第一話 紅の十字架
あれから月日は流れ、舞台は一万年後の世界へ――
物語の中心となるのはプラネテューヌ。
紫の女神が治める、革新する紫の大地。
その名の通り、ここから全てが始まる。
建国されてからまだ数年と経たない新国家。
それがプラネテューヌだ。
国民たちはあくびと溜息をつきながら、のんびりと穏やかに暮らしている。
幸い、山ひとつ挟んだ向こう側に位置する大国ルウィーとは何の諍いや衝突もなく、日々平和に過ごしている。
だが、この平和な国家を中心軸として、世界を革新へと導く物語がここから始まろうとしていた。
全てを滅びに導く災いか、それとも新たな創造の始まりなのか。
それがもたらすものは、きっと誰にも分からない。
たとえ全知全能を統べる神であったとしても。
◆ ◆ ◆
のどかな昼下がり。
ここは紫の大地プラネテューヌ。
まだ出来て数年とも経たない新国家である。
中央はそれなりに発展の兆しがあれど、都市部から離れた区画はいまだ未開発の土地や見渡す限りの畑が目についた。
人々はのんびりと畑を耕し、家畜が柵の中を元気に走り回っている光景は、どこか牧歌的な雰囲気が流れている。
そんな田舎町に垂れ込める静寂を破るかの如く――突如として、男の怒鳴り声が響いた。
『プラネテューヌの女神と、思考を放棄した豚共に告げる。我々は”紅の十字架”と名乗る女神規制団体である。
我々の目的は、破壊や殺戮に在らず。
我々の真の目的は、国家の再生に在る。
女神とは、統治という仮面の裏で、国民の血と肉を貪り喰らう悪魔に他ならない。
女神という名に騙されるな。神の名を騙る者に欺かれるな。
我々は女神による現状の支配体制を良しとしていない。あまつさえ、それに従うことを良しとする国民を、我々は人間とはみなさない。思考を放棄した豚として処理することを我々は辞さない。
だが、我々は無慈悲な破壊者ではない。君たちと同じく、血も涙もある人間だ。
だから、君たちに考える時間を与えよう。我々の話に耳を傾ける猶予を与えよう。我々と共にこれからの未来に思いを馳せようではないか。
今一度考え直して欲しい。疑問に思ってもらいたい。女神の洗脳に、自らの意思で打ち勝ってもらいたい。
君たちは女神に支配され、管理されるままその人生を終えても良いのか。家畜のように女神に飼いならされるまま、その生をまっとうするだけでもいいのか? お国のためと女神に奉仕するだけの人生を送り、やつらを肥え太らせることに何の意味があるだろうか?
否――断じて否だ! 我々は豚ではない! 豚でもなければ飼いならされた羊でもない! 我々は人間だ! 人間なのだ!
女神ではなく、再び人の手に権利を取り戻すのだ。人間が人間らしくあるために。人間のための人間による人間のための統治と政治を行うのだ。
我々はその熱意と本気を伝えるために、自らの手で、この堕落しきった女神による統治体制を覆さんと決起した。
武器を手に取り、女神に反旗を翻すことを決意した。
これは我々が羊ではなく、人間であることを証明するための手段の一つに過ぎない。
そこで、我々はプラネテューヌに要求する。
女神の身柄を捧げよ――
もし我々の考えに少しでも共感し、賛同の意思を示してくれた者がいるならば、女神の身柄を拘束して差し出してもらいたい。そのとき、我々は喜んで君たちを同胞として迎え入れることを約束しよう。
なお、我々の要求が果たされなかった場合、誠に不本意なことではあるが――三十分ごとに人質を一人ずつ殺害する。
女神よ。この放送を聞いているならば分かるはずだ。
最早、退路は絶たれた。お前に逃げるという選択肢は残されていない。
もしこれでお前が市民を見捨てて尻尾を巻く卑怯者ならば、そのとき我々は容赦なくお前を断罪しよう。裏切られたプラネテューヌ市民たちの無念の代弁者として、正義の鉄拳を振り下ろそう。
これは冗談や脅しなどではない。我々は本気だ。我々の願望の成就のためならば、この手がどれほどの汚泥にまみれようと、どれだけの血が流れても厭わない。そのための犠牲だ。
それが本来の人間らしさだと、我々は信じているからだ。それが我々の信奉する人間であると他ならぬ我々が信じているからだ。
我々は決して女神に屈しない。この世で我々を従える者があるとすれば、それは我々の同胞である人間だけである。
女神よ。少しでも市民を慮る心が存在するのならば、潔くその身柄を差し出すことだ。午後の13時まで待つ。それまでに何の動きが見られなかった場合、我々は人質を容赦なく殺害していく。
いま一度問おう。君たちは人間か? それとも飼い慣らされた豚か? 我々は、お前たちの賢明なる判断を期待している。
繰り返す、我々は”紅の十字架”と名乗る女神規制団体である――』
プラネテューヌの教会に設えられたスクリーンから、野太い男の声が響き渡ったのは正午の十二時にさしかかろうとした頃であった。
放送された映像は、あらかじめ録画されたものだろう。
「何のよ、こいつらは!」
苛立たしげな声を上げたのは、黒髪のツインテールを青いリボンで結い上げた少女――ノワールであった。
「まるで女神が悪の親玉みたいな言い方ね。まったく腹立たしいったらありゃしないんだから」
ぷんすかと肩を怒らせるノワール。画面に映るテロリストの男を仇敵でも見るかのように睨み返している。
ノワールが怒るのも無理はない。
そいつらは”紅の十字架”と名乗る女神規制団体――いや、その実態は反女神を唱える、過激派テロリストのひとつである。
今しがた流れたこの映像は、そいつらの犯行声明によるものだった。
ライフルを携えながらこちらを威圧するように睨みつけるさまから、どう控えめに見ても仲良く歩み寄ろうという姿勢はまるで感じられなかった。
「何が悪魔よ。あんた達のやってることの方がどう見ても悪魔でしょうが!」
「ノワールさん、落ち着いてください。今から状況を説明します」
鼻息を荒くするノワールを、たしなめるような声を放ったのは人形のように小さな身体をした少女だった。それは比喩でも何かの例えでもなく、文字通り小さい小さいお人形サイズの女の子であった。
「これで落ち着いてなんかいられるわけないじゃない! 人質が取られているのよっ、人質が! イストワールはよく落ち着いてなんかいられるわね!」
「ですから、落ち着いてください。ノワールさん、こういうとき程、冷静でなければいけませんよ」
イストワール――そう呼ばれた人形みたいな少女は落ち着き払ったようにまた咳払いをする。
着ている服が、フリフリのドレスなことも合わさってか、もう本物の人形が喋っているようにしか見えない。
「ところで、プルルートさんの姿が見えないのですが、ノワールさんは知っていますか?」
「あれ? おかしいわね、ついさっきまでそこにいたはずなんだけど……」
二人してきょろきょろと辺りを見回していると、すうすう、という静かな寝息が聞こえてきた。
ベッドの中で、薄紫の髪をした女の子が、温かな毛布に包まれながら、気持ち良さそうな寝顔を浮かべている。
「こらぁっ、プルルート! なんでこんな一大事の中、寝てるのよ!」
「ん~? もうごはんの時間~?」
眠そうに目を擦りながら、少女がゆっくりと身を起こした。
「いいからさっさと起きなさーい!!」
「うえ~、ノワールちゃんはあたしの睡眠に対するテロリストだよ~」
「意味のわかんないこといってないで、とっととベッドの中からでなさい!」
「んぅ~」
呻き声を上げながら、猫のようにしなやかな動作で背伸びを決めている。
彼女こそプルルート。いや――またの名をアイリスハートと呼称される、プラネテューヌの”女神”だった。
長い髪を編んで一つにまとめており、全体的にのんびりとした雰囲気の漂う少女である。
同時に、この紫の大地を治める女神として、プラネテューヌに住む人々から慕われている。
良くも悪くも見た目どおりと称するべきというか、自分が今事件の渦中にいるにも関わらず、まったくのんきなものである。
「だってぇ~、このおじさんのお話聞いててもあたしには何がなんだか分からないよ~。もうちょっと分かりやすく言ってもらいたいかな~」
ふあ~っと大きな欠伸をしているプルルートを見て、ノワールが呆れかえったように言った。
「かいつまんで説明すると、女神を差し出さなければ人質にとっているプラネテューヌの市民を一人ずつ射殺するって言ってるのよ。つまり、無関係の人間の命をダシに、あなたの身柄を要求しているのよ」
「ええ~っ、そうだったのぉ~!? うわ~、それはとっても大変だよノワールちゃん!」
今更、事の深刻さに気づいたらしい。
「だからさっきから大変だって私は言ってるじゃないの! まったく、プルルートったらもう少し女神としての自覚というものを――」
遮るように、こほん、とイストワールの可愛らしい咳払いが聞こえた。二人が黙ってこちらに注目していることに満足そうな笑みを浮かべながら、
「では、そろそろ現状の説明に移りたい思います」
可愛らしい見た目によらず、この場にいる誰よりも冷静に告げた。
「通称、”紅い十字架”と名乗るテロリストは、数ある女神規制団体の中でも過激派としてその頭角を現したことから、同業者たちの間でも一目置かれているそうです。特に注目すべきは、テロリストをまとめあげている首謀者です。彼の名は”ゲオルギウス”。私たちの元に送りつけられた映像データで演説をしている男性がそうだと言われています。彼の確保に成功すれば今回の騒動は治まることでしょう」
三人の視線が、改めてスクリーンに集中する。
怒号を放つ”ゲオルギウス”という男性――鍛え上げられた肉体と、精悍な顔立ち。
見た目は40代後半といったところか。古傷だらけの顔が、この男を歴戦の兵士であるという風格を否応なしに轟かせている。
印象的なのは、憎しみによって研ぎ澄まされた鋭い眼光。燃え盛るような憎悪がその奥で深く深く根付いていることは誰の目にも明らかである。それは、おそらく女神に向けられた憎悪。
何が彼をそうさせたのか。何が彼を今回の暴動を駆り立てさせる要因となったのだろうか。
「現在、彼らはプラネテューヌ東部にある、取り壊し予定の廃墟に立てこもり、38名の人質を取っているそうです。現在、確認が取れている人質の情報は、一般人が1名。小学校に勤務する教師が2名と、その児童が35名だそうです」
「……はい!?」
驚きのあまり、ノワールが間抜け面を晒した。
「なんでそんなおかしなところに子供がいるのよ! だって今お昼じゃない。本来なら学校の時間でしょう?」
「それが、今日の授業内容がプリン製造工場の見学だったそうでして……その移動中に”紅の十字架”に拉致されたのかと」
「むぅ~、子供を人質にとるだなんて、このおじさんひどいよぉ~」
頬を膨らませるプルルートに、イストワールが言った。
「おそらく今回の事件は前もって計画されたものだと思われます。あらかじめプラネテューヌに潜伏して、虎視眈々と準備に画策していたのではないかと……」
「そうね。大体こんな銃器を持ち込めるなんて事自体がおかしいことだわ。いくらプラネテューヌが出入り自由の国だとしても、検問所をとおらなきゃいけないし、検問の兵士の目を欺くのは限りなくゼロに近いはずなのに……一体どうやって監視の目をかいくぐってきたのかしら」
難しそうな顔でノワールが唸った。
「ノワールさん。この世界には、どんなものにも完璧はありませんよ。造られたものである以上、必ずどこかに隙間が生まれます。その責任を取るのは、国の創設にとった私たちです。たとえ後手に回ったとしても、私たちは責任者としての役目を真っ当するべく、この事件を解決に導かなければなりません」
「そんなことくらい分かってるわよ、イストワール。で、これから具体的にどうするつもりなの? 人質の命の代わりに、女神をよこせっていう相手の要求を馬鹿正直に呑むわけにもいかないし。いつまでも私たちがこのまま何もしないでいると、みんなも安心していられないだろうし、なによりもプラネテューヌのシェアに関わるわよ」
女神規制団体の中でも名高い過激派として謡われる”紅の十字架”――
彼らのやっていることは、要求とは名ばかりの、実際は武力にものを言わせた破壊行為である。相手を力づくで脅して要求を呑ませる事以外、最初から頭にない。
だからこそこんな大胆かつ過激な暴力行為に訴えてきたのである。
それが過激派テロリストのやり口だ。
「ねぇ、ノワールちゃ~ん」
「何よ、プルルート?」
「あのおじさんたち、あたしに用があるんでしょう? ……それならぁ~、変身してもいいよねぇ~?」
プルルートが笑顔を浮かべたその瞬間、周囲の空気が一瞬にして張り詰めた。それはまるで獰猛な野獣が秘めたる牙を出そうとしているようで――
「そっ、それだけはやめなさい!!」
「どうしてぇ~? あの人たち悪い人なんでしょ~? それなら遠慮なんてしなくてもいいよねぇ~?」
「とにかくっ、ダメなものはダメなの!! はい、この話はこれで終わり!」
ノワールが壊れてしまうんじゃないかってくらいぶんぶんと首を振った。
なんでダメなのぉ~、とプルルートは疑問そうに首を傾げていたが、それについてはもう何も言おうとしなかった。
そのときだった。
教会の壁にたて掛けられた時計が鳴り響いた。
それは12時を――お昼を告げる音。
”紅の十字架”が告げた制限時間は13時丁度。
「ど、どうするの? あと一時間だけしかないのにまだ結論が出ていないなんて!」
ノワールが取り乱したように叫ぶ。
人質に残された猶予はあと一時間だけ。
三人が話し合っている間にも、時間は刻一刻と迫りつつある。
「とにかく、お二人は現地に急行してください」
イストワールが言った。
「それから、彼らに見つからないよう廃墟の周辺に上手く隠れていて下さいね。その内、向こうから合図があると思うので」
「合図? 合図っていったい何のことよ」
ノワールが小首を傾げた。
「すぐに分かりますよ」
イストワールが意味ありげに微笑んだ。
◆ ◆ ◆
プラネテューヌ――廃墟
「死んじゃえばいいんだ……」
少女がほとんど吐息を吐くかのように、消えいるような声でつぶやいた。
ほとんど無意識からきたつぶやきだった。つぶやいた後で、はっと怯えるように周囲を見回し、今の言葉が誰にも聞かれていないことを確認してから、深いため息をついた。
それは、そんな縁起でもないことをつぶやいてしまった罪悪感と、誰にも聞かれていなかったという安堵からくるものだった。
少女のつぶやきそのものにたいした意味はない。いつもの独り言である。
自分でも気づかぬ内に、いつの間にか染みついていたクセのようなものだ。
良いか悪いかで表すならば、悪いクセだと少女も自覚している。
そう思ってもやめられない。クセというのはやめたいと願っても、ちょっとやそっとではそう簡単に抜け落ちてはくれない。
まるで自分の身体の一部であるかのように。
ちょっとでも気を抜いたり、ぼうっと惚けていたりすると、たとえそこが家族の前でも、公共の場であっても、ついつい独り言が口をついて出てしまう。そのたびに冷や汗をかいては、おろおろと周囲を確認してしまう。
本人の意思に反して、当たり前のモノであるかのように、いつでもそこにつきまとっていた。
少女にとって、悪性の腫瘍に他ならない。
はぁーっと身体から毒を抜くように、深く息を吐き出した。
まだまだ未発達の幼い膨らみが上下するたびに、湿り気のある埃っぽい空気が肺腑を満たしていく。
少女の名はリンダという。三つ編みが特徴の、どこにでもいるようなごく普通の女の子である。
空気が異様に重たい気がした。
多分、自分のつぶやきのせいではない。
そう――見渡せば、いつもなら誰もいないはずの廃墟に、大勢の人間がところ狭しと詰め込まれていた。
あちらこちらから恐怖に怯えた声と、すすり泣きが聞こえる。
小学校の制服に身を包んだ児童たちと、担任の教師一人と、副担任が一人。そして、薄汚れたフードに全身を覆い隠した浮浪者が壁に寄りかかっている。
他ならぬリンダ自身も、その児童たちと同じ小学校の制服に身を包んでいた。
リンダは今年で12歳を迎える小学6年生。他のクラスメイトたちも同様のはずだ。
そして、全員を囲むようにして立っている荒くれたちが数人。リンダには、彼らに特徴はないように思えた。どこにでもいるような寄せ集めのゴロツキばかりだ。
強いて言うならば、そいつらは全員”紅い十字架”の紋様が描かれたバンダナを頭に巻きつけているのが特徴だろうか。
その紋様が何を意味するものかは分からなかったが、彼らはこの廃墟から自分たちを逃がさないように監視していることだけは、こんな状況に慣れていないリンダでさえ――嫌でも分からされた。
◆ ◆ ◆
社会科見学の授業で、プリンの製造工場へバスで移動していたときのこと。
事件が起こったのは、まもなくプリンの製造工場へ到着しようとしたときだった。
35名の児童と引率の教師2人を乗せたバスは、目的地である製造工場を素通りしていったのだ。
児童たちは皆、気づかない。
友達とのお喋りやトランプなどに夢中になるあまり、自分たちを乗せたバスが目的地を通過していったことに。
異変に気づいた引率の教師のひとりが、慌てて運転手の元へと駆け寄った。メガネが特徴的な、ちょっと頼りない感じの男性教師である。
「運転手さん。工場通り過ぎてますよ」
バスの運転手が道を間違えたのだと。このとき教師はそう思っていた。
だが、バスの運転手はハンドルを握ったまま、何も答えない。
「運転手さん。聞いていますか?」
「……」
沈黙。運転手の表情は深く被りこんだ帽子のせいで読み取ることすらままならない。
その後方では、異変を感じた児童たちが、座席から身を乗り出して教師と運転手のやり取りを見つめている。
付き添いで来た、もうひとりの女性教師が、不安そうな目で二人のやり取りを見守っている。
「運転手さん。私の話が聞こえていますよね? 目的地のプリン工場は過ぎているのですが……」
「道なら合っている」
運転手が口を開いた。
「え?」
「道はこれで正しいと言った」
「え……いや、でも、プリン工場さっき通り過ぎませんでしたっけ」
ずり落ちるメガネを片手で上げながら言う男性教師に、
「うるさい。黙れ!」
バスの運転手が威圧するような声を放ったと同時に、ポケットから拳銃を抜き放った。
ぽかんとした顔でソレを見つめる男性教師。
運転手は実に手馴れた動作で撃鉄を起こすと、銃の引き金を引いた。
ばんっ――と何かが弾ける音がした。
銃声だ。皆がそれに気づいたのは、男性教師が右腕から赤い鮮血を噴き出しながら、苦しみの声を上げて床に倒れこんだときだった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ――――!!」
すぐ隣に座っていた女性教師が甲高い悲鳴を上げた。パニックは瞬く間に伝染し、バスの中で半狂乱になった児童たちの叫び声が満ちる。
「ガタガタ騒ぐんじゃねぇ! ハチの巣にされてぇのか! こいつみてえに腕に風穴開けられたくなけりゃ静かにしやがれ!」
運転手が怒鳴りながら頭上に拳銃を二、三回発砲。それだけで車内は水を打ったようにしんと静まり返った。バスの運転手は自分の元にちゃんと視線が向いているかをバックミラーで神経質そうな目で確認してから、車内放送で語りかけてきた。
『いいか、お前たち。今から俺さまが言うことをよく聞くんだ。一度しか言わねぇから耳かっぽじってよーく聞いておくんだな。ここでは俺さまが一番偉い。運転手ってのはな、乗客の命を預かる責任重大な仕事なんだぞ。俺がその気になれば今すぐビルに突っ込んでバスごと棺桶に変えてやる事だって出来るんだ。文字通り、お前らの命は俺さまの手の平に握られているのも同然だ。ボスにはお前らを無事に送り届けるように言われているが、そんなの構いやしねぇ。このバスの中で一番偉いのは俺さまだ。ついでに言っとくが俺は気が短けぇ。もしこれを守れなかったやつが一人でもいるようならば今すぐここで死体に変えてやるからな。その若さで、ブタとあの世でファックしたくなけりゃ覚えておくんだな』
そこまでまくし立ててから、運転手が愉快そうに口元を歪めて、
『シートベルトをしっかり着用して、目的地まで絶対に席をお立ちにならないようお座りください』
世にも下品で粗雑な笑い声を上げたのだった。その耳障りな笑い声に、後部座席で子供たちが怯えたように身を震わせている。
かくして地獄行きへの急行バスは、2名の教師と37名の罪無き児童を乗せて走り続けた。
そうして送迎のバスがたどり着いた先が、このろくでもない廃墟だった。
出迎えたのはバスの運転手の仲間たち。彼らに無理矢理歩かされ、廃墟の一室へと閉じ込められて――今に至る。
◆ ◆ ◆
「思考を放棄した豚共に告ぐ」
突然、男の声が部屋に響き渡ったことで、リンダの思考が現実へと引き戻された。
「我らが”紅い十字架”の指導者より話があるそうだ。心して聞くがよい」
男の声とともに、精悍な顔立ちをした男がぬっと現れた。
ひっと怯えた声を子供たちが上げた。
とても怖い男だと思った。何が怖いってその男は、顔面が古傷だらけなのだ。まるで激しい戦場から帰って来たかのように。見た目だけならさっきのバスの運転手よりも迫力がある。
「やあ、諸君。我輩の名はゲオルギウス。急であるにも関わらず、この度は集まってもらえたことを心より感謝申し上げる。早速で悪いが、君たちに選択してもらいたいことがある。良い話と悪い話があるんだが、どちらから先に聞きたいかね?」
ゲオルギウスとかいう男は見た目よりも優しい声でそう言った。まるで君たちにも選ぶ権利があるのだと教え聞かせるように。もしかしたら子供好きなのかもしれないとリンダは思った。
しかし、誰も答える者はいなかった。返ってくるのは、子供たちの怯えたような呻きと泣き声ばかり。
この男の言葉通り、それが本当に良い話であるかどうかも判断がつかなかったし、もしここで余計な口を開こうものならば、あのバスの運転手みたいにポケットから銃を取り出して撃ってくるかもしれない。そんな恐怖が皆の心に刻み付けられていたのだ。
ゲオルギウスは周囲を見渡しながら、軽くうなずいて、
「では、良い話からいこうか」
あっさりそう言った。良いか悪いかだったら、当然良い話から先に聞きたいよな、というふうな口調で。
「君たちは社会科見学に来たのだろう? ならば、社会勉強の一環として我輩たちに課せられた崇高な使命をお聞かせするとしよう。君たちは現在の体制についてどう考える? 女神を頂点に据えた現状を――今の暮らしに満足しているのはこの中に何人いる?」
まあ今の君たちの年齢ではちょっと難しい話かもしれないが、とでもいうふうに肩をすくめてみせながら。
「この世界では、国家を創造出来る権利があるのは女神だけとされている。国の頂点に立つことを許されるのは女神だけが許されている。そう、何もかもが女神だ。女神にしか許されないことばかりだ。それは昔から定められた仕来りらしいが、君たちは疑問に思わなかったかな? どこの馬の骨とも知れない誰かが考えたルールに唯々諾々と従い続けることに何の疑いも持たなかったか? 何故、女神でないといけないのかと。何故、女神だけがそれを許される立場にあるのかと。この世界は何もかもが女神に都合が良い。我輩はこの事実を知ったとき、心の底から震え上がった。女神がその気にさえなれば、人間を思いのままに出来るのだという事実に。場合によっては女神だけの独裁体制が――恐怖政治が可能となるわけだ。我輩としてはそのような国家が台頭する前に、可能であれば悪い芽を摘み取りたいと考えている。たとえ女神が平等を謳っても、たとえその国家が平和であったとしても。その国家に賛同し、女神につき従う以上、人間の上には必ず女神がいる。つまり、暴走した女神を取り締まれる存在がどこにもいないということだ。我輩はこれが由々しき事態であると考えた」
「め、女神様がそんなことをするわけありません!」
突然、ゲオルギウスの言葉を遮る声が響いた。
声を張り上げたのは女性教師だった。せめてもの抵抗を示そうとばかりに。
「おいっ、女。口を慎め!」
声を荒げたのは配下の男だった。そのときリンダは気づいた。そいつがあのとき自分達を連れ去ったバスの運転手であると。
ゲオルギウスの横に立っていることから、もしかしたら組織内では結構な立ち位置にいるのかもしれない。
だが、当のゲオルギウスは片手で制した。
「こら、アルベルト。みっともないぞ」
アルベルト――そう呼ばれた男はちっと舌打ちをしながらも、おとなしく黙り込んだ。
「テロリスト相手になかなか肝が据わったご婦人だな。たしかに我輩もプラネテューヌは良い国だと思う」
ゲオルギウスが話を再開した。
「国民はゆるやかな時の流れに身を任せ、人々の間に諍いはなく、のんびりと惰眠をむさぼりながら一日一日の余韻をかみしめている。老人が余生を過ごすにはこれ以上、最適な場所はないだろう。数日過ごしてみてその実感は十分にあった。だが、先生。あえて問わせてもらおう。――いつまでもそうだと言い切れる保障はどこにあるのかね? たしかにプラネテューヌは平和と平等を謳ってはいる。だが、忘れてはならない。女神の信者となった瞬間、我々人間は無条件でやつらの労働力として生きているのだということを。いわば我々は運命共同体のようなものだ。いつか女神が我輩たちを私利私欲のために利用しないという可能性がどこにあるというのだね? 例えば、この国がお隣にある大国ルウィーと揉めたとしよう。そのとき、プラネテューヌの国民である君たちが今まで通り安全に暮らしていられるとは限らないだろう。徴兵と称して人間たちを戦場に駆り立てて、我々人間を駒のように用いることは想像に難くないはずだ。この国が戦火に巻き込まれないという保障はどこにあるのかね?」
「それは……私のほうから説明は出来ません。でも、女神様は絶対にそんなことを考える御方ではありません。あなたも女神様と直接お会いになってそのお人柄をお確かめになれば分かってくれるかと思います」
「ほう、どうやら君の愛国心は本物のようだな。プラネテューヌの女神はよほど国民から慕われているらしい。それは我輩の目にも疑いようはない」
そこでゲオルギウスがシャツの腕をまくり、腕時計らしき物を見ながら、何度も何度もうなずいていた。
「さて、残念だが今度は悪い話を君たちに伝えなければならない。もう時間切れだ。――女神はこちらの要求を呑まなかった」
ゲオルギウスが告げた最悪の宣告に、どよめきが起こった。
それが意味するものはただ一つ。自分たちの命がないということ。
「我輩の指定した時刻になっても女神は現れなかったのだ。どうか悪く思わないでほしい。同胞の命を奪ってしまうことは、我輩たちにとって非常に不本意な結果である。……恨むならば、お前たちを唯一守れる立場にあった女神を恨むのだな」
耳をつんざくような泣き声が上がった。女神さまが助けに現れる。その一心だけで彼らは恐怖で壊れそうな心をなんとか保っていた。だが、それが果たされないと知って、彼らを守っていた何かが音を立てて崩壊していったのだろう。
人前であるにも関わらず、みっともなく叫び声を上げている。そうでない子も、可哀相なくらい顔を青ざめさせながらうわごとのように何事かをつぶやいている。
この混乱した場で頼りになるはずの男性教師も、荒々しい息を吐きながら横たわっている。拳銃で打ち抜かれた右腕は、スカーフが乱暴にぐるぐると巻きつけられているだけの荒療治。たしかに出血は止まってはいるものの、意識が遠のきかけているため、自分たちがどういう状況に置かれているのかも定かではないのだろう。
浮浪者は壁によりかかったまま微動だにしない。本当に生きているかどうかすら疑わしいくらいに。
そのとき、女性教師が立ち上がった。
「この子たちは何の罪も非もありません! どうか、お願いです! 殺すのは私だけにしてください! だから、だからっ、子供たちだけは家に帰してください!」
リンダは驚いた。一瞬、この女性教師が何を言ったのか分からなかった。
バカじゃないだろうか。本気でそう思った。
単純に勇気があるとか、そういう次元を通り越している。
「うるせぇぞ女! お前にそんな権利があるわけねーだろうが」
アルベルトが銃を構えた。
「殺す順番を決めるのは俺様たちだ。お前にその権利はねぇんだよ」
「そっ、そんな……お願いですっ、お願いしますから!」
涙ながらに訴える女性教師に、アルベルトが怒りを込めて引き金を振り絞ろうとしたとき、
「いいだろう。我々は先生の願いを聞き入れよう」
ゲオルギウスが優しげな声でそう言った。
「なっ、ボス!? それマジでいってるんですかい?」
目を剥くアルベルトに、ゲオルギウスがうなずいた。
「我々は決して女神に屈しない。この世で我々を従える者があるとすれば、それは我々の同胞である人間だけである。これが我々”紅い十字架”の掲げるプロパガンダだ。だから我輩は、同胞である先生の言葉に従おう」
その言葉に、女性教師が涙にぬれた瞳を希望で輝かせた。
「ありがとうございます、ありがとうございますっ……」
そうして何度も何度も頭を下げていた。
ああ――とリンダは確信した。
(この人は正真正銘のバカだ)
だけどリンダには分からなかった。しかもこれから自分を殺そうとしてる相手に感謝を示すだなんて。一体、どうしたらそんなことが出来るのだろうか。
そんなときだった。だが――とゲオルギウスが言った。
「彼らがプラネテューヌ攻略の重大な鍵である以上、その子たちはもう無関係な子供ではいられない」
「――え?」
女性教師が凍りついた。
「先生の要求通り、まず最初に処刑するのはあなたにしよう。子供たちはその後だ」
「そんな……どうして!」
「どうか悪く思わないで欲しい。君たちの犠牲は世界を左右することだろう。我輩は君たちのことを決して忘れない。さあ――お前たち、そのご婦人を連れて行け」
ゲオルギウスが笑みを浮かべた。それは自分たちの目的遂行のためならば、他人の命を簒奪することに何の躊躇いも覚えない殺戮者の笑みだった。たとえそれが女子供であったとしても。
「嫌っ、嫌ぁぁぁっー!」
暴れる女性教師を荒くれ二人が廃墟の外へと引きずっていく。泣きはらした瞳に映るモノは、絶望の色だった。
「では、後は頼むよ。アルベルト」
ゲオルギウスは身を翻して、廃墟の外へ歩いていった。
