンドではなく救いが感じられる読後感だと思います。
 ラストシーンは明るく穏やかな光に包まれながら、二人で彼方へ歩いてゆく姿をイメージして描きました。その雰囲気を感じ取っていただけたら、作者として嬉しいかぎりです。

 また、今回は挿絵を初めて利用した作品でもありました。作中の挿絵二枚は、「山浦大福」様に依頼して描いていただいたものになります。
 そのほか、「桂秀」様にも本作主人公のヘレナを描いていただきました。


【挿絵表示】


 素晴らしいイラストを、本当にありがとうございました。

 今後もできるだけ作品にはイラストを付けていきたい所存ですので、これからの作品も楽しみにしていただければ幸いです。
 作品に対するご感想なども頂ければ、とても励みになります。

 どうぞよろしくお願いします。


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