――バテュバドム樹海北部『蛇の湖』。
ファレンスウルフが支配する森のさらに奥地にあるこの場所は、体長30メートルを超える大毒蛇――タイラントサーペントが支配する屈指の危険地帯だ。
しかも森の中にはタイラントサーペントと双璧を成す、トカゲの王まで生息している。
本来ならば獰猛な大蛇を刺激しないよう、生態観測隊ですら近づくことすら禁止されているのだが……
「副隊長! あの『蛇の湖』が見えてきましたよ!」
双眼鏡を覗いて興奮した声を出すのは、生態観測隊に入隊したばかりの新人の少女だ。
太陽の光を浴びて美しく輝く『蛇の湖』は、確かに心を奪われるほど美しい景色と言えるだろう。
だが忘れることなかれ。その美しい湖の中には、単体で戦艦すら沈める凶暴な大蛇が無数に生息していることを。
「ナターリア。興奮する気持ちは分かるけど、気球の高度調整にだけは注意するのよ。不用意に高度を落としたら、湖の中から飛び出したタイラントサーペントに気球ごと喰われるわよ」
「分かってますよぅ。アヴァロン隊長にも出発する直前まで注意するよう言われましたし」
自分に注意されたことで思い出したように気球の操作に戻るナターリアの姿を見て、新人から副隊長と呼ばれたその人物は苦笑する。
イザベル・ハインリヒ。
波打つ蜂蜜色の髪を風で揺らす、グラマラスな美女だ。
隊長であるキャロルと並んで生態観測隊の二大美女と謳われ、いかにも男を手玉に取る悪女という印象を受けるが、実は恋愛経験がない乙女である。
もちろんこれ程の美女がモテない訳がない。
しかし、イザベル自身がイケメンより新種の動物や虫に夢中になる性格なのだ。同じ観測隊のメンバーを除けば人間よりも動物と触れ合っている方が多いくらいだ。
まぁ、そもそも生態観測隊の女性隊員は大体そんな感じなのだが。
危険な任務が多く殉職者も多い生態観測隊が人手不足にならないのは、キャロルやイザベルを筆頭に美女を狙って入隊する男が一定数いるから、という極めてどうでも良い情報も一応書いておく。
ともあれ、魔境で発見された新種の調査任務というのはイザベルにとっては宝石の山よりも嬉しいものだった。
例え任務地が危険な『蛇の湖』で、命の危険があろうとも、真っ先に自分を推薦するほどに。
イザベルのような変人が多いからこそ、生態観測隊は『蛇の湖』付近で例の新種が発見されたとの報告を受けてから、僅か数日という異例の早さで調査隊を編成できたのだろう。
まともな人間がファレンスウルフの群れ1つを皆殺しにした新種を追って、魔境最大の危険地帯に少人数で行けと言われたら、全財産を払うから辞退させてくれと言うはずだ。
むしろ全財産を払うから調査させてくれと言うイザベルの方がおかしいのである。
「例の新種、本当に存在するのでしょうか? 報告書にあった情報はどれも嘘みたいなものばかりでしたし……」
「放電能力、発火能力、高い知能と戦闘力を持ち、タマゴですら人間大のビックサイズ。確かに信じ難いけど、発見された痕跡がどれも本当だと語っている。それに何より、痕跡を見つけたのも報告書を書いたのもキャロル隊長よ。それならどれも真実だと思って良いはずよ」
自分で言って、イザベルは思わず笑う。
本当にどんな超生物だ。
しかもタイラントサーペントの観測員からは、雲にも届く高さを鳥とは比較にならない速度で飛んでいたとの報告もある。
色々な生き物を見てきたイザベルでも、キャロルが報告書の著者だと知ってやっと信じたくらいなのだ。
新米のナターリアが信じられないのも無理はないだろう。
「それに、今からその新種を直接見に行くのよ? 私達の目で真実を見ましょう」
「はい、副隊長」
わざわざ無理を言って最新式の気球を借りてきた甲斐があった。数人しか乗れない代わりに速度は文句のつけようがない。
最高速度でかっ飛ばしたので、常にタイラントサーペントを監視してる観測所から数日で『蛇の湖』の上空に辿り着けた。
イザベルは到着と同時に慣れた手つきで地上を観測する機器を用意し、望遠鏡を覗いて『蛇の湖』の周囲を片っ端から観測していく。
報告によれば新種はかなり巨大で、しかも3体一緒に行動しているという。それならば上空からでも見つけられる筈だ。
そして調査開始から1時間ほど。
イザベルの予想は的中する。
「見つけた……!」
湖の岸辺に、ソレらはいた。
王冠のようにも見える4本の角。禍々しくも神々しい一対の翼。発達した後脚と、後脚と比べると随分と小さいが鋭い鉤爪を備えた前脚。そして長くしなやかな尾。
その姿を一言で表すのなら、ドラゴン。
数々の御伽噺に登場する伝説の生き物が、そこにいた。
戦慄が走る。呼吸ができない。額を冷や汗が伝う。
これだけ遠距離から眺めているだけなのに、数々の猛獣を観測してきたイザベル・ハインリヒは圧倒されていた。
生き物としての本能が警鐘を鳴らす。
アレは、正真正銘の
あまりの衝撃で思考が空白になっていたイザベルであったが、湖面を破って現れたこの領域の支配者を見て正気に戻る。
全長30メートルを超える大蛇。タイラントサーペント。
人類の開拓を阻む、生態系の頂点の一角。
湖の支配者は、己の領域を侵したドラゴンに向かって怒りを露わにした。
「ふ、副隊長……!」
隣で震えながら掠れた声を出すナターリアの背中を撫で、イザベルは無言で観測を続ける。
ここから先は人智を超えた光景が繰り広げられるのだ。
それを見逃すことは出来ない。
大蛇は3体のドラゴンを睨みつけ、アギトを開いて威嚇する。
それに対して、真紅と漆黒の龍が怒りを露わに咆哮した。
龍の咆哮は遥か上空にいたイザベル達にまで届き、凄まじい爆音にイザベルは思わず耳を塞いで蹲る。
「何て声量なの……!?」
「耳が……!」
鼓膜が破れそうなほどの爆音。
仮にもう少し龍に近づいていれば鼓膜が破れていたかもしれない。
30メートルを超える大蛇を目の前にしても、1番大きい純白の龍は余裕の態度を崩さなかった。
まさか、龍にとってあの大蛇は脅威にもならないというのか。
純白の龍は不動の姿勢のまま残る2体に何やら視線を送ると、命令を受けたのか真紅と漆黒の龍が猛然と大蛇に襲いかかる。
まず最初に大蛇とぶつかったのは漆黒の龍。
銃弾すら弾いてしまうタイラントサーペントの鱗を、まるで紙切れのようにあっさりと引き裂いたのだ。
その攻撃力にイザベルが絶句するが、更なる驚愕が彼女を襲う。
反撃したタイラントサーペントの牙が、あっさりと龍の鱗に弾かれたのだ。戦艦の底を食い破るほどの大蛇の牙を、容易く跳ね除けるその防御力。
まさかあの龍達は、大砲の弾の直撃を受けても死なないとでも言うのか。
大蛇の攻撃を嘲笑うかのように、漆黒の龍の牙がタイラントサーペントの肉をごっそりと食い千切る。
その凄惨な光景に、まだ経験の浅いナターリアが悲鳴を上げるのは仕方ないだろう。ナターリアの隣にいた隊員など、胃袋の中身を空にぶち撒けてしまっている。
漆黒の龍はまだ止まらない。
タイラントサーペントの巨体をそのアギトで咥えて持ち上げて、地面に向けて投げ飛ばす。
もはや呆然とする他ない。
今まで特級の危険生物として畏怖していたあの大蛇が、まるで虫ケラのように一方的に叩き潰されているのだから。
アレはダメだ。
あの龍がもしも街や村を襲えば、それだけで数千人単位で人が死ぬ。
世界最強の軍隊と謳われるシュレイド王国軍の総力を上げて、やっと殺せるかどうかの相手だ。
すぐに気球を操作し、上司であるキャロルにこの事実を伝えようとイザベルは立ち上がる。
その瞬間、凄まじい突風に煽られて気球が揺れた。
近くの機材にしがみついて何とか大きな揺れを乗り切ったイザベルだが、目を開けた彼女が見たのはすぐ近くに滞空する真紅の龍だった。
その絶大な威圧感は、まさに王の如く。
紅に輝く龍の双眸が自分を捉えた時、イザベルは悲鳴を上げることすらできなかった。
ただ純粋に。
――ああ、自分は死んだと。
抵抗? 逃亡?
そんな選択肢などない。
ましてや戦うなど論外だ。
そう、これは災害。
人間が頑張ってどうにかなる相手ではないのだから。
しかし、いつまで待っても終わりはこなかった。
真紅の龍はしばらくイザベル達を見ていたが、やがて興味を失ったのか地上に向けて急降下したのだ。
衝撃波が生まれるほどの速度で飛翔する龍は、紅蓮の炎を纏うと一直線に大蛇へ突貫する。
その姿は、さながら緋色の弾丸。
恐るべき速度のソレが大地に突き刺さると同時に、火山の噴火かと思うほどの火炎が世界を焼く。
その火柱は天まで届き、容赦なく大蛇を飲み込んだ。
「……、は」
イザベルの喉から乾いた笑い声が溢れた。
あれだけの火炎の中にいて、真紅の龍は火傷1つない。それどころか漆黒の龍も炎など知ったことかと、火柱の中に自ら突っ込んで大蛇に追撃を浴びせる。
さらに勢いを増す火柱。
それは黙って戦いを見ていた純白の龍まで巻き込むが、その純白の龍も全く揺るがない。
平然と、悠然と、大蛇の最期を見届ける。
本当に呆気なく、湖の支配者たるタイラントサーペントは絶命した。
「は、早く、早くシュレイド王国に戻って軍隊を要請しないと……!」
恐怖で震える部下達に指示を出して、イザベルは全速力で『蛇の湖』から離脱する。
これが、運命の始まりとなった。
真紅の龍……バルカンがイザベル達を見逃したのは、彼が敬愛する姉から「初めて見る生き物には攻撃を仕掛けないこと。そして敵対意識を感じなければ無視すること」と言われていたから。
この指示はミラルーツに取って正解でもあり、同時に最大の失敗でもあった。
――竜大戦。
最悪の戦争に向けて、少しずつ時は進んでいく。
大切なものは――
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更新速度ではない、質だッ!
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質ではない、更新速度だッ!