「流石ボスだ。痺れるねぇ」
「ああ、全くだ。あの方を信じてついて来た甲斐があったってもんだ」
アルベルトが監視の男と目配せしながら、いやらしいことに笑っていた。
(大人は勝手だ)
リンダは心の底からそう思った。
訳の分からない内に自分たちは”紅の十字架”という組織に捕まって、訳の分からない取引の材料として利用されている。子供を自分達の好きに出来る道具か何かと思っているのだろうか。政治だとか交渉だとか、小難しい屁理屈を並べ立てれば許されると本気で思っているのだろうか。
そう思うと身体の奥底から怒りが湧いた。
自分たちは巻き込まれただけ。ただプラネテューヌという国で暮らしているだけでこんな扱いを受けるハメになっている。それだけに過ぎないのだ。
こんなに理不尽なことが他にあるだろうか。
ちらり、と視界の片隅に薄汚れたフードに包まれた浮浪者が映る。相変わらず身動き一つ見せない。本当に生きているのかな、とちょっと心配になってくる。
理不尽といえば、あの浮浪者もそうだ。ただ、ここで寝ていたというだけでいつの間にか人質として扱われていたのだから。一番の被害者はこの人だ。そう思うと心から同情の念が湧いた。
「……」
ただでさえ12歳という多感な時期であるにも関わらず、もう生きるか死ぬかの間際に立たされている。
勉強は出来ないし、いつまでたってもテストはいい点数を取れないし、最近ちょっとずつ胸が大きくなるようになって、父親と一緒に風呂に入ることがとんでもなく恥ずかしいことだと気づいて、クラスメイトの男子が放つ粘っこい目線も気になってきて、周りの友達はブラをつけるようになって、でもなんだか自分がそれをつけるのは妙に恥ずかしい気がして、そしてただでさえ妹が生まれてきてからというものの、家族の中で自分の居場所がなくなりつつあって、もう悩み事とかで押し潰されそうなくらい苦しくて人生がいっぱいいっぱいなのに――
もう本当に嫌気が差してきた。
こんな思いをするぐらいならいっそのこと――
「死んじゃえばいいんだ……」
そんなつぶやきが漏れた。
はっとなったときにはもう遅かった。
周囲から驚いたような目線が針のように突き刺さってくる。皆リンダの発言を咎めるような目をしていた。何故そんなことを言うのだと。よくもそんな不謹慎なことを平気で吐けるなと。
そんなことを言うくらいならお前から死んでみせろ――リンダには皆の視線がそう言っているように聞こえて、背筋が震え上がった。
自分は取り返しのつかないことをしてしまった。そう気づかされたとき、
「おい、ガキ」
気づけばリンダの背後に、アルベルトが立っていた。
「お前の願いを俺さまが叶えてやるよ」
ニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべながら、拳銃を見せびらかしてきた。
「い、いや……」
「何がいやなんだよ。遠慮するこたぁないぜ。お前、今自分で死にたいって言ったじゃないか。だから、俺さまが手伝ってやるって言ってんだ」
「いやぁーっ! さ、触らないで!」
無遠慮に伸ばされる手をリンダは払いのけた。
そのときだった。アルベルトが額に血管を浮き立てたかと思うと、リンダの頭をつかんで思いっきり床に叩きつけてきた。
「きゃっ!」
脳が揺さぶられるような衝撃がきた。頭が割れそうなほど痛い。視界がぐるぐると回転する。冗談じゃないくらい痛い。涙が出てきた。
「クソ生意気なガキめ。もういい。こいつ、本当にぶっ殺してやる!」
ちゃきっと額に冷たい感触が当てられる。リンダの頭を床に押さえつけながら、拳銃を突き当ててきたのだ。
周囲からはっと息を呑む声が聞こえる。だが、誰もとめようとしたりはしない。自分が巻き添えになることを恐れて。
「お、おい。アルベルトさん。まずいですよ。そのガキを勝手に殺しちまうとボスに叱られちまいますよ」
おろおろと制止の声を上げる部下の男に、
「うるせぇっ! 俺が殺すっつったら殺すんだよ!」
アルベルトが銃の撃鉄を上げた。安全装置が外されたのだ。この男が引き金にちょっと力を加えただけで、自分の命は散らされてしまう。
ああ、なんて軽いのだろう。自分の命なんてその程度なのだ。その程度で散らされてしまう命なのだ。
がちゃり、とリンダの耳元で、男が引き金に指をかける音が聞こえる。
(殺される)
リンダが死を覚悟したその刹那――
「ごおぉぉぉっ」
随分と場違いな音に、アルベルトの手が止まった。リンダの思考も停止した。
音の発信源へと皆の視線が向く。
そこには壁にもたれかかっている浮浪者が――いびきをかきながら寝ていたのだ。
浮浪者が身動きを取らなかったのは、ずっと寝ていたからだとリンダは分かった。しかし、この極限の緊張下で睡眠を取るなど、自殺行為に等しいというか、肝が据わっているというべきか。
「……いい加減にしろよ」
アルベルトが苛ついたように立ち上がり、つかつかと浮浪者の下へ歩いていった。
この男は矛先をリンダから浮浪者に向けていた。今やリンダのことなど眼中にない。
(あの人が殺されちゃう!)
アルベルトが浮浪者の胸倉を乱暴につかみ上げた。
「どいつもこいつも調子に乗りやがって!」
ほとんど殴りつけるような勢いで拳銃を突き当てた。ふごっと音を立てながら浮浪者が驚いたように顔を上げるのが見えた。ようやく眠りから覚めたらしい。
しかし、今更もう遅い。今度こそアルベルトが怒りに任せて引き金を引くのが見えた。
「死ねやゴラァ!」
銃声が響き渡った。肉がごっそりと抉り取られ、血飛沫を大量に巻き上げながら倒れこんだ。
苦痛に悶える悲鳴――思わず皆が目をつぶった。目の前で繰り広げられる陰惨な悪夢から目をそらすべく。
だが、ここで驚くべきことが起こった。
悲鳴を上げたのは浮浪者ではなく、アルベルトの方だったのだ。
鮮血の海をものすごい勢いで床に侵食させながら、アルベルトは右腕を押さえ込んで奇妙なダンスを踊っている。奇しくも先ほどの男性教師と同じ部分を打ち抜かれていた。
浮浪者が身を起こし、ゆっくりと部下の男に視線を移した。その身体はまったくの無傷だった。表情はフードに覆い隠されていて窺い知ることは出来ない。
「なんだお前は!」
危険を察知した部下の男が手にした銃を、すかさず浮浪者に向けて発砲した。
銃弾に貫かれ、フードが宙を舞った。その下に隠された姿が露になる。
薄汚れたフード――その中から現れたのは真っ白な少女だった。
「なっ……女だと!?」
男が驚愕の声を放った。
リンダも――周りの子供たちも思わず息を呑んでいた。
そう、少女は全身が真っ白だった。何かの比喩や例えでもなく、白かった。
雪のように純白――というよりかは、ガラス細工のように透き通っていて――透明なのだ。
唇には果実のように真っ赤な口紅が塗られているが、やはり彼女の目を引くものは彼女自身の肌の色にあるといっても過言ではない。
あんな薄汚れたフードの下に、こんな美少女が出てくると誰が思っただろうか。汚い肥溜めから、白い天使が現れたのだと誰もが錯覚していた。
そして少女の手には一振りの剣が握られていた。
リンダはその手に握られている剣を、食い入るように眺めた。なんとも美しく、不思議な剣だった。
柄は影を落としたような漆黒に覆われてこそいるものの、刃先に近づけば近づくほど純白になっていき、それを眺めているだけでも心が洗われてゆくような透明感に満たされていくのだ。まさに少女そのものを象徴するかのような白刃がそこには煌いていた。
皆の視線に見守られながら、白い少女は飛んだ。文字通り、床を蹴って男との距離を一気に詰めてくる。
数秒遅れて、男の硬直が解けた。
「くそっ、来るな!」
慌てて銃弾を乱射する。それでも少女は立ち止まらなかった。銃を持った相手に物怖じする素振りを見せなければ、姿勢を低くしながら銃弾の雨の中を、真っ直ぐに走り抜けてくる。
驚くべきことに放たれた銃弾は全く命中しない。気づけば少女が手に握っていた白刃を一閃。銃口からグリップまで真っ二つに両断された。
「こいつっ、戦い慣れしてやがる!」
使い物にならなくなったグリップを握り締めながら、男が叫んだときにはもう遅かった。
少女の膝蹴りが叩き込まれる。うっと腹部を抱えながらうずくまる男に、少女の後ろ蹴りが頭部にすかさずクリーンヒット。そのまま後ろにひっくり返って昏倒してしまう。
「すごい……」
リンダは知らず知らずの内につぶやいていた。白い少女の一挙一動に見惚れるあまり。
この白い少女は、たった一人で、あっという間にこの部屋にいた監視を全員制圧してしまったのだから。
こんなことをいうのは馬鹿げているのかもしれない。それを承知で言わせてもらうならば、
(天使さまみたい……)
そう――まるで自分達を助けに天空から舞い降りてきた天の御使いのようだと思った。
しかし、当人は込み上げてくる欠伸を堪えながら、
「まったく……人が気持ちよく眠っているところを邪魔するとは、とんだ不埒な不届き者がいたものだ」
不機嫌な声でそう言った。あれだけの荒技をやってのけたにも関わらず、本人は眠そうに欠伸なんかかましている。演技とかではなく、本気で睡眠を妨げられたことにへそを曲げているようだ。
そうしてポケットから縄を取り出して、倒れこんだ二人の男を淡々とした動作で縛り上げている。
「あー……仕事すんのかったるい」
白い少女は、綺麗な見た目とは裏腹に、もの凄く乱雑で喋ることすらめんどくさそうな口調だった。
なんだかこれはちょっと勿体無いとリンダは残念な気持ちになった。喋らなければ美人なのに。
でも――
(好きじゃないけど、嫌いにもなれない)
そんな曖昧な実感が込み上げていた。
そして白い少女は、おもむろに周囲の子供たちを見回しながら不躾にもこう言ったのだ。
「いいか、お前たち。ここから一歩も動くなよ。……死にたいのなら話は別だがな」
あっけに取られるリンダたちをよそに、白い少女は颯爽と廃墟の外へ走り去って行った。
ノワールとプルルートの活躍は次回になりそうです、ごめんなさい。
なお、リンダはリンダでもmk2の下っ端とは何の関係もありません。紛らわしくて申し訳ない限り。
女神を批判するアンチ・ヘイトな内容が出ていますが、この作品の目的は女神の批判ではないということを、あらかじめご了承ください。
ちなみに、ゲーム中の時期に照らし合わせるならば、ネプテューヌが降ってくる前の出来事ということで